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理想と憧れ

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 月のない夜に飛び込んだ暗い水中。その恐怖は、心の芯まで沁みこんでいる。
 歩くたび空気を孕んでふわりとなびく優美な衣装は、海水を含み重く身体に絡んで、サーシャに本来の動きを許さなかった。
 ――――ただでさえ泳ぎは不得手だったというのに。

 八年経った今では、衣装ではなく恐怖心が足枷となり――――泳げない。
 だから海や深い川には近づかないようにしていた。
 だと、いうのに。
 サーシャは身を刺すような恐怖に硬直していたが、その身体をがしりと掴み、引き止める両手を感じた。

(えっ)

 力強く引き寄せるその手の持ち主の胸の中に倒れ込み、もろとも地に転がる。
 広い胸板の上から、はっとして身を起こすサーシャが見たのは、優し気な顔立ちの青年――――ラァスだ。

「お怪我はありませんか?」

 案じるように見つめられ、サーシャは慌てて飛びずさった。

「す、すみません!ありがとうございます!!で、でも、どうして」


 先ほどまで影も形もなかった人物の登場に驚いていると、彼は苦笑した。

「・・・・驚かせてしまい、すみません。屋根の上を駆けてまいりました」
「・・・・」

 思わずぽかんとして見返してしまう。

(屋根の上って・・・・え?)

 近くの家屋を見やり、ラァスを再び見る。
 二階建ての多い住居の連なり――――決して足場など良くはないはずだ。そして、上るのも容易ではないと想像できる。
 簡単に言われたが、人があの高さに上がり、屋根から屋根を走るなど到底想像もつかない。
 驚異的な跳躍力を有すると言われても信じきれなくて、優美な容姿の青年をまじまじ見つめていると、唐突に肩を引かれた。

「え!な、何」
「それはこちらの台詞だ!おまえは、一体どういうつもりだ!!」

 鼓膜をびりびりと震わせる怒声を上げて、こちらも何故ここにいるのか不明なマハがいる。
 びくりとしながらも、サーシャは怯みそうになるところを踏みとどまった。

「おばあさんの鞄を取り戻したかっただけ、ですけど」
「だけ、だと!?護衛のラァスを置いて女が単身で物取りを追うなど、愚かにもほどがある!おまえは馬鹿なのか!」
「ばっ・・・・!」

 馬鹿!?
 考えなしな行動をした自覚はあるが、頭ごなしに怒鳴りつけられ、かちんときた。
 思わずむっつりとして、顔を逸らす。

「確かに、鞄を取り戻せたのはあなた方のおかげです――――けど!あのままでいたらきっと、この鞄は持ち主の所には戻ってこなかったと思っ・・・・」
「そんな話をしているのではない!おまえの身に何かが遭ったらどうするのだ!」
「・・・・」

 その言葉に目を瞬き、驚いてマハを見た。

(心配・・・・してくれてる、の?)

 僅かに眉根を寄せ口を引き結んで、こちらを真っすぐに見つめてくる赤い双眸に、戸惑う。
 怒った様な顔をしているが、そこには明らかな安堵が見て取れた。

(い・・・・いやいやいや。大事なコマに何かあったら困るって意味だから!)

 そう思い立つも、何だか反応に困り、そろりと視線を逸らす。

「と・・・・ところで、何でここに?たしか港街の方に行くって」

 ぎくりとしたようにマハが身じろいだ。
 が、怪訝に思う間もなく、マハは咳ばらいをした。

「!い、いや。それがな。約束の相手の都合が悪くなり、予定が変わったのだ。それで、たまには異国の街を散策するのも悪くないと思ってだな」
「・・・・それでここに?」

 港街とここでは断然、前者の方が華やぎ賑わいに満ちているのだが、王族である彼の目に興味深く映るような物がここにあるとも思えない。

(・・・・何か、嘘くさい感じがするのは、あたしの先入観の所為かな・・・・)

 うろんな目をするサーシャに、ラァスがにこやかに話しかけてくる。

「ルティカさん、その鞄なのですが」
「!そ、そうです。あのおばあさんは――――」
「通りがかりの方がお医者を呼んで下さったので、怪我の治療をされているはずです。よろしければ届けてまいりますので」
「いいんですか?ありがとうございます!」

 ラァスに手間をかけさせてしまうが、ほんの二言三言言葉を交わしただけのサーシャが向かうより、記憶に残っているだろうラァスが届けた方がいいのかもしれない。
 笑んで素直に礼を口にすると、視界の端でマハが心なしかぴくりと眉を動かした。

「・・・・それならヴォリスに向かわせても良いのだが?」

 物取りの手足を拘束している大柄な青年がその声に反応してこちらを見る。
 しかし鞄をサーシャから受け取ったラァスは頭を振った。

「お言葉ですが、マハさま。持ち主の女性と面識がある方が良いかと。わたしが離れる間、ヴォリスに護衛を任せてもよろしいですか?」
「・・・・わかった。では頼んだぞ?」
「はっ。では行ってまいります」

 マハに一礼をすると、ラァスは屋根上ではなく、路地を駆けて行った。

(本当に屋根の上を走って来たのかな・・・・)

 颯爽とした背中を見送りながら、だとしたら凄いと思う。
 すらりとした体躯に優美な容姿をしているが、思うよりもがっしりとしていた胸板を思うとやはり王族の警護をする人間なのだという認識が強くなる。
 まるで、昔憧れた王宮騎士さまそのものだ、と思う。

(・・・・ん?)

