玉子売り

天樹海

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 千駄ヶ谷池尻橋のそばにある「植甚」という植木屋へ、玉子売りの弥助やすけは毎日茹玉子を3つ届けている。慶応4年、旧暦の5月のことである。早朝からうだるような暑さが続き、やかましいほどの蝉の声が頭の上から降り注ぐ。植木屋の敷地にある雑木の緑が、目にも鮮やかだ。

 玉子売りというと、もっぱら吉原や岡場所に売りに出るのが常である。しかし弥助は、江戸の中心地を離れた町並みのお得意先を巡り歩く。
 お得意先とは、主に病人を抱える家である。玉子は栄養価が高いことから、療養食として重宝された。しかし茹玉子ひとつで20文と少しばかり値が張るため、暮らし向きの貧しい裏長屋などでは商売にならない。表店の隠居老人や、それなりに裕福な者たちが弥助の主な客だった。

 大風が吹けばすぐにも吹き飛んでしまいそうな、粗末な裏店とは比べものにならないくらい、しっかりとした造りの家屋が建ち並ぶ周辺で「たまぁご、たまぁご」と呼びかけながらゆっくりと歩く。
 そんな弥助を呼び止めてくるのは、たいてい大店のお内儀さんか下女で、弥助は茹玉子を売るわずかな間に、その話ぶりから客の内情をそれとなく探る。お得意先となれば、毎日決まった数を届けることになる。特に病人を抱える家は2、3個ずつ毎日のように届ける。ありがたいことだ。

 植木屋「植甚」へ玉子を届けるようになってから、はやひと月が過ぎようとしていた。
 弥助は声をかけていつものように勝手口から台所へ入る。お代を支払ってくれるのは飯炊きの老婆だ。
 この日も、弥助は植木屋の勝手口から声をかけて中へ入った。しかしいつもの老婆は見当たらない。母屋もしんと静まりかえっている。

「玉子をお持ちしやしたぁ」

 控えめに呼びかけるが返事をする者はない。

──まいったな。玉子を置いて、明日にでもまとめてお代をもらおうか。

 そう思いながらも、弥助は少しだけ敷地の奥をのぞいてみることにした。
 大輪を咲かせる朝顔の棚を眺めながら、庭の奥へと通り抜ける。花は一つひとつが大きく開き、朝日を受けていた。朝露がきらめく。花は男の手のひらほどもある。見事なものだ。その鮮やかな青紫色に弥助は目を細めた。庭の奥には小川が流れているようだ。そのせせらぎが、耳に気持ちばかりの涼感をもたらす。

 そのとき、奥の離れ家のほうに人影が見えた。弥助は声を張る。

「玉子をお持ちしやしたが、どなたもいらっしゃらないようでして」

 弥助の声が聞こえたのかどうか、人影はゆらりと動き、片手を少し持ち上げる。どうやら手招きをしているようだ。揃えた指先がちょいちょいと動く。
 

 弥助は人影へ近づいた。近づくにつれ、その相貌がわかってくる。ひどく痩せこけた、上背のある男だった。年は二十歳になったばかりの弥助よりいくらか上だろうか。見る限り植木職人ではない。背筋が伸びたその立ち姿は武士の佇まいだ。だが浅黒い顔は頬がこけ、まるきり生気がない。見るからに病人だ。しかしその両眼は澄んで、弥助の姿を見るなり何故か嬉しそうに目尻を下げた。人懐っこそうな性格が垣間見える。

「やぁ、すまない。婆さんは急用で出ているんだ」

 男は気さくに話しかけてきたが、弥助の目には立っているのもやっとのように見えた。だいぶ病状が進んでいるらしい。

「へぇ、でしたら玉子だけお台所に置かせていただいて、お代は明日またいただきに上がりますんで」

「あぁ、そうしてくれ」

 男はそう言いながらも、どこか残念そうだ。寝たきりの生活にようやく話し相手を見つけたものの、会話が早々に打ち切られたせいかもしれない。弥助は、男が先ほど見せた嬉しそうな顔を思い出した。まだ若く身分ある者が病に侵され、こんなにも痩せ細った姿は哀れでもあった。

