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豪宴客船編

突然の訪問者その2

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 一体いつから部屋に侵入していたのか。その前になぜクイーン・アグリッピーナ号に乗っているのか。
 問いただしたいことは山ほどあるはずなのだが、それよりも結城ゆうきはベッド脇に座るキュウの姿に目を丸くしていた。
 キュウは金毛稲荷神宮こんもういなりじんぐうで会う時の巫女装束ではなく、漆黒のチャイナドレスを着こなしていた。スリットは太腿どころか腰ギリギリまで入っている上、両脇にも大きな切れ込みがあり、肌色の比率がかなり多い仕様になっている。
 おかげでキュウが脚を組みかえるだけで、結城は鼻血を吹きそうな状況になっていた。
「ど、どうしてここに!?」
 直視していると本当に鼻血を吹きそうなので、結城は顔を背けつつ聞いた。
「この船には~、毎年乗ってるんですよ~。と~っても楽しいことが~、た~っくさんありますからね~」
 扇で口元を隠しながら、キュウはくすくすと含み笑いをした。まるで結城の反応を愉しむかのように。
「ま、毎年!? この船って悪い人たちが悪いことしてるはずですけど!?」
「そうですよ~」
「わっ!」
 顔を背けていた方向に、いきなりキュウの姿が現れ、結城は驚きの声を上げた。
「そういう人間の~、どろっどろした欲望は~、九尾の狐わたくしの大好物なんですよ~?」
 前かがみになって結城に迫ってきたキュウの顔が、一瞬狐の形相になり、結城は心臓を鷲掴みにされたような感覚をおぼえた。少しでも気を抜けば、心臓もろとも魂を引きずり出される気がしていた。
「な~んちゃって」
 にこっと笑ったキュウの顔は、いつもの美貌に戻っていた。同時に結城は締め付けられたような感覚からも解放された。
「私の目的は~、この船のパーティーなんですよ~」
「え? パーティー?」
 キュウが意外にも普通の目的を口にしたので、結城は何か拍子抜けした。
「時々ですね~、パーティーがあるって聞くと~、お邪魔させてもらうことがあるんですよ~。懐かしくなっちゃって~」
「懐かしい、ですか?」
「はい~。もっと若い時に~、世界中を旅行してた時期があったんです~。それでいろ~んな国のパーティーにお呼ばれしてたんですよ~」
(……一体いつ頃のことなんだろう)
 アテナたちと同様に、相当な年数を生きているであろうキュウの言う『若い時』というのは、おそらく想像できないくらい大昔なのだろうと結城は思った。
「美味しいお酒もたくさんありましたし~、美男美女が歌って踊って~。あ、そうそう~。結城さん、この船の裏のパーティーのことも知ってますか~?」
「え? 裏のパーティー!?」
 それを聞いた結城は、恵比須えびすの言っていた人身売買のことを思い出した。この船ではそういった闇の取引が行われているのだ。それらを摘発するための証拠を掴むのが、今回の結城たちの依頼内容だった。
「その様子だと~、知らなかったようですね~」
「裏のパーティーって、何があるんですか?」
 もしかしたらキュウが重要な情報を持っているかもしれないと、結城は食い入るように聞いた。
 話に興味を持たれたのが嬉しかったのか、キュウはにんまりと笑いながら、結城を小さく手招きした。耳を貸せ、ということだ。
「ら、ん、こ、う」
「………………え!?」
 耳を傾けていた結城は、数秒ほど何を言われたのか理解できなかったが、意味が解ったところで顔を赤くして驚いた。
「『第2遊戯室』っていうところで~、二十二時からあるんですよ~。他にはナイトプールも~、そういうことのために解放されてますよ~。結城さんは~、どっちがいいですか~?」
「え!? え!? え~!?」
