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化生の群編

千夏の夜襲(その2)

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「じゃあ早速」
「あっ! 待って待って!」
 浴衣の襟を持って引き剥がそうとしてきた千夏ちなつを、結城ゆうきは寸でのところで制止した。
「何だ? あっ、そうか。あたしの方から脱いで欲しいんだな?」
「ち、違う違う!」
 今度は自身の浴衣を掴んで脱ごうとした千夏を、結城はまた大慌てで止めた。
「そもそも僕はそういうことするって了承してませんよ」
「あン? この期に及んでそんな玉なし野郎なこと聞いて、はいそうですかって引き下がると思ってんのか?」
 結城の言葉に少し機嫌を損ねたのか、千夏は片手で結城の首を軽く締め上げた。
「うぐぐ、で、でもこんないきなりなんて……」
「別にあのお堅い女神サマだって、そういうの禁止してるわけじゃないんだろ? だったらここであたしに『喰われて』童貞捨てとけよ」
「うぅ~、けどこういうことは大事な時に取っておいた方がいいっていうか……」
「なんだよ、その一昔前の生娘きむすめみたいな言い草は。それともあたしじゃ不満だってのか?」
「そ、そういうことじゃ、ないですけど……」
 結城も何度か千夏のボディラインを見てしまったことはあるが、決してスタイルが悪いということはない。アテナと違って少し筋肉質で引き締まった肢体は、さながら美人のアスリート選手といった感じだった。そしてバランスを崩さない程度に出るところが出ているので、常に豪快で溌剌はつらつとした雰囲気と相まって、全身から健康美が溢れていた。
 屈託なく笑った際に見える八重歯や、緑なすセミロングの黒髪も魅力的であり、言動の激しさを除けばアイドルと言われても疑わないだろう。
 そんな千夏に迫られれば、女性経験のない結城はなおのこと理性が危うくなってくる。実際、千夏にマウントポジションを取られてからというもの、結城の心臓は早鐘を打ちっぱなしだった。
「じゃ、別にいいよな。安心しろ。何も二十発や三十発やれってわけじゃないから。五、六発くらいで勘弁してやるからよ」
「ちょっ! 待っ!」
 いよいよ迫ってこようとする千夏に、結城はうまく言葉を出せなくなってしまった。
 結城自身もよく分からない感情が、脳内を忙しなく暴れまわる。これから行われようとしている行為に対して、緊張と興奮、恐怖と不安が内側を駆け巡った。
 似たような展開なら何度か遭うこともあったが、これだけ危険な状況は過去にない。心の準備ができていない状態で事が起ころうとしている中、
「なんでそんな簡単にできるんですか!」
 緊張から来る増幅された心拍で混乱した結城の思考は、躊躇なく行為に及ぼうとする千夏への疑問を喋らせた。それを口にした後の変化を目にした結城は、別の意味で困惑することになった。
 結城に迫っていた千夏の動きが止まり、少し驚いた表情で結城の顔を見つめていた。正確には結城ではなく、どこか遠い場所を見ているような目だ。
 それを見ていた結城はハッと気付いた。もしかしたら千夏の触れてはいけない部分を突いてしまったのかもしれない、と。その場しのぎで出てしまった言葉が、その人にとっては核心に迫る痛烈な一言ということもある。
「ご、ごめんなさい、千夏さん」
「? なんで謝るんだ?」
 千夏を傷つけてしまったと思った結城は、すぐに謝罪しようとしたが、当の千夏はきょとんとして首を傾げた。
「その、千夏さんの気に障ること言っちゃったと思うから……」
「気に障る? いや、ちょっと昔のこと思い出しただけなんだけど」
「え?」
「簡単に、かぁ。言われてみれば、割とあっさりした理由でやり始めて、今まで人間を『喰って』きたんだなぁ~、って」
「あ、あの、よく分からないんですけど……」
 千夏が昔のことを思い浮かべているというところまでは結城にも想像できたが、千夏がどういう心情になっているのかがうまく掴めなかった。たまたま出た言葉が、一体千夏の何に触れてしまったのか。
「お前ら人間からしたら、解りにくいことなのかもな……じゃあちょっと寝物語でもしてやろうか?」
 結城の困惑を慮ったのか、千夏は結城の上から左隣に移動し、添い寝する形になった。
「あたしの先祖が京都の大江山で幅を利かせていた鬼神、酒呑童子しゅてんどうじだってことは話したよな?」
