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中編: 儀式
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縹木夕那は黙って外を見ていた。
馬車の外を流れていく景色は深い森の木々ばかり。頬杖をついて目を伏せる横顔がぼんやりと幻想的に浮かび上がる。
斜め向かいに座る青年が、不意に名を呼んだ。
「縹木」
「……」
「こっちを向け」
冷たい声音だった。ワインレッドの双眸がひたと縹木を見据えている。
縹木はつと藍色の瞳だけをそちらにむけた。
「命令?」
問いに、青年は答えない。しばらく二人の視線が交わる。
「……ふん」
先に逸らしたのは青年だった。窓の外に無意味に目をやる。その横顔も縹木に負けず劣らず絵になる美しさだ。しかし縹木はすぐに逆の、先程まで見ていた自分に近い側の窓の外に視線を戻した。
それから二人の瞳は交わらないまま、馬車はゆっくりと豪奢な門をくぐり屋敷へと近づいていった。
「おかえりなさいませ、冬哉様。いらっしゃいませ、縹木様」
「ああ」
「久しぶり。お邪魔するよ」
青年――紅月冬哉は迎えた使用人たちに軽く返事を返し、彼らの前を通り過ぎた。その斜め後ろを縹木が艶やかに微笑んで歩く。
歴史を感じさせる玄関ホールの各所に灯された蝋燭が、主とその客人を揺らめきながら迎え入れる。ホールを横切りながら二人がコートを脱ぐと、執事と女中頭がそれぞれ手を差し出して受け取った。
そして階段を上っていく彼らを再び頭を足れて見送る。何故ならその先にあるのは主の部屋だからだ。
美しい銀色の客人が現れるとき、主の部屋に入ることが許されるのはその客人だけだった。
自室に入ると、既に部屋は暖められていた。
ジャケットを椅子にかけ、シャツのボタンを緩める紅月の横を通り過ぎ、縹木は奥のソファに悠然と腰掛けた。ゆったりと足を組み、頬杖をつく。
そんな彼女に紅月は視線を向けずに言った。
「まだ怒っているのか」
「まさか。そう見える?」
軽い声音だった。しかし拒絶していると、紅月にはわかる。
だが紅月は気にせず襟元をくつろげた。縹木がぴくりと眉を動かす気配を感じたが、気づかないふりをした。
「紅茶でも飲むか?」
「いらないよ」
「喉が渇いているんじゃないのか?」
「……」
からかうように言うと、縹木は僅かにむっとした。
先程まで飄々としていた表情が姿を消し、仄かな怒りが瞳の奥に煌めく。
「誰が、渇いてるって?」
「……違うのか?」
そこで紅月も穏やかな表情を消し、縹木に覆い被さるようにソファの背もたれに手をついた。
「婚約者の前で、他の人間の血を吸おうとしておいて」
そう。縹木は紅月の婚約者だ。
夜を統べる吸血鬼の純血の王、紅月家の当主である紅月冬哉。同じく純血の名家である縹木家の直系である縹木夕那との婚約は生まれた時から決まっている。もういくつの年月が巡ったのだろうか、それは永い時を生きる彼らにはどうでも良いこと。しかし人間ならば気の遠くなるほどの歳月を経ても、未だにこの婚約者は紅月の思う通りにならない。
「……嫉妬? 醜いね、紅月家の当主ともあろう者が」
にやりと口角を吊り上げる縹木。しかし紅月も同じように笑いを返した。
「縹木家の直系ともあろう者が、たかが人間の生娘ごときの血を欲している姿ほど滑稽なものはなかったな?」
「……ッ、」
「ただの気まぐれとでも言うつもりか?」
反論の口を開こうとする前に言葉を継いでしまえば、縹木は何も言えずに口をつぐんでしまう。紅月はより笑みを深くし、くつろげたシャツの襟をぐっと引っ張った。
更に露わになった白い首筋に、思わず縹木が息を呑んでしまうのがわかる。そして瞳が金色に揺らめき始める。
こくりと上下した喉に、紅月もまたぞくりと背筋を震わせた。
「いい加減、素直になったらどうだ」
吐息が触れそうになるほど近づき、柔らかな耳朶に囁きかける。
