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直面する恐怖

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 ――――今頃、あの娘はサティアズを離れる船に乗っているだろう。

 謹慎を申しつけられている彼女は、傾き始めた陽に輝く海を見つめ、ほくそ笑んだ。
 人目の届かぬ入り江に停泊させた船は、彼女らをアッシェドから遠ざけるべく北の大地へと出港したはずだ。
 手の者に指示を出しただけでほとんど手を汚していない彼女は、それを疑いもしなかった。

 邪魔者でしかなかった、どこの馬の骨とも知れぬ、市井の女。
 どれほど見栄えがする娘なのかと思ったら、何の事はない。
 ありきたりな栗色の髪。紺碧の双眸は強い意志を秘め、生意気に見える。良く言えば華奢だが色香には程遠い身体付き。
 明らかに自分の方が美しいではないか。
 この船で初めて顔を合わせた時、勝ち誇り高笑いしたいくらいだった。
 本当に、なぜあんな貧相な娘が、秘姫に選ばれてしまったのか。

 選ばれた秘姫が行方知れずになったという事実は、実家の息がかかった王宮勤めの者より聞き及んでいた。
 即位の際、必要不可欠とされる秘姫――――きっと【刺牙の儀】はやり直される。そう思っていたというのに、姿を消していたはずの娘の居所が掴めたことにより、王太子自らが迎えに行ったというではないか。
 居ても立ってもいられなくなり、ルシンダは行動を起こした。
 何としてもその娘を秘姫の座から引きずり下ろす為、その娘について調べ、養母だという調香師を探し当てたのだ。彼女は、養い子が秘姫となる事を望んでいなかった。本人もきっとその立場を望んではいないだろうと言い、ルシンダの計画に乗ったのだ。
 あの娘は、養母の存在をチラつかせるとすぐさま顔色を変え、餌に飛びついて来た。
 やはり何かの間違いだったのだ。
 王太子とあの娘の間には何もありはしない。
 見目麗しい王太子の傍には、自分が並び立つ運命なのだ。

「そうよ――――わたしと殿下にこそ、特別な絆があるの。誤りは正さねばならないわ」

 微笑む彼女の視線は手の中に落ちる。
 そこには、アッシェドの海を思わせる青い瓶がある。
 コルアレードを出港した後、ほとんどの時間を、あの娘がこの香につぎ込んでいたことは彼女付きの侍女となったミヤから聞いている。
 お人好しのミヤ――――昔から世話焼きなところのある彼女は、長い船旅の中、軟禁状態の自分を気にかけ、話し相手になってくれた。少しばかり友好的に接すれば、貴重な茶だと告げて用意した催眠効果のある薬茶を、疑いもせずに飲むくらいだ。その程度も知れよう。
 乗船前、術師に習った通り、ミヤは見事暗示にかかった。
 仕事上がりには必ずあの娘と王太子周辺の情報を報告させ、計画実行日にドレイズの港町で、あの娘が指示通り護衛を撒いた時、目的の場所まで連れて行く事を指示した。
 そして、この香―――――ミヤに盗ませたのは、香に何か秘密があるのではないかと考えたからだ。
 【刺牙の儀】が行われた時も、養母もしくは彼女自身が手掛けていた香の中に、異性を惹きつける類いのものがあったのでは?
 そういうことでなければ、あの娘を選ぶ理由に説明がつかないではないか。

 だが、きっとすぐに目は覚める。
 真実の秘姫はすぐそばにいるのだから――――・・・・。

 その時、唐突にノックが響いた。
 彼女は手にした瓶をとっさにシーツの中に隠す。

「ルシンダ嬢――――少し宜しいですか?」

 響いた声は王太子の側近である青年のものだ。
 もう一人の側近と違い、幾分柔らかな物腰の彼の事は少しだけ気に入っている。
 王太子ほどではないが、その整った容姿は目の保養になるからだ。
 彼女は微笑み、扉を開けた。

「何かご用でしょうか?」
「――――殿下よりお連れするよう申し付かりました。おいでいただけますか?」
「!殿下はわたしが乗船しているとご存じでいらっしゃるのですか?」
「ええ。あなたとお会いしたいと仰せです」

 頬が紅潮し、熱を持つ。
 式典などで遠目から見つめるしかなかった存在――――王太子が自分に会いたがっている?

