レクイカ、線の雨が降る前に

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第1章 雨を逃れて

雨の怪物

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 まだ、雨は降っていなかった。
 しかし、空はいよいよというくらいに、暗くなってきている。
 街道沿いに立ち並ぶ木々は影絵のようで、歩く民達の頭上にせり出す枝葉は、不気味に伸ばされた影の手のように見えた。
 誰も皆不安げな表情で、子どもらは怯え、辺りを見渡し、馬に乗せてもらっている老人達は目を閉じ祈っている。
 
 その先を行く五騎。
 レクイカらは二つめの林で、道の真ん中に怪物がいるのを見た。五メートルはある大きな個体だった。
 ミートは後方へ知らせに戻り、レクイカは迂回を考えたが、それからすぐに怪物は立ち上がりこちらに気付くことなく林の中へと去っていった。
 細心の注意を払い、民らを通らせた。先程の怪物は、姿を見せることはなかった。
 
 再びレクイカらが先行して入った三つめの林では、怪物が何匹もいた。
 街道上までは出てきていない。が、ここの怪物達は、林の奥の方を妙にそわそわした様子でのろのろと、こそこそと、二、三メートルはある体で動き回っていた。
 
「これは……雨が近い、のだろうか」
 列の後ろの方でミートが小さな声で発する。一番後ろは影騎士が付き周囲に目を見張らせている。
「おそらく、ね」
 一番前を行くレクイカ。
 林の中は、一行が歩む馬の足音がするのみ。怪物は、足音もなく歩く。他の生き物の音は感じられなかった。
 ミートをからかい冗談を言っていたミカーも今は、黙っている。
 
「雨……」
 と、ミカーが呟く。
 ぽつ、ぽつ、と雨粒があたり、騎士達の外套を濡らし始めた。
「来ましたか。急がねば」
 レクイカら五騎は林の入口へ戻り、民達を待つ。
 
 民らが追い付くと、ここの林は隊列を密にしてなるべく歩調を速めて抜けるよう、告げる。
 道は広くないが、ここでは再びミカーを右翼、シトエを左翼、ファルグをしんがりにして民を守る。更に影騎士は左右に分かれ、先頭、右翼左翼、しんがりの間を埋める位置に着いた。
 
「もし……怪物に気付かれた場合、各々が民の盾となってください」
 
 レクイカの言葉に騎士達は頷く。
 
 
 *
 
 雨が少しずつ勢いを増す暗い林の道を、全員が足早に、先へ先へ、と歩く。
 時折、林の奥の方で動く怪物の影を民達も見ることになり、悲鳴をあげる者もあった。
 
「皆さん! 隊列を乱さないで、まっすぐ! 少しの、辛抱です。林を抜ければ、怪物の数も減ります!」
 そしてその先に、雨が降っていなければ。とレクイカは祈る。 
「怪我を負ったりしたら、すぐ、周囲の騎士に呼びかけてください!」
 民らの激しい息遣いが、不規則に聞こえている。
 
「あっ、か、怪物が!」「う、うわあ!」
 子どもの叫び声。左翼側に近い。大木に沿うように、黒い巨体の怪物が体をもたげている。
 民らが足を速め、反対側に逃れようと、陣形が乱れる。
 
「まっすぐ、お願いまっすぐ走って!」
 レクイカが必死に呼びかける。
「怪物は、気付いていません。皆、恐れないで」
 シトエが、民を落ち着かせる。左側の影騎士らが、外側にせり出す。そのおかげで民らは何とか列を崩さずに、しかし逃げるように先へ先へ急ぐ。
 怪物は口を半開きただぼーっと頭上を眺めていた。
 
 ミートは、右翼側にも、木立のすぐ向こうにさきよりは小さな怪物が二匹、四つん這いにしゃがみ込んでいるのを見た。
 民を安心させるよう、ミカーと右前方の影騎士と二人で外側に出る。右後方のもう一人の影騎士は、ミートが声をかけたあの老婆を後ろに乗せているため、無理な動きは取れない。老婆は目を閉じ、また念仏を唱えていた。
 怪物は隊が通り過ぎるまで終始そのままの姿勢で、動くことはなかった。
 
 ミカーの顔色は少々、青ざめて見える。
 無理もないか、とミートは思った。誰でもあんな怪物の相手は御免だ。この子も、口は強がっているけど、まだほとんど少女の年でこれだけ頑張っているわけだ、と。
 
 それに、ミカーだけではない。民の顔色はもっと酷く、顔を引き攣らせている者もいるし、ほとんど泣いている者もいる。
 
 雨のせいもあるかもしれない。雨は今や、本降りになり、皆の体力を奪っている。
 おそらく……線の雨が近づいているのだろう。
 だがそれはあくまで、自分達の来た後方からのはずだ。線の雨は国の中心部を滅ぼし、その周囲へ向かっていた。北の国でもそうだった。西はどうなのだろう。わからない。怪物を逃れても、線の雨の来る方角に向かって逃げていたのなら全ては無駄になる。そうでないことを願いたかった。
 
 ミートは、後ろを振り返る。
 既に、元来た方角はほの暗い青の影に沈んだようにしか見えない。
 しかし、樹の枝葉の隙間からわずかに覗く空に時折、ちか、ちか、と何かが光って見える。
 ――線の雨、か……!
 