 結城はいよいよ頭の中が沸騰し、思考がこんがらがってきた。確かに恵比須からその手の情報ももたらされていたが、実際にすぐ近くでそういったことが行われていると知ってしまうと、結城としてはひどく落ち着かない気持ちになってしまう。
 小林結城、二十五歳。童貞である。
「この船での~、楽しみの一つなんですよ~。これからご一緒にどうですか~?」
「え……あ……いや、その……」
 しどろもどろになって言葉に困っている結城を、キュウはさらに面白そうに目を細めた。
「でも~」
 キュウは流れるような滑らかな動きで、結城のすぐ横に座った。腰と腰が当たるほどの距離だ。
「別にそういうところに行かなくてもいいんですよ~。たとえば~……今ここで、とか」
 すっと伸びてきたキュウの手は、結城の蝶ネクタイをあっさりと取り去り、空いている手はいつの間にか結城の手首を掴んでいた。
「はっ……え!?」
 結城が気付いた時には、すでにがっちりと手首を押さえられ、ベッドから立ち上がれなくなっていた。
「だめですよ~、結城さ~ん? 狐を前に油断してたら~、あっさり化かされちゃいますよ~? もう手遅れですけど~」
「え!?」
「さっきコレで仰いだ時に~、もう術中にはまっているんですよ~?」
 キュウはファーの付いた扇を広げて、結城の額をひらひらと仰いだ。
 結城はその時のことを思い出してはっとした。あの時にもう何かの術をかけられていたのだと。
「そろそろ体の力が抜けて~、起きていられなくなりますよ~」
 言われて結城は確かに体が重くなってくるような気がした。まるで長距離マラソンをした後の強烈な疲労感に見舞われているようだ。
「目蓋も重くなって~、眠くてしかたなくなってきてますよ~」
 結城は抗いようのない睡魔に襲われ、目を開けていられなくなってきた。キュウの言ったことが、全て結城の身に降りかかってくる。
「ほ~らほら、もう眠気に耐え切れなくなって~」
「あ……うぅ……」
 力なくベッドに倒れこんだ結城は、もう自力で抵抗することは不可能だった。何も考えることができないほどの強力な眠気に押しつぶされ、体は鉛のように重くなって指一本動かせない。
 眠りの世界からの甘美ないざないは、結城の意識を夢の中に沈みこませていった。あとには穏やかな寝息だけが残った。
「……本当に眠っちゃいましたね~。冗談だったんですけど~」
 実はキュウは特に何の術もかけていなかった。結城が眠ってしまったのは、単純に一日の疲労によるものだった。
「まぁ、眠ってもらえたなら好都合~♪」
 キュウは上唇を軽く一舐めすると、結城の胸板から下腹部にかけてを、じっくりゆっくり形を確認するように撫でまわしていった。そうしている間に、九本の尾が徐々に露になっていく。
「結城さんがいけないんですよ~。狐の前でこ~んな無防備に眠っちゃうから~」
 九本の尾を静かにはためかせ、キュウは結城の顎からこめかみまでをベロリと舐めた。
「眠っちゃってるなら~、好きにしちゃうんですよ~」
 キュウは身を起こすと、身に着けていたチャイナドレスをするりと脱ぎ、床に音もなく放り投げた。眠る結城を見下ろす目には、か弱い小動物を追い詰めた時の爛々とした輝きが宿っている。
「それでは、いただきま~す」
 裸身で結城に覆い被さろうとするキュウ。
 しかし、キュウの唇が結城に触れようとした時、部屋のドアがノックされた。
「今すぐ鍵を開けるなら、このドアを壊さずに済みます。早々に開けなさい」
 ドアの向こうにいる人物は、そう言うと再びノックした。
 キュウは『ふぅ』と残念そうに溜め息を吐くと、右手の人差し指で宙をすっと撫でた。するとドアの鍵がひとりでに開いた。
 開錠したドアから入ってきたのは、やはりアテナだった。中の状況に見当がついていたのか、眉根を寄せて不機嫌そうにしている。
「もぉ~、イイところでしたのに~。こういう時は無粋な真似はしてはいけないものですよ~。たとえ神様でも~」
