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豪宴客船編
接近
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「う……ぐっ!」
意識が戻ったと同時に強烈な首の痛みを感じ、楠二郎は呻き声を上げた。
仰向けに寝た状態から最初に見えたのは、ぽっかりと空いた巨大な穴から見える満天の星空だった。
「気が付きましたか」
不意に聞こえてきた声がアテナのものだと察し、楠二郎は痛みも構わず首を反らせる。
満点の星空の次に、アテナの顔が逆さに映りこんだ。 そこで楠二郎は初めて、アテナの膝枕で眠っていたことに気付いた。
「……俺は……負けたんだな?」
「ええ。私が勝ちました」
問答の後、二人はしばらくの間沈黙する。
超級異種格闘大会はアテナの勝利で終わった。が、それを確認できるのは、もはや決勝で対峙した二人だけしかいない。
アテナの最後の一撃が決まった際、セントラルパークの階層を支えていた地盤が完全に破砕された。
パークは丸ごと崩壊し、いまアテナたちがいるのは一つ下の階層。瓦礫が積もり、山となった景色の真ん中で、アテナは楠二郎が目覚めるまで膝を枕に看病していた。
「……」
楠二郎は目だけを動かし、アテナの輪郭を上から追った。
闘いで乱れた金の長髪。瓦礫の塵が少し頬についた美貌。激しい闘いを物語る埃で汚れた戦衣装。
楠二郎はアテナのそんな姿も美しいと思った。負わせた幾つもの傷ですら、その美を引き立てる化粧のように感じる。
アテナが戦いの女神である意味を、楠二郎は初めて理解できた気がした。
「……いかがしましたか?」
楠二郎が向けてくる視線について問うアテナ。
「いや、あんたを手にできなかったのが残念だと思ってな……」
アテナから視線を外して答える楠二郎。
「ああ……本当に残念だ……」
そう零す楠二郎の声は、闘いを繰り広げていた時と比べてわずかに気弱になっていた。
戦の火種があると見れば何度となく赴き、生まれてから幾人もの女をものにしてきた楠二郎だが、時代を経るにつれて徐々に空しさを感じるようになっていた。
人間は元より大抵の妖怪変化でさえ、楠二郎に敵うものはなし。楠二郎の相手をした女は、最後には大概が音を上げて腰砕けになってしまう。
鬼としての本能から血と快楽は求めるも、ありきたりの結果ばかりでは流石につまらなくなってしまう。
そんな空虚を破壊してくれるかもしれない相手に巡り合ったと思ったのも束の間、ここ一番の大勝負で楠二郎は敗北を喫してしまった。
(儘ならねぇもんだぜ。最高最強の女を、いや、女神を嫁に取れると思ったらこのザマとは……)
「今回は船の上だったので力を抑えねばなりませんでした。ですが、陸の上なら私は力を如何なく発揮できます。バラキモト・クスジロウ、次に闘う際は同じ試合運びになるとは思わぬように」
「!?」
アテナの意外な発言を聞き、楠二郎は思わずアテナの顔を見上げた。
「『次に』って、また俺と闘ってくれるってのか?」
「当然です。今回は船を沈めるわけにいきませんでしたので手を焼きました。が、これが戦女神の実力と思われては私の威信に関わります。次は陸の上で闘い、その時こそ真の力を披露して差し上げましょう」
アテナはやや胸を張ってそう宣言した。それを聞いた楠二郎は目を丸くする。
楠二郎が敗北の無念を感じている一方で、アテナはまだ闘いに満足がいかず、次の闘いのことを考えていたのだ。
これほどの激闘を終えてなお、再戦の確約を取り付けてくるアテナに、楠二郎はもう一度指し示された思いだった。