 ふとサーシャは心の琴線に触れるものを感じた。
 先ほどラァスと交した会話を思い出す。

『あなたの理想の異性を――――』

 理想と、憧れ。

 藍色の瞳が希望の光を見出したように輝く。

(そう、よ。男の人に対していい印象が持てたのはあの頃だけだ)

 エンナから譲り受けた物語集の中、御話の中に登場する騎士様は皆、見眼麗しく、優しく、それでいて強い。憧れの存在だった。
 いつか、こんな騎士様になるんだ!と。
 それはエンナと一緒に調香師として世界を回るという夢を持つ前に抱いた、今では笑ってしまうような夢。
 幼い頃、サーシャは大人になれば男になれるのだと信じていたのだ。そうしてエンナを守るのだと心に誓っていた。
 ある時そう話すと、エンナは苦笑交じりに教えてくれた。
 大人になっても男にはなれず、御話の中の騎士様にはなれないのだと。
 がっかりするサーシャに彼女は、あの夢の話をしてくれたのだ。
 そうしてエンナの夢はサーシャの夢にもなった。
 刺牙の儀が行われるまで、懸命に調香の知識と技術を学んでいたサーシャは恋に興味をもたなかった。そして恐怖の夜からしばらくは、異性に対して若干の苦手意識もあったのだ。
 その為、実は、理想の異性など存在しない。
 年頃の娘でありながらと、奇異の目で見られるかもしれないが、事実だ。
 ラァスからの助言は正直、困惑してしまうものだったのだが、ここにきてサーシャに可能性を感じさせた。

(何とかなるかもしれない!)

 高揚する気分でラァスの消えた方向を見つめていると、視界にマハが割り込んできた。その仏頂面にぎょっとする。

「・・・・何を惚けて見ている?」
「ほ、惚けてなんていません」

 条件反射で数歩後退すると、彼は更に面白くなさそうな顔をして間を詰めてくる。
 更に後退すると彼もまた同じだけ近づくのだ。

「なっ、何なんですか」
「お前が逃げるからだ」
「に、逃げて、ません」
「どこがだ」

 ずんずん間を詰めてくるマハから距離を取るうちに、後ずさりする靴の踵が街を囲む塀に当たった。
 それ以上距離を取れなくなったサーシャの間近でマハは足を止め、身を屈めてくる。
 不機嫌なままの顔を近づけられ、命一杯塀に身体を寄せる。

(ちょっ、顔怖いっ。何で怒ってるの!?)

「え、えっと。手を貸して下さってあ、ありがとうございま」
「そのような事はどうでもいい」
「は・・・・?」
「おまえが他の者にあのような目を向ける事は許されない。自重しろ」

 命じることに慣れたマハのそれに、サーシャは反発を覚える。
 彼の目にどう映ったかはわからないが、そんな風に言われる筋合いはない。

「・・・・仰る意味がわからないのですが?」
「分らないだと?」
「誰をどんな風に見ようと、わたしの自由のはずです」

 目を眇めるマハの威圧感に気圧されそうになりながらも主調すると、彼は苛立たしげに息を吐き出した。

「・・・・いいや。おまえには許されない。お前はわたしの」
「至上の座に就くために必要なコマだと、仰りたいのですか?」
「っ」

 赤い双眸が強い感情に色を濃くしたように見える。
 サーシャの肩をぐっと掴む大きな手。
 その強さにサーシャは顔を顰めた。

「わたしはっ」

 サーシャは張り上げられたその声にびくっと身じろぎ、硬直する。
 固く目を閉じ身を固くするサーシャを見下ろし、マハは何事か告げかけた口を固く閉じた。
 眉を寄せ、やるせない表情になると、掴んでいた肩から手を放し、気を落ち着けるように息をついた。

「・・・・いや・・・・いい」

 感情を抑えた声音に、サーシャはおずおずと瞼を開いた。
 するとマハはすでにサーシャに背を向け、ヴォリスの方へと歩き出している。
 サーシャは圧倒的な威圧感が離れ、ほっと息をついた。

(・・・・この人、ほんと怒ってばかり)

 従者の穏やかさとは真逆の、激しい気性なのだろう。
 やはり、自分とは相容れない存在だと感じ、サーシャは深く息を吐き出した。
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