悠久の栞

伽倶夜咲良

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#3 あの日の記憶

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 だけど、そこに行く途中で急な雨に降られちゃってな……『さっきまで晴れてて良い天気だったのに、こんなに急に降り出すなんて、山の天気は変わりやすいって本当なのね』とか言ってたんだけど、そのうち、そんなことも言ってられないぐらい本降りになってしまって……
 雲行きが怪しくなって、ぽつりぽつり雨粒が落ちてきたからすぐに雨具は着たんだが振り方はどんどんひどくなるし、母さんがさすがに辛そうでな……無人の避難小屋に逃げ込んだんだ。
 念のためにと思って、事前に調べておいてほんとによかったよ。ほんとに使うことになるとは思ってもみなかったけどな。ちょうど、滝に向かう途中の道沿いにあったのも運が良かったんだ。

 そのうちまわりがガスってきてな……ガスもだんだん深くなってくるし、日も暮れてしまって、まわりもよく見えないような状態になってしまって……あの時はほんとに、まいったなあ~って感じで……仕方なく、避難小屋で一泊することに決めたんだ。その時は避難小屋も俺たち二人だけで、母さんもよけいに不安だったと思う。小屋で二人だけってのは、ほんとに寂しいものなんだ。特に母さんはこういうの初めてで慣れてないしな。ほんとは、滝を見た後にちゃんとした宿泊用の山小屋を目指すはずだったんだけど……まさか、こんなことになるとは思っていなかったから……母さんも口数少なくなって、黙っちゃうから……ますます静かな空気になってしまってなあ……

 なんか、どうでもいいような話題を無理矢理に作って、一生懸命話しかけてたりしたなあ……
 少し話しかけては、ネタが切れて間があいて、また無理矢理考えて話かけて、間があいて……
 そんなことを何回かやっていたら、そのうち、そんな無理矢理なやりとり自体がなんかおかしくなってきてな……いつの間にか二人で笑ってた」

「でも、それってやばかったんじゃないの?一歩間違ったら遭難だったんじゃ?」
 気になって、思わずおやじの一人喋りに割り込んだ。

「そうだな、そこで母さんと遭難して戻れなかったら、おまえは生まれていなかったな。あははは」

「笑い事じゃないだろ?」
 そう言って、俺も湯飲みの酒を飲み込んだ。自分も少し酔ってきたみたいだ。

「それほどの山じゃなかったからな。それに、こんな感じの急な雨だから、翌朝には小降りになっているか、上がっていることが想像できたしな。悪天候が続くような時期でもなかったし、天気予報でも問題はなさそうだったから、その辺は安心してたかもな。
 でも、ランタンのを消すと明かりがまったくなくなって、ほんとに真っ暗だし、小屋の外の物音や、雨・風の音が響いていて、精神的にはけっこう恐いものがあったけどな……母さんの方は特にだよ……かわいそうなことをしたと思ったよ、ほんとうに、あのときは。

 実際に、何回も謝ったよ。だけど、その度に、『あなたのせいじゃないでしょ』って、反対に慰められてしまって……」
 おやじの、また気恥ずかしそうな表情。

「それでも、シュラフに入って、くっついていたら、いつの間にか眠っていたな」

「シュラフ?」
 聞き慣れない言葉に聞き返した。

「寝袋さ。隣にぴったり寝袋並べて入ったんだ。あの状況だったからな。二つの寝袋くっつけて首まで入っていたら、一つの布団にいっしょに入っているような感じになるだろう?
 寝袋に入るのも初めてだった母さんがな、始めのうち面白がって、寝袋越しに、隣の寝袋に入っている俺の手を掴もうとしてくるんだ。もぞもぞ動いて、わざとこっちに転がってくるようなこともしてみたり、小屋の中は真っ暗だったから、どんな顔してやってたのか、母さんの顔は見えなかったけどな……そんな可愛らしいところもあったなあ、そう言えば……

 しかし、朝起きて、二人で寝袋から顔出して、顔見合わせた時は、なんだかちょっと気恥ずかしくてな……さすがに。照れてしばらくうつむいていたような気もする……若かったなあ……あの時」

 今になって、おやじと、母さんのこんな思い出話を聞けるとは思ってもいなかった。母さんの三回忌のこの夜に。おやじの印象。母さんの印象。今頃になって、初めて知る一面があったなんて。これまでの自分の記憶の中にはいなかった父親と母親が、新たに居場所を作って、俺の記憶の一部となっていく。
 大切なものが一つ増えた。

 今夜のおやじは饒舌だ。
 酒のいきおいもあるんだろうけど、話し始めたら、次から次に過去の情景が浮かんできて、止まらなくなってしまったような感じだ。ところどころ、俺に話しかけているのか、自分自身に話しかけているのか、そのニュアンスが曖昧に聞こえるようなところもあった。

