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#4 連理木
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そんなことがあってから二年足らず、おやじも母さんのもとに逝ってしまった。
もともと、仕事のことしか頭にないような、昔ながらの仕事人間だったおやじだったけれど、母さんが亡くなってからは、ますます仕事に根を詰めていたような気がする。
定年も過ぎて、再雇用に入ってるんだから、もうちょっと休んで、楽すれば。と、何度も言ったが、ああ、そうだな。と曖昧な空返事をするばかりだった。
そんな無理がたたったのか、あまりにも突然だった。会社で倒れて、そのまま静かに逝ってしまった。
あの夜、酔ったおやじが話してくれた母さんとの話も、頭の片隅に残っていて少し気にはなっていたのだが、あれ以来、おやじがその話をすることはなかった。俺も、その後何も聞こうとはしなかった。
おやじの残したものを整理していて、いつか見たお菓子の缶が出てきたときには胸が詰まる思いだった。
缶の中には、やはりあの地図が大切に収められていて、破れかけていた折り目は丁寧にセロハンテープで補強されていた。
おやじの話してくれたあの場所に、必ず行こう。
そう決意したのはその時だった。
それから、その場所を詳しく調べ直して、今、すぐそばまで来ている。
もう少しだ。
――そう思って、男は立ち上がった。
ごろごろした小石が転がり、ところどころで大きめの石が地中から角を覗かせている、そんな山道のごつごつした感触を足の裏で感じながら、男は目的地へ向かって進んだ。
しばらく行くと、山道はY字に分かれ、少しまた登る感じで左に続いている道は、先を覗くと更に道幅が狭くなっているように見えた。山道の脇からはみ出した雑草も今までよりも長く被さっているみたいだ。おそらく、そちらの道はあまり人が通らないのだろう。
Y字の分かれ目のところに立つ小さな案内板は若干傾いてはいたが、右へ下る道を指していて、顔を近づけて見ると滝の名前が書かれているのが読み取れた。山道はその先に続いている。
わずかに、沢の流れる音が風にのって、どこからか聞こえてくる。
まずは目的地だ。その後で、名所になっているという滝にも行ってみよう。
そんなことを考えながら、男は、滝に続く道を進んでいった。
進むにつれて沢の音は少しずつ大きくなっていく。
しばらく進んだところで、また左に入る小道があって、そこに立つ案内版には避難小屋と書かれていた。
男は迷わず左の道へ進んだ。
ここだ!とうとうやって来たのだ。
男は、その場所をしげしげと眺め入った。
そこは、山道の脇の林を切り開いたように不自然に空き地のようなスペースができあがっている場所だった。しばらく人が来ていないのか、向こう脛のあたりまで長く伸びている雑草もちらほらと見えた。
小屋は、思っていたよりも小さかった。ほんとに一時的な避難で使う程度の広さしかなかった。
何組もは同時に泊まることはできないだろう。宿泊用ではないのだから、当然か。
それに、経年の劣化が相当に進んでいるようにも見えた。一応、管理はされているようだが、無人の施設だ。
おやじと、母さんが訪れたという日からは、かなりの歳月が過ぎている。おやじたちが泊まった時は、もう少しましだったかもしれない。そうであって欲しいと思った。
どちらにしても、この場所に間違いはない。確信した。
目の前には、大きな古木がまわりの木々とは一線を画すようにして上へ伸び、枝葉を大きく広げている。
その木は、予想以上に大きかった。
男は、その大木の元へと雑草の中を分け入っていった。その幹は確かに根元のすぐ上のところで、二本に分かれている。元々は二本の独立した木だったのだ。
上に伸びるにつれて、絡み合い、見ようによってはお互いが支え合うようにして、一本の巨木となって大きく枝を広げ、下から見上げるものにとっては、空全体を覆うほどにさえ見えた。
男は、その存在の威圧感をひしひしと感じていた。そっと手で触れてみる。厚く、細かくひび割れざらついた樹皮はどこか優しく、この古木がこれまで生きてきた時間の流れが掌から沁み込んでくるようだった。
――おやじと、母さんもこうして手を触れたのだろうか?
