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71話 伸ばした手
しおりを挟むフランクがリュシアンにカルテを見せながら、これまでの経緯と治療結果を話して聞かせている。
「副作用と考えられていた記憶の混濁も、もしかしたら薬が原因ではないかも知れません。これはまた臨床実験で確認しましょう。今後の経過はご自宅で見て頂いても問題ないかと」
「そうか。分かった」
そんなやり取りを見ながら、メリエルは嬉しそうにシオンに言う。
「ノアさん! もう病気が治ったんですって! 良かったてすね!」
「え? って事は、帰れるの?」
「はい! ノアさん! もうここにいなくても良いんですよ! 帰れるんです!」
「やった! リアムに会える!」
「えっ!?」
「きっとずっと心配してたんだと思うの! だから早く帰らないといけないの!」
「ですがそれは……」
「ここからカタラーニ家までは遠いのかな? なんでか私、今魔法が使えないから……」
実はシオンはリアムに会いたい思いから、何度か魔法でカタラーニ家に帰ろうと瞬間移動を試みていた。
しかし、魔法が発動する前に一瞬自身の身体が淡く光るだけで、すぐに魔力切れのような感じになって動けなくなってしまったのだ。
「ノア……君の帰る場所はカタラーニ家ではないんだ」
「え? どうしてですか? 私はフィグネリアお嬢様の奴隷です。だから病気が治ったら帰らないといけないんです」
「もう君はフィグネリアの奴隷じゃないんだよ」
「で、でも! リアムがいるんです! あそこにはリアムがいるんです! だから帰らないといけないんです!」
「リアムは……」
「私がフィグネリアお嬢様の奴隷じゃないって事は、リュシアン様が私を買ってくださったのですか? フィグネリアお嬢様から私を……」
「ノアは物じゃないんだ! 買うなんて、そんな事はしない!」
「ならどうして?! だったら、リアムも助けて貰えませんか?! 何でもします! いっぱい働きます! どんな仕事でもします! 私で出来る事なら何でもします! だから……!」
「リアムはもういない!」
「……え……?」
「ノア、落ち着いて聞いて欲しい。リアムはもういないんだ」
「え? 何を言ってるんですか? リアムがいないとか、そんな訳ありませんよ?」
「彼はもう、この世には、存在しない」
「ウソです。そんなの、絶対にウソです……」
「ノア、君には酷な事かも知れないが、リアムは……」
「嫌です! 嫌です! そんなの、絶対にウソなんです!」
「ノア!」
「いやぁーー!!」
涙をボロボロ零しながら、シオンは駄々をこねる子供のように、両手で耳を塞ぎながら首を横に何度も振り、リュシアンの言葉を聞き入れようとしなかった。
リュシアンはシオンを抱き締めた。それに抵抗するように、シオンはリュシアンの胸を何度も何度も強く叩く。だが、リュシアンはシオンを離してやらなかった。
側で見ていたフランクもメリエルも、どうすれば良いか分からずにただじっとその場にいたのだが、リュシアンが目配せをすると、二人はそれに気付いてそっと部屋から出て行った。
「リアムのところに行くの! きっとカタラーニ家にいるから、私を待ってくれているから、だから帰るの!」
「ごめん、ノア、ごめん……」
「リアムは強いの! いつも私を守ってくれたの! だから大丈夫なの!」
「ノア、私がついている。ずっと君の傍にいる。今度こそ君を守る。約束する。だから……」
「リアム……リ、ア……!」
「ノア?! ちゃんと呼吸しろ! ノア!」
シオンは過呼吸を起こしていた。ハァハァと、呼吸が乱れ、苦しそうにしている。パニックを起こしているのだ。
思わずリュシアンはシオンに口付けた。乱れた呼吸を整えるよう、シオンをしっかり抱き締めて深く深く口付けた。
頭をおさえ、肩を強く抱き、自分から離れないようにして唇を重ね続ける。しばらくそうしていると少し落ち着いたのか、シオンの呼吸の乱れは少しずつ無くなっていったようだった。ゆっくり唇を離すと、シオンはまだ涙に濡れていて、リュシアンを悲しんだ目で見つめてはまた胸を何度も強く叩いた。
それでもリュシアンはシオンを離さなかった。シオンの抵抗は可愛いもので、リュシアンの力には敵う筈もなかった。
だが、心は痛かった。シオンを泣かせてしまった事、リアムがいないと言う現実を突き付け、絶望を味わわせた事に、またシオンに申し訳ない気持ちが胸を抉っているのだ。
そして同時に、こんなに自分を想ってくれているシオンが更に愛おしく思えて、昂ぶる気持ちは留まる事を知らないように感じ胸を熱くさせた。
シオンを抱き上げ、ソファーに座る。膝上にまだ落ち着かないシオンを乗せ、胸に抱き寄せる。
「ノア、聞いて欲しい。私がリアムの代わりになる。君の支えになる。君を守る。ずっと傍にいる。絶対に離さない。君を幸せにする。必ずそうする」
「リアムの代わりなんて……」
「なれなくても、君を一人にはしない。誰よりも傍にいて君を守り続ける」
「リュシアン様……」
何度もそうやって言い聞かせていくと、少しずつシオンは落ち着いていった。だが、悲しみがなくなった訳ではない。現実を受け入れるには時間が必要で、シオンの気持ちは塞ぎ込んだままだった。
リュシアンの腕の中で、いつしかシオンは気を失うように眠ってしまっていた。昨夜あれから一睡もできなかったのもあって、そうなってしまったのだろう。
慰めるように、赤子をあやすようにシオンの体を優しく撫でて、涙で濡れた頬をそっと拭う。シオンの額に頬を寄せ、その体温を感じる。
しばらくそうしていて、この体制では身体がキツイだろうと、シオンを抱き上げてベッドへ向かった。そっと寝かせて布団を掛け、髪を整えてから額に口付けを落とす。
そうしてからリュシアンは部屋を出て、外で心配していたメリエルとフランクにシオンが眠った事を告げ、ひとまず安心させた。その後フランクは帰り、メリエルは荷物の整理をし始めた。
眠りに落ちたシオンは、夢を見ていた。
それはカタラーニ男爵家での日々の夢……
いつもお腹を空かせた状態の二人は、フィグネリアに甚振られながらも賢明に生きていた。
そうしてある日、フィグネリアに転移陣で何処か分からない街へ飛ばされて行く。
必死で手を伸ばしてノアを連れ戻そうとするリアムの顔が目に焼き付いたまま、その手は届かずにとある街へ一人でやって来て……
そこで悲惨な状況を見ながら魔力を全て開放し、人々を救った後、僅かに残った魔力で教会まで行って……
その教会でリアムと会えた。
いつも眠る時にするように、二人で手を握り合って、来世の事を話し合った。
リアムはその時傷だらけで既に息も絶え絶えで、最後の力を振り絞ってシオンに何とか伝えようとしてくれていた。
そしてリアムの吐息は無くなった。
リアムの握っていた手から力が無くなった。
リアムはその時、もう……
そして自分もその場で全身の痛みに襲われながら、リアムの傍でリアムの顔を見つめながら……
思わず手を伸ばす。
私を置いていかないで……ずっと傍にいて……
リアム……お願いだから何処にも行かないで……
声にならずに追い縋るように必死なって手を伸ばす。
「ノア、大丈夫か?!」
だけどその手を取ったのは、リアムではなくリュシアンだった。
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