「朝日がな……きれいだった。雨の音はしていなかったけど、やっぱり天気の様子が気になって、シュラフから出て、二人ですぐに小屋のドアを開けてみたんだ。朝の風が冷たくて、一気に小屋の中に吹き込んできて、思わず声だして震えてたな。ほんとに冷たくて……それでも我慢しながら外を覗いてみると、うっすらと朝靄あさもやがかかった向こうに、真っ白なまん丸の太陽が見えて、朝靄あさもやのせいで眩しくはなくて、丸い形がはっきり見えてた。日差しは強くはなかったけど、もやの水滴にあたった光がきらきら光っているように見えて……あれは、あれできれいな朝日だった。

 外の様子が確認できて、安心できたから、今度はちゃんと上着着込んで、寒さに対する心構えして、二人で外に出てみたんだ。靄で和らいだ朝日の日差しがまわりの木々の間から差し込んでいて、風が吹くと木の葉っぱに溜まった朝露の滴がぱらぱらと落ちてきて顔に当たると冷たいんだ。あの頃は母さんも若くてな、朝日を受けた横顔がまぶしかった」

 遠い表情をしながら、おやじはまた、酒を口にした。心なしか、なんだか少し肩を落としたようだった。
「昨日は気がつかなかったんだけどな、」
 本当に、昨日のことを話すような口ぶりでおやじは続けた。
「昨日は気がつかなかったんだけどな……小屋に逃げ込むことに必死で、まわりが見えていなかったんだろうな……外に出てみたら小屋の隣に大きな木が立っていて、最初はその大きさに思わず見上げていたんだけど、よく見ると連理木れんりぼくだったんだ。連理木って知ってるか?」

 俺は、軽く首を横に振った。

「元々は別々の二本の木が幹のところでくっついて一本の樹木になっている木のことだよ。夫婦や男女の深いちぎりを象徴していて縁起のいい木とされているんだ。その木は、根元のすぐ上のところで一つに絡み合うような感じで、そこから一本の幹になって大木に見事に成長したものだった。それに気がついたときは、母さんと顔見合わせて、目の前の大木と自分たちを重ね合わせてすごく嬉しかったなあ。俺も嬉しかったが、母さんははしゃぐように喜んでいたよ。
 『昨日の大雨に降られたことも、この場所に導いてくれるために神様が用意してくれたものだったんだね』とか言ってな。凍えて辛い思いをしたことも、ぜんぶ、吹っ飛んでしまった。
 なんか、ちょっとしたドラマみたいだろ。父さんたちにだって、そんな日があったんだぞ」

 おやじの表情はまた、照れて幼い顔に戻っていた。

「何か記念に残して置きたいって、母さんが思いついたように持ってた小さなノートを持ち出してな、メモ書きとか書いて使用済みだった始めのころのページを綺麗に切り取って、『このノートにお礼のメッセージを書き残して置いていこう』っていうんだ。この小屋で雨宿りをさせてもらったことへのお礼と、りっぱな連理木に出会えたことのお礼を、まだ使っていないきれいなページに書き残して、小屋の中のしつらえの棚の上にそっと置いてきたんだ。『もし、この小屋を次に使った人たちが、私たちのメッセージに続いて、何かまた、このノートに書き残してくれたら素敵だよね』とか言いながら……あのノートも、そのあとどうしたかなあ……

 ここが、その場所なんだ」

 目の前に広げた地図の、海老茶色でなぞられた線の終着点。目的地を現すように丸がつけられたその場所を指しながら、おやじは言った。

「結婚して、おまえが生まれてすぐくらいに、父さんの仕事の都合でこっちに来てしまって、それっきりあの場所には行ってないんだ。あの日の登山で使って、そのまま持ち帰ってきたこの地図に、あの場所と道順を赤い線でなぞって引いて、『いつか、もう一度行ってみたいね』ってよく話していたんだ。何かある度に、この地図持ち出してきて、二人で眺めながら、いろんな話をしたもんさ。おまえのこともいっぱい話したんだぞ。『今度は三人であの山に登りたい』なんてこともよく話したよ。こんなに古ぼけちゃったけどな……

 だけど、その約束をとうとう守れなかった。母さん、死ぬまで連れて行ってやれなかった。ごめんな……。俺は、だめだなあ……母さん、ごめんな……」

 それ以上の言葉は聞き取れなかった。おやじは、口の中で何かもごもごとつぶやきながら、海老茶色に変色した赤い印を右手の人差し指で指し続けたまま、左手を枕にするようにして、テーブルの上に突っ伏していた。こんなに潰れるまで酒を飲んでいるおやじを見たのも今夜が初めてだった。

「風邪引くぞ、ふとん敷くから、そっちで寝なよ」
 そう言いながら、肩を数回揺すったところで、おやじは、急に顔を上げたかと思うと、俺の顔をまじまじと見つめながら、擦れたような消え入りそうな声で一言言った。

「今度、一緒に登ろうか……」

 そう言うなり、そのままテーブルに顔を伏せて眠り込んでしまった。
 海老茶色に変色した赤い印を右手の人差し指で指し続けたまま。


(続く)
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