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揺らぐ占水鏡

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「それであなたは決めたのね」

 ノーラの言葉にサーシャはただ頷いた。
 赤い屋根が目印のノーラの私邸は、学院近くにある。
 休日になり、サーシャは何年かぶりでここに訪れたのだ。高位クラスで問題を起こした件について謝罪と――――コルアレ―ドを離れると、話す為に。
 手元にあるティーカップから立ち上る芳しい紅茶の香りが漂う。
 薄い焼き色の焼き菓子が乗せられた菓子皿をテーブルに置くノーラは、サーシャの向かいの席に腰を下ろした。

「・・・・アッシェドへ無事に帰国できるとは思いませんでした」

 サーシャは俯き手元のカップの紅い色を見つめながら呟くように言った。
 複雑な思いの滲むそれに気づいたのかノーラは微苦笑を浮かべる。

「どうしてそうする気になったの?」
「・・・・あたしの想像よりも、酷い方ではないと思って・・・・」

  絶対に逃げる以外の道はないと思っていたのに、彼は、妥協案を出してくれた。
 そうして、左の首筋――――長年そこに刻まれていたはずの傷痕は元々そんなものは存在しなかったように、跡形もなく消え去っていた。
 恐怖の象徴であり、枷のように思えていたそれが消えたと知った時、浮かんだのは喜色ではなく複雑な思いだった。
 てっきり恐怖の再現かと取り乱してしまったのだ。
 散々罵倒し、幾度も彼を叩き――――幼子のように泣き喚いた。

(・・・・普通なら不敬罪で処刑とかだよね、あれは・・・・)

 振り返れば、血の気が引くような真似をしてしまった。
 だが、彼は咎める所か・・・・。
 サーシャは知らず左首筋を押さえ、ぼんやりと考え込む。
 首筋に触れた熱――――彼は、初めから傷を癒す為にああしたのだろうか・・・・。
 あの傷は決して浅くはなかった。
 彼は魔法を使えるのだろうか?
 色々と考え巡らせるが、すぐにそれは別の物思いへとすり替わる。
 眇められた紅眼――――その、傷ついたような眼差し。
 恐怖の淵に立たされた思いでいたサーシャよりも、彼はずっと苦しげな表情(かお)をしていた。
 それが何故か、思い出されてならないのだ。

(・・・・傷治そうとしただけなのに、あんなに反発したから?)

 そう考えると、何だか少しバツの悪い思いがする。
 だが、元は彼に付けられた傷で、与えられた恐怖心から出る拒否反応だ。・・・・仕方ないではないか。

(そ、そうよ。仕方ない事じゃない・・・・)

 自身に言い聞かせるように思いながら、それでも気分は晴れない。
 モヤつく気分を追い払うように左右に頭を振り、サーシャはマハからの譲歩案へと思考を切り替える。
 強制連行されれば、一生涯不自由な王宮生活だと危機感を覚えていたサーシャにとってそれは、かなり魅力的に響いた。
 期限付きで秘姫としての役目を果たしたら、追われる生活とはさよならだ。

(そうすれば、こそこそしなくてもアッシェドでエンナに会える)

 あの時、マハは茫然とするサーシャに告げた。

『・・・・お前が言う通りわたしにはお前という秘姫が必要だ。だから、このまま見逃すことはできない。アッシェドに王の子はわたし一人。即位せぬわけにはいかないのだ。・・・・だが、即位式が済めばお前の望むままにしよう・・・・約束する』

 その真紅の双眸に偽りの影は見受けられなかった。
 ・・・・多分これ以上の譲歩はない。
 本当ならば、調香師として名を上げてから帰国するつもりだったが、そうも言っていられない状況だ。
 そう感じてサーシャは承諾したのだ。
 
「アッシェドにはいつ発つの?」
「・・・・今期の終わり、でしょうか。あの方々がコルアレ―ドに滞在すると言っていた期日がそれくらいだったと思うので」
「そう――――・・・・寂しくなるわね」

 ノーラは僅かに眉を下げ、目を伏せた。
 彼女を見つめてサーシャは、心の内で謝る。
 期限付きでの役目だということは、他言無用とマハに告げれられているのだ。
 それが彼の従者二人にでも。
 期限付きの秘姫など前代未聞であり、きっと大きな騒ぎとなる。
 それを懸念するマファルドが、折を見て周囲に話すとサーシャに言ったのだ。
 今はその言葉を、彼のあの真摯な眼差しを信じる他ない。
 沈黙しているとノーラがサーシャと呼びかけてくる。
 彼女はテーブルの上にあるサーシャの手を両手で包み、きゅっと握りしめた。

