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突き付けられた要求

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「サティアズ?」

意表を突かれたような顔をしてマファルドが聞き返した。
ほぼ毎食と言っていいほど海魚を使用した料理が並ぶテーブル――――が、料理人の腕に称賛を覚えるほど飽きが来ない――――の向こうにいるマファルドをじっと見つめ、サーシャはこくりと頷いた。

「えっ・・・・と。前々から気になっていまして」

この航路の中間で差し掛かると聞いているその国は、西大陸にある。
勿論、一度も行ったことのない場所だ。
本当ならば、食事を終えた頃に切り出そうと思っていたのだが、気持ちが急いて口をついて出てしまった。
切れ長の赤い目で怪訝そうに見つめられ、視線が泳ぎそうになる。

「気になる香の材料でもあるのか?」
「!は、はい」
「立ち寄れないこともないが、後で取り寄せるのでは遅いのか?」
「と・・・・特殊なものなので、直接見ないと・・・・」

急ぐ旅路と知っていて切り出すサーシャに、マファルドは僅かに黙り込んだ後、傍らに立つラァスに目をやった。

「サティアズといえば、つい数年前まで軍国よりの国だったな?」
「はい。確か、八年前の内乱で王位が交代し、現在は軍国主義から脱却。国内産業に力を入れていると聞き及んでおります」
「治安は?」
「良い、とは言い難いでしょうが、わたし共もおりますし、旧市街や裏通りなどに立ち入らなければ問題はないかと」
「そうか」

暫し考える仕草の後、マファルドは固唾を呑んで待つサーシャを見て苦笑交じりに肩を竦めた。

「・・・・それほどに欲しいのならば、立ち寄るがいい」
「!あ、ありがとうございます。それで、その護衛の方についてなのですが」
「――――付けぬというわけにはいかないぞ?」

以前に護衛を断っている為か、マファルドは言葉を先回りしてそう言った。
しかし、これは想定内だ。
サーシャは、なるべく朗らかに見えるよう、唇の端を持ち上げた。

「いえ。そうではなくて、できたら今回はヴォリスさんにお願いできないかと思いまして」
「ヴォリスに?」

突然の指名に、マファルドの左後方に控えていたヴォリスが目を瞬いている。
サーシャが護衛役を指名するなど初めての事で、増して、話慣れているラァスではなくヴォリスの名を上げたのだ。
マファルドも不審とまではいかないが、腑に落ちない顔をしている。
稀有な赤い瞳――――その目に、心の内を見透かされないように注意しながら、サーシャは笑顔を保った。

「ヴォリスさんは西の国に滞在されたことがあるのですよね?」
「?ああ、そうらしいな」
「ラァスさんからお聞きしたんです。ヴォリスさんがクグォン地方の国に住んでた事があると。お店の人間がクグォン側の人だと言葉が通じないので・・・・できたらお願いしたいのですが」

西大陸には先住民であるクグォンの言語を受け継ぐ民と他の大陸から移り住んだ者たちが存在する。
主に使われているのはグラーシュ語だが、年配のクグォン地方出身者は独自の言語しか話せないという。

「話せるのか?」
「日常会話程度なら、何とかなるかと」
「十分です。よろしくお願いします」

サーシャはヴォリスに頼むが、彼は主からの許可が下りないことには返事ができない。
笑顔のサーシャからマファルドへと視線を移すヴォリスは、僅かにびくりと肩を揺らした。
赤い眼の奥に苛立ちの影。
一見、凪いで見える表情をしているが、長い付き合いであれば気づく。
同じように控えているラァスもそれを感じ取ってか、顔が強張っていた。

「で、殿下・・・・?」

暫し沈黙していたマファルドは、ゆっくりと瞬くと、小さく笑んだ。

「――――頼むぞ、ヴォリス。・・・・あまり長居はせぬようにな?」
「は・・・・はっ。畏まりました」
「ありがとうございます」

固い返事をするヴォリスの緊張感など露とも気づかぬサーシャは、礼を口にすると、再び手にしたスプーンを動かし始めた。
いつも食事中の会話は少ないが、心なしかその場の空気が重くなったように感じ、サーシャは手早く食事を終えダイニングルームを出た。
部屋の隅に控えていたミヤには、気分転換に外の空気を吸ってくると伝え、付き添いを断わった。
一人になり、ひと息つきたかったのだ。
ミヤは朗らかで、とてもいい話し相手となってくれているが、王宮勤めの侍女だ。僅かな表情の変化で体調や気持ちの揺らぎに応じた気遣いをする。
今は、それが望ましくない。

