本当にセミを描きたかっただけ

田村 ノア

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第1話「フェンスの向こう側」

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高一の、夏の始まり。
ミンミンと蝉の声が響いている。
朝早く家を出た優矢は、学校の屋上に立っていた。

マスクを外す、シャツの下の肌には、隠しきれない色が残っていた。

「あ~空気うまッ」


少しだけ景色を見てから、フェンスを乗り越えた。
足が、ほんの少しだけ後ろに下がった。

「…よし、行くか、うわ、…やべ、すげえ高い、怖っ」

 それでも口角は、なぜか上がっていた。

晴れ渡った青い空には入道雲が浮かんでいる。朝早いというのに、もうすでに暑い気がした。

「…ふぅ…グッバイ世界~!」

優矢がフェンスの向こう側へその細い身体を躍らせようとした、まさにその瞬間だった。ガチャリと背後で無粋な金属音が響き渡る。振り返る間もなく、強い力で腕を掴まれ、いとも簡単に屋上の安全な内側へと引きずり戻された。

「ちょっ、待っ…!何してんの!?」

息を切らした声の主は、同じクラスの寺嶋幸人だった。彼は美術部で使うのであろうスケッチブックを小脇に抱え、いつもかけている眼鏡の奥で、大きく見開かれた瞳が困惑と焦りに揺れている。色白の顔はすっかり青ざめていた。

「ば、馬鹿じゃないの!?ここ、鍵かかってるはずじゃ…っていうか、そういうの、ダメだから!絶対!行かないで!物語の中だけでいいんだって…!」

幸人はしどろもどろになりながらも、必死に言葉を紡ぐ。その手は優しく、しかし決して離さないという意志を込めて、優矢の腕を掴んでいた。優矢の半裸の身体に刻まれた痛々しい色の数々が、彼の視界に嫌でも飛び込んできて、さらに言葉が続かなくなる。

優矢はキョトンとした顔をして、少しだけ考える。そして――

「あ、おもいだした! …寺嶋…寺嶋だ!」

どうやら名前を思い出そうとしたらしい。

 数秒の沈黙が続き、優矢は改めて幸人を見る。それから少し息を吐いて「びっくりした。心臓止まるかと思ったわ」と、クスリと笑った。あまりの場違いさに、幸人はこちらの方がおかしくなりそうだと思えてくる。

「は……?いや、え……?」

優矢の間の抜けた反応に、幸人の必死の形相が一瞬固まる。掴んでいた腕の力は緩まないまま、彼は完全に虚を突かれた顔をした。心臓が止まるかと思った、と笑う目の前の少年と、今しがた彼がしようとしていたことの重大さとの間に、あまりにも大きな乖離がある。

「な、名前…?いや、そうだけど…そうじゃなくて!君、自分が何しようとしてたか分かってる!?死んでたかもしれないんだよ!なんでそんな…なんで笑って…。」

彼の声は上ずり、混乱が隠せない。妄想逞しい幸人の頭の中では、この状況が既に壮大な物語の一場面として構築され始めていたが、現実の理解が全く追いつかない。「クールでミステリアスな優矢くんがそういうのを謀るも偶然通りかかった俺が間一髪で救出!」というシチュエーションに心が震えないでもなかったが、「なぜ?」という根本的な疑問がそれを遥かに上回っていた。

「と、とにかく!服、服着て!風邪ひくし…!その、怪我も…見えてるから…!」

彼は慌てて視線を彷徨わせ、脱ぎ捨てられていた優矢の擦り切れたカッターシャツを拾い上げると、それを半ば押し付けるようにして差し出した。その顔は羞恥と動揺で真っ赤に染まっている。

「ぁ~、はいはい、」

呑気にカッターシャツを受け取り着る優矢。

「なんかさぁ、変なとこ見せてごめんねぇ~?ホントに飛ぼうなんて思ってなかったから、ただ景色見てただけ、てか、寺嶋こそなんでここに?」

ヘラヘラと笑いながら逆になぜこちらがこんなところに来たのかと聞いてくる。

「いや、僕はただ、セミを描こうと思って、偶然、…」

「セミ?…w マジか、そっか、…
ふ~ん、…ま、気にすんなよ、じゃあな!」

「え、あ、ちょ、待って!」

優矢が背を向けて立ち去ろうとした瞬間、幸人はほとんど反射的にその背中に声をかけていた。まだ手首にはうっすらと赤い跡が残っている。

本当にこのまま行かせていいのか、という強烈な不安が彼を駆り立てた。

「気にするなって言われても……無理だよ!さっきの、どう見ても普通じゃなかったし……。それにその怪我……本当に、何でもないの?転んだとか、そういうのじゃ……」

彼は一歩踏み出し、優矢との距離を詰める。「ただ景色を見てただけ」という言葉は到底信じられなかった。あの瞬間の、世界から切り離されたような優矢の横顔が脳裏に焼き付いて離れない。