「あなたには幸せになってほしい。身分差のある縁だけれど、歩み寄ることを忘れないで。貴人としての面だけでなく、一個人としてのあの方も見て。自分から壁を作っていては大事なものを見落としてしまう事もあるから」

 秘姫として生涯を彼の傍で過ごすわけではない。
 だが、ノーラの言葉は不思議とサーシャの中に残った。
 ただ頷くサーシャにノーラは柔らかく微笑んだ。

 ***

 マファルドは窓辺の長椅子に腰かけ物憂げに外の景色を見つめていた。
 夕闇から青闇へと変化する空をすでに長くその双眸に映している。
 傍らでは何やら思い詰めた様子の従者二人が何事か話しかけてきているが、思考は鈍り反応する気力も湧かない。

(・・・・・・・・どう考えても、仕方のないことだ・・・・)

 彼は自ら切り出したものの、その事実に打ちのめされていた。
 即位に必要な存在――――だが、その後の解放など本意ではない。
 ない・・・・が、あの怯えようを見て、それ以上どう言えたろう?
 幾度目かのため息が落ちる。
 自身に危害を加えた娘たちの身を案じるほどマファルドに恐れを持ち、警戒心を解くことのない彼女を見て、あの夜の記憶を、感情を消し去りたいと強く感じた。
 その首に残る傷跡と共に消し去れたら、と。
 刺牙の儀が滞りなく済んでいれば、傷など残る事もなかったことは、ジェマから伝え聞いている。
 それ故に、彼女に触れたのだ。
 だが・・・・。
 マファルドは固く目を閉じる。
 包み込むと、思うよりずっと華奢な身体だった。
 甘く心凪ぐ香りは、本来自身の為に調香されたものだが、彼女の好みを反映している為か、女性が纏ってもおかしくない香りとなっていた。

 その香りは記憶に刻み込まれ、決して忘れないだろう―――――自責の念と共に。

「お答えください、殿下。あの日、医務室で秘姫と何があったのです!?」
「・・・・まさか無体な真似をなさったのでは、ない、ですよね・・・・?」

 焦れたようにラァスが、聞きずらそうにヴォリスが尋ねてくる。
 気になるのも無理はない。
 サーシャの悲鳴は部屋の外まで響いたはずだ。
 その尋常ではない様子は、誰かが聞きつけて来なかったのが不思議なくらいだった。
 恐らくはこの二人がそうさせなかったに違いないが・・・・。
 何かがあったのだと感じはしてもここ数日黙っていた二人だが、どうにも気がかりだったのだろう。
 マファルドは、視線を二人へ向けた。

「・・・・アッシェドへ帰国すると、返事を得た」

 その一言に従者二人は暫時の沈黙後、驚愕の表情となる。

「ま、誠にでございますかっ!?」
「ルティカさんが本当に応じて下さったのですか!?」
「ああ・・・・」

 息を吐き出すようにしてマファルドは答えた。
 期限付きの秘姫として役目を果たす条件で、と心の内で付け加える。
 あの時、茫然としていた彼女は、よほど驚いていたのだろう。
 目を零れんばかりに見開き、たどたどしく聞き返してきた。

『――――本当、ですか・・・・?』

 それは喜色ではなく純粋な驚きの滲んだ確認の言葉だ。
 頷き返しながら、ずきずきと胸の痛みは増すばかりだった。
 だが不本意だと激しく主張するそれを抑えつけるしかない。
 自分には時間がないのだ。
 アッシェドの王太子として即位するのは絶対の宿命で、揺るがすことのできない決定で。

『・・・・わかり、ました・・・・』

 やっとで聞くことのできた承諾の返事は、マファルドに深い憂いしか与えなかった。
 彼女はきっと思った事だろう。
 即位する為の駒として必要なのだから、それが済めば手元に留めずともよいと判断したのだと。
 やはり、駒は駒なのだと。
 マファルドは頭を振り、それを追い払う。
 こうしてそれを想像するのも幾度目だろうか。

(だが・・・・約束は、約束だ)