「へ? いえ、単に鬼の子孫だってことしか……」
「あれ? 話してなかったか? まぁ、いいか。ともかく、あたしたち四姉妹は酒呑童子から数えて孫か曾孫くらいに当たるらしい。物心ついたのが五百年前……いや、六百年だったか?」
 布団に横たわりながら、空を見上げて記憶の糸を手繰る千夏。その間も、左手は結城の肩をがっしり掴んでいるので、結城は隙を見て逃げるということもできなかった。
「あたしたち鬼の一族は生まれてすぐに目も見えるし、立って歩くことだってできる。言葉もそれなりに解る。あたしたちが目を開けて最初にいたのは古びた山寺だった。周りに女四人と鬼一体の死体があったから、それがあたしたちの親だったんだろうな」
 それを聞いた結城は顔をひそめた。詳しい事情まで察することはできないが、千夏たちの両親は生まれた時点で故人となっていたのだ。それも事故や病死ではなく、もっとおそましい経緯で死することになったに違いない。そう思うと、千夏の生い立ちは生まれた時点で結城の想像を絶していた。
「そんな顔するなよ。今はもう気にしてないって」
 結城の表情から気持ちを察したのか、千夏は八重歯を見せて笑った。
「それに腹の中にいた時も外の話がちょっと聞こえてたけど、親父もけっこうなワルだったみたいだし。時代が時代だから鬼の子を孕んだ女が殺されるってのも、あっておかしくないもんだったんだよ。仕方ないことってもんさ」
 特に感情的にもならずに、あっけらかんと話す千夏の態度に、結城はわずかに毒気を抜かれた気になった。それでも、当時の世情で犠牲になった者たちと、その犠牲を強いた者たちへの感情が無くなるわけではなかったが。
「その後はもうお定まり。昔話によく出てくる悪い鬼とほとんど一緒だったな。峠や街道を通る旅人を手当たり次第にぶっ殺して、食い物や金目の物をぶん盗ってた。人間なんてあたしたちから見たら、そこらの羽虫を千切って捨てるのと同じくらい脆かったからな。素手で襲い掛かるだけで充分だった」
 あまりに普通に物騒なことを語る千夏に、結城は先程のわだかまりとは違うものが湧き立ってくるのを感じた。千夏が話しているのは、絶対に一度や二度程度のことではない。果たしてどれほどのむくろの山を築いてきたのか、結城には思い浮かべることはできなかった。
「そんな生活を五十年くらい続けた頃かな。千春姉が人間を殺さないで持って帰ることが何度かあったんだ。何日かすると死体になって捨てられてんだけど、その間何してるのか気になってさ。千秋ちあき千冬ちふゆと一緒に覗きに行ったんだよ。そしたら千春姉が人間とヤってたんだ」
 千夏は右拳の人差し指と中指の間から親指を出して見せた。いわゆる、そういう行為を表すジェスチャーだった。
「その時はよく分からなかったけど、千春姉が凄い愉しそうな顔してたもんだから、あたしたちもやってみようってことになった。で、襲った人間で気に入った奴は持ち帰るようになったんだ。最初の頃は微妙な奴多かったな~。即行で首を引っこ抜いてた。それからは気に食わない奴はさっさとぶっ殺して、気に入った奴は生かしておくことにしたってわけさ。まっ、大抵三日か四日したら死んでたけどな」
 他愛のない世間話をするように、あまりにも残虐な話を、千夏は語り続けた。
 聞く者が聞けば到底信じられない、あるいは背筋が震え上がる内容を、結城は意外なほど静かに聞いていた。
 千夏やその姉妹たちの過去や所業があまりに突飛過ぎて追いていけない、という部分もあったかもしれない。ただ、それとは別に結城には既視感があった。媛寿たちと生活するようになって、ほんの時々感じているものと同じだった。
 人と、人ならざる者との間にある明確な違和感。言葉で表すならば、思考や論理といったものだろうか。人が虫の考え方や習性を全て理解できないように、人ならざる者の考え方は、なおのこと人には理解の及ぶ範疇にない。
 結城は媛寿たちと良好な関係を築けているが、時折、人とは違う価値観を見ていると感じることがあった。それ自体は些細なことであり、気にするほどでも悩むほどでもない。
 しかし、いま結城が感じているものは、その違和感を何十倍にも大きく膨らませた、まるで異空間を覗いている気分だった。人という存在を破壊し、弄ぶことに何の感慨も持たずに過去を話す千夏は、正真正銘の人ではない者、鬼であるという事実をまざまざと見せ付けていた。
「いま考えると、あたしたちも結構ワルなことしてたもんだよ。なっ? あっさりした理由だろ?」