アテナが戦いの女神である所以を。
「! じゃああんたに勝ったら嫁にもらうって約束もまだ生きてるのか?」
「女神として約束を違えるつもりはありません。私に勝った暁には、あなたの伴侶となりましょう。勝てるなら、ですが」
膝枕した楠二郎を見下ろすアテナの目には、未だ衰えぬ闘気が煌々と燃え盛っていた。
並みの舞闘家ならば、その気を当てられただけで四肢が硬直して動けなくなるところ、楠二郎は心の底から歓喜した。
まだ女神を妻にできるチャンスがあったのだ、と。
「いいぜ。もっと力をつけて技を磨いて、あんたを貰い受けに行ってやるぜ。今から初夜が楽しみだ」
「結構。ですが陸の上ならば、あなたの復元能力によらず三撃で大地に沈めてみせましょう」
楠二郎が狂喜の笑みを送り、アテナが自信に満ちた笑みで返す。
飽くなき戦いに身を投じ、強者を求め挑み続ける二人。
かたや戦いの女神。かたや鬼神の末裔。
そんな二人だからこそ結べる、特別な因縁がここに生まれた。
次に会う時は完膚なきまでに倒してみせる、という強い決意とともに。
「っ!」
楠二郎と視線を交わしていたアテナは、不意に感じ取った気配に顔を上げた。
「? どうした?」
「何かが船に……これは!」
楠二郎への膝枕を中断し、立ち上がったアテナは気配のした方向を睨んだ。
「船が……ユウキが危うい!」
何かを察知したアテナは、瓦礫の山を踏み越えて走り出した。
「バラキモト・クスジロウ! 適うなら早くこの船から脱しなさい!」
アテナは壁際に到達すると、一度だけ振り返ってそう叫んだ。
その後は拳で壁を破壊し、空いた穴の奥へと走り抜けていった。
「……やっぱり気に食わねえな。そのユウキって男のことは」
走り去ったアテナを見送った楠二郎は、星空を結城と重ねて睨みつけた。
(まだ身体は動かねえ、か。動けるもんなら一発殴りに行きてえところだぜ。アテナがそこまで気にかける男の面をな)
アテナとの闘いからまだ回復できないことを、楠二郎は敗北以上に悔しさを噛みしめていた。
「うぅ……ああぁ……ありがとうごじゃいます神しゃま~……納豆の糸だけでもお恵みくだしゃって~」
瓦礫に半分埋もれながらも、格闘大会の審判野摩は奇跡的に無傷で済んでいた。
そして宙に右手をかざしながら、何やら幸せそうな表情で夢を見続けているのだった。
「W☆9↑(何だコイツは)!?」
コンテナ群の中身を検めていたマスクマンは、接近しつつある謎の気配に声を上げた。
「どうしタ?」
別のコンテナを検分していたシトローネが、様子が変わったマスクマンに声をかける。
「YΛ1→。DΣ4↑(お前は感じないのか。こりゃヤバいことになったぞ)」
マスクマンは開いたままの搬入用ゲートの向こう、小波が立つ海の方を見て言った。
「? 何がダ?」
シトローネも海を見るが、ゲートの先には星と船の明かりを反射する夜の海が拡がっているのみ。実に穏やかな光景だった。
しかし、マスクマンは海を凝視しながら、ただならぬ雰囲気で何事か思案している。まるで災厄の襲来を予知した野生の獣のように。
「……Tπ5↓ST。YΩ2↑(……結城には悪いが、この依頼はここまでだな。お前も逃げる算段つけといた方がいいぞ)」
「何!?」
マスクマンはコンテナ倉庫の出入り口に向かって駆け出した。
シトローネもまたマスクマンの後を追う。なぜいきなり探索を切り上げたのか、その理由を問い質したかったからだ。
「どこへ行ク? どうするつもりダ?」