この古き連理木の前で、笑顔ではしゃいでいる母さんと、おやじの姿が見えてくるようだった。この男女の深き絆を象徴すると言われる古木は、どのくらいの年月をこの場所で生きてきたのだろうか?その計り知れない年月の間のほんの一瞬に、おやじと、母さんは立ち会ったのだ。
「この連理木の謂れのとおり、二人はその人生を終えるまでいっしょに支え合って共に過ごすことができました。父は母が亡くなった後も、母のことを想って生きました。二人とも幸せだったと思います。
……ありがとうございました」
思いがけず、意識もしないままに、この古木へのお礼の言葉が口を衝いて出た。
「俺も将来を共にする女性が現れたときには、おやじと、母さんのようにまたここに来たいと思います。
おやじ、母さん、いいだろう。そうしたいんだ」
――男はそうつぶやいて、何かの影を目で追うようにゆっくりと振り向いて、小屋の方に目をやった。
あの日の父と母が、笑みを交わしながら小屋の中に入って行く姿が見えていたのかもしれない。
――小屋の中に残したという母さんとおやじのメッセージを記したノートはさすがにもう残っていないだろう。
だけど、後で小屋の中もひととおり見せてもらおう。もしかしたら……そんな想いもわずかながらに心の内にある。
でも、今はこうして、もう少しだけここにこうしていよう。古木の大樹の傍らに佇んでいよう。
あの夜、酔っ払いながら母さんのことを話していたおやじのことを思い出しながら。
いつも、おやじのそばに寄りそうようにしていた母さんの笑顔を思い出しながら。
俺の知らないおやじと、母さんが、あの日、ここに居て笑い合っていた情景に思いを馳せながら。
――凜とした涼しさを伴った風が下の方から吹き上がってきてすり抜けた。
細かく折り重なりながら、大きく広げた古木の枝葉がざわめいた。
新緑の香りと、どこか懐かしい香りが混ざり合った、柔らかな空気の流れが男の身体を包み込むようにして尾根の高みの方へ流れていった。
鳥のさえずり。草木の下にひっそりと隠れている虫の声。遠くからかすかに聞こえる沢のせせらぎの音。いくばくかは混ざっているだろうと思われる滝の落ちる音。
ここでは、それらのものが、折り重なり、絡み合いながら、ひとつとなって、遙かな過去から遙かな先へと向かって長閑やかに流れていくのだ。
すべては、刻々と移りゆく陽炎の揺らぎにも似た時の積み重なりでしかなく、他には何も存在しない。
時の余韻をその肌で感じながら、知らず男の頬には一筋の涙が伝っていた。
(了)
もともと、仕事のことしか頭にないような、昔ながらの仕事人間だったおやじだったけれど、母さんが亡くなってからは、ますます仕事に根を詰めていたような気がする。
定年も過ぎて、再雇用に入ってるんだから、もうちょっと休んで、楽すれば。と、何度も言ったが、ああ、そうだな。と曖昧な空返事をするばかりだった。
そんな無理がたたったのか、あまりにも突然だった。会社で倒れて、そのまま静かに逝ってしまった。
あの夜、酔ったおやじが話してくれた母さんとの話も、頭の片隅に残っていて少し気にはなっていたのだが、あれ以来、おやじがその話をすることはなかった。俺も、その後何も聞こうとはしなかった。
おやじの残したものを整理していて、いつか見たお菓子の缶が出てきたときには胸が詰まる思いだった。
缶の中には、やはりあの地図が大切に収められていて、破れかけていた折り目は丁寧にセロハンテープで補強されていた。
おやじの話してくれたあの場所に、必ず行こう。
そう決意したのはその時だった。
それから、その場所を詳しく調べ直して、今、すぐそばまで来ている。
もう少しだ。
――そう思って、男は立ち上がった。
ごろごろした小石が転がり、ところどころで大きめの石が地中から角を覗かせている、そんな山道のごつごつした感触を足の裏で感じながら、男は目的地へ向かって進んだ。
しばらく行くと、山道はY字に分かれ、少しまた登る感じで左に続いている道は、先を覗くと更に道幅が狭くなっているように見えた。山道の脇からはみ出した雑草も今までよりも長く被さっているみたいだ。おそらく、そちらの道はあまり人が通らないのだろう。
Y字の分かれ目のところに立つ小さな案内板は若干傾いてはいたが、右へ下る道を指していて、顔を近づけて見ると滝の名前が書かれているのが読み取れた。山道はその先に続いている。
わずかに、沢の流れる音が風にのって、どこからか聞こえてくる。
まずは目的地だ。その後で、名所になっているという滝にも行ってみよう。
そんなことを考えながら、男は、滝に続く道を進んでいった。