 前の方は、段々明るくなる。もう間もなく、林を抜ける。
 
 そのとき前方に、大きな動揺が走った。隊の動きが乱れ、前倒しになりそうになる。
 レクイカが何か言っている。
 迂回して、か。
 
「止まらないで……慌てず、迂回してください」
 
 どうやら、林を抜けたところに、佇む怪物の姿がある。
 座り込んでいるようだが、それで大人の三倍かいや四倍かはある、巨大な真っ黒い影だ。
 怪物は巨体を折り曲げるように膝を抱え、顔は斜め上の空の方を見上げるようにして、動かない。
 
「恐れないで、静かに。怪物は動いていません」
 レクイカが、ほとんど怪物の足元で馬を止める。
 その脇を避けて、急ぎ足に民が駆け抜けていく。
「シトエ、私に代わって先導を」
「はっ」
「林を抜けてもまだ止まらず、できる限り先へ」
「わかりました……その、レクイカ様もお気を付けて」
 左翼担当のシトエが前方へ馬を駆けさせる。
 
 怪物の体を避けて左右へ、民を通す。なるべく速やかに全員を抜けさせなくてはならない。
 林の出口と怪物の間にあまりスペースはなく、左右一人二人ずつくらいしか一度には通れない。林の木々は密だ。もし怪物が完全に出口を塞いでしまう位置にいたら、どれだけ時間が掛かったか。
 
「早く……早く」
 レクイカも少々、焦っている。
「レクイカ」
 ミートはレクイカの横に並んだ。
「う、うん。大丈夫……大丈夫」
 レクイカの肩は、小刻みに震えている。どれだけ気丈に振る舞おうとも、この怪物を前にしては、仕方のないことと思えた。ミートもその場に留まった。
「ミ、ミートは行きなさい」
 ミカーが青白い顔で気丈に言う。
「おまえに……レクイカ様が守れるものですか」
「……怪物が動いたら、おれを代わりに囮に、餌にすればいいのでは?」
 そう言うミートも自分の声が震えていることに気付いた。
「そ、そうでしたね。みょ、妙案、です」
「二人とも……民を守るのが騎士の勤め。私が真っ先に餌になりますから」
「レクイカ様!」「レクイカ……!」
「二人とも、しっ、静かに」
 見上げると怪物は、尚変わらずに斜め上の方を向いている。
 線の雨を……見上げているのか。――そうだ。
「おいレクイカ。さっき、後方の空に線の雨が見えた」
「えっ……」
 
 民の過半数は前方へ抜け、しんがりの騎士らが遅れている老人らを急がせているのが見えている。
 皆、雨に濡れ涙に濡れ必死だ。
 レクイカとミートは後方を見る。今は木々の樹冠の隙間が密で、向こうの空は見えていない。
 
「早く……」
 レクイカは首を垂れ、声はほとんど、かすれた独り言になっている。
 
 ミートは、佇む怪物の体を見上げた。その顔は、こちらを向いている。何故、悲しげな顔をしているのだろう。怪物は、その手をゆっくりとこちらに差し伸べてくる。何を、おまえたちは求めると言うのだ。
 
「レクイカ……避けろ!」
 ミートはレクイカの肩を叩く。
 はっと気づいたように顔を上げるレクイカ。怪物の手が、レクイカに伸びる。ミートは短刀を抜いて、切り付けた。
 きゃああ、と、周囲にいた民らの叫びが響き、一斉に駆け出す。
 怪物が、動いていた。
 ミカーは弓を構える。レクイカも剣を抜く。
 
 怪物は、ミートが切り付けた手で顔を覆い、どっとその場にしゃがみ込んだ。
 怪物は、剣で切れるようなものではない。傷は付いていない。だが怪物は傷つけられたことを嘆くように、もう片方の手でどしどしと地面を打ち始めた。
 雨でぬかるんだ土が飛んで、レクイカの頬を汚す。
 しんがりの騎士らが追い付き、怪物を取り囲む。
 怪物が闇雲に叩く地面のぬかるんだ土が、次々飛び散ってくる。
 おののいた民が、足を滑らせ転んだり、林の中や、反対方向に戻り逃れようとする。
 
「そっちに行ってはいけません! 前方に、前方に!」
 レクイカが四方を駆け、見当違いの方向へ行こうとしたり転んで頭を抱える民達に呼びかける。
 あちこちで、民らの悲鳴が響き渡る。
 
 怪物は再び立ち上がり、怪物もまたおののいた様子で、周囲をきょろきょろと見渡している。
 騎士らは、その視界にあえて入るように周囲を動く。民らに注意を向かせず、自分らを囮にするためだ。
 怪物は四方に、手を伸ばす。
 騎士らは素早く手綱を切り、牽制する。
 
 雨が、強くなっている。
 ミートは、後方の林の道の奥に、きら、きら、と輝きながら近づいているものを見た。
 
「線の雨が……来る」
 
 急げ! ミートは、叫んだ。
 もう、走るしかない。
 民は、全員が林の外へ逃れた。
 
「レクイカ!」
「大丈夫」
 怪物を牽制していたレクイカ含む騎士らも、怪物から距離を取る。怪物は、その場でまごまごとして、追っては来ない。
 
「急いで、早く!」
 レクイカは民を急き立て、全力で駆けさせた。
「線の雨が来ます! 止まってはいけません!」
 
 ミートもレクイカも、全騎士が乗せられる限り、倒れたり転んだりして怪我を追った人や、老人、子どもらを背に乗せ、走った。
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