「僅かとはいえ血を流したんだ。もう限界だろう?」
甘い毒を流し込むように、言の葉に誘いを乗せる。王たる紅月が誘えば頷かない女などいない。いや、本来ならばその白い首筋を晒しただけで甘美な香りが思考を酔わせ、誰もが欲望と畏怖に駆られて跪くのだ。
しかし縹木は捕われつつも、決して瞳を伏せようとはしなかった。
「限界は、紅月もでしょう? ……本当は今すぐ渇きを癒したいって、思ってるくせに」
むしろ捕えようとする暗い囁きが紅月に伸びる。紅月は思わず苦笑した。
ああ、つまるところ、自分も渇いていてしょうがないのだ。
紅月のものであるはずなのに、簡単に籠から逃げ出して外を飛び回る小鳥。そのうち餌がなくて飢えてくるところを迎えに行くのだが、実は飢えているのはこちらも同じ。
縹木の瞳に映る紅月の顔は、まさに情欲に駆られた獣そのものだ。
「……ね?」
甘えた声で首を傾げ、細い指で自らシャツの襟をくつろげられてしまえば、もう止まることなどできなかった。
「ぁ……ぁあっ……!」
「……は……っ」
灯りの消された部屋に、秘められた声が響く。
カーテンに覆われた寝台の内には濃密な血の匂いが充満している。しかしそれは人間たちが忌み嫌う錆びた鉄のような臭いではなく、鼻腔から直接脳を犯す媚薬のような甘い香りだった。
どちらから牙を立てたのか、どのようにして寝台にまで倒れ込んだのか、そんなことは覚えていない。紅月も縹木も互いを貪ることに夢中で、他のことなどどうでも良かった。真っ白なシーツが鮮血に染まろうが、剥ぎ取るように脱ぎ捨てた互いの服がもう二度と着られなくなろうが関係ない。
幾度も牙を立て、達しようとも、足りないのだ。
「んっ……」
「あっ……ふっ、ぅ……んんっ」
柔肌に舌を這わせ、止まることを知らない血の一滴をも逃さないとばかりにすくい上げると、縹木の体はまたビクビクと震えた。穿った紅月自身がきつく締めつけられ、同時に首に食らいつく牙がより深く押し込まれる。思わず意識が飛びそうになるほどの快感は何度味わっても飽くことはなく、それどころか更に深い闇へと紅月の思考を溶かしていく。
はぁっ、と荒く息をついて軽く腰を引けば、離れることなど許さないとばかりに紅月を包む内壁がきゅうと締まった。
「ゃ……だめ、もっと」
「っ……」
悩ましげに細められた眉に、熱い吐息を漏らす真っ赤な唇。伝う雫は汗か、涙か。そのすべてに煽られ紅月は息を呑んだ。
――これだから、離せない。
自由に飛び回るこの小鳥は、一度捕えてしまえばひどく快楽に弱かった。
吸血鬼は恋をすると、その相手の血でしか渇きを満たせなくなる。それはたとえ純血の吸血鬼でも同じこと。だから吸血鬼のつがいは普通離れることはなく、長い休眠に入るときでさえも隣に体を横たえる。
しかし縹木はそんなもの関係ないとばかりに外へ飛び出していくのだ。供もつけずに、吸血鬼の姫らしからぬ格好で。恋など知らない。好奇心の赴くままに走っていく。渇きなどないのだから、自由だ。一見そう思えてしまう。
けれども紅月と僅かな者たちだけは知っていた。妖艶な色香で周囲を惑わし、陥落させて愉しむ無邪気な子どものような彼女は、彼女の本質の一部分に過ぎない。そして普段は隠れている淫靡な部分は、紅月の腕の中だけで見ることができた。
「ぁ……ゃぁああっ!」
もう何度目か、再び牙を突き立てて吸い上げ、強く打ちつけた体の中で吐き出せば、真白は嬌声を上げて紅月に縋りついた。しかしもはやろくに力が入っていない。弱く跳ねる体を押さえ込むようにして満足のいくまで堪能して、紅月はやっと体を起こした。
「……夕那」
情事のときにのみ呼ぶ響きを舌に乗せれば、縹木は閉じかけた金の瞳を細めて幸せそうに微笑んだ。
「……冬哉」
それは二人だけの合図。
ゆっくりと紅月は顔を近づけて、その唇にキスを落とした。
従順に瞳を閉じる縹木に、まるで儀式のようだと紅月はいつも思う。
縹木という小鳥を紅月という鳥籠に閉じ込め、鎖をかける儀式。何重にも巻いて、身動き一つ取れないようにしてようやく小鳥は満足する。
