悠久の栞

伽倶夜咲良

文字の大きさ
4 / 4

#4 連理木

しおりを挟む
 そんなことがあってから二年足らず、おやじも母さんのもとに逝ってしまった。
 もともと、仕事のことしか頭にないような、昔ながらの仕事人間だったおやじだったけれど、母さんが亡くなってからは、ますます仕事にこんを詰めていたような気がする。
 定年も過ぎて、再雇用に入ってるんだから、もうちょっと休んで、楽すれば。と、何度も言ったが、ああ、そうだな。と曖昧な空返事をするばかりだった。
 そんな無理がたたったのか、あまりにも突然だった。会社で倒れて、そのまま静かに逝ってしまった。
 あの夜、酔ったおやじが話してくれた母さんとの話も、頭の片隅に残っていて少し気にはなっていたのだが、あれ以来、おやじがその話をすることはなかった。俺も、その後何も聞こうとはしなかった。
 おやじの残したものを整理していて、いつか見たお菓子の缶が出てきたときには胸が詰まる思いだった。
 缶の中には、やはりあの地図が大切に収められていて、破れかけていた折り目は丁寧にセロハンテープで補強されていた。

 おやじの話してくれたあの場所に、必ず行こう。
 そう決意したのはその時だった。
 それから、その場所を詳しく調べ直して、今、すぐそばまで来ている。
 もう少しだ。

 ――そう思って、男は立ち上がった。
 ごろごろした小石が転がり、ところどころで大きめの石が地中からかどを覗かせている、そんな山道さんどうのごつごつした感触を足の裏で感じながら、男は目的地へ向かって進んだ。
 しばらく行くと、山道さんどうはY字に分かれ、少しまた登る感じで左に続いている道は、先を覗くと更に道幅が狭くなっているように見えた。山道の脇からはみ出した雑草も今までよりも長く被さっているみたいだ。おそらく、そちらの道はあまり人が通らないのだろう。
 Y字の分かれ目のところに立つ小さな案内板は若干傾いてはいたが、右へ下る道を指していて、顔を近づけて見ると滝の名前が書かれているのが読み取れた。山道はその先に続いている。
 わずかに、沢の流れる音が風にのって、どこからか聞こえてくる。

 まずは目的地だ。その後で、名所になっているという滝にも行ってみよう。
 そんなことを考えながら、男は、滝に続く道を進んでいった。
 進むにつれて沢の音は少しずつ大きくなっていく。
 しばらく進んだところで、また左に入る小道があって、そこに立つ案内版には避難小屋と書かれていた。
 男は迷わず左の道へ進んだ。

 ここだ!とうとうやって来たのだ。

 男は、その場所をしげしげと眺め入った。
 そこは、山道の脇の林を切り開いたように不自然に空き地のようなスペースができあがっている場所だった。しばらく人が来ていないのか、向こう脛のあたりまで長く伸びている雑草もちらほらと見えた。
 小屋は、思っていたよりも小さかった。ほんとに一時的な避難で使う程度の広さしかなかった。
 何組もは同時に泊まることはできないだろう。宿泊用ではないのだから、当然か。
 それに、経年の劣化が相当に進んでいるようにも見えた。一応、管理はされているようだが、無人の施設だ。
 おやじと、母さんが訪れたという日からは、かなりの歳月が過ぎている。おやじたちが泊まった時は、もう少しましだったかもしれない。そうであって欲しいと思った。
 どちらにしても、この場所に間違いはない。確信した。
 目の前には、大きな古木がまわりの木々とは一線を画すようにして上へ伸び、枝葉を大きく広げている。
 その木は、予想以上に大きかった。
 男は、その大木の元へと雑草の中を分け入っていった。その幹は確かに根元のすぐ上のところで、二本に分かれている。元々は二本の独立した木だったのだ。
 上に伸びるにつれて、絡み合い、見ようによってはお互いが支え合うようにして、一本の巨木となって大きく枝を広げ、下から見上げるものにとっては、空全体を覆うほどにさえ見えた。
 男は、その存在の威圧感をひしひしと感じていた。そっと手で触れてみる。厚く、細かくひび割れざらついた樹皮はどこか優しく、この古木がこれまで生きてきた時間の流れが掌から沁み込んでくるようだった。
 
 ――おやじと、母さんもこうして手を触れたのだろうか?
 この古き連理木れんりぼくの前で、笑顔ではしゃいでいる母さんと、おやじの姿が見えてくるようだった。この男女の深き絆を象徴すると言われる古木は、どのくらいの年月をこの場所で生きてきたのだろうか?その計り知れない年月の間のほんの一瞬に、おやじと、母さんは立ち会ったのだ。

「この連理木のいわれのとおり、二人はその人生を終えるまでいっしょに支え合って共に過ごすことができました。父は母が亡くなった後も、母のことを想って生きました。二人とも幸せだったと思います。
 ……ありがとうございました」
 思いがけず、意識もしないままに、この古木へのお礼の言葉が口を衝いて出た。

「俺も将来を共にする女性が現れたときには、おやじと、母さんのようにまたここに来たいと思います。

 おやじ、母さん、いいだろう。そうしたいんだ」

 ――男はそうつぶやいて、何かの影を目で追うようにゆっくりと振り向いて、小屋の方に目をやった。
 あの日の父と母が、笑みを交わしながら小屋の中に入って行く姿が見えていたのかもしれない。

 ――小屋の中に残したという母さんとおやじのメッセージを記したノートはさすがにもう残っていないだろう。
 だけど、後で小屋の中もひととおり見せてもらおう。もしかしたら……そんな想いもわずかながらに心の内にある。
 でも、今はこうして、もう少しだけここにこうしていよう。古木の大樹の傍らに佇んでいよう。
 あの夜、酔っ払いながら母さんのことを話していたおやじのことを思い出しながら。
 いつも、おやじのそばに寄りそうようにしていた母さんの笑顔を思い出しながら。
 俺の知らないおやじと、母さんが、あの日、ここに居て笑い合っていた情景に思いを馳せながら。

 ――凜とした涼しさを伴った風が下の方から吹き上がってきてすり抜けた。
 細かく折り重なりながら、大きく広げた古木の枝葉がざわめいた。
 新緑の香りと、どこか懐かしい香りが混ざり合った、柔らかな空気の流れが男の身体を包み込むようにして尾根の高みの方へ流れていった。
 鳥のさえずり。草木くさきの下にひっそりと隠れている虫の声。遠くからかすかに聞こえる沢のせせらぎの音。いくばくかは混ざっているだろうと思われる滝の落ちる音。
 ここでは、それらのものが、折り重なり、絡み合いながら、ひとつとなって、遙かな過去から遙かな先へと向かって長閑のどやかに流れていくのだ。
 すべては、刻々と移りゆく陽炎の揺らぎにも似た時の積み重なりでしかなく、他には何も存在しない。
 時の余韻をその肌で感じながら、知らず男の頬には一筋の涙が伝っていた。


(了)
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

借金した女(SМ小説です)

浅野浩二
現代文学
ヤミ金融に借金した女のSМ小説です。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...