「少しお待ちになって。すぐ、すぐに参りますから」
「あまり身支度に気は使われませんように。殿下をお待たせしてはなりませんから」
「ええ、勿論ですっ。すぐですからっ」

 慌てて扉を閉め、いそいそと着替え始める彼女は、舞い上がらんばかりだった。
 こんなに早く面会の機会が巡ってくるのならば、流行のドレスを持って来るのだったと激しく後悔する。
 待ち構えている稀有なる貴人が、どのような思惑で召喚の命を下したのか彼女は知る由もない

 ***

 案内された室内にルシンダが足を踏み入れると、ラァスは静かに退室した。
 静寂の空間。
 まるで彫像のように微動だにせず、机上に手を組み、瞑目する青年の姿がある。
 整った眉、すっと通った鼻筋、薄く形の良い唇――――人であることを疑いたくなるほどの美貌。その顔立ちは、惹きつけられずにはいられないほど魅惑的だった。
 陶然と見惚れ、ため息が零れる。
 照明の明かりに一層の艶を増す漆黒の髪が肩口から流れ落ち、絶妙な線を描き切れ込まれた瞼が開く――――紅玉を思わせる真紅の双眸が自分を真っすぐに映し出すのを見、彼女は身震いするほどの歓喜を覚えた。

「そなたか。ヴェイン家の令嬢というのは」

 耳に響く心地よい低音。
 その声を直接耳にするのは初めてだ。
 聞き惚れてうっかり挨拶をするのを忘れていた事に気づき、スカートの裾を持ち上げ身を屈める。

「はい。ルシンダ=ヴェインでございます、王太子殿下」

 華やかなドレスだったならば、もっと優雅な所作を見せることができたはずだと、ルシンダは口惜しく思う。

「乗船理由は聞いている――――――そなた、我こそが秘姫に相応しいとそう申したそうだな?」
「は、はい。ご存じでいらっしゃるかとは思いますが、ヴェイン家はこれまでにも多く秘姫が選ばれた一族でございます。殿下の【刺牙の儀】、わたくしは生憎と病に伏しておりました。その場におりましたら、間違いなく殿下のお目に留まることができたものと」
「それで?」
「今一度、わたくしに機会を下さいませんか?秘姫としてお傍にお仕えしたいのでございます」
「わたしの秘姫は既に決まっている。そうと知りながら、秘姫の名を望むのか?」
「ですが、それは」

 何かの間違いなのだ。
 ルシンダは一度唇を噛みしめ、許しを得ないままに顔を上げた。

「・・・・王太子殿下。わたくしを、欲しいと思われませんか?」

 胸に手を当て、ルシンダは主張する。
 王太子の細い柳眉が僅かに顰められた事に彼女は気づかない。
 大きな過ちを犯そうとしている相手に真実を悟らせたい。その一心しかない彼女はなおも言葉を重ねる。

「秘姫に選ばれたあの娘よりも、わたくしは殿下が好む女性の条件を満たしていると思われませんか?家柄も、容姿も、教養も。わたくしは、殿下にお仕えする日の為に、努力してまいりました。ですから」
「秘姫について、そなたが周囲からどう聞いているのかは知らぬ。だが、選ぶのはわたしだ。理屈などない。――――秘姫は、あの娘以外あり得ぬ」

 にべもなく断られ、ルシンダは衝撃に顔を強張らせた。

(今・・・・何と仰った、の・・・・?)

