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豪宴客船編

古の闘い その4

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 吹き荒れていた塵芥ちりあくたがようやく落ち着き、対峙するアテナと楠二郎くすじろうの姿が現れた。
 アテナは額から血を流しているが、楠二郎は血の痕はあれど、全くの無傷。
 しかし、冷静な表情でいるアテナとは対照的に、楠二郎は驚愕に目を見開いていた。
「避けた素振りもなかった……なのに平然とあんな技を返してきただと……いったい何しやがった」
「避けてなどいません」
「なっ!?」
「避けることがかなわぬなら、受けてしまえば良いだけのこと」
 あっさりとそう告げたアテナに、楠二郎はより驚きを隠しきれない。
「『スマイ』は武術であると同時に神事でもある。言うなれば神に捧げられる供物も同じ。供物である以上、女神わたしはそれを無意識に受け入れようとしてしまう。故に否応いやおうなく反応が遅れる。まさに神に届く戦技と言えます」
(……バレたか)
「それで避けなかっただと? だったら何であんたは平気な顔して……!」
 そう言いかけた楠二郎は、そこで重大な見落としに気が付いた。右拳を叩き込んだはずのアテナの左頬は、あざはおろか何の痕も負っていなかった。
「まさか……」
「初めて使いました。『リュウスイ』を」
 流水。相手の力に逆らうのではなく、あえて身を任せることで変幻自在に力の主導権イニシアチブを取る、武術における奥義の一つ。
 楠二郎の角力すまいが回避困難と判断したアテナは、これを用いて返し技を放ってみせたのだった。
「いや、それでも一切くらわないわけがねぇ。俺の拳は確かにあんたをとらえていたはず……」
「あなたのスマイはあなたにしか扱えない。すなわち究極の我流。なればこそ、あなたの呼吸、癖、拍子が最も色濃く表れる」
 それを指摘された楠二郎は、アテナが持つ実力を察して驚嘆した。角力すまいに切り替えてからの一連の流れを思い出し、アテナがどんな戦法を見出したのかを。
「あんたは……あの時に!?」
「あなたが繰り出す技の特色を掴むため、あえて受ける必要がありました。少々時間がかかりましたが」
 楠二郎が見舞ったかかと落としからの連続投げを、アテナは技の特徴を掴むために無防備で受け続けていた。その成果が、楠二郎の技を見切り、流水を通して返し技を打つという絶技となったのだ。
「……どうやら俺はあんたを侮ってたようだ。まさかあれだけの攻めを耐え抜いて、反撃するための手段に繋げてくるとは……」
 アテナの潜在力を垣間見た楠二郎は、感服したのか表情から驚きが消え失せ、とても穏やかなものに変わっていた。
「だが! それだけで俺は負かされねぇ!」
 穏やかな様子から一転、楠二郎は今度はタックルに似た半身はんみの突進でアテナに肉薄する。
「っらぁ!」
 前面に出した左半身から、加速と体重を乗せた前蹴りを打ち出す。狙うはアテナの右第10肋骨。
 やはりアテナは避けることなく、流水を駆使して蹴り足を受け、力に身を任せる。同時に、楠二郎の足首と脹脛ふくらはぎを掴んだ。今度は足をじ曲げようというのか。
「まだだ!」
 アテナが楠二郎の足を掴んだ瞬間、楠二郎の残った右足が跳んだ。アテナが左足に気を取られているすきに、アテナのこめかみに蹴りを叩き込む算段だったのだ。
(入る……!?)
 アテナの側頭を蹴ると確信した楠二郎だったが、途端、体勢が大きく崩れた。蹴りが入るよりも速く、アテナは楠二郎の左足を持ったまま、下方に大きく屈んだからだ。
「おわっ!」
 右の蹴りが外れ、楠二郎は宙でアテナに背を向ける格好になってしまった。
 そこを逃さず、アテナは楠二郎の足を離し、背中から抱きすくめて前で手を固く結んだ。
「ぐ!? ぐおああ!」
 楠二郎の肋骨は両腕もろとも、プレス機に挟まれたような圧力で締め上げられる。アテナの背面からのベアハッグに、肉と骨が音を立ててきしむ。
「うっ! うおあ!」
 両腕を封じられていた楠二郎は、持てる力で地面を蹴り込んだ。楠二郎を抱きすくめていたアテナごと宙に浮き、そのまま背中から落下していく。
 またもアテナは地に叩きつけられる前に離脱し、楠二郎も受身を取って衝撃を緩和する。
 その後も互いに隙を見せることがないよう、素早く構え直して対峙した。
「分かったろ? あんたの技も大したモンだが、俺はそれだけじゃ倒れねぇよ」
 呼吸を整えつつ不敵に微笑わらう楠二郎の両腕からは、先程のアテナが締め上げた痣がすっと消えていった。
「俺に勝つってんなら、それこそ俺の首を取らねぇとな」