「TΛ2←。A£3↑AT(アテナやシロガネも気付いてるはずだ。合流して迎え撃つ。もう逃げるより先に接触することになるだろうからな)」
「迎え撃ツ!? 何をダ!?」
「BΞ9→MC(正体はともかく、この船を簡単に沈められる奴が来るんだよ)」
マスクマンは慌てこそしないが、非常に急いでいることは伝わった。
それを察したシトローネは悪寒を覚えた。
マスクマンが小林結城の依頼達成を放り出してまで、迎撃に向かわなければならない『何か』が、クイーン・アグリッピーナ号に近付きつつある。
それは大型客船を簡単に破壊することが可能だという。
(なら私たちもここまデ。稔丸とグリムだけでも見つけて、船を脱出すル)
コンテナ倉庫から出てすぐ、シトローネはマスクマンの行く道とは別の廊下に方向転換した。
シトローネから特に別れを告げられることはなかったが、マスクマンは廊下を走りながら、聞こえるはずもない別れの言葉を呟いた。
「GΦ7↑。Bω7(じゃあな。美しいエルフの娘)」
マスクマンはスピードを上げて自室へと急ぐ。来る凶敵を迎え撃つための武器を取りに行くために。
「…、…」
ダメージを回復するために眠っていたシロガネは、接近しつつある巨大な気配を察知し目を開けた。
本音を言えばもう少し眠っていたかったところだが、その気配の主が持つ危険度を考えればそうもいかない。ご主人様である結城を守るため、シロガネは痛む腕で身を起こした。
「あっ、起きた?」
顔を上げたシロガネが最初に目にしたのは、血糊がべっとりと付いた手甲鉤と暗殺爪を携えた黒髪の美女、グリムだった。
だが、ヘルメットを脱いで露になったその頭頂には、一対の獣耳が生えていた。
(クロランと、同じ?)
その獣耳がクロランと似ていたので、シロガネは二人の類似性を考える。
「ああ、これ?」
シロガネの視線の先を感じ取ったグリムは、獣耳を指で指し示した。
「私、獣人族なんだ。元々ヨークシャーで暮らしてたんだけど、色々あってね……」
トーンの低い口調で話しながら、グリムは冷めた視線で後ろを振り向く。
シロガネがその視線の先を追うと、全身をなます切りにされた男が仰向けに倒れていた。
死体と見間違えるほど血まみれになっているが、かろうじて呼吸音が聞こえている。
シロガネはその男が、先程まで闘っていた頼鉄であると確信した。
「……、殺さなかった、のか?」
頼鉄は必要以上に痛めつけられながら、何とか命は落とさない程度で済まされていた。
これだけ執拗に切り刻んでおきながら、あえて命を取らなかったのは理由があるとシロガネは見ていた。
「殺してもいいって言われてたけど、あの子たちのことを考えたら……ちょっと、ね」
頼鉄を見る鋭い目から一転、グリムは悲しみ、あるいは慈しみのようなものを宿した目に変わっていた。
「……、そう」
グリムの回答を聞くと、シロガネはまだふらふらと震える足で武器展示室を後にしようとした。
「もう少し休んでいった方がいいんじゃない?」
「そうも、いかない」
一旦足を止めたシロガネはグリムに向き直る。
「結城が、ワタシのご主人様が、危ない。結城のこと、弄っていいのは、ワタシだけ」
まるで表情は動かないが、グリムはシロガネの目の奥に、爛々と燃える熱意のようなものを見た気がした。
「だから、結城は、ワタシが、守る」
シロガネはそう言うと、まだおぼつかない足取りで武器展示室を去っていった。
頼鉄の苦しげな吐息だけが響いている部屋の中で、グリムは微かに溜め息を吐いた。
(私と同じかと思ってたけど、ちょっと違ったみたいね)
血まみれで横たわる頼鉄を一瞥し、グリムもその場を立ち去ろうと歩を進めた。
