アッシェドの秘姫~調香師は逃亡中~

カイリ

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貴人の謝罪

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 人に与えられる色彩で、これほど強烈な印象を残す色が他にあるだろうか。
 貴石の紅――――――――鮮烈な真紅の双眸。
 少なくともサーシャは知らない。こんな色の瞳をした者など――――あの貴人以外に。
 頭の中が混乱する。

 なぜ?
 どうして?

 そればかりが頭の中をかけ巡る。
 こみ上げてくる恐怖が呼吸を制限し、圧迫される心臓の激しい音が、思考を狭めていく。
 震える足が無意識に後方へ下がった。
 目の前にいる青年は、記憶の中で息づく恐怖――――その対象者である少年の面差しが残っている。生来からもつ気品、他者を平伏せさせるような圧倒的な存在感――――そのすべてが、符合する。

(いない・・・・他にこんな存在(ひと)は、この世のどこにもっ)

「サーシャ――――」

 彼が一歩、彼女へと近いた瞬間、その身体は考えるよりも早く逃げをうった。
 ドレスの長い裾をたくし上げ、無我夢中で走る。
 幼いあの日、心臓が破れそうなほど必死に走り続けたように。

「っ、おい!ちょっと、待てっ」

 背を追ってくる彼の声に、過去の声が重なる。

『わたしを拒むつもりかっ』

「っつ」

 立ち止まっては駄目だ。
 なぜこんなところにいるのか――――そんな事は二の次だ。
 捕まったら終わり。
 今度こそ、逃げられない。
 生理的な反応で涙が目じりに浮かぶ。
 サーシャが逃げたのは、庭園の奥。左右に掲げられた灯火が暗がりを照らし出している。
 何処へ隠れればいい?
 あの時は、海の中に飛び込んだ。
 今、彼から逃げ切る事の出来る場所は――――・・・・

「――――ルティカさん?」

 暗がりからかかった落ち着きのある青年の声。
 はっとするサーシャは、前方の脇道から現れたラァスの姿に立ち止まった。
 灯火の光が届かない場所から現れた彼は月明かりの下、僅かに首を傾けて、微笑む。

「どうなさいました?若君とご一緒だとばかり思っておりましたが」
「・・・・」

 人当たりの良さそうな笑顔は寸部も変わらない。
 ほんの少し前までのサーシャなら、きっと助けを求めただろう相手は、|あの(・・・・)青年の従者なのだ。

(偶然じゃあ、ない・・・・きっと、少し離れた場所で見てたんだ)

 でなければ、この場面で姿を現すはずがない。
 顔を強張らせるサーシャに、彼は手を差し伸べてくる。

「ああ、迷われてしまったんですね。――――どうぞ、手をお取りください。若君の所へお連れ致しますから」
「っ」

 即座に身を翻し、反対方向の園路へと走り出す。

「!お待ちくださいっ」

 待ってたまるかと駆けだす先は、サーシャの背よりも高い垣根の道。この時間、人の訪れを想定していない為か、頼りは月明りのみだ。
 視界は利かなくなるが、それは相手にしても同じこと。
 むしろ好都合とばかりに進む。
 このまま逃げおおせれば、何とかなる。

 ――――本当に?

 ふいに、そんな自問の声が浮かぶ。
 あの国(アッシェド)からコルアレ―ドまで、いったいどれほど離れていると思う?
 あの夜から、何年が過ぎたと?
 それなのに彼は、サーシャを追って来た。
 あの存在に怯えながらも、こんな日が来ることなど、夢にも思っていなかったのだとサーシャは気づかされた。

 ――――逃げ切れると、本当に思うの?

 不安を煽る自問に、頭を振った。
 再び雲間に月が隠れ、いよいよサーシャの視界は不確かなものになり、手探りで探し当てた、垣根の角の向こうに身を潜め、しゃがみ込む。

(お願い・・・・来ないで。来ないでっ)

 身を縮め、ひたすら気配を殺すサーシャの耳に、人の話し声が届いた。
 青年の声だ――――一瞬びくりとしたが、それはマハのものとは全く違う。

(・・・・?近くに誰かいる?)

 人目のある場所でなら、滅多なことはできないのでは?
 そう考える傍から、否定する自分がいる。
 いや、人の気配があることで彼を引き寄せてしまう。人の目があろうとなかろうと、捕まれば結果は見えているだろう。
 場所を変えた方がいい。そう思うサーシャの耳に次の瞬間、艶めいた女の声が聞こえた。
 思わぬ事に、ぎょっとする。

(ぇ・・・・ええ!?)

 静まり返った人気のない庭園の一角で、漏れ聞こえる男女の濃密なやり取りが、聞き取れてしまう。
 聞くに堪えない内容に、赤面し口元を押さえた。

(ちょっ、ちょっと。どうしてこんな場所で、そんな真似をっ)

 まったく免疫のないサーシャには刺激が強すぎる。
 耳を押さえ、あられもない嬌声を締め出そうとしたが、かなわない。
 やり過ごすのは無理そうだと判断し、足音をたてないようにじりじりと動き始めたサーシャは、目の前に立ちふさがる障害物に気づき、顔を上げた。
 背の高い人影――――それが、誰か判明すると恐怖のあまり喉に悲鳴が絡んだ。

「っつ!」

 長い腕が伸びてその口元を押さえられ、片手を捕らえられた。

「静かにしろ・・・・覗きなどと不名誉ないわれを受けたくなければ、黙れ」

 耳元で囁く声に、恐慌状態になりながらサーシャは半ば引きずられるようにその場から連行された。

(嘘っ、うそっ)

 掴まれた手が、全身が震える。
 地面に足を踏ん張り抗うが、彼はサーシャの抵抗などものともしない。
 彼は、庭園内にある温室へと向かって歩く。
 その入り口には、先ほど出会ったラァスが控えているのが見えた。
 皮膚を突き破る鋭い牙の感触が記憶に蘇り、涙が浮かぶ。
 見たこともないほど綺麗な顔をした貴人の少年は、あの時、サーシャの血を吸った。
 身の毛もよだつ、その音を覚えている。
 すべての血を吸い上げようとするかのように、執拗に肌に吸い付く貴人は、到底同じ人間などとは考えられなかった。
 駄目だ。
 今度こそ、一滴残らず、吸い取られる!
 硬く目を閉じ身を固くするサーシャは、口元を覆う手が外され、捕らえられていた片手を解放されたことに気づいた。

(・・・・え?)

 恐る恐る開く目に、正面に立つマハの姿が映る。
 真紅の双眸はまっすぐにサーシャを見つめているが、彼はじっとその場に佇んでいるだけだ。

「・・・・おまえに危害を与えはしない。だから、わたしの話を聞け・・・・いや、聞いて欲しい」

 だが、その言葉を鵜呑みにできるほど、彼女の中の恐怖はうすくはない。
 後ずさりながら視線は温室内をさまよう。
 土と植物の香りがする室内には、本来この国にない花も育てられている。その奥に出口らしきものを見つけ、踵を返すサーシャの耳にその声は届いた。

「・・・・おまえに無体を働いたことを、謝りたいと思っている」

 予想だにしない言葉。
 謝る?
 誰が、誰に?
 聞き違いかと思うサーシャに彼は続けて告げた。

「必要なことだったとはいえ、あれは、わたしに非があったのだと・・・・思う」

 思わず足を止め肩越し振り返る。
 驚愕に双眸を見開き、サーシャはマハを凝視した。

(貴人が――――・・・・庶民(あたし)に、謝罪をした?)

 それは、天地がひっくり返ろうとも起こり得ないはずの、出来事だった。
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