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第3章 独占欲の行方
チョコレート
しおりを挟む「斎藤は、昨日づけで、退職いたしました」
「……え?」
その瞬間、まるで鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
車の前で立ち尽くしたまま、結月はただただレオを見上げる。
「た……退職?」
「はい」
「ま、まって! 辞めたって、どうして!? 昨日は、そんなこと一言も……!」
信じられないとばかりに、結月は唇を震わせた。
昨日、学校に迎えに来てくれた時、斎藤は普段通りだった。辞める話なんて話、一言も聞いていない。それに
「そんなはず、ないわ……だって、私になんの挨拶もなく辞めるなんて……っ」
あの斎藤に限って、そんなことありえない。
だが、そう訴える結月に、レオは
「突然決まったことでしたので……それより、今日は、早朝授業がございます。そろそろ出発しないと遅れてしまいますよ」
「……ッ」
再び、車に乗るよう促されると、結月はぐっと息をつめた。
聞きたいことも、納得いかないこともたくさんあった。
だが、確かに学校に遅刻するわけにはいかない。
結月は、差し出された執事の手をとると、しぶしぶ車の中へと乗り込んだ。
「五十嵐……運転できるの?」
結月の後に続き、レオもまた運転席に乗り込むと、それを見て、結月が背後から声をかけた。
後部座席から斜め前を見れば、若々しい男性後ろ姿がある。
いつもとは違う──「斎藤」ではない後ろ姿。
「はい、ご心配には及びません。ちゃんと免許も持ってますよ」
「そう……学校の場所は?」
「存じております。この辺りの地理には詳しいので。それに斎藤の仕事は、全て私が引き継ぎましたので、ご安心ください」
「…………」
淡々と執事が答えると、結月はその後レオから視線をそらし、車の外を見つめた。
(どうして……っ)
ゆっくりと車が動き出す。
車窓から見える空は、とても澄み渡っているのに、結月の心は、まるで土砂降りの雨が降り注いでいるかのように、ひどく暗然としていた。
✣
✣
✣
その後、高校に着くと、校内の広々としたロータリー前で、レオが車を停めた。
結月が通う高校「純心女子学院」は、いわゆるお嬢様ばかりが通う"女子校"だ。
社長や医者の娘に、財閥や政治家の娘。中学からのエスカレーター式のため、朝ロータリーで見る顔も、見知った顔のお嬢様ばかりだった。
「お嬢様、着きましたよ」
そして、後部座席のドアが開いたかと思えば、執事がサッと手を差し出してきて、結月は呆然とした意識を覚醒させた。
素直に手を取り、ゆっくりと車から降りる。
だが、斎藤のことが、よほどショックだったのか、結月の顔は、酷く沈んでいた。
レオはそれを見て、スーツのポケットから何かを取りだすと
「どうぞ」
「え?」
「チョコ、食べる?」
そう言って差し出されたそれは、個包装されたチョコレートだった。
すると、執事の手の平に乗せられたチョコを見て、結月は呆然と
「うん。食べ……って、食べるわけないでしょ!?」
だが、すぐさま我に返った結月は、慌ててそれを撤回する。
「な、何を考えてるの! ここ学校なのよ、お菓子なんて食べていいわけ……それに、あなた今……っ」
しかも、あろうことか、この執事、お嬢様に向かって、タメ口を使ったのだ!
普段は礼儀正しく、丁寧な言葉遣いで対応するくせに、いきなり「食べる?」なんてフレンドリーに言い放つものだから、結月は酷く困惑する。
「そ……チョコ、早くしまって……っ」
「あぁ、このような安物のチョコを食べているなんて、ご学友に思われたくありませんか?」
「ち、違うわ! そういうこと言いたいんじゃなくて、私は校則違反だから、しまってほしいといってるの! ──て、それ安物なの!?」
「はい。スーパーで、一袋100円で売っているチョコです。お嬢様が、いつも食べてる高級チョコとは全く違う、庶民の味です」
「っ……嫌味たらしいこと言わないで!? それに、いつも食べてるチョコが高級かどうかなんてわからないわ! 私は、愛理さんが選んできてくれたものを食べてるだけだもの!」
(……相変わらずだな。この世間知らず)
さすが、お嬢様とでもいうべきか?
少し懐かしい記憶を思い出しつつ微笑めば、レオはその後、手にしたチョコレートの包装をとき、自分の口の中に放りこんだ。
「ちょ……!?」
「お嬢様もいかがですか? 安いですが、そこそこいけますよ?」
「……っ」
タメ口を使ったばかりが、"主の前でお菓子を食べる"という執事としてあるまじき行為に、結月の目には、自然と涙が浮かびはじめる。
なぜ、急にそんな意地悪をするのか?
