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・第九話「執政官蛮姫を思うる事」
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レーマリア帝国執政官カエストゥス・リウスは物思いに沈む。
執政官として、そして個人として。
執政官として思うのは祖国の未来、就中今緊急の問題たる東吼との戦争だ。
被害は最小限に留めてきた。だが零ではない。それは既に苦悩と苦渋の対象だ。
帝国の兵制は歴史的経緯により複雑怪奇で、本来の正式な市民徴兵による正規軍である筈の国家軍団と国家海軍は減少して久しく、もう本土の中枢にしか存在していない。出撃にも元老院の許可が必要だ。今回は未だ出撃できていない。まあ徴兵された一般市民には犠牲者を出していないとも言えるが、逆に言えば数も多く無ければ実戦経験も無いのでどこまで頼れるか。
就任以前の過去の政争等の理由で設立された司祭達からなる教帝を護衛し教帝が指揮する教帝近衛隊と志願者からなる執政官を守り執政官が指揮する執政官親衛隊は、前者は全員ある程度神秘を使え、後者も一応志願制で自分を主君と仰ぐ家臣達でやる気はありそこそ戦力となる筈だ。……この私的主従関係の問題をアルキリーレに説いた身ではあるが、問題があるにせよそれを持っていなければ無防備に等しいというのもこのレーマリア政界ではあった。兎も角どちらもそれなりの利点はあるがやはり何れも実戦経験に乏しくまた規模も小さい。
最大の兵力であり最大の問題でもある地方軍団と地方艦隊。地方に地盤を持つ貴族達の力の増大により生まれた軍管区制に基づく、各地の貴族達を主君と仰ぐ家臣達による地域独自の徴兵対象者や志願者や傭兵による混成軍隊……地域の自主性が高すぎる故に、地域毎に徴兵か志願か雇用か等その内実は異なる。望まずとも地域の力関係的に参加せざるを得なかった地方徴兵者は不幸中の幸いというべきかこれまでの戦いではすぐに逃げ散っていて犠牲者はほぼ無い。いや良くない。そのせいで幾つかの街が孤立包囲したり降伏したりしている。それらの市街で略奪による死傷者が発生せぬよう交渉と手は尽くしたが。傭兵もあくまで商売の範囲としてしか戦わないし、志願者も共同体や個人への忠誠で踏み留まる者もあれば利害関係故の参戦と利に対する程々の対価としてある程度のみ戦うだけの者も多い。
何とかしなければ。今はまだ小競り合いで済んでいるとはいえ、小競り合いでも少しづつ不幸になる人は出ているのだ。それに思いを馳せぬ日は無い。思いを馳せぬ日は無いが、どうしていいか分からない。分かったとして、果たして己に出来る事はあるか。容赦の無い手が取れるかどうか。そんな己が駄目な奴である事は分かっている。幾ら苦手だからと言って、政治家として駄目な事は分かっているが……
(……それを彼女は何とかすると言っていたが……)
軍事に関しては、こうした内面の時間でもとりとめの無い事実の再確認にしかならない程発想力に欠ける自分。そんな自分が出会った彼女。
(アルキリーレ)
最初は全くの偶然の出会いだった。尤も、美しい女性を好むレーマリア男の気質を考えれば、あの時他の誰かが声を掛ける前に自分が最初に声を掛けられたのはある意味奇跡的・運命的ではあったが。
困っている女性は助けなければならない、美しいようだからお近づきになれれば尚良しと、単純に考えて接近したが。
(あんな人は初めてだ)
強く誇り高く、そして友人ペルロも感じている通り、傷ついた人。初めてその目を深く覗き込んだときから感じていた、見た事の無い感触。
悲しい思いをした女性を慰める事は何時もしてきた。困っている人、失恋した人、不幸があった人、悩んでいる人。困っている事を解決し、心を慰め、不幸を埋め、悩みを解きほぐしてきた。