(仇敵を切り刻んで痛めつけてやりたい衝動。あなたも持ってると思ってたのに)
「スパルトイ……って何です、カメーリアさん?」
結城はカメーリアが口にした言葉の意味を聞いた。おそらく目の前にいるオスタケリオンのことを言ったと思われるが、まるで聞き慣れない単語だったからだ。
白骨と化している右腕。屍狂魚に食いつかれても血を流していない肉体。
これだけでもオスタケリオンが人ならざる者だと分かるが、どんな正体があるのかは結城も見当がつかない。
術者に操られた死体や、呪いをかけられた人間は見たことはあるが、結城にはそのどちらとも違うように思えた。
「骨兵は幻獣や神獣に近い生物の骨を使って生成する、一種の人造人間ですわ。その手の生物がほとんどいなくなった現代となっては、私も実際に目にするのは初めて――――――」
「はははははは! あっははははは!」
カメーリアの説明を遮るように、オスタケリオンは急な哄笑を上げ始めた。
結城はその様子に怖気を覚えていた。
周囲の空気を震わす声量でありながら、驚くほどに感情がこもっていない。
そしてその笑い方は、生きた人間が笑っているというより、一切の肉が削げ落ちた白骨が、カタカタと音を立てている様に重なって見えたのだ。
「気に入った! 気に入ったぞ! 林結之丞くん! いや、私も『ゆうき』くんと呼ばせてもらおう!」
ひとしきり笑ったオスタケリオンは、結城を真正面から見据えた。
結城はオスタケリオンが感情を持っていないと思っていたが、それは違っていた。
オスタケリオンが向けてきた視線。そこには確かな感情が備わっていた。
何を犠牲にしても、どんな手段を使っても、小林結城を抹殺する。
目的を果たすまで止まらない執念、いや、狂気が溢れるほどに満ち満ちていた。
「君という人間の愚かしさに対し、私も全力を以って応えるとしよう! 君の存在を一滴の血、一片の肉、一粒の骨すら残らぬよう、この世から抹消してやろうとも!」
オスタケリオンは顔の右側に噛みついていた屍狂魚を掴むと、強引に顔から引き剥がした。
それが合図であったかのように、クイーン・アグリッピーナ号の船体に大きな衝撃が走った。
意識が戻ったと同時に強烈な首の痛みを感じ、楠二郎は呻き声を上げた。
仰向けに寝た状態から最初に見えたのは、ぽっかりと空いた巨大な穴から見える満天の星空だった。
「気が付きましたか」
不意に聞こえてきた声がアテナのものだと察し、楠二郎は痛みも構わず首を反らせる。
満点の星空の次に、アテナの顔が逆さに映りこんだ。 そこで楠二郎は初めて、アテナの膝枕で眠っていたことに気付いた。
「……俺は……負けたんだな?」
「ええ。私が勝ちました」
問答の後、二人はしばらくの間沈黙する。
超級異種格闘大会はアテナの勝利で終わった。が、それを確認できるのは、もはや決勝で対峙した二人だけしかいない。
アテナの最後の一撃が決まった際、セントラルパークの階層を支えていた地盤が完全に破砕された。
パークは丸ごと崩壊し、いまアテナたちがいるのは一つ下の階層。瓦礫が積もり、山となった景色の真ん中で、アテナは楠二郎が目覚めるまで膝を枕に看病していた。
「……」
楠二郎は目だけを動かし、アテナの輪郭を上から追った。
闘いで乱れた金の長髪。瓦礫の塵が少し頬についた美貌。激しい闘いを物語る埃で汚れた戦衣装。
楠二郎はアテナのそんな姿も美しいと思った。負わせた幾つもの傷ですら、その美を引き立てる化粧のように感じる。
アテナが戦いの女神である意味を、楠二郎は初めて理解できた気がした。