 弥助が足を返しかけたとき、男が激しく咳き込んで身体をかがめた。慌てて駆け寄ると、咳き込みながらも男はそれを片手で制した。

「待て、あまり、近づくな、労咳ろうがいなんだ」

 言い終わらないうちに弥助は男の肩を支え、離れ家に上がる。敷きっぱなしのとこの上に男を座らせた。前屈みになって咳き込む男の背を擦ってやる。

「近づ、くなと、言う、のに」

 男は苦しそうに咳の合間に切れ切れにつぶやく。

「近づかずに介抱ができましょうか」

 弥助は男の咳が落ち着いたところで、身体を支え、床へ横たわらせてやった。男はおとなしく横になりながら、弥助を見上げる。その目は先程までと違い、やけに幼く見えた。

 去年亡くなった弥助の妹も、こうして褥の上から痩せてより大きくなった目で弥助を見上げてきたのだった。兄を心配させまいと、最後の最後まで笑顔を絶やさなかった。貧しい生活でろくに療養もできず、寝たきりで最後は骨と皮ばかりになって死んだ。

 世間は攘夷だ、勤王だ倒幕だと大筒を撃ち合い、隊列を組んだ官軍が錦の御旗を掲げ町中を闊歩する中、江戸の町は戦火を免れたが、ここ数年で時勢は大きく転換したらしい。しかし、弥助たち一介の町人の生活になんら変化はなかった。この先、世間がどう変わろうと、病を得た者は天命に逆らえず死ぬ。それが世の定めなのであろう。

 弥助は男を見た。横になると余計に頬がこけて見える。

「ちゃんと、召し上がっていやすか?」

「茹玉子のことか? あぁ、それなりにな。一日3つはちと多いが」

 食べていねぇな、と弥助は思った。病状から見るに、玉子のような固形物はもう喉を通らないであろう。それでも高価な玉子を日に3つ。広く静かな植木屋の離れで療養するこの男は、家の者から大切に世話をされている。

「とにかく、栄養を摂ることが大事です。容態が落ち着いたときにはきちんと食べてくだせぇ。あっしは医者じゃありませんが、病人の世話には慣れてますんで」

「身内に病人でもいるのか?」

「5つ離れた妹が、旦那と同じ労咳持ちでして」

「……そうか。なら、今日の分の玉子はいらん」

「へ? 何故ですか?」

「その分を持ち帰って妹に食わせてやれ」

「そんなわけにはいきやせん」

 妹はもう死んでいる。その言葉は喉の奥に飲み込んだ。同じ病で療養している者に言うことではない。

「この玉子は旦那のために買われた玉子です。売っているあっしが言うことじゃありませんが、けっして安価なものじゃぁありやせん。旦那の快気を願う者のため、ご自身のため、旦那が召し上がるべきです」

「なら日に6つ買おう。そのうち3つはお前が持ち帰る。それで文句はなかろう。婆さんにも言っておくから、今日からそうしろ」

 言いながら、男がまた激しく咳き込んだ。横向きになった背中を擦ってやったあと、弥助は枕元にあった碗に水を注ぎ、身を起こした男へ手渡した。男は碗を受け取ると、弥助の手を見ながら言った。

「玉子売り、お前、剣術をやっているな?」

 それを聞いて弥助はさっと手を隠した。男は笑った。

「はは、隠すことないだろう。流派どこだ?」

「……北辰一刀流」

「ほう、立派だな」

「夢中になって竹刀を振るった時期もありやしたが、もうやめやした。町人のあっしがいくら鍛錬を重ねたところで大成することもなし」

「そんなことはないぞ。俺の師匠は、元は百姓の倅だ。道場には町人も多くいたし、出稽古の先はほとんどが農家だ。剣の才は身分などでは隔てられないということさ」

 かつてを思い出しているのか、男の瞳は生き生きと輝いた。弥助はその瞳をじっと見つめた。話すほどに打ち解けて、男は柔和な笑顔を見せる。もともと話し好きな性格なのだろう。

 弥助は男の枕元に無造作に置かれた刀をさりげなく見遣る。病に臥せりながらも、すぐ手の届く場所に刀を置いている。どんな事情があるにせよ、かなりの遣い手だったということはわかる。