「あのさ、もし…もし何か困ってることがあるなら……僕でよければ、話くらい聞くけど……。」

言ってから、幸人自身、〈しまった、出しゃばりすぎたかも…!〉と内心で激しく後悔する。陰キャでコミュ障な自分が、人気者の千鳥優矢にこんなことを言うなんて、おこがましいにも程がある。顔から火が出るように熱くなり、俯いて自分のつま先を見つめた。沈黙が気まずい。蝉の鳴き声だけがやけに大きく響いている。

優矢は少し立ち止まると、こちらを見ることなく

「寺嶋って、そんなキャラだっけ?……ま、いいけど」

独り言に近いようにそう言った。

優矢が、ふっと小さく息を吐く。
「……困ってる、ねぇ」

声が少しだけ低い。
でも振り返らない。

「別にさ、そんなドラマみたいなもんじゃないって。」

軽い。

幸人は顔を上げる。

「じゃあ、なんであそこにいたの」

優矢がフェンスを見る。

一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、表情が抜けた。
ほんの一瞬、笑い損なったような顔をした。

それから肩をすくめる。
「なんとなく」

「……なんとなくで、あそこ行くなよ」

怒鳴らない。
震えてる。
優矢がやっと振り返る。
少しだけ目が柔らかい。

「寺嶋さ」

一拍。

「俺のこと、そんなに気になる?」

からかう。
救済じゃない。
依存でもない。

ただ、“引っかかった”。
それだけ。

それから優矢は何事もなかったように階段を降りていってしまった。


一人残された屋上で幸人はしばらくの間優矢が消えていった階段の入り口を呆然と見つめていた。夏の強い日差しがコンクリートをじりじりと照らしつけ、陽炎がゆらめいている。

(き、気になるに決まってるだろぉぉぉ!!)
声にならない絶叫が心の中に響き渡った。顔がかっと熱を持ち、耳まで真っ赤に染まるのが自分でもわかる。さっきまでのシリアスな空気はどこへやら、幸人の思考回路は一気にオタク特有の早口モードへと切り替わっていた。
(な、なんだ今の……!ツンデレのデレの部分か!?
いや違う、あれは……!
俺みたいなモブに構う筋合いはない、でもちょっと面白いから泳がせてやるか、みたいな高みの見物ポジションからのジャブ!?
そうだ、あれは高度な心理戦だ!
うわあああ近くで見るとまつ毛長すぎだろ優矢くん……!
あの腫れた顔すら退廃的な美しさを醸し出してて正直興奮した……いやいやダメだろ俺!
あれはガチのやつだ!
虐待……? 家庭の問題……?
あの無数の色はどう説明するんだ……。
“ドラマみたいなもんじゃない”って言ってたけど、完全に昼ドラの世界じゃないか!しかも主役級の重いやつ!
なんとなくであそこに立つなよ、って怒鳴れなかった俺、ダサすぎ……。
でも、あの最後の表情……
一瞬見せたあの素の顔……あれは一体……?)


幸人はその場にへたり込みそうになるのをなんとか堪えて、

震える手でスマホを出す。
でも――
画面に映った自分の顔を見る。
赤い。 汗。 動揺。
(……俺、何しようとしてんだ)
通報? 先生に言う? 相談?
全部違う気がする。
優矢は「ドラマじゃない」って言った。
ならこれは事件じゃない。
でも、
“何もない”はずもない。
幸人はスマホをぎゅっと握る。
それから、ポケットに戻す。
代わりに、足元に落ちていたスケッチブックを拾う。
ページをめくる。
そこには描きかけの蝉。
でも、無意識に次のページを開く。
鉛筆を持つ。
描き始めるのは――
フェンス。
そして、
そこに立っていた細い背中。
自分でも気づかないうちに。
描きながら思う。

(……気になるに決まってるだろ)

でも声には出さない。

蝉の声は、さっきよりもずっと遠くで鳴いている気がした。
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