10 / 69
泥だらけの靴と、消えた善意(4 狩りの時間)
しおりを挟む
雨脚が強くなってきた。 俺は泥に足を取られながらも、懸命に森の中を走った。 心臓が早鐘を打ち、息が切れる。だが、足は止められない。
――ありえない。 俺は走りながら、何度も背後を確認した。 誰もいない。闇と雨だけだ。 だが、気配が消えない。 足音もさせず、枝葉が擦れる音もしないのに、何かが「すぐそこ」にいるという圧迫感だけが背中に張り付いている。
相手はただの少女だ。 いくら常軌を逸しているとはいえ、身体能力は子供のはずだ。 大人の男、それも場数を踏んだ俺が本気で走れば、追いつけるはずがない。 頭ではそうわかっている。 だが、本能が警鐘を鳴らし続けている。 『止まるな、止まったら食われるぞ』と。
俺は崖沿いの小道を選んだ。 地盤が緩く危険だが、ここを抜ければ国道に出られる。車を止めて逃げれば、俺の勝ちだ。
「……ハァ、ハァ……!」
木の根に躓きそうになりながら、俺は斜面を駆け下りた。 あと少し。あと50メートルでガードレールが見える。 助かる。
その時だった。 頭上から、クスクスという笑い声が降ってきた。
「見ぃつけた」
え? 俺が顔を上げるより早く、黒い塊が樹上から落下してきた。 ドサッ! 目の前の地面に、少女が着地する。 音もなく。膝のクッションだけで衝撃を吸収して。
パジャマ姿のまま。泥ひとつついていない裸足。 彼女は、まるで公園で遊んでいるような無邪気な顔で、逃走経路を塞いでいた。
「な……なんで、前に……!?」
俺は絶句して後ずさった。 先回りされた? あの悪路を? しかも木の上を伝って? 人間じゃない。野生動物でも、こんな動きはできない。
「おじさん、足が遅いのね」
世璃が、首をコテンと傾げた。 その口元は、まださっきの血で赤く濡れている。
「あたし、10秒数えてあげたのに。 まだこんな所にいるんだもの」
「く、来るな……!」
俺は懐から護身用のナイフを取り出した。 震える手で構える。 相手は子供だ。化け物だろうがなんだろうが、刺せば死ぬはずだ。
「どけ! どかないと刺すぞ!」
俺が叫ぶと、世璃は目を丸くした。 そして、面白そうに目を細めた。
「すごい。爪(ナイフ)を持ってるんだ。 でもね、おじさん。 この森は、あたしの庭なの。 ここではね、あたしがルールなの」
少女の姿がブレた。 消えた? いや、速すぎる。 視界から消失した次の瞬間、俺の手首に激痛が走った。
「ぐあぁッ!?」
バキッ、という嫌な音がして、ナイフを取り落とす。 俺の手首は、ありえない方向に曲がっていた。 いつの間にか懐に入り込んだ世璃が、俺の腕をへし折ったのだ。 細い腕のどこに、そんな馬鹿力があるんだ。
「あはは! 脆(もろ)いね。枯れ木みたい」
少女が笑う。 俺は泥の中に倒れ込み、折れた手首を抱えて悶絶した。 勝てない。逃げられない。 俺は、ここで死ぬ。
「た、助けてくれ……頼む……金ならある……!」
「いらないよ」
少女は俺の顔を覗き込んだ。 その瞳は、深淵のように黒く、底が見えなかった。
「お兄様を守るためにはね、目撃者は消さないといけないの。 それに、ちょうどデザートが欲しかったところだし」
少女の口が、みしりと裂ける。
怖い!なんだこれ!助けて
***
ネズミさんは、ちょっと筋っぽかったけれど、叔父様よりはずっと健康的な味がした。 あーあ、パジャマが汚れちゃった。 お兄様に叱られるかな。 でも、「お掃除」してたって言えば、きっと褒めてくれるはず。
あたしは森の土を掘り返して、食べカス(服や靴)を埋めた。
雨が土を柔らかくしてくれているから、作業はすぐに終わった。 ここには元々、たくさんの「悪いもの」が埋まっているから、一人や二人増えたところで誰も気づかない。
「ごちそうさまでした」
あたしは手を合わせて、屋敷へと戻った。
リビングに戻ると、お兄様はまだソファに座っていた。窓を開け放ったまま、冷たい風に吹かれている。
叔父様の死体は、もうそこにはなかった。お兄様が、隣の部屋の収納庫に引きずって隠してくれたみたい。
「……世璃」
あたしが窓から飛び込むと、お兄様が顔を上げた。
その顔は青白く、幽霊みたいだった。
「ただいま、お兄様。ネズミさん、いなくなったよ」
あたしはニッコリと笑って報告した。お兄様は、あたしの血まみれの口元と、泥だらけのパジャマを見て、痛ましそうに顔を歪めた。でも、責めることはしなかった。ただ静かに、手招きをした。
「おいで、世璃。 ……顔を、拭いてあげるから」
お兄様はハンカチを取り出し、あたしの顔についた他人の血を、丁寧に拭き取ってくれた。 優しくて、冷たい指先。
「お兄様、紅茶が飲みたいな」
「そうだね。……叔父さんがいなくなって、静かになったから。久しぶりに、二人でお茶にしようか」
お兄様は微笑んだ。お兄様は男なのだけど、まるで聖母様のような笑みを向けてくれる。あたしは、この笑みを向けられると胸がキュッとして、あたたかいものに満たされる。
――なんて幸せなの!――
こうして、あたしたちの城に、再び静寂が戻った。 叔父様も、ネズミもいない、とても静かで清らかな夜だ。