「……いかがしましたか?」
楠二郎が向けてくる視線について問うアテナ。
「いや、あんたを手にできなかったのが残念だと思ってな……」
アテナから視線を外して答える楠二郎。
「ああ……本当に残念だ……」
そう零す楠二郎の声は、闘いを繰り広げていた時と比べてわずかに気弱になっていた。
戦の火種があると見れば何度となく赴き、生まれてから幾人もの女をものにしてきた楠二郎だが、時代を経るにつれて徐々に空しさを感じるようになっていた。
人間は元より大抵の妖怪変化でさえ、楠二郎に敵うものはなし。楠二郎の相手をした女は、最後には大概が音を上げて腰砕けになってしまう。
鬼としての本能から血と快楽は求めるも、ありきたりの結果ばかりでは流石につまらなくなってしまう。
そんな空虚を破壊してくれるかもしれない相手に巡り合ったと思ったのも束の間、ここ一番の大勝負で楠二郎は敗北を喫してしまった。
(儘ならねぇもんだぜ。最高最強の女を、いや、女神を嫁に取れると思ったらこのザマとは……)
「今回は船の上だったので力を抑えねばなりませんでした。ですが、陸の上なら私は力を如何なく発揮できます。バラキモト・クスジロウ、次に闘う際は同じ試合運びになるとは思わぬように」
「!?」
アテナの意外な発言を聞き、楠二郎は思わずアテナの顔を見上げた。
「『次に』って、また俺と闘ってくれるってのか?」
「当然です。今回は船を沈めるわけにいきませんでしたので手を焼きました。が、これが戦女神の実力と思われては私の威信に関わります。次は陸の上で闘い、その時こそ真の力を披露して差し上げましょう」
アテナはやや胸を張ってそう宣言した。それを聞いた楠二郎は目を丸くする。
楠二郎が敗北の無念を感じている一方で、アテナはまだ闘いに満足がいかず、次の闘いのことを考えていたのだ。
これほどの激闘を終えてなお、再戦の確約を取り付けてくるアテナに、楠二郎はもう一度指し示された思いだった。
アテナが戦いの女神である所以を。
「! じゃああんたに勝ったら嫁にもらうって約束もまだ生きてるのか?」
「女神として約束を違えるつもりはありません。私に勝った暁には、あなたの伴侶となりましょう。勝てるなら、ですが」
膝枕した楠二郎を見下ろすアテナの目には、未だ衰えぬ闘気が煌々と燃え盛っていた。
並みの舞闘家ならば、その気を当てられただけで四肢が硬直して動けなくなるところ、楠二郎は心の底から歓喜した。
まだ女神を妻にできるチャンスがあったのだ、と。
「いいぜ。もっと力をつけて技を磨いて、あんたを貰い受けに行ってやるぜ。今から初夜が楽しみだ」
「結構。ですが陸の上ならば、あなたの復元能力によらず三撃で大地に沈めてみせましょう」
楠二郎が狂喜の笑みを送り、アテナが自信に満ちた笑みで返す。
飽くなき戦いに身を投じ、強者を求め挑み続ける二人。
かたや戦いの女神。かたや鬼神の末裔。
そんな二人だからこそ結べる、特別な因縁がここに生まれた。
次に会う時は完膚なきまでに倒してみせる、という強い決意とともに。
「っ!」
楠二郎と視線を交わしていたアテナは、不意に感じ取った気配に顔を上げた。
「? どうした?」
「何かが船に……これは!」
楠二郎への膝枕を中断し、立ち上がったアテナは気配のした方向を睨んだ。
「船が……ユウキが危うい!」
何かを察知したアテナは、瓦礫の山を踏み越えて走り出した。
「バラキモト・クスジロウ! 適うなら早くこの船から脱しなさい!」
アテナは壁際に到達すると、一度だけ振り返ってそう叫んだ。
その後は拳で壁を破壊し、空いた穴の奥へと走り抜けていった。