それでもいつか鎖は錆びて解けてしまって、小鳥はまた羽ばたいていってしまうのだけれど。
馬車の外を流れていく景色は深い森の木々ばかり。頬杖をついて目を伏せる横顔がぼんやりと幻想的に浮かび上がる。
斜め向かいに座る青年が、不意に名を呼んだ。
「縹木」
「……」
「こっちを向け」
冷たい声音だった。ワインレッドの双眸がひたと縹木を見据えている。
縹木はつと藍色の瞳だけをそちらにむけた。
「命令?」
問いに、青年は答えない。しばらく二人の視線が交わる。
「……ふん」
先に逸らしたのは青年だった。窓の外に無意味に目をやる。その横顔も縹木に負けず劣らず絵になる美しさだ。しかし縹木はすぐに逆の、先程まで見ていた自分に近い側の窓の外に視線を戻した。
それから二人の瞳は交わらないまま、馬車はゆっくりと豪奢な門をくぐり屋敷へと近づいていった。
「おかえりなさいませ、冬哉様。いらっしゃいませ、縹木様」
「ああ」
「久しぶり。お邪魔するよ」
青年――紅月冬哉は迎えた使用人たちに軽く返事を返し、彼らの前を通り過ぎた。その斜め後ろを縹木が艶やかに微笑んで歩く。
歴史を感じさせる玄関ホールの各所に灯された蝋燭が、主とその客人を揺らめきながら迎え入れる。ホールを横切りながら二人がコートを脱ぐと、執事と女中頭がそれぞれ手を差し出して受け取った。
そして階段を上っていく彼らを再び頭を足れて見送る。何故ならその先にあるのは主の部屋だからだ。
美しい銀色の客人が現れるとき、主の部屋に入ることが許されるのはその客人だけだった。
自室に入ると、既に部屋は暖められていた。
ジャケットを椅子にかけ、シャツのボタンを緩める紅月の横を通り過ぎ、縹木は奥のソファに悠然と腰掛けた。ゆったりと足を組み、頬杖をつく。
そんな彼女に紅月は視線を向けずに言った。
「まだ怒っているのか」
「まさか。そう見える?」
軽い声音だった。しかし拒絶していると、紅月にはわかる。
だが紅月は気にせず襟元をくつろげた。縹木がぴくりと眉を動かす気配を感じたが、気づかないふりをした。
「紅茶でも飲むか?」
「いらないよ」
「喉が渇いているんじゃないのか?」
「……」
からかうように言うと、縹木は僅かにむっとした。
先程まで飄々としていた表情が姿を消し、仄かな怒りが瞳の奥に煌めく。
「誰が、渇いてるって?」
「……違うのか?」
そこで紅月も穏やかな表情を消し、縹木に覆い被さるようにソファの背もたれに手をついた。
「婚約者の前で、他の人間の血を吸おうとしておいて」
そう。縹木は紅月の婚約者だ。
夜を統べる吸血鬼の純血の王、紅月家の当主である紅月冬哉。同じく純血の名家である縹木家の直系である縹木夕那との婚約は生まれた時から決まっている。もういくつの年月が巡ったのだろうか、それは永い時を生きる彼らにはどうでも良いこと。しかし人間ならば気の遠くなるほどの歳月を経ても、未だにこの婚約者は紅月の思う通りにならない。
「……嫉妬? 醜いね、紅月家の当主ともあろう者が」
にやりと口角を吊り上げる縹木。しかし紅月も同じように笑いを返した。
「縹木家の直系ともあろう者が、たかが人間の生娘ごときの血を欲している姿ほど滑稽なものはなかったな?」
「……ッ、」
「ただの気まぐれとでも言うつもりか?」
反論の口を開こうとする前に言葉を継いでしまえば、縹木は何も言えずに口をつぐんでしまう。紅月はより笑みを深くし、くつろげたシャツの襟をぐっと引っ張った。
更に露わになった白い首筋に、思わず縹木が息を呑んでしまうのがわかる。そして瞳が金色に揺らめき始める。
こくりと上下した喉に、紅月もまたぞくりと背筋を震わせた。
「いい加減、素直になったらどうだ」
吐息が触れそうになるほど近づき、柔らかな耳朶に囁きかける。
「僅かとはいえ血を流したんだ。もう限界だろう?」
甘い毒を流し込むように、言の葉に誘いを乗せる。王たる紅月が誘えば頷かない女などいない。いや、本来ならばその白い首筋を晒しただけで甘美な香りが思考を酔わせ、誰もが欲望と畏怖に駆られて跪くのだ。