「さぁ、もう横になってくだせぇ」

 長話で疲れたのか、弥助に言われて男は素直に床へ横になった。

「必ず玉子を3つ持ち帰るんだぞ」

 男は澄んだ瞳で弥助を見上げる。

「わかりやした。ありがとう存じます。旦那は養生して早く良くなってくださいね」

「はは、それは果たして本心か?」

 笑いまじりのその言葉に、弥助は内心ひやりとした。心の中を透かされた気がしたのだ。
 思わず押し黙ると、男はさらに笑いながら言った。

「俺の病が治ってしまったら、お得意先が減って困るのはお前だろう」

 横になりながらも、冗談を言う元気はあるらしい。

「心配には及びやせん。うちの玉子のおかげで病が治ったと盛大に宣伝させてもらいやすんで」

「ははは、商魂逞しいやつだな」

  弥助はその笑い声を背に、離れ家をあとにした。来たときと同じように朝顔の棚を通り抜け、植木屋の敷地を出る。
 表通りの先にもう一軒、お得意先がある。そこへ玉子を届け、その足で表店の立ち並ぶ通りを、いつものように呼び声をあげながらゆっくりと歩いた。幸い、声をかけてくる者はいなかった。


 長屋の屋根に宵闇が迫る頃、弥助は一軒の屋敷の前で立ち止まった。そっと周囲を見渡し、素早く裏門をくぐる。庭へ入り込み、身をかがめた。

内海うつみ先生」

 呼びかけるとやがて、肩の厚い大柄な男がのそりと姿を現した。

「弥助、突き止めたか」

「……へぇ」

 すると内海は興奮気味に目を見開いた。

「間違いなく、あの沖田おきた総司そうじか」

「……へぇ、間違いなく」

 それを聞いて、内海は満足げに太い腕を組んだ。目の奥がぎらりと光る。

「でかしたぞ、弥助。今晩決行する。案内しろ」

 弥助は顔を伏せたまま黙り込んだ。

「どうした? 何か問題でもあるのか」

 内海の顔を見ることができず、頭をさげたまま弥助は重い口を開いた。

「……奴は病人です。放っておいてもあとひと月ともたないでしょう。内海先生がお手を汚すことはない」

 すると内海は心底軽蔑するように、目を細めて弥助を見下ろした。

「それを決めるのはお前ではない。伊東先生の雪辱を果たすが必定」

 内海の言葉の奥にある威圧にビリリと空気が震えた気がした。弥助は頭が地面へ着くほど身を低くした。

「……承知しやした」

 弥助は内海の屋敷を出た。気持ちは水を吸った綿のように重く沈んでいる。ようやく沖田の居場所を突き止めたというのに、少しも気持ちが晴れなかった。


 内海二郎じろうが弥助の住む裏長屋を訪ねてきたのは、今からふた月ほど前のことだった。

 妹のかよが死んでからというもの、弥助は荒みきった生活を送っていた。人足仕事で得たわずかな銭はすぐに底をつき、明日の暮らしもままならない。どうとでもなれ、そんな思いが弥助のなかで日に日に大きくなっていった。そんな頃のことだ。

 粗末な長屋の戸口に突如現れた内海の姿を見て、板の間に敷いた筵のうえで寝転んでいた弥助は、慌てて居住まいを正した。内海は、弥助がかつて通っていた深川佐賀町の伊東道場で師範代をしていた男だ。

「なんだ、鼻が曲がりそうだぜ」

 入ってくるなり、内海はそう言った。夕日が戸口に立つ大柄な内海の影をさらに長くしていた。

「内海先生、ご無沙汰でございます」

 弥助は丁寧に頭を下げたが、内海はあしらうように顔の前で手を振った。

「堅苦しい挨拶はいらねぇ。おめぇの耳にも入っていることだろう。伊東先生が京でやられた」

 伊東とは、道場主であった伊東大蔵いとうたいぞうのことだ。北辰一刀流免許皆伝の腕前に、涼やかな顔立ち、さらに弁も立つとあって伊東が道場主であったその当時、道場はかなり賑わっていた。門弟も多く、弥助にとって大蔵は雲の上の存在であったが、そんな弥助にも偉ぶることなく、気さくに言葉をかけてくるような、そんな男だった。弥助は大蔵への憧れを胸に、竹刀を握り鍛錬した日々を思い出す。

 大蔵は4年前、上洛するにあたり道場を畳み、名を甲子太郎かしたろうと改めた。そして同行した内海らと共に、京で会津藩お預かりであった新撰組に加入した。
 思想を持たない弥助にとっても、それは首をかしげるような出来事だった。日頃、大蔵は勤王の志を語っていたからだ。新撰組といえば、佐幕派の末端である。互いに相容れる点があるとすれば、攘夷思想ということであろうか。

 果たして弥助が感じたその疑問は、形となって表れた。やはり、水と油が混ざり合うことはなかったのだ。昨年冬のことだ。その頃新撰組から分隊し、御陵衛士を結成していた伊東は、無念にも志半ばに殺された。手を下したのは新撰組局長近藤勇こんどういさみの一派だという。その噂は遠く江戸にも届いた。