「むしろ良からぬことをしようとしていたでしょう。怪しい気配を感じて来てみれば案の定」
「結城さんは~、わたくしも好みだと言ってくれましたよ~。すでにOKでしょ~」
 キュウは両手を頭の後ろに回して胸を前に出した、悩ましげなポーズを取って見せた。普通の男ならそれだけで悩殺されているところだが、あいにく見ているのは顔をしかめたアテナだけだった。
「寝込みを襲おうとしていた時点で問題です。私の戦士に魔手を伸ばすのはやめなさい」
「相変わらずイケズですね~、アテナ様は~。良いではないですか~。減るのは結城さんの体液だけなのですし~」
 釈然としない面持ちで、キュウは結城の下腹部をさわさわと撫でた。
「その手をどけなさい。何も結城にこだわる必要もないでしょう。あなたも千夏ちなつも」
「……それをあなたが言いますか?」
 警告通りに手をどけたが、キュウはアテナの物言いが面白くなかったのか、非常に訝しげな目を向けた。
アテナあなただけでなく、媛寿その娘も、マスクマンあの精霊も、シロガネあの九十九神も、本当にこだわる理由がないなら共にいるはずなどありませんよ。それこそ、袖擦り合う縁程度で終わっているはずです。しかし、そうはなっていない」
 キュウはいつになく真剣な眼で、結城の額にそっと右手を置いた。
「才気に溢れ、運気に恵まれ、そうして大成し歴史に名を残す者は、世を見渡せばいくらでもいます。けれど、結城この方はそうではない。才気も運気もないにも関わらず、多くの神霊が引かれてやって来る。それはなぜか?」
 アテナはキュウの話を遮ることなく聞いていた。癪ではあるが、キュウに言葉の主導権を取られてしまっている以上、最後まで言い分を聞くしかない。
「ひとえに、『珍しい』から。凡人ですら持ち得て当然のものも持ち合わせず、しかして『縁』だけは持っている。それも神霊や妖怪変化を引きつけてやまない。それらの存在に何ら臆することもない。まるで隣人に接するように。これほどの者になると、さぞや珍味が味わえそうではないですか。たとえ神様を敵に回したとしても、味を確かめてみたいと思いますよ」
 結城の額に置いていた手が、少しずつ獣のそれへと変化していた。合わせてキュウの顔もまた、元来の姿、狐の面貌に変わりつつあった。
「では、戦女神わたしを敵に回して結城に手を出しますか?」
 キュウの様子を見て取ったアテナは、静かな声で言い放ったが、声音とは裏腹にその身は異様な迫力が漂っている。テーブルに置かれたグラスが、小刻みに震え出すほどに。
「まっさか~、そ~んなことはしませんよ~」
 両手を軽く上げてお手上げのポーズをしたキュウは、いつの間にか美女の姿に戻っていた。
「ムードもなくなっちゃいましたし~、今回は引き揚げさせていただきます~」
 ベッドから立ち上がり、右腕を一振りすると、キュウの体は脱いだはずのチャイナドレスに包まれた。
「それでは~、おいとましま~す」
 扇で口元を隠してくすくすと笑い、キュウはドアに向かって歩いていった。
「あっ、そうそう~」
 途中で何かを思い出したのか、キュウはアテナに振り返った。
「アームレスリング大会優勝、おめでとうございます~。何人の腕をへし折りましたか~?」
「……三十三人です」
「それはそれは~」
 再びドアに向き直ろうとしたキュウだったが、背中を向ける頃には姿がおぼろげになり、やがて霧のように消えてしまった。
 キュウが消えた後も、アテナはしばらくドアを見つめていた。
(油断も掴みどころもない狐です。ニホンにはあのような者までいるとは。オリュンポスの神々でも、あの者の口先だけで脚をすくわれるかもしれません)
 神に匹敵する実力を秘めたキュウへの危惧を新たにしたアテナは、手に持っていた優勝トロフィーをテーブルに置くと、結城の部屋のバスルームへと入っていった。
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