進むにつれて沢の音は少しずつ大きくなっていく。
しばらく進んだところで、また左に入る小道があって、そこに立つ案内版には避難小屋と書かれていた。
男は迷わず左の道へ進んだ。
ここだ!とうとうやって来たのだ。
男は、その場所をしげしげと眺め入った。
そこは、山道の脇の林を切り開いたように不自然に空き地のようなスペースができあがっている場所だった。しばらく人が来ていないのか、向こう脛のあたりまで長く伸びている雑草もちらほらと見えた。
小屋は、思っていたよりも小さかった。ほんとに一時的な避難で使う程度の広さしかなかった。
何組もは同時に泊まることはできないだろう。宿泊用ではないのだから、当然か。
それに、経年の劣化が相当に進んでいるようにも見えた。一応、管理はされているようだが、無人の施設だ。
おやじと、母さんが訪れたという日からは、かなりの歳月が過ぎている。おやじたちが泊まった時は、もう少しましだったかもしれない。そうであって欲しいと思った。
どちらにしても、この場所に間違いはない。確信した。
目の前には、大きな古木がまわりの木々とは一線を画すようにして上へ伸び、枝葉を大きく広げている。
その木は、予想以上に大きかった。
男は、その大木の元へと雑草の中を分け入っていった。その幹は確かに根元のすぐ上のところで、二本に分かれている。元々は二本の独立した木だったのだ。
上に伸びるにつれて、絡み合い、見ようによってはお互いが支え合うようにして、一本の巨木となって大きく枝を広げ、下から見上げるものにとっては、空全体を覆うほどにさえ見えた。
男は、その存在の威圧感をひしひしと感じていた。そっと手で触れてみる。厚く、細かくひび割れざらついた樹皮はどこか優しく、この古木がこれまで生きてきた時間の流れが掌から沁み込んでくるようだった。
――おやじと、母さんもこうして手を触れたのだろうか?
この古き連理木の前で、笑顔ではしゃいでいる母さんと、おやじの姿が見えてくるようだった。この男女の深き絆を象徴すると言われる古木は、どのくらいの年月をこの場所で生きてきたのだろうか?その計り知れない年月の間のほんの一瞬に、おやじと、母さんは立ち会ったのだ。
「この連理木の謂れのとおり、二人はその人生を終えるまでいっしょに支え合って共に過ごすことができました。父は母が亡くなった後も、母のことを想って生きました。二人とも幸せだったと思います。
……ありがとうございました」
思いがけず、意識もしないままに、この古木へのお礼の言葉が口を衝いて出た。
「俺も将来を共にする女性が現れたときには、おやじと、母さんのようにまたここに来たいと思います。
おやじ、母さん、いいだろう。そうしたいんだ」
――男はそうつぶやいて、何かの影を目で追うようにゆっくりと振り向いて、小屋の方に目をやった。
あの日の父と母が、笑みを交わしながら小屋の中に入って行く姿が見えていたのかもしれない。
――小屋の中に残したという母さんとおやじのメッセージを記したノートはさすがにもう残っていないだろう。
だけど、後で小屋の中もひととおり見せてもらおう。もしかしたら……そんな想いもわずかながらに心の内にある。
でも、今はこうして、もう少しだけここにこうしていよう。古木の大樹の傍らに佇んでいよう。
あの夜、酔っ払いながら母さんのことを話していたおやじのことを思い出しながら。
いつも、おやじのそばに寄りそうようにしていた母さんの笑顔を思い出しながら。
俺の知らないおやじと、母さんが、あの日、ここに居て笑い合っていた情景に思いを馳せながら。
――凜とした涼しさを伴った風が下の方から吹き上がってきてすり抜けた。
細かく折り重なりながら、大きく広げた古木の枝葉がざわめいた。
新緑の香りと、どこか懐かしい香りが混ざり合った、柔らかな空気の流れが男の身体を包み込むようにして尾根の高みの方へ流れていった。
鳥のさえずり。草木の下にひっそりと隠れている虫の声。遠くからかすかに聞こえる沢のせせらぎの音。いくばくかは混ざっているだろうと思われる滝の落ちる音。
ここでは、それらのものが、折り重なり、絡み合いながら、ひとつとなって、遙かな過去から遙かな先へと向かって長閑やかに流れていくのだ。
すべては、刻々と移りゆく陽炎の揺らぎにも似た時の積み重なりでしかなく、他には何も存在しない。
時の余韻をその肌で感じながら、知らず男の頬には一筋の涙が伝っていた。
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