「じゃ、じゃあ僕に変なことする必要もないんじゃ……」
 千夏の話を要約すると、興味本位で始めたことが続いているに過ぎないというものだ。ならば、わざわざ冴えない自分を襲う理由もないはず。そう思った結城だったが、千夏は鼻先が触れ合うほどに、顔を結城に近付けてきた。
「説明が足りてなかったみたいだな? お前ら人間と違って、あたしたちみたいなのは寿命の桁が違うんだよ。言ってみれば、暇で暇で仕方ないわけだ。そういう時、ナニで暇つぶしすればいいかって……分かるだろ?」
 再び妖しい光を灯した眼になった千夏は、結城の頬を右手で優しく撫で擦った。千夏の力を知っているだけに、その壊れ物を扱うような撫で方が逆に恐ろしくなる。
「それに、適当な料理ばっか食ってても満足しないように、適当な奴ばっか『喰って』も満足するわけじゃないんだよ。やっぱ気に入ってる奴を貪って、とことん可愛がってやらないと欲求不満で仕方ないんだ」
 にやりと破顔して見えた千夏の八重歯は、下の歯と涎の糸で繋がっていた。その様は、獲物を前にした空腹の猛獣を思わせた。
「そ、それならやっぱり僕は不適当じゃないかと」
「ん~、まぁ確かに特別顔が良いってわけじゃないし、コッチもそんなに立派でもないし」
「わひゃっ!?」
 千夏に下腹部をまさぐられて、結城は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。例の特別なこうのおかげで、他の四人は全く目を覚ましてくれない。非常にピンチである。
「けど人ならざる者あたしたちからすれば、妙に気になるんだよな。その女神サマたちがお前を気に入ってるのも、似たような理由じゃないのか? もっとも、あたしはそんなお前をぐっちゃぐちゃに汚してやりたいって気分になるわけだがなぁ」
 結城の顔に息がかかる距離で、千夏は上唇を舐め上げた。
 力では到底かなわず、一緒の部屋の四人も眠りから目覚めないとなれば、もはや結城は千夏にとことん『喰われて』しまうほかない。
 結城の脳裏に『これはヤバい!』という思いが渦を巻く。今までもシロガネあたりにアブない目に遭わされそうになったが、そこは何とか最期の一線は回避してきた。
 しかし、今回だけは避けられないかもしれない。あるいは、これが童貞卒業の運命だったと、千夏にどこまでも貪られることを良しとするか。鬼の末裔とはいえ千夏も相当な美人なので、それもアリかもしれないと結城は思い始めていた。
「さぁて、寝物語はこれで終わりだ」
 千夏は体勢を変えて、再び結城のマウントポジションを取った。両肩を抑えられ、下腹部は千夏の腰が落とされているので、いよいよ逃げられる状況はなくなった。
「時間はたっぷりあるからな。じっくり愉しもうぜ、結城」
 千夏の手が結城の浴衣にかかる。予想だにしなかった展開だが、ついに童貞を喰われてしまうのかと、結城は諦めたように緊張で力を入れていた腕を弛緩させた。
 その際に握っていた右拳が開かれ、伸びた指が何かに触れる感触があった。そして、それは勢いよく結城の手を握り返してきた。
「!?」
 右側を見ると、結城の方を向いて眠っていたアテナの右手が、結城の右手をがっしりと掴んでいた。
「あっ!」
 その時、結城は今の今まで忘れていたことを思い出した。緊張ばかりですっかり頭から抜け落ちていたが、アテナには眠っている時に出る癖があった。基本的に寝相は悪くないアテナだが、ほんの時々、その癖が発揮されることがある。
 それは眠っている際に誰かに触れると、無意識に寝技をかけてくるというものだった。しかも既存の寝技と異なり、説明の難しい不可思議な寝技を使ってがっしりホールドされるため、一度捕まれば一晩中放してもらえない。
 あくまで稀に出る癖のため、無闇に触れなければ掴まることもないので、それほど警戒すべきものでもない。が、この局面において、その稀な癖が出てしまったらしい。
「ほわぁっ!」
 アテナに右手を掴まれた結城は、千夏の拘束を撥ね退ける勢いでアテナの元に引っ張り込まれた。
「うわっ!」
 結城が引っ張られた勢いに弾かれ、宙を一回転した千夏は、隣の媛寿えんじゅの布団に墜落した。
 さらに千夏が落ちた衝撃で、今度は媛寿が宙に飛び上がり、何の因果かその隣で寝ていたマスクマンの口に頭がすっぽり収まって逆立ち状態になってしまった。
「Nga……」