その意図が全く分からない。
「なんなの急に……っ。私のこと困らせたいの? 斎藤は、そんなこと一切しなかったわ!」
「…………」
周囲では、他の学生達が運転手たちと軽く会話を交わしたあと、校舎に入って行くのが見えた。
周りの目が気になったのか、それとも無礼すぎる執事に困惑しているのか、涙目で困りはてる結月に、レオは苦笑する。
「別に、困らせたいわけではありませんよ。とても辛気臭い顔をされていたので、気持ちを和らげようと思っただけです。せっかく可愛らしいお顔をされているのですから、笑わないと勿体ないですよ?」
「……っ」
じわりと浮かんだ涙を拭うように、執事の手がそっと目尻に触れた。
だが、その感触は逆に涙を誘うもので、今まで押さえていた感情が、喉の奥から、次々と溢れ出してくる。
「どうやって笑えっていうの!! 急に辞めたのよ、斎藤が! ずっと、幼い頃から側にいてくれたの! 私が物心つくころから、ずっと……っ」
幼い頃から、ずっと学校への送り迎えをしてくれた。
車の中の時間は、いつも楽しくて、悩み事や不安があれば、親の代わりに聞いてくれた。
そんな斎藤は、結月にとって、実の父より"父親らしい人"だった。
だが、そんな人との別れが、まさかこんなあっさり訪れるなんて──
「五十嵐には、分からないわ……私にとっては、家族のような人だったの! 父親のような人だったの! それなのに……っ」
結月の悲痛な声は、ひどく胸をうった。
その気持ちは、痛いほど分かってるつもりだった。でも……
「お嬢様は、そう思っていたかもしれませんが、斎藤は違ったのでしょうね?」
「……え?」
視線をそらさず、真っ直ぐに発せられた言葉に、結月は息を呑む。
なにより、その言葉は、酷く胸に付き刺さった。
「斎藤は……違う?」
「はい。使用人を家族のように思うのは結構ですが、それでも彼らは、お嬢様の家族ではありません。旦那様に金で雇われ、お嬢様のお世話をしているに過ぎない。彼らが、あなたの側にいてくれるのは──あなたが、お嬢様だからですよ」
「……ッ」
目尻に溜まった涙が、今にも溢れ出しそうになった。
それは、とっくの昔に、叩きつけられていた現実だった。
そして、それを、再度、自覚させられた気がした。
「そんなの、わかってるわ……ッ」
それでも結月は、絞り出すような言葉を発すると
「それでも私にとっては、家族のように大切な人達なの!!」
怒り任せに叫ぶと、その後、逃げるように校舎の中へと走りだした。
「お嬢様」
だが、そんな結月を、レオが再び呼び止める。
「これ、食べたくなったら、いつでも言ってくださいね?」
「……っ」
そう言って見せつけられたのは、先程、差し出されたチョコレート。
だが、反省の色もなく、どこか余裕そうな笑顔を浮かべてる執事に、結月は
「いりません!!」
そう、はっきりと拒絶の言葉を返すと、再び校舎の中へと駆け出していった。
「あーぁ……振られちゃったな」
走り去った結月を見つめ、レオは残念そうに呟く。
だが、そう言いつつも、その表情は一切残念そうではなかった。
この屋敷にきて、初めて結月の取り乱した顔を見た。
いつも穏やかで、顔色一つ変えないお嬢様。
それはまるで、感情のない「人形」のようだった。
(泣いた顔……久しぶりに見た)
落ち込んだ顔も、怒った顔も、久しぶりに見た。
変わり映えのしない毎日に、感情が薄れてきたのなら、その感情を揺さぶればいい。
泣かないなら、泣かせてみればいい。
怒らないなら、怒らせてみればいい。
笑えないなら、笑わせてあげればいい。
目に涙を溜めて必死に叫ぶ姿は、酷く痛々しかった。
だけど、その姿にほんの少しだけ、あの頃の結月が戻って来たような気がした。
「家族……か」
先程の結月を言葉を、改めて復唱する。
結月にとって、使用人達は「家族」のように大切な人達。
そんなの、よくわかってる。
だけど──
「もう、あんな人たち、必要ない」
結月、君の家族は──
「俺、一人で……十分だ」
愛しい人の背を見つめ、ボソリと呟いた執事のその言葉は、朝の雑踏の中に、静かに掻き消えていった。
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