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霧の島

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いつ何時でも、深い霧が立ち込める海域にその島はあった。
 その面積は小さなもので、数時間をかければ、島の周囲を回りきれるほどしかない。
 特徴的なのは、島の中央に聳える山だ。
 既に活動を停止して久しいその山の頂は、青く澄んだ水を湛え、その地に住まう一族に神聖視されていた。

 簡素な生地で作られた法衣に身を包んだ小柄な影が茂みを掻き分け、清浄なる湖に近づいた。
 周囲に目を配り、人目がない事を確認すると、懐から取り出した瓶の蓋を外し、水際にしゃがみ込む。
 紅い硝子の内側に流れ込む水を見つめ、その口元が緩んだ。

「————これさえあれば、作れるわ」

 蓋をすると、落とさぬよう胸に抱き締め、弾んだ足取りでその場から駆けだした。


 ***

 そこはまるで、辺り一面、白く塗りつぶされたように見えていた。

(凄い霧……)

「何も見えませんけど、本当にこちらであってるんでしょうか?」

 ジェマの指示に従い、針路をリィジェネ島へ変更した船は、視界の利かない海域を静かに進んでいた。
 船縁から辺りを見回した後、サーシャは後方を振り返った。
 近くに控えていたラァスは、頷き返す。

「地図通りであれば、この先に目的の島があるはずなのですが……」

 口を濁すのも無理はない。
 何せこの霧だ。
 水夫たちが灯火をかざし、辺りを照らしだそうとしているが、ほんの少し前方すらも見通せないのだ。
 聞く所によれば、この海域を通る船は滅多にないのだという。
 昔から水難事故や不可解な事象が起こる場所とされ、人々から避けられてきたらしい。
 隠された島――――確かに、これでは近寄る者は少ないだろう。

「ルティカさん、そろそろ中へ戻りましょう。殿下がお待ちです」

 ラァスに促され、サーシャはぎくりと肩を揺らした。

「え、えーと。もう少し、ここにいては駄目ですか?」
「あまり良い話を聞かない海域ですので、万一の事があっては大変です。どうぞ、おいでください」
「……」

 サーシャは内心呻いた。
 本当はそれを避けるために船内の至る所を歩き回っていたのだ。
 もっともすぐラァスには見つけられてしまったが。

(だから、気まずいんですってば)

 それをマファルドはしっかり読んでいたようだ。
 避けられぬようラァスを寄越すあたり、攻勢を緩めるつもりはないらしい。

「さあ、参りましょう?」

 浮かない顔をするサーシャを笑顔で促すラァスは、あくまでも彼側の人間だ。見逃してくれるわけもない。
 彼の後について動き出したその時だった。
 船体が大きく揺れた。
 思わず体制を崩すサーシャをラァスが支える。

(な、何?)

 霧の奥から奇怪な空気の震えが伝わってくる。
 舵の自由が利かぬと騒ぐ水夫たちを黙らせるように、獣の唸りにも似た声が響き渡った。

 《異国の民よ。その船でこれより先へ進むこと相成らん。即刻立ち去られよ》

 声は反響し、何処から、何者が発しているか定かではない。

「何者です!?」

 ラァスの発した鋭い誰何の声に答えは返らない。

「ば、化け物だ」
「霧の海域に住まう魔物だっ」

 悲鳴じみた声が上がる中、張りのある青年の声が響いた。

「我らはアッシェドの占者ジェマの導きにより、参った者だ。訪問の先触れは既にあったはず、道を開けよ」
「!」

 振り返れば、甲板にマファルドの姿がある。
 ヴォリスを背後に引き連れた彼は、サーシャの傍に立った。

(なっ、何でここに)

 こんな状況でも、その姿を目にして動揺が走る。

 《————アッシェドの御仁……失礼した。されど、この島に上陸できるのは、あなたと件の娘のみ。迎えを用意するゆえ、お二人だけでおいで頂こう》

「!そのような事、承服しかねる」

 即座に抗議したヴォリスだが、姿なき声はあくまでも二人だけしか認めないという。

「殿下……」
「二人だけだというのなら、仕方あるまい。留守を頼むぞ」
「はっ……」

 眉を顰めるも、主の命に二人は揃って頭を垂れた。
 そのやり取りを見ていたサーシャは複雑な表情になる。

(二人だけ……)

 今は望ましくないが、そんなことは言っていられない。
 個人的な感情は抜きにして、とにかく、マファルドが無事即位できるよう手助けする事が重要だ。
 やがて霧の先から現れたのは、人ひとりが乗れるほどの小さな船が二艘。ゆっくりと近づいてくるそれに漕ぎ手はいない。