 首筋を手刀で軽く叩き、楠二郎はアテナを挑発する。だが、当のアテナは落ち着いた顔で口を開いた。
「その復元力ちから、傷は癒せても痛みまでは消しきれていない。違いますか?」
「!」
 挑発していた楠二郎の表情が固まった。返事を待つことなく、なおもアテナは続ける。
「傷は跡形なくとも、神経には痛覚として損傷ダメージが蓄積されていく。そしてもう一つ。あなたの力は傷をふさぐことはできても、流れ出た血は元に戻せていない」
 アテナは楠二郎の右掌を見る。そこにはまだ楠二郎自身の血がべったりと付着していた。
「さも不死身であるように語っていたのは、力の弱点を隠すための欺瞞情報ブラフ。あなたの痛覚神経が限界を超えた時、あなたの意識は沈む。それこそがあなたの敗北条件です」
 アテナが語った考察に、楠二郎はしばらく黙ったままだったが、
「……く……くく……」
 やがて口から小さな笑い声が漏れ始め、
「かっはははは! あっはははは!」
 ついには腹の底から大笑するにいたった。
「はははは……つくづく恐れ入ったぜ。まさかそこまで見抜かれちまうとはな。俺の力を看破したのは、あんたで二人目だぜ」
「では降伏しますか?」
「俺が下ると思うか?」
「思いません」
「当然だ。俺が勝ったら、最高の女神サマが手に入るんだからな。俺の花嫁として」
 笑みから闘士の顔に戻った楠二郎は、再び構えを取る。が、対するアテナはなぜか自然体のままでいた。
「どうした? あんたの方が観念する気になったか?」
天支巨神アトラスが逆立ちしても、それはありません」
 アテナは未だ構えることなく、呼吸を整えながら何かを思案しているようだった。それは数秒足らずで答えが出たのか、アテナの目には新たな決意が表れていた。
「バラキモト・クスジロウ、あなたは強い。その豪力、武練、胆力、この戦女神わたし、アテナが認めましょう」
「そいつはどうも。けど認めてくれたなら、もう俺の女になってくれてもいいんじゃねぇか?」
「それは別の話です。あなたの力に敬意を表し、私も本来の武術でこたえましょう」
 それまで自然体だったアテナの両腕が、ゆっくりと持ち上げられていく。
「これで私を打ち破ることができたなら、その時あなたは私を伴侶とすることが叶いましょう」
 アテナの宣言に、楠二郎は短く口笛を吹いた。
「それ、間違いないよな?」
「女神に二言はありません」
「よっしゃぁ!」
 歓喜の雄叫びを上げ、楠二郎はアテナに突進する。
 アテナはボクシングのファイティングポーズを取っていたので、下半身に狙いを定める楠二郎。腰にタックルを仕掛け、背中から押し倒すつもりでいた。
(ボクシングで来るなら、下半身への攻めを防ぐ手立てはない。ここはもら―――――!?)
 アテナの腰に組み付けると確信していた楠二郎は、予想外の衝撃に頭をらせた。
 一瞬、目を白黒させた楠二郎だったが、すぐに何をされたのか把握した。
 アテナは楠二郎のあごを蹴り上げたのだ。
(蹴り!? キックボクシングか!?)
「はあっ!」
「ぐぶっ!」
 蹴り上げられた楠二郎に、アテナは間髪入れずに左フックを叩き込む。顎への一撃と合わせて、楠二郎の顔は斜めに歪んだ。
 アテナの攻撃はまだまず、楠二郎の腰を前から抱え込んだ。しくも、楠二郎の方がアテナに腰を取られる形になった。
「とぉあ!」
 楠二郎を抱えたまま、アテナは背を大きく反らせる。
(キックボクシングじゃねぇ! コイツは―――――)
 海老反りになったアテナは、楠二郎の顔面を地面に突っ込ませた。
 微震を伴ったアテナのフロントスープレックスは、楠二郎の頭部をほとんど埋もれさせてしまった。
 楠二郎の腰を離し、アテナは軽く跳躍して間合いを取る。
「やって……くれるぜ……」
 地面から頭部を引き抜いた楠二郎は、顔に付いたほこりを払うと、外れた顎をはめ直した。
「そうだよなぁ。ギリシャの神サマなら、ソイツを使えるよなぁ」
「あなたへの返礼です、クスジロウ」
 その名が意味するところは『全力』。定められたルールは『目潰しと噛みつきの禁止」のみ。勝利条件は相手に負けを認めさせること。古代ギリシャの時代に端を発する、最も古い総合格闘技の一つ、それは、
「私の『パンクラチオン』で、あなたをこの場に沈めてみせましょう」
 右拳を突き出したアテナの目は、より強い闘志をたたえて楠二郎を見据えていた。

「クロラン、どこ行ったんだろ?」
「ん~……こっち!」
「え? こっち?」
 クロランを追って廊下を走る結城ゆうき媛寿えんじゅは、右に曲がった突き当りの扉をくぐった。反動で何度も揺れる扉には、『STAFF ONLY』の文字が書かれていた。
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