「……やっぱり気に食わねえな。そのユウキって男のことは」
走り去ったアテナを見送った楠二郎は、星空を結城と重ねて睨みつけた。
(まだ身体は動かねえ、か。動けるもんなら一発殴りに行きてえところだぜ。アテナがそこまで気にかける男の面をな)
アテナとの闘いからまだ回復できないことを、楠二郎は敗北以上に悔しさを噛みしめていた。
「うぅ……ああぁ……ありがとうごじゃいます神しゃま~……納豆の糸だけでもお恵みくだしゃって~」
瓦礫に半分埋もれながらも、格闘大会の審判野摩は奇跡的に無傷で済んでいた。
そして宙に右手をかざしながら、何やら幸せそうな表情で夢を見続けているのだった。
「W☆9↑(何だコイツは)!?」
コンテナ群の中身を検めていたマスクマンは、接近しつつある謎の気配に声を上げた。
「どうしタ?」
別のコンテナを検分していたシトローネが、様子が変わったマスクマンに声をかける。
「YΛ1→。DΣ4↑(お前は感じないのか。こりゃヤバいことになったぞ)」
マスクマンは開いたままの搬入用ゲートの向こう、小波が立つ海の方を見て言った。
「? 何がダ?」
シトローネも海を見るが、ゲートの先には星と船の明かりを反射する夜の海が拡がっているのみ。実に穏やかな光景だった。
しかし、マスクマンは海を凝視しながら、ただならぬ雰囲気で何事か思案している。まるで災厄の襲来を予知した野生の獣のように。
「……Tπ5↓ST。YΩ2↑(……結城には悪いが、この依頼はここまでだな。お前も逃げる算段つけといた方がいいぞ)」
「何!?」
マスクマンはコンテナ倉庫の出入り口に向かって駆け出した。
シトローネもまたマスクマンの後を追う。なぜいきなり探索を切り上げたのか、その理由を問い質したかったからだ。
「どこへ行ク? どうするつもりダ?」
「TΛ2←。A£3↑AT(アテナやシロガネも気付いてるはずだ。合流して迎え撃つ。もう逃げるより先に接触することになるだろうからな)」
「迎え撃ツ!? 何をダ!?」
「BΞ9→MC(正体はともかく、この船を簡単に沈められる奴が来るんだよ)」
マスクマンは慌てこそしないが、非常に急いでいることは伝わった。
それを察したシトローネは悪寒を覚えた。
マスクマンが小林結城の依頼達成を放り出してまで、迎撃に向かわなければならない『何か』が、クイーン・アグリッピーナ号に近付きつつある。
それは大型客船を簡単に破壊することが可能だという。
(なら私たちもここまデ。稔丸とグリムだけでも見つけて、船を脱出すル)
コンテナ倉庫から出てすぐ、シトローネはマスクマンの行く道とは別の廊下に方向転換した。
シトローネから特に別れを告げられることはなかったが、マスクマンは廊下を走りながら、聞こえるはずもない別れの言葉を呟いた。
「GΦ7↑。Bω7(じゃあな。美しいエルフの娘)」
マスクマンはスピードを上げて自室へと急ぐ。来る凶敵を迎え撃つための武器を取りに行くために。
「…、…」
ダメージを回復するために眠っていたシロガネは、接近しつつある巨大な気配を察知し目を開けた。
本音を言えばもう少し眠っていたかったところだが、その気配の主が持つ危険度を考えればそうもいかない。ご主人様である結城を守るため、シロガネは痛む腕で身を起こした。
「あっ、起きた?」
顔を上げたシロガネが最初に目にしたのは、血糊がべっとりと付いた手甲鉤と暗殺爪を携えた黒髪の美女、グリムだった。
だが、ヘルメットを脱いで露になったその頭頂には、一対の獣耳が生えていた。
(クロランと、同じ?)
