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章1
幕間 【どこかの世界の誰かの話:灯火】 (2)
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現れた火の玉が悪魔イグニス・ファトゥスであることを、俺は直感的に悟っていた。
周囲をふわりと舞う炎には目玉すらないが、値踏みするように体を観察されているのが分かる。
『あなた……あたしたちと契約するにしても、あたしたちの仲間になるにしても、ちょっと適性低すぎね。
こんなんでよくあたしを呼べた……って言いたいところだけど、あたしたぶん、あなたのその香りに引き寄せられたんだわ』
「香り?」
『あなた自身からじゃない。あなたの体から、甘い香りがする。……運命の子と交合しているでしょう?』
運命の子、と言われて、思い当たらないわけがない。
とはいえ、レイアの部屋に万一にも証拠を残さないよう、身を清めてから行動に移している。
イグニス・ファトゥスのいう香りというのが、そのまま彼の移り香だとは思えないが。
「……ヤクモのことか」
『そう! その子よ。あなたはその子とは、どれくらいの頻度で交わっているの?』
「なんでンなこと言わなきゃならねえんだよ」
人間のことなど食い物としか思っていないだろう女に、そんなでばがめをされる理由が分からない。
まさか興味があるわけでもあるまし、訊き返すと悪魔はごく親切に答えを寄越した。
『何をしたいか知らないけど、あたしの力が必要で、だからあたしを呼んだんでしょ? 対象が運命の子なら、性行為でも対価にできるわ』
なるほど、そういうことか。
手っ取り早い話は嫌いではない。
ヤクモの何が悪魔に好まれるのかは分からないが、おそらくガイアのキャパシティと関係しているのだろう。
『で、あなたはその子と恋仲か何かなのかしら?』
「いや……俺はただ、勇者サマの夜伽担当なだけだ」
『あらそう。それじゃあ毎晩お相手してるの? あなたと契約すれば、しばらく食うに困らなさそうね』
「……ああ。だが、俺の望みは――」
悪魔、イグニス・ファトゥスとの接触には成功した。
すぐにでも融合の流れに持ち込みたかったが、悪魔は『人じゃなくなるのよ、有限の終わりを楽しみなさい』と言って一日だけそれを引き伸ばした。
終わりを楽しめといったって、何をしろというのだろう。
明日世界が破滅するわけでもなければ他に大切にしているものなんかもない。
自分の在り方が変わるだけで、周囲が変わるわけではない。
結局、ヤクモのもとへ戻って一緒に眠り、ヤクモの訓練に付き合って、事務処理程度の雑務を片付けて。
夜にはいつもと同じに彼に求められ、体を預けた。
小休憩を挟んで、再び受け入れて、その夜更け。
ぺったりとくっついてくるヤクモの腕の中でふと、わがままを言ってみたくなった。
「コーヒーのみたい」
この時間に厨房が使えるとは思えない。
材料も必要だろう。
実現のさせようがない無意味なおねだりに、ヤクモはきょとんと目を瞬かせた。
「えっ? 俺の作ったたんぽぽコーヒー、おまえくそ不味いってさんざん」
「いれて」
「でも苦いよ?」
「まずくても、にがくてもいいから、いれて」
人ではないものになること。
永遠をさまよう存在になること。
自分は、恐れを知らずにいられるほど豪傑でもなければ、誰かのために身を投げ打てるほどの情熱だって持ち合わせていない。
それでも、彼を帰してやりたいと思う気持ちは捨てようがなくて。
これから過ごす長い時間の一部だけでも、彼のそばで、いい思いができればそれでいいじゃないか、なんて。
そんなことを思ってしまった。
しまったな。
ああ。これは。
「……うん。朝、ウィリーが起きる頃には、準備しておくよ」
すべてをこの目に焼き付けて、覚えていようと思う。