 マスクマンは短く呻いたが、香の効果があるためにそのまま眠り続けた。同じく媛寿もマスクマンの口に頭を突っ込んだシュールな格好で、すやすやと寝息を立てている。
 そしてアテナに絡め取られた結城はというと、先程とは別の意味で危険な状態になっていた。
 静かな寝息を立てて眠り続けるアテナは、右腕で結城の左腕を後ろに極め、左腕で結城の首をホールドし、両脚は結城の膝裏に引っ掛けて締め上げるという三重の寝技を完成させていた。
 ミシミシと体が悲鳴を上げる一方で、結城はアテナの胸の谷間から何とか抜け出そうともがいていた。しかし、見事に極まった技から抜け出せるはずもなく、それどころか首を抑え込んでいる腕はより絞まっていく。なので浴衣が着崩れたアテナの胸により深く埋もれる形になってしまうわけだが、頭が沸騰しそうになりながら、呼吸ができずに焦燥感だけが大きくなっていた。
 このまま鼻血を噴くか、呼吸困難で気絶するか、寝技に体が負けてしまうか。迫られた三択は、すでに千夏に襲われかかったことすら忘れさせてしまった。
「ぷぎっ!」
 選択肢を選んでいる暇もなく、結城の意識は呼吸困難と寝技のダブルパンチで掻き消された。締め上げられていた体からふっと力が抜けるが、アテナは技をかけたままで離す様子はない。
 それを見ていたた千夏はゆっくり立ち上がると、乱れた浴衣を丁寧に直した。
「これじゃ今夜はもう無理だな……」
 アテナの力は何度も勝負している千夏がよく知っている。この分ではアテナは結城を離しそうもなく、当の結城は完全に気を失ってしまったために、続きはできそうもない。そう判断した千夏は、今回はおとなしく引き下がることにした。さっと香炉を回収し、結城たちの部屋を後にする。
 廊下に出た千夏だったが、なぜだか廊下には信楽焼しがらきやきの狸が五、六体並んでいた。
 それを見た千夏は、鼻だけで小さく溜め息をついた。
「狐が狸に化けてどうするんだよ」
 千夏と結城が一戦交えるところを観覧に来た、一懇楼いっこんろうの女中たちだった。

「ふはっ!」
 体の力が一気に抜けた千冬は、そのまま背中を反らせて温泉に飛び込んだ。
 すでに客の出入りのほとんどなくなった露天風呂は、盛大に飛沫を上げても文句を言う者もいない。いまその場を利用しているのは、桜一郎おういちろうと千冬の二人きりだった。
「ち、千冬、今日はここまでにしておこう。流石に自分も連日は厳しい」
 露天風呂の縁石にもたれながら、桜一郎は肩で息をしていた。
「ぷはっ! もう一回、もう一回だけお願いします、桜一郎さん。まだ、落ち着かないんです」
 温泉の水面に上がってきた千冬もまた、縁石に掴まりながら息を荒くしている。ただ、千冬については疲弊から来る類の息の乱れではない。
「こ、この仕事に入ってからいったい何回していると……鬼でも体力が保たなく……」
「本当に、本当にあと一回だけですから!」
 二人が進退で揉めていると、露天風呂と内風呂を仕切る扉が開き、新たな客が姿を現した。
「なんだ、お前らここでお愉しみかよ」
 右手に手ぬぐい、左手に一升瓶を持った千夏だった。
「あっ、千夏姉さま」
 千夏の姿を認めた千冬はパっと表情を明るくした。
「ち、千夏。千冬を説得してくれ。そろそろ自分も限界で……」
「……」
 現れた千夏に桜一郎は救援を求めるが、当の千夏は温泉に浸かる二人をじっと見つめている。
「千冬、お前桜一郎こいつと付き合ってるのか?」
「いいえ、体だけの関係です」
 千夏の問いに、あっさり即答する千冬。それを聞いた千夏はさっと掛け湯をして湯の中に入ってきた。
「じゃああたしも混ぜろ。ちょうどイイところで邪魔が入って欲求不満だったんだよ」
「なっ!?」
「いいですよ。千夏姉さまと久々に二人攻めですね」
 とんでもない発言に声を失った桜一郎だったが、千冬はむしろ愉しみが増えたように良い笑顔を見せていた。
「ま、待て。自分はもう限界だと―――」
 桜一郎が意見する前に口が塞がれ、再び露天風呂で飛沫が跳び始めた。
 その様子を別の女中たちが覗いていたわけだが、後で結城たちの部屋に行った組に羨ましがられたのは言うまでもない。

 翌朝、午前六時きっかりに目を開け上半身を起こしたシロガネは、部屋の有様を見て首を傾げた。結城はアテナに絞め落とされ、媛寿はマスクマンの口に頭を突っ込んで逆立ち状態で眠っているという光景があったからだ。
「……ナニ、コレ?」
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