その獣耳がクロランと似ていたので、シロガネは二人の類似性を考える。
「ああ、これ?」
シロガネの視線の先を感じ取ったグリムは、獣耳を指で指し示した。
「私、獣人族なんだ。元々ヨークシャーで暮らしてたんだけど、色々あってね……」
トーンの低い口調で話しながら、グリムは冷めた視線で後ろを振り向く。
シロガネがその視線の先を追うと、全身をなます切りにされた男が仰向けに倒れていた。
死体と見間違えるほど血まみれになっているが、かろうじて呼吸音が聞こえている。
シロガネはその男が、先程まで闘っていた頼鉄であると確信した。
「……、殺さなかった、のか?」
頼鉄は必要以上に痛めつけられながら、何とか命は落とさない程度で済まされていた。
これだけ執拗に切り刻んでおきながら、あえて命を取らなかったのは理由があるとシロガネは見ていた。
「殺してもいいって言われてたけど、あの子たちのことを考えたら……ちょっと、ね」
頼鉄を見る鋭い目から一転、グリムは悲しみ、あるいは慈しみのようなものを宿した目に変わっていた。
「……、そう」
グリムの回答を聞くと、シロガネはまだふらふらと震える足で武器展示室を後にしようとした。
「もう少し休んでいった方がいいんじゃない?」
「そうも、いかない」
一旦足を止めたシロガネはグリムに向き直る。
「結城が、ワタシのご主人様が、危ない。結城のこと、弄っていいのは、ワタシだけ」
まるで表情は動かないが、グリムはシロガネの目の奥に、爛々と燃える熱意のようなものを見た気がした。
「だから、結城は、ワタシが、守る」
シロガネはそう言うと、まだおぼつかない足取りで武器展示室を去っていった。
頼鉄の苦しげな吐息だけが響いている部屋の中で、グリムは微かに溜め息を吐いた。
(私と同じかと思ってたけど、ちょっと違ったみたいね)
血まみれで横たわる頼鉄を一瞥し、グリムもその場を立ち去ろうと歩を進めた。
(仇敵を切り刻んで痛めつけてやりたい衝動。あなたも持ってると思ってたのに)
「スパルトイ……って何です、カメーリアさん?」
結城はカメーリアが口にした言葉の意味を聞いた。おそらく目の前にいるオスタケリオンのことを言ったと思われるが、まるで聞き慣れない単語だったからだ。
白骨と化している右腕。屍狂魚に食いつかれても血を流していない肉体。
これだけでもオスタケリオンが人ならざる者だと分かるが、どんな正体があるのかは結城も見当がつかない。
術者に操られた死体や、呪いをかけられた人間は見たことはあるが、結城にはそのどちらとも違うように思えた。
「骨兵は幻獣や神獣に近い生物の骨を使って生成する、一種の人造人間ですわ。その手の生物がほとんどいなくなった現代となっては、私も実際に目にするのは初めて――――――」
「はははははは! あっははははは!」
カメーリアの説明を遮るように、オスタケリオンは急な哄笑を上げ始めた。
結城はその様子に怖気を覚えていた。
周囲の空気を震わす声量でありながら、驚くほどに感情がこもっていない。
そしてその笑い方は、生きた人間が笑っているというより、一切の肉が削げ落ちた白骨が、カタカタと音を立てている様に重なって見えたのだ。
「気に入った! 気に入ったぞ! 林結之丞くん! いや、私も『ゆうき』くんと呼ばせてもらおう!」
ひとしきり笑ったオスタケリオンは、結城を真正面から見据えた。
結城はオスタケリオンが感情を持っていないと思っていたが、それは違っていた。
オスタケリオンが向けてきた視線。そこには確かな感情が備わっていた。
何を犠牲にしても、どんな手段を使っても、小林結城を抹殺する。
目的を果たすまで止まらない執念、いや、狂気が溢れるほどに満ち満ちていた。
「君という人間の愚かしさに対し、私も全力を以って応えるとしよう! 君の存在を一滴の血、一片の肉、一粒の骨すら残らぬよう、この世から抹消してやろうとも!」
オスタケリオンは顔の右側に噛みついていた屍狂魚を掴むと、強引に顔から引き剥がした。
それが合図であったかのように、クイーン・アグリッピーナ号の船体に大きな衝撃が走った。
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