「……やはり、本当だったんですね」

 弥助は膝の上で固く握った拳を震わせた。内海は激しい憎悪を隠さず、歯をギリギリと音を言わす。そして弥助に命じた。

「俺は絶対に奴らを許さねぇ。近藤一派は根絶やしにすべし。弥助、おめえは沖田総司という男を探し出せ。やつは新撰組随一の遣い手と言われたが、今は病で療養中だ。先月までは今戸にいたが、姿をくらませた。見つけ出してこの手でヤツをやる」

 伊東の無念を晴らしたい、その気持ちは弥助も同じだ。

「沖田という男、必ず見つけ出してみせます」二つ返事で承知した。

 内海から沖田総司の風貌や人となりを聞いた弥助は、すぐにも探索を開始した。
 ふだん屋敷の奥に引きこもっているであろう病人を探し出すには、どうしたらいいだろうか。考え抜いた末、玉子を売り歩くことにした。

 沖田がかつて療養していたのは、幕府軍医である松本良順りょうじゅんの今戸の邸宅であったという。現在は場所を移ったとしても、手入れの行き届いた優遇された場所であろうことは想像に難くない。果たしてその目論見は当たった。お得意先となった植木屋の離れ家に、療養する沖田総司を見つけ出したのだ。風貌や、話好きな性格など、内海から聞いた通りの男だった。

 だが、一つだけ違ったことがある。沖田は腕自慢が集まる新撰組においても、一二を争うほどの剣の遣い手であったという。しかし病で痩せこけた姿を見るに、その面影はどこにもなかった。その姿は弱々しく、今にも掻き消えそうな灯火だった。

 沖田を斬る。野蛮なやり方で志を絶たれた伊東を思えば、切り刻んでも足りないくらいだ。だが、あのように弱りきった者を闇討ちにすることが正しきことか、弥助の胸の内に疑念がうずく。
 伊東は確かな腕を持ちながら、決して暴力を好まなかった。それが伊東の信条でもあった。その信念は、雑輩の門下生であった弥助の心にも深く届いていたのだ。
 そして、会ったばかりの弥助の、顔も知らない妹のために玉子を買おうと言った沖田の心にも、一本筋の通った信条を感じずにはいられなかった。


 裏長屋へ戻るころには、すっかり日が落ちていた。弥助は瓦灯がとうに火をいれることもせず、急いで身支度を調えた。懐に合口あいくちを忍ばせる。もうここへ戻ることはないだろう。その決意と共に引き戸を開けたとき、大きな身体に遮られた。内海が弥助の顔を見るなり言った。

「やはり裏切るか。馬鹿め」

 内海の早い到着に、弥助はわずかにひるんだ。その隙を見逃さず、内海は太い腕で弥助の首根っこを押さえ、土間の上に組み伏せた。

「やつの居所を言え」

 弥助は土を噛みながら必死に訴えた。

「内海先生、沖田はもう刀も握れぬほど病に侵されています。とこから起き上がることすらままならない。そんな男を斬ってどうするというのです」

 内海は弥助の首を絞める指をさらに強くした。

「伊東先生の仇だ。楽に死なせはしない。やつはどこにいる。言え」

「いやだ」
 言い終わらないうちに内海に拳で殴られる。土と血の混じる味がした。

 内海が腰の刀を抜く。その一瞬の隙をつき、弥助は地面を転がって内海の腕から逃れた。同時に剣先が肩口をかすめる。鋭い痛みが走ったが、弥助は振り返らず長屋を転がり出た。絡まる足を必死に動かし、長屋の壁伝いの暗がりに身を潜める。
 すぐに、忍ぶような足音と共に大きな影が近づいてくる。弥助は息を止め、影の動きを見守った。内海はあたりを見渡し、悔しげにひとつ地団駄を踏むとやがて去って行った。

 空が白むのを待って、弥助は身体を起こした。身を潜めたまま、一睡もできなかった。
 ふらりと立ち上がる。斬られた肩に、着物が血で張り付いている。その着物も汗でじっとりと濡れていた。
 あたりの様子を窺いながらそっと裏長屋を出た。表通りに人の姿はないが、商店はそろそろ起き出す時分だ。