だけどアルキリーレは、何もかも無くした人だ。強い自分以外何も残らなかっただけじゃ無い。自分の弱い部分すら無くしてしまった人だ。
愛する事でそれを解きほぐしてあげる事もとても難しい。何故なら、弱い自分と一緒に愛する心も愛される心も無くしてしまっている人だ。
彼女が愛した民は彼女を愛してくれなかったという。……北摩の社会構造からすれば、戦士支配階級に対して民はあまりに弱い。何も出来なかった事は仕方なかったかもしれない。だがそれでも。
(私は彼女に何が出来るだろう)
料理を食べた時の、お酒を飲んだ時のぱっと明るくなった顔を思い出す。
(ああいう顔が出来るなら、心は完全に殺伐に沈みきっていない筈だ)
私は何が出来るだろう。出来ない事はしたたか思い知ったが。
私はよく語る事が出来る。人の望みを読む事が出来る。人の苦しみを知る事が出来る。それらを満たす為の提案が出来る。料理が出来る。歌が歌える。楽器が弾ける。演劇も出来る。馬に乗れる。小舟に乗れる。私は私の試算を効率的に運用できる。荘園の運営も出来る。予算を動かし経済を考える事が出来る。そしてそれらを共に働く者の懐と心を満たす形で行う事が出来る。服飾や花や宝石の目利きが出来る。女性を尊重する事は、普段ならできる。アルキリーレの誇りを考える事は出来なかった。そこはもっと習熟せねば。
全く己はつくづく文弱で、平和呆けした国の政治派閥力学的都合で当選した面も否定できない戦においては駄目な執政官だ。……先代や先々代等近代に於けるこの帝国の執政官やそれを選ぶ元老院貴族や実際に兵となる民が皆そうだったからこそ積み重なった軍の弱さ等の面もあるが、客観視の名の下にそれに原因を帰そうとすればそれは唯の卑怯な責任逃れだ。その位の恥は知っている。知っているが……
嗚呼、全く、つくづくこんなに反省しても祖国と女を並べる事が止められないか。
私は、カエストゥスは、アルキリーレに、この国に何が出来るだろう。
執政官として、そして個人として。
執政官として思うのは祖国の未来、就中今緊急の問題たる東吼との戦争だ。
被害は最小限に留めてきた。だが零ではない。それは既に苦悩と苦渋の対象だ。
帝国の兵制は歴史的経緯により複雑怪奇で、本来の正式な市民徴兵による正規軍である筈の国家軍団と国家海軍は減少して久しく、もう本土の中枢にしか存在していない。出撃にも元老院の許可が必要だ。今回は未だ出撃できていない。まあ徴兵された一般市民には犠牲者を出していないとも言えるが、逆に言えば数も多く無ければ実戦経験も無いのでどこまで頼れるか。
就任以前の過去の政争等の理由で設立された司祭達からなる教帝を護衛し教帝が指揮する教帝近衛隊と志願者からなる執政官を守り執政官が指揮する執政官親衛隊は、前者は全員ある程度神秘を使え、後者も一応志願制で自分を主君と仰ぐ家臣達でやる気はありそこそ戦力となる筈だ。……この私的主従関係の問題をアルキリーレに説いた身ではあるが、問題があるにせよそれを持っていなければ無防備に等しいというのもこのレーマリア政界ではあった。兎も角どちらもそれなりの利点はあるがやはり何れも実戦経験に乏しくまた規模も小さい。
最大の兵力であり最大の問題でもある地方軍団と地方艦隊。地方に地盤を持つ貴族達の力の増大により生まれた軍管区制に基づく、各地の貴族達を主君と仰ぐ家臣達による地域独自の徴兵対象者や志願者や傭兵による混成軍隊……地域の自主性が高すぎる故に、地域毎に徴兵か志願か雇用か等その内実は異なる。望まずとも地域の力関係的に参加せざるを得なかった地方徴兵者は不幸中の幸いというべきかこれまでの戦いではすぐに逃げ散っていて犠牲者はほぼ無い。いや良くない。そのせいで幾つかの街が孤立包囲したり降伏したりしている。それらの市街で略奪による死傷者が発生せぬよう交渉と手は尽くしたが。傭兵もあくまで商売の範囲としてしか戦わないし、志願者も共同体や個人への忠誠で踏み留まる者もあれば利害関係故の参戦と利に対する程々の対価としてある程度のみ戦うだけの者も多い。