「別々か」

 不満そうな呟きは聞かない振りして、サーシャは船に乗り移った。
 少し頼りなげに見えるがちゃんと浮いている。
 もう一方の船にマファルドが乗り込むと、船はゆっくりとレティシャ号から離れ始めた。

「すまなかったな」

 ふと横を見れば、マファルドがこちらを向いていた。

「な、何がですか?」
「何って……あれだ。……ちゃんと人払いをしておくべきだった」

 彼は言い淀んだ後、ぼそりとそんな事を言う。
 暫時沈黙したサーシャは、ヴォリスに見られたあの日のことだと気づき、頬を染めた。

「何言ってるんですか!」

 気にすべきはそこじゃないと言いたい。
 彼は僅かに目を大きくすると、口元を覆い、まじまじ見つめてくる。

「……見られても平気だと?」
「断じて違いますっ!」

 力一杯否定した直後、マファルドは可笑しそうに笑った。

「なっ……何がおかしいのですか?」
「いや。お前はそうでなければな。強引な真似をしたから、口を利いてくれぬのではとも考えていた。打てば響く反応で嬉しかっただけだ」

 穏やかな眼差しで笑みを深めるマファルドは、やはり変わった。
 初め、こんな風に笑いかけてくる人ではなかったはずなのに。
 どう反応したらいいのかわからずにサーシャは黙り込んだ。
 マファルドは笑みを消し、言葉を探すように僅かに黙り込むと、やがて真剣な表情になる。

「……強制力であったとしても構わない」

 どきりとして身じろぎするサーシャに、マファルドは続けた。

「そう言ったが、わたしは強制力の所為でお前を欲してるわけではない。強制力はきっかけでしかないはずだ」

 稀有な赤い双眸が、真摯な眼差しを投げてくる。
 あの、信じたくなる眼差しだ。
 
「い、今は、ネイさんって方に問題を解決してもらう事に集中しましょう」

 何も見えない前方を見る素振りをして視線を逸らす。

「ああ、そうだな」

 マファルドは一拍後、呟くようにそう言った。
 彼がどんな顔をしたのかわからない。
 そんな事を気にする自分に戸惑う。
 即位したら解放する――――その約束で彼に協力する気になった。
 それが果たされたら、またアッシェドでエンナと共に暮らすか、あの夢を叶える旅に出るつもりだった。
 理由がどうであれ、反故するなどと言われて、どうして自分はまだ彼の傍にいようとするのか。
 答えを出すには、まだ時間が足りない……。

「サーシャ!」

 ふいにマファルドが声を上げ、はっとした。
 濃い霧の中でも互いの表情がわかる距離感だったはずだというのに、マファルドの姿が白い霧に霞み始めた。

「マハさん、船が離れてませんか!?」
「ああ、手を伸ばせ」

 サーシャは差し出されたマファルドの手に手を伸ばしたが、その声と姿は立ち込める霧の向こうに阻まれ、完全に見えなくなってしまった。

「マハさん?マハさん!」

 呼びかけに答える声はない。
 漕ぎ手のない船の上、マファルドが見えなくなった方へ向かおうと必死で手漕ぎするが、サーシャの意思も空しく、船は方向を変えることなく進んでいく。

「ちょっ、ちょっと待って!止まって!」

 不意に船が動きを止めた。
 ほっとした途端、眼前の霧が晴れ、浅瀬に人影が見えた。

「お待ちしていました、秘姫」

 現れたのは、白髪の結い上げ髪も上品な老婆。
 白い法衣がふわふわと宙を漂う――――彼女は宙に浮いていた。海の水面に波紋を広げながら。
 
 「あ、あなたが、ネイさん……ですか?」

 問いかけに、人の好い顔をした彼女は頷いた。

「あの、ここへ来る途中でマハさ…殿下の船と離れてしまってっ」

 焦って説明するサーシャに、しかしネイはおっとりと微笑んだ。

「ええ。あの方には、別方向からリィジェネへ上陸して頂きました」
「!そ、そうだったんですか」

(ああ、そうか。それで船が別々だったんだ……)

 不測の事態ではなかったと知り、ほっとした。

「でも、どうして……」
「あの方には、準備ができるまでお待ちいただきます。そうして————秘姫。あなたには、その間に必要な説明をさせて頂きます。さあ、どうぞ。手をお取りください」
 
 戸惑いながらも、差し出された皺のある小さな手に、手を重ねた瞬間、サーシャはその場からネイと共に姿を消した。

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