 守らねばならない。
 ひと際強い痛みを感じた瞬間、だった。

『デンクワアァア』

 唐突に響き渡った世にも恐ろしいしゃがれた声が室内に反響した。

「!?」

 マファルドは長椅子から半身を勢いよく起こした。
 幻聴!?
 以前聞いたものとは違う。
 あれは男声だったが、これは・・・・。

「何奴っ」
「姿を見せるがいいっ」

 マファルドを背にし、ラァスとヴォリスも腰の剣に手をかけ室内を見回す。
 だが、三人以外の姿はない。
 その間も声は反響し続ける。
 緊張感に張り詰める空気の中、マファルドは感じていた。

(この声・・・・)

 自身の中のとある感覚を刺激するそれに、該当する答えを口にしようとした直後、天井に巨大な老婆の顔が浮き上がった。

「!?」

 マファルドは不覚にも長椅子からずり落ちそうになった。
 ラァスとヴォリスも唖然とそれを見上げる。

『殿下、ジェマにございます』

 天井から見下ろされる状態の三人は、飛び出そうな心臓を宥めすかせた。

「ジェマ!おっ、お前、わたしの寿命を縮めるつもりかっ!」
『申し訳ございませぬ。どうにも距離が距離ですので、音声が上手く調整できなかったようですじゃ』
「違う!なぜそのような場所に顔を出すのだ!魔物が出現したかと思ったではないか!」

 ただでさえ迫力顔だというのに。
 すぐには治まりそうもない動悸に胸を押さえながら抗議する。

『繋がりやすい場所がどうやらそこだったようで。意図してのことではございませぬゆえ、平にご容赦を』

 首がぐっと下に向かって動く様子にマファルドは「分ったから動くなっ」と及び腰で命じた。

「それより、今になって何用だ。便りを出して随分経つぞ?」

 ふい、と顔を逸らし仏頂面になる。
 これまでに彼女から返事は返ってこなかった。
 理由があってのことだとは思うが、あの便りの返事を今出されても困る。
 すでに、あの娘と約束を交わした後だ。

『部外者が口出しするなど野暮というもの。――――殿下を信じて静観していたまで。秘姫との距離は縮められましたか?』

 マファルドはふと目を眇めた。

「――――共にアッシェドに帰国することとなった」
『ほぉ!!』

 感嘆の声を上げ、ジェマは皺の寄った口元を緩めた。

『それはようございました。・・・・では、ジェマの取り越し苦労でしたな』
「何がだ?」
『いえ。何も問題なければよいのです。・・・・殿下。ジェマは予定より早く帰国して頂くよう進言すべく、こうして姿を飛ばしたのでございます』

 怪訝に見やるマファルドに、アッシェド王が幾度目かの発作を起こしたことをジェマは告げた。

「父上が!?ご容体は?ご無事で在られるのだろうな!?」

 立ち上がり問い詰めるとジェマは神妙に頷いた。
 マファルドはほっと安堵の息をつく。

『幸い意識は取り戻されましたが、殿下には即時お戻り頂きたく存じます。秘姫から色好い返事が得られたのならば万事滞りなく進みます。ご無事の御帰還をお待ちしておりますじゃ』
「・・・・ああ」

 短く答えると天井に浮かんでいたジェマの顔は沈み込むように消え去った。

 ***

 遠方へ思念を送る終え、ジェマは背後を振り返った。
 そこにある、稀有なる占具――――占水鏡は、揺らいでいた。
 映すべきものを決めかねているかのように。
 ジェマはその眉間に深く皺を刻む。
 過去も、未来すらも見通すと人は彼女を評するが、それは真実ではない。
 人の行く末など、僅かな風向きの変化でどのようにも変化し方向を変える。
 魔女と呼ばれた事のある自分ですら、読みきれるものではないのだ。

(・・・・しかし、どうにも不穏じゃ)

 波紋を立てているだけならば、そうとは感じない。
 だが時折、一定の規則を乱すように生まれる、不規則な振動がある。
 国主が病に伏している現状――――後継者たる王太子が不在であり、その未来に影響を及ぼす秘姫との確たる絆が定まっていない今は、安定に欠けていてもおかしくはないのかもしれないが・・・・。
 常人のそれと比べ長き時を生きてきたが、こんな不穏な感覚は初めてのことだ。
 ジェマの落ち窪んだ眼に懸念の色が濃く浮かぶ。
 何かが起ころうとしているとでもいうのだろうか・・・・・。
 答えのない疑問がジェマの胸中に渦巻いた。
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