何とかしなければ。今はまだ小競り合いで済んでいるとはいえ、小競り合いでも少しづつ不幸になる人は出ているのだ。それに思いを馳せぬ日は無い。思いを馳せぬ日は無いが、どうしていいか分からない。分かったとして、果たして己に出来る事はあるか。容赦の無い手が取れるかどうか。そんな己が駄目な奴である事は分かっている。幾ら苦手だからと言って、政治家として駄目な事は分かっているが……
(……それを彼女は何とかすると言っていたが……)
軍事に関しては、こうした内面の時間でもとりとめの無い事実の再確認にしかならない程発想力に欠ける自分。そんな自分が出会った彼女。
(アルキリーレ)
最初は全くの偶然の出会いだった。尤も、美しい女性を好むレーマリア男の気質を考えれば、あの時他の誰かが声を掛ける前に自分が最初に声を掛けられたのはある意味奇跡的・運命的ではあったが。
困っている女性は助けなければならない、美しいようだからお近づきになれれば尚良しと、単純に考えて接近したが。
(あんな人は初めてだ)
強く誇り高く、そして友人ペルロも感じている通り、傷ついた人。初めてその目を深く覗き込んだときから感じていた、見た事の無い感触。
悲しい思いをした女性を慰める事は何時もしてきた。困っている人、失恋した人、不幸があった人、悩んでいる人。困っている事を解決し、心を慰め、不幸を埋め、悩みを解きほぐしてきた。
だけどアルキリーレは、何もかも無くした人だ。強い自分以外何も残らなかっただけじゃ無い。自分の弱い部分すら無くしてしまった人だ。
愛する事でそれを解きほぐしてあげる事もとても難しい。何故なら、弱い自分と一緒に愛する心も愛される心も無くしてしまっている人だ。
彼女が愛した民は彼女を愛してくれなかったという。……北摩の社会構造からすれば、戦士支配階級に対して民はあまりに弱い。何も出来なかった事は仕方なかったかもしれない。だがそれでも。
(私は彼女に何が出来るだろう)
料理を食べた時の、お酒を飲んだ時のぱっと明るくなった顔を思い出す。
(ああいう顔が出来るなら、心は完全に殺伐に沈みきっていない筈だ)
私は何が出来るだろう。出来ない事はしたたか思い知ったが。
私はよく語る事が出来る。人の望みを読む事が出来る。人の苦しみを知る事が出来る。それらを満たす為の提案が出来る。料理が出来る。歌が歌える。楽器が弾ける。演劇も出来る。馬に乗れる。小舟に乗れる。私は私の試算を効率的に運用できる。荘園の運営も出来る。予算を動かし経済を考える事が出来る。そしてそれらを共に働く者の懐と心を満たす形で行う事が出来る。服飾や花や宝石の目利きが出来る。女性を尊重する事は、普段ならできる。アルキリーレの誇りを考える事は出来なかった。そこはもっと習熟せねば。
全く己はつくづく文弱で、平和呆けした国の政治派閥力学的都合で当選した面も否定できない戦においては駄目な執政官だ。……先代や先々代等近代に於けるこの帝国の執政官やそれを選ぶ元老院貴族や実際に兵となる民が皆そうだったからこそ積み重なった軍の弱さ等の面もあるが、客観視の名の下にそれに原因を帰そうとすればそれは唯の卑怯な責任逃れだ。その位の恥は知っている。知っているが……
嗚呼、全く、つくづくこんなに反省しても祖国と女を並べる事が止められないか。
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