彼がいなくなっても、ひとりきりで永遠を生きる時が訪れても、変わらずこの思いを抱えていられるように。
幸い、見たものをそっくりそのまま覚えてしまうのは得意分野だ。
ヤクモの唯一持ってきた本だって、もう全ページ記憶できている。
あいつの故郷の文字はまだ読めないが、いつか、俺も読めるようになったら、この夜を思い出しながら読むのだろう。
読み進めるのを邪魔するみたいに、こいつが隣で大いびきかいてたらきっと愉快だろうな。
その時おまえは、いくつになってるんだろうな。
もっと背伸びてるか。
ハゲてきてたら笑ってやろう。
……そんな未来は、たぶん来ない。
「ていうかなんか……さっきの言い方えっちくない?」
ヤクモはあちらの世界で、まっとうな恋をして、まっとうな大人になるのだ。
この戦いを終えてもいつまでもこんな日陰者に構っていられちゃ、こっちが迷惑だと突き放してやる。
だから、いまは。
「キスしてくれるなら、そういうことにしてもいいぜ」
悪魔イグニス・ファトゥスとの融合で、無事主導権を握ることができた。
というよりも、彼女はこの永遠から「降りたかった」ように思う。
競合する意識の中、彼女は至極あっさりと”自分”を手放し、俺にイグニス・ファトゥスの肩書きと能力、そして彼女の持っていた知識のすべてを継承させて消えていった。
受け継いだ知識は膨大で、頭痛と吐き気に苛まれながらヤクモの部屋に戻るのにはひどく苦労したものだ。
一眠りすれば、彼は昨晩の戯言を真に受けて泥水のような味の飲み物をこしらえてくる。
大丈夫だ。切り札は手に入った。
俺さえ間違えなけりゃ、ヤクモは無事、故郷に帰ることができる。
闇目の正体、創造主のこと、この悪魔の肉体は”栄養”をとらねば人型を保てなくなること。
空いていた本棚に急に山ほど書籍が詰め込まれていく感覚に、抗わず目を閉じる。
まどろんでいると、隣で寝息を立てていたはずのヤクモがそっとベッドから抜け出した。
そろそろ朝がやってくる。
約束の通り、コーヒーの材料となるあの雑草を取りに行ったのだろう。
彼が抜け出して空間の空いたベッドは、少し肌寒かった。
周囲をふわりと舞う炎には目玉すらないが、値踏みするように体を観察されているのが分かる。
『あなた……あたしたちと契約するにしても、あたしたちの仲間になるにしても、ちょっと適性低すぎね。
こんなんでよくあたしを呼べた……って言いたいところだけど、あたしたぶん、あなたのその香りに引き寄せられたんだわ』
「香り?」
『あなた自身からじゃない。あなたの体から、甘い香りがする。……運命の子と交合しているでしょう?』
運命の子、と言われて、思い当たらないわけがない。
とはいえ、レイアの部屋に万一にも証拠を残さないよう、身を清めてから行動に移している。
イグニス・ファトゥスのいう香りというのが、そのまま彼の移り香だとは思えないが。
「……ヤクモのことか」
『そう! その子よ。あなたはその子とは、どれくらいの頻度で交わっているの?』
「なんでンなこと言わなきゃならねえんだよ」
人間のことなど食い物としか思っていないだろう女に、そんなでばがめをされる理由が分からない。
まさか興味があるわけでもあるまし、訊き返すと悪魔はごく親切に答えを寄越した。
『何をしたいか知らないけど、あたしの力が必要で、だからあたしを呼んだんでしょ? 対象が運命の子なら、性行為でも対価にできるわ』
なるほど、そういうことか。
手っ取り早い話は嫌いではない。
ヤクモの何が悪魔に好まれるのかは分からないが、おそらくガイアのキャパシティと関係しているのだろう。
『で、あなたはその子と恋仲か何かなのかしら?』
「いや……俺はただ、勇者サマの夜伽担当なだけだ」
『あらそう。それじゃあ毎晩お相手してるの? あなたと契約すれば、しばらく食うに困らなさそうね』
「……ああ。だが、俺の望みは――」
悪魔、イグニス・ファトゥスとの接触には成功した。