しかし縹木は捕われつつも、決して瞳を伏せようとはしなかった。
「限界は、紅月もでしょう? ……本当は今すぐ渇きを癒したいって、思ってるくせに」
むしろ捕えようとする暗い囁きが紅月に伸びる。紅月は思わず苦笑した。
ああ、つまるところ、自分も渇いていてしょうがないのだ。
紅月のものであるはずなのに、簡単に籠から逃げ出して外を飛び回る小鳥。そのうち餌がなくて飢えてくるところを迎えに行くのだが、実は飢えているのはこちらも同じ。
縹木の瞳に映る紅月の顔は、まさに情欲に駆られた獣そのものだ。
「……ね?」
甘えた声で首を傾げ、細い指で自らシャツの襟をくつろげられてしまえば、もう止まることなどできなかった。
「ぁ……ぁあっ……!」
「……は……っ」
灯りの消された部屋に、秘められた声が響く。
カーテンに覆われた寝台の内には濃密な血の匂いが充満している。しかしそれは人間たちが忌み嫌う錆びた鉄のような臭いではなく、鼻腔から直接脳を犯す媚薬のような甘い香りだった。
どちらから牙を立てたのか、どのようにして寝台にまで倒れ込んだのか、そんなことは覚えていない。紅月も縹木も互いを貪ることに夢中で、他のことなどどうでも良かった。真っ白なシーツが鮮血に染まろうが、剥ぎ取るように脱ぎ捨てた互いの服がもう二度と着られなくなろうが関係ない。
幾度も牙を立て、達しようとも、足りないのだ。
「んっ……」
「あっ……ふっ、ぅ……んんっ」
柔肌に舌を這わせ、止まることを知らない血の一滴をも逃さないとばかりにすくい上げると、縹木の体はまたビクビクと震えた。穿った紅月自身がきつく締めつけられ、同時に首に食らいつく牙がより深く押し込まれる。思わず意識が飛びそうになるほどの快感は何度味わっても飽くことはなく、それどころか更に深い闇へと紅月の思考を溶かしていく。
はぁっ、と荒く息をついて軽く腰を引けば、離れることなど許さないとばかりに紅月を包む内壁がきゅうと締まった。
「ゃ……だめ、もっと」
「っ……」
悩ましげに細められた眉に、熱い吐息を漏らす真っ赤な唇。伝う雫は汗か、涙か。そのすべてに煽られ紅月は息を呑んだ。
――これだから、離せない。
自由に飛び回るこの小鳥は、一度捕えてしまえばひどく快楽に弱かった。
吸血鬼は恋をすると、その相手の血でしか渇きを満たせなくなる。それはたとえ純血の吸血鬼でも同じこと。だから吸血鬼のつがいは普通離れることはなく、長い休眠に入るときでさえも隣に体を横たえる。
しかし縹木はそんなもの関係ないとばかりに外へ飛び出していくのだ。供もつけずに、吸血鬼の姫らしからぬ格好で。恋など知らない。好奇心の赴くままに走っていく。渇きなどないのだから、自由だ。一見そう思えてしまう。
けれども紅月と僅かな者たちだけは知っていた。妖艶な色香で周囲を惑わし、陥落させて愉しむ無邪気な子どものような彼女は、彼女の本質の一部分に過ぎない。そして普段は隠れている淫靡な部分は、紅月の腕の中だけで見ることができた。
「ぁ……ゃぁああっ!」
もう何度目か、再び牙を突き立てて吸い上げ、強く打ちつけた体の中で吐き出せば、真白は嬌声を上げて紅月に縋りついた。しかしもはやろくに力が入っていない。弱く跳ねる体を押さえ込むようにして満足のいくまで堪能して、紅月はやっと体を起こした。
「……夕那」
情事のときにのみ呼ぶ響きを舌に乗せれば、縹木は閉じかけた金の瞳を細めて幸せそうに微笑んだ。
「……冬哉」
それは二人だけの合図。
ゆっくりと紅月は顔を近づけて、その唇にキスを落とした。
従順に瞳を閉じる縹木に、まるで儀式のようだと紅月はいつも思う。
縹木という小鳥を紅月という鳥籠に閉じ込め、鎖をかける儀式。何重にも巻いて、身動き一つ取れないようにしてようやく小鳥は満足する。
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