鈴鳴りの森の魔女

カイリ

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公爵家の子息

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 逃げる。
 その衝動は、止めようがなくて、ただ、ひたすらに逃げた。
 これまで感じたことのない哀しみが、鋭い刃のごとく心臓を引き裂かんばかりに痛みを与える。
 
 神が人に与えた慈悲の一つが忘却だとしたら、この痛みも、いずれ幻のように消え去るのだろうか――――・・・・。


***

(こ、ここがエンディハイン公爵様のお邸・・・・)

 精緻な細工の凝らされた扉の正面玄関を中心に、その邸は左右対称に広がっていた。
 真っ白な邸の前には、見るも涼やかな噴水があり、そこから左右に水路が引かれ、階段横を水が流れていく。
 枝ぶりの見事な庭木には剪定中の庭師の姿。
 見たこともないくらいの瀟洒なその建物の前に立つと、リノはぽかんと口を開け立ち止まった。

(お・・・・お城とかじゃなくて?)

 生まれてこのかた城など目にした事もないリノの目には圧倒されるほど煌びやかな建物に映る。
 優美な曲線を描くアーチの施された門から、実際に邸を目にするまで馬車で暫しかかった。
 車窓から見える景色に、「門の中に森?」と首を捻った場所も、公爵家の敷地内だと知り、衝撃を受けずにはいられなかったのである。

「おい、間の抜けた顔をしてないで早くついて来い」

 ぞんざいな物言いの赤毛の青年――――フェイが鋭い緑眼を細めて振り返る。

「!はっ、はいぃ」

 背後に止まっている馬車の御者にぺこりと頭を下げた後、リノは慌てて先行しているジュダたちを追って、階段を駆け上がった。
 正面にある大きな扉が開かれると、磨き上げられた大理石の床やその上に敷かれた絨毯の深い青が伸びる階段が視界に飛び込んできた。
 曲線を描きながら二階へと伸びる階段の手すりも、高い天井から下がるシャンデリアも、左右に分かれた廊下に施された壁飾りも、生活感を感じさせないほどぴかぴかだった。
 銀糸で縁取られた絨毯の上に足を乗せるのを躊躇っていると、「遅いっ」とフェイの怒声が飛ぶ。
 身を竦めて慌てて絨毯の上に飛び乗る。
 すれ違う召使たちは道を開け、ジュダやフェイたちに頭を垂れていく。
 未だかつて目にしたことのない世界に、リノはきょろきょろと挙動不審になってしまう。

「あまり固くならないでいいですよって言ってあげたいところですが、前に話した通り、扱いづら・・・・いえ。気難しい方ですから。くれぐれも失礼のないようにしてくださいね」
「!あ、あのっ。それってど、どうしたらいいんでしょう?」

 へらへらと笑うジュダに緊張して上擦った声で聞き返すと、それまで黙っていた銀髪の青年ギルが口を挟んだ。

「気負う必要はない。目に見えた媚びへつらいをせず、お声がかかるまでは喋らない事だ。ああ、それとお許しがあるまで、あの方を直視してはならない」
「は、はい」

 具体的な助言をされ、リノはそれを幾度も自身の中で反芻する。
 広い廊下を進み、最奥にある部屋の扉の前で彼らは足を止めた。
 浮彫のなされた、光沢のある大きな扉をギルがノックした。

「ルース様、ギルディアです。よろしいでしょうか?」
「ああ、入るがいい」

 中から響いたのは少年の高い声。
 命じることに慣れた者特有の、高圧的なそれに、リノはこくりと喉を上下させる。
 入室許可に扉を開き進む三人の後に続くリノは俯いたまま視線を足元に固定した。

「ジュダ殿をお連れ致しました」
「ああ、ご苦労。――――・・・・ジュダ、ようやく戻って来たか」

 ねぎらいの後に続いた言葉はふんぞり返っていると想像がつく物言いだった。
 公爵家の御子息は随分、つむじ曲がりなようだ。身分ある存在に対して無礼かもしれないが、ふとそんな風にリノは感じた。
 たしかこの人物は、ジュダに頼むから戻ってくれないかと従者に言葉を託したのではなかったろうか?
 だが、ジュダは特に反発することもなく、身を屈めて優雅に礼をとった。

「お久しぶりです、ルース様。またお目にかかるとは思いませんでしたけど、お元気でしたか?」
「・・・・そうだな。腹立たしいほど、変わりなく過ごしている」

 憮然とした口ぶりに、ジュダがあっけらかんと笑い返すのが聞こえる。

「ですから~、それについてはもう、議論する必要を感じませんと申しましたでしょう?わたしから言うべきことはすべてお伝えしましたからね~」
「!だがおまえは、何も具体的な話はしなかったではないか!」
「あれ以上の助言などありはしませんよ。ですが、あなた様の助けになりそうな人材を見つけて参りました」
「助け・・・・?」

 ジュダが「こちらへ」と促す声が上がり、ギアとフェイが脇に退く。
 俯いたまま、リノは前に進み出た。

「・・・・何だ、その娘は?」
「隣国ポンタージュから来てもらったわたしの弟子候補、リノさんです」
「弟子だと?誰の許しを得て・・・・」
「勿論、正式ではないですよ?あくまで候補ですから。彼女を手元に置き、暫し雇用していただけませんか?その期間でわたしは彼女の魔導士適性を見ます」
「何を勝手な。主の許可なくそのような事っ」
「それがわたしがここへ戻ると決めた条件です。――――戻る際、要望を呑んでいただけると伺ったものですから。違いましたか?」
「・・・・っつ」

 ぐっと少年が言に詰まる気配がする。
 張り詰めた空気の中、リノは身の置き所のなさを感じハラハラとしていた。

(だ・・・・大丈夫、なのかな・・・・。何か、凄く気まずい空気がっ・・・・)

 沈黙が長く、重い。
 やがて、は――っと深く息を吐き出された。

「そこの娘。顔を上げろ」

 不機嫌さが滲む声音におずおずと従う。
 視線を上げると黒檀の執務机の向こう、ゆったりとした椅子のひじ掛けに頬杖をつき、傲然とこちらを見やる真っ青な双眸の少年がいる。
 陽光が差し込む大きな窓ガラスを背にした彼の髪は、光を紡いだような眩い金色に輝く。
 幼いながらその整った顔立ちは、はっと息を呑んでしまうほどだった。

(うっ、わぁ・・・・何て綺麗な顔・・・・)

 目を奪われるほど繊細な顔立ちの少年は、だが、極めて尊大な口調で告げた。

「エンディハインの使用人に、おまえのような貧相な娘は相応しくない。だが、ジュダの望みだ。仕方がないから雇ってやる。有難く思うがいい」
「・・・・」

 まるで伝承話の中の妖精族みたい――――という思考は、一気に消し飛んでしまった。
 こうして、名を尋ねられることなく、リノはエンディハイン侯爵家の使用人として雇われることとなった。
 ジュダの申し出通り、ルース=エンディハインはリノを傍近くで使うようになるのだが、翌日から始まる馬車馬のごとき扱いを、この時、彼女は想像もしていなかったのである。
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