すぐにでも融合の流れに持ち込みたかったが、悪魔は『人じゃなくなるのよ、有限の終わりを楽しみなさい』と言って一日だけそれを引き伸ばした。
終わりを楽しめといったって、何をしろというのだろう。
明日世界が破滅するわけでもなければ他に大切にしているものなんかもない。
自分の在り方が変わるだけで、周囲が変わるわけではない。
結局、ヤクモのもとへ戻って一緒に眠り、ヤクモの訓練に付き合って、事務処理程度の雑務を片付けて。
夜にはいつもと同じに彼に求められ、体を預けた。
小休憩を挟んで、再び受け入れて、その夜更け。
ぺったりとくっついてくるヤクモの腕の中でふと、わがままを言ってみたくなった。
「コーヒーのみたい」
この時間に厨房が使えるとは思えない。
材料も必要だろう。
実現のさせようがない無意味なおねだりに、ヤクモはきょとんと目を瞬かせた。
「えっ? 俺の作ったたんぽぽコーヒー、おまえくそ不味いってさんざん」
「いれて」
「でも苦いよ?」
「まずくても、にがくてもいいから、いれて」
人ではないものになること。
永遠をさまよう存在になること。
自分は、恐れを知らずにいられるほど豪傑でもなければ、誰かのために身を投げ打てるほどの情熱だって持ち合わせていない。
それでも、彼を帰してやりたいと思う気持ちは捨てようがなくて。
これから過ごす長い時間の一部だけでも、彼のそばで、いい思いができればそれでいいじゃないか、なんて。
そんなことを思ってしまった。
しまったな。
ああ。これは。
「……うん。朝、ウィリーが起きる頃には、準備しておくよ」
すべてをこの目に焼き付けて、覚えていようと思う。
彼がいなくなっても、ひとりきりで永遠を生きる時が訪れても、変わらずこの思いを抱えていられるように。
幸い、見たものをそっくりそのまま覚えてしまうのは得意分野だ。
ヤクモの唯一持ってきた本だって、もう全ページ記憶できている。
あいつの故郷の文字はまだ読めないが、いつか、俺も読めるようになったら、この夜を思い出しながら読むのだろう。
読み進めるのを邪魔するみたいに、こいつが隣で大いびきかいてたらきっと愉快だろうな。
その時おまえは、いくつになってるんだろうな。
もっと背伸びてるか。
ハゲてきてたら笑ってやろう。
……そんな未来は、たぶん来ない。
「ていうかなんか……さっきの言い方えっちくない?」
ヤクモはあちらの世界で、まっとうな恋をして、まっとうな大人になるのだ。
この戦いを終えてもいつまでもこんな日陰者に構っていられちゃ、こっちが迷惑だと突き放してやる。
だから、いまは。
「キスしてくれるなら、そういうことにしてもいいぜ」
悪魔イグニス・ファトゥスとの融合で、無事主導権を握ることができた。
というよりも、彼女はこの永遠から「降りたかった」ように思う。
競合する意識の中、彼女は至極あっさりと”自分”を手放し、俺にイグニス・ファトゥスの肩書きと能力、そして彼女の持っていた知識のすべてを継承させて消えていった。
受け継いだ知識は膨大で、頭痛と吐き気に苛まれながらヤクモの部屋に戻るのにはひどく苦労したものだ。
一眠りすれば、彼は昨晩の戯言を真に受けて泥水のような味の飲み物をこしらえてくる。
大丈夫だ。切り札は手に入った。
俺さえ間違えなけりゃ、ヤクモは無事、故郷に帰ることができる。
闇目の正体、創造主のこと、この悪魔の肉体は”栄養”をとらねば人型を保てなくなること。
空いていた本棚に急に山ほど書籍が詰め込まれていく感覚に、抗わず目を閉じる。
まどろんでいると、隣で寝息を立てていたはずのヤクモがそっとベッドから抜け出した。
そろそろ朝がやってくる。
約束の通り、コーヒーの材料となるあの雑草を取りに行ったのだろう。
彼が抜け出して空間の空いたベッドは、少し肌寒かった。
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