 耳にした言葉を疑い、不敬ととられかねないほど食い入るようにルシンダは王太子を見る。

「その秘姫についてそなたに訊きたい」

 既にその話は終わったと言わんばかりの彼の言葉は、ルシンダの耳に届かない。
 馬鹿な。
 退けられるとは思いもしなかった。

(わたくしよりもあんな女を選ぶというの!?)

 対面し、直接自分を目にすれば、きっと王太子は考えを改めるものだと思っていたのに、こんな屈辱を受けるとは想像もしていなかった。
 自尊心を痛く傷つけられ、戦慄く唇を噛みしめる。

「・・・・本当にそうでしょうか?」
「何?」

 絞り出すように発した声に、王太子がぴくりと片眉を上げた。

「真実、あの娘が秘姫であるならば、殿下のお傍から離れようなどと考えはしませんわっ。確かな繋がりがあるというのならば、決して離れることなどできないのではありませんか!?」

 激情に支配され口走った直後、はっと口を覆う。
 しまった――――視線を逸らしそう思う傍から、ルシンダは思い直す。

(い、いいえ。問題ないわ。行方を捜す兵たちの騒ぎを耳にしたとでも言えば)

 何とでも誤魔化せる。
 軟禁状態の身で何故知っているのかという追及を予想するが、返るのは長い沈黙だった。
 怪訝に思い、視線を上げる。
 稀有な赤い双眸に怜悧な光を浮かべ、彼はじっとこちらを見つめていた。
 凍り付きそうなほどに冷ややかな眼差し。
 びくりと身じろぎし、ルシンダは目を逸らした。
 かたりと椅子から立ち上がり、こちらへと近づく彼の気配を感じる。

「ヴェイン家は幾度も掛け合ってきたそうだな。【刺牙の儀】の仕切り直しを。それほどに秘姫になりたいか。――――その先に用意された貴妃の座が欲しいか」
「い、いいえっ!そうではありませんっ。わたくしは、ただ、純粋に殿下をお慕いして」
「・・・・地位ではなく、わたしの寵が欲しかったと?」
「は、はい。幼い頃一目殿下のお姿を拝見した時からずっと、わたくしはっ」

 顎を持ち上げられ、ルシンダは言葉を止めた。
 間近に近づけられた美麗な顔に心臓が爆ぜそうになる。
 鼻先に息が触れそうなほどの距離だ。
 長い睫毛が落とす影に深みを増す真紅の瞳――――否応なく鼓動は高まる。

「・・・・ならば、そなたはあれの代わりにその身を捧げると言うのだな?」
「は、はい!身も心もすべて、わたくしのすべてを殿下に捧げますっ」

 切れ長の目が眇められ、薄い唇が弓なりになるのを夢見心地に見つめていた。
 この存在にならば何を差し出しても惜しくはないと――――そう、確かにそう思ったのだ。
 だが、腰を引かれ、のけぞらされたルシンダの目に、それは映った。
 暗く輝く赤い双眸。
 開かれた唇から覗く鋭い牙。
 人外の美――――見紛うことなき、人ならざる者がそこに在る。

「っひぃ!?」

 本能が危険信号を発し、その腕から逃れようともがく。
 だが、腰を抱くその腕も、顎を掴む指も一向に離れない。

「そなたに求めるものなど何もない。だが、不相応な望みを持った罪を贖うというのならば、その血を一滴残らず寄越せ」

 白い首筋を滑る指は、皮下にある血管を辿るように動いた。
 先ほどまで感じていた夢見心地はすでに消え去り、ルシンダの頭の中は混乱と恐怖が渦巻く。
 恐ろしくも目を離すことができない。
 稀有なる双眸に魅入られてしまったかのように。


「この渇きをそなたごとき存在で癒せようはずもないが――――一時凌ぎにはなろうよ」


その目が頤を狙いすまし、猛禽類のように細められた瞬間、彼女の精神は限界を迎えた。

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