 弥助は肩の痛みを堪えながら歩いた。見慣れた通りの向こうに鮮やかな緑の雑木が見えてくる。このひと月の間、毎日のように訪れた場所だ。
 弥助はそっと後ろを振り返る。尾行がないことを確認すると、するっと門をくぐった。そのまま静かな足取りで朝顔の咲く庭を通り抜け、奥の離れ家へと進む。そして庭の草むらへ身を潜め、離れ家のほうを窺った。季節柄、戸は開け放たれている。とこがわずかに隆起していたが、それは人が寝ているとは思えないほど薄っぺらだった。

 弥助は草むらに身をかがめたまま、呼びかけた。

「沖田」

 とこの中の沖田は身じろぎひとつしない。

「沖田総司」

 再び弥助が呼びかけると、床の中でわずかに動いた。

「俺は深川の伊東甲子太郎先生の門下にあった弥助という者。伊東先生の無念を晴らすため、お前を斬る。だがその前にお前に問いたい。なぜ先生は志半ばで死ななければならなかったのか」

 言葉の合間に、一斉に鳴き出した蝉の声が重なる。弥助が辛抱強く待つと、床から沖田が身体を起こし、ゆらりと立ち上がった。その手にはもう刀が握られていた。沖田がゆっくりと、鞘を払う。

「猫か、斬る」

 沖田の片足が縁側を踏み、庭へ飛び降りたかと思うともうすぐ目の前に抜き身が迫っていて、弥助は慌てて合口を抜いた。がちりと音を立てて刃が合わさる。死にかけの病人のどこにそんな力があるのかと思うほど、受けた刀は重かった。

 渾身の力で弥助はなんとか刀を押し返し、体勢を整える。沖田は2、3歩下がりながらも、突きの構えを見せた。その目は冷たく冴え渡り、つい昨日雑談に応じたあの気楽さはどこにもなかった。

 沖田から放たれる気迫だけで、弥助の合口を持つ手が震える。格が違いすぎる。これが、沖田総司という男の剣士たる矜持か。
 弥助にはもとより沖田を斬る覚悟はなかった。病人と、どこか侮っていた。哀れんでもいた。だが沖田は、そんな心持ちで対峙できるほど容易い男ではなかったのだ。

 ──斬られる。

 弥助は瞬時にそう悟った。眼前に白刃が迫る。しかしそれは弥助の身体を貫くことなく、虚しく空を斬った。沖田が膝から崩れ落ち、苦しそうに喘ぐ。地面についた手が弱々しく土を掻いた。
 弥助は沖田へ腕を伸ばす。思うよりも先に身体が動いていた。薄い肩を抱え起こし、離れ家の床の上へ運んで寝かせた。
 荒い呼吸がやがて静かになる。すぅっと瞼が閉じ、細い寝息が聞こえてきた。弥助は沖田の寝顔を見ているうち、何故だか涙が止められなかった。命のり取りに慣れきった男の顔に、計り知れないほどの覚悟を見た気がした。

 なぜ、伊東が死ななければならなかったのか。沖田の口からそれが語られることはない。
 だがあの一瞬、対峙してわかった。行ったこともない京の町に吹き付ける砂嵐。その風に香る血生臭さに、呼吸を忘れて怯える己れを見るかのようだ。
 伊東あのかたはどの道、生き残れやしなかったろう、そう思った。


 降り出した細雨の気配に、沖田はうっすらと目を開けた。
 離れ家の戸は開け放たれ、湿った空気があたりに漂う。薄暗い室内にただひとりきり、何やらぼんやりと夢を見ていた心地がした。それは短くて長い、ほんのりと懐かしい、在りし日の夢だった。
 夢か現か判然としない頭が次第に記憶を取り戻す。あの血の沸き立つような一瞬の行動。

「もはや猫すら斬れんか」

 床の中から天井を見上げ、自嘲する。

「もう逃げてしまったかな……」

 何もかもが億劫になり目を閉じると、死んでいった者の顔がどうしてか順番に思い起こされる。やがて彼らの横に己れも加わるであろう。
 あぁ、いつだろう。明日か、明後日か。それを静かに待つ日々のなかで、なぜあの男はひょっこり現れたのか。まるで死神のように。

「いっそ殺されてやれば良かったかな」

 ふふっと笑みが漏れた。待つだけなのは退屈で仕方がない。この足が動く限り追い続けたいのに、それももう叶わない。

 瞼を閉じると、暗闇に己れが溶けていくようだ。雨に濡れた草葉の匂い──。


(了)
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