甲板に出ると青く澄んだ空に海鳥の白い身体が舞っているのが見えた。
人影のない甲板を歩き、手すりへと近づく。
陽光を反射して輝く水面を見つめながらサーシャは手すりに突っ伏した。
気を張っていた全身から力を抜き、深く息を吐き出す。
停泊する予定のなかった西国サティアズの港ドレイズへは、数日のうちに到着する・・・・。
急いでいるだろうに、我儘を通してくれたマファルドには、正直、気が咎めた。
彼の事情も、父王が臥せっているということも、重々承知しているのだ。
だが――――――――・・・・。
手の中には、擦り切れた手縫いの小袋。
強く握りしめた時、ふと背後に近づく人の気配を感じ、サーシャは振り返った。
アッシェド兵の軽装に身を包んだ男の姿がある。
何処かで見た覚えがある・・・・そう考えたサーシャは、すぐに思い当たった。
灰色の双眸に痩せ型のその男は、ルシンダのいる部屋に付けられた見張りだ。通路で幾度か見かけたことがある。
男は訝しげに見やるサーシャに話しかけてきた。

「指示通りに事を運べたようだな」
「!」

それが何を示すのか悟り、サーシャは頬を強張らせた。
やはり、監視の目はあったのだと知る。

「殿下や側近らに余計な事を言わなかっただろうな?」

無言で頷くと、男は表情を変えることなく「ならばいい」と背を向けた。

「妙な動きがあれば、お嬢様からすぐに連絡が伝わる――――大人しく従うことだ」

男の姿は甲板から船室の扉へと消えたが、緊張に高まった鼓動はすぐには治まらない。
サーシャはやるせなく頭を振った。
細く吐き出した息が震え、戦慄く唇を噛みしめる。

『船を下りてくださいな』

あの夜――――突き付けられたのは、決定事項だと言わんばかりのその言葉だった。
本来なら成立しようもない事だ。
いくらルシンダが富豪の娘だとはいえ、王族と交わした約束を反故にしようなどという大それた事をサーシャが引き受けるはずもない。
だが、差し出された小袋を見てサーシャは息を呑んだ。
縫い目がちぐはぐで不格好な袋には、【エンヌ】と刺されている。綴りを一文字間違って入れてしまっているのだ。

幼い頃、初めて作った香袋・・・・それはエンナへの贈り物だった。

何らかの形でエンナの手を離れ、ルシンダの元に渡ったということだ。
それは、あまりいい想像が浮かばない。
今のサーシャと違い、エンナの身辺を警護するような人物はいないのだ。
顔色を変えて追及したサーシャに、ルシンダは笑顔で促した。

『会わせて差し上げると言ったでしょう?さあ、お返事は?』

彼女の言う場所にエンナがいるとは限らない。
だが、捨て置くことなどできるはずもなかった。
サーシャに出せる答えなど、決まっていた。

また、高い身分の人間の都合で左右されなければならない・・・・。
無力さを痛感するサーシャは、手すりを強く握りしめ、気を静める。

(とにかく、エンナの無事を確認しないと・・・・)

ルシンダの手の者が先ほどの男だけとは限らない。
何処に監視の目があるかわからない以上、今迂闊に動けないのだ。
万が一、彼らに知られてしまった場合、ルシンダは何らかの手段を使って手の者に指示を出すと告げた。
本当に彼女の監視下にエンナがいたとしたら、彼女の身に危険が及んでしまう。
自分の所為でまたそんな目に遭わせられない。

(・・・・今は、従うしかない)

まだ見ぬ異国の港――――その地に、あの懐かしい人がいるのだろうか?
水平線の彼方を見つめ、サーシャは双眸を眇めた。


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