……どうかこれ以上、悪い奴が来ませんように。
月よ、おやすみ。
星よ、おやすみ。
おやすみなさい。お兄様。
――ありえない。 俺は走りながら、何度も背後を確認した。 誰もいない。闇と雨だけだ。 だが、気配が消えない。 足音もさせず、枝葉が擦れる音もしないのに、何かが「すぐそこ」にいるという圧迫感だけが背中に張り付いている。
相手はただの少女だ。 いくら常軌を逸しているとはいえ、身体能力は子供のはずだ。 大人の男、それも場数を踏んだ俺が本気で走れば、追いつけるはずがない。 頭ではそうわかっている。 だが、本能が警鐘を鳴らし続けている。 『止まるな、止まったら食われるぞ』と。
俺は崖沿いの小道を選んだ。 地盤が緩く危険だが、ここを抜ければ国道に出られる。車を止めて逃げれば、俺の勝ちだ。
「……ハァ、ハァ……!」
木の根に躓きそうになりながら、俺は斜面を駆け下りた。 あと少し。あと50メートルでガードレールが見える。 助かる。
その時だった。 頭上から、クスクスという笑い声が降ってきた。
「見ぃつけた」
え? 俺が顔を上げるより早く、黒い塊が樹上から落下してきた。 ドサッ! 目の前の地面に、少女が着地する。 音もなく。膝のクッションだけで衝撃を吸収して。
パジャマ姿のまま。泥ひとつついていない裸足。 彼女は、まるで公園で遊んでいるような無邪気な顔で、逃走経路を塞いでいた。
「な……なんで、前に……!?」
俺は絶句して後ずさった。 先回りされた? あの悪路を? しかも木の上を伝って? 人間じゃない。野生動物でも、こんな動きはできない。
「おじさん、足が遅いのね」
世璃が、首をコテンと傾げた。 その口元は、まださっきの血で赤く濡れている。
「あたし、10秒数えてあげたのに。 まだこんな所にいるんだもの」
「く、来るな……!」
俺は懐から護身用のナイフを取り出した。 震える手で構える。 相手は子供だ。化け物だろうがなんだろうが、刺せば死ぬはずだ。
「どけ! どかないと刺すぞ!」
俺が叫ぶと、世璃は目を丸くした。 そして、面白そうに目を細めた。
「すごい。爪(ナイフ)を持ってるんだ。 でもね、おじさん。 この森は、あたしの庭なの。 ここではね、あたしがルールなの」
少女の姿がブレた。 消えた? いや、速すぎる。 視界から消失した次の瞬間、俺の手首に激痛が走った。
「ぐあぁッ!?」
バキッ、という嫌な音がして、ナイフを取り落とす。 俺の手首は、ありえない方向に曲がっていた。 いつの間にか懐に入り込んだ世璃が、俺の腕をへし折ったのだ。 細い腕のどこに、そんな馬鹿力があるんだ。
「あはは! 脆(もろ)いね。枯れ木みたい」
少女が笑う。 俺は泥の中に倒れ込み、折れた手首を抱えて悶絶した。 勝てない。逃げられない。 俺は、ここで死ぬ。
「た、助けてくれ……頼む……金ならある……!」
「いらないよ」
少女は俺の顔を覗き込んだ。 その瞳は、深淵のように黒く、底が見えなかった。
「お兄様を守るためにはね、目撃者は消さないといけないの。 それに、ちょうどデザートが欲しかったところだし」
少女の口が、みしりと裂ける。
怖い!なんだこれ!助けて
***
ネズミさんは、ちょっと筋っぽかったけれど、叔父様よりはずっと健康的な味がした。 あーあ、パジャマが汚れちゃった。 お兄様に叱られるかな。 でも、「お掃除」してたって言えば、きっと褒めてくれるはず。
あたしは森の土を掘り返して、食べカス(服や靴)を埋めた。
雨が土を柔らかくしてくれているから、作業はすぐに終わった。 ここには元々、たくさんの「悪いもの」が埋まっているから、一人や二人増えたところで誰も気づかない。
「ごちそうさまでした」
あたしは手を合わせて、屋敷へと戻った。
リビングに戻ると、お兄様はまだソファに座っていた。窓を開け放ったまま、冷たい風に吹かれている。
叔父様の死体は、もうそこにはなかった。お兄様が、隣の部屋の収納庫に引きずって隠してくれたみたい。
「……世璃」
あたしが窓から飛び込むと、お兄様が顔を上げた。
その顔は青白く、幽霊みたいだった。
「ただいま、お兄様。ネズミさん、いなくなったよ」
あたしはニッコリと笑って報告した。お兄様は、あたしの血まみれの口元と、泥だらけのパジャマを見て、痛ましそうに顔を歪めた。でも、責めることはしなかった。ただ静かに、手招きをした。
「おいで、世璃。 ……顔を、拭いてあげるから」
お兄様はハンカチを取り出し、あたしの顔についた他人の血を、丁寧に拭き取ってくれた。 優しくて、冷たい指先。
「お兄様、紅茶が飲みたいな」
「そうだね。……叔父さんがいなくなって、静かになったから。久しぶりに、二人でお茶にしようか」
お兄様は微笑んだ。お兄様は男なのだけど、まるで聖母様のような笑みを向けてくれる。あたしは、この笑みを向けられると胸がキュッとして、あたたかいものに満たされる。
――なんて幸せなの!――
こうして、あたしたちの城に、再び静寂が戻った。 叔父様も、ネズミもいない、とても静かで清らかな夜だ。
……どうかこれ以上、悪い奴が来ませんように。
月よ、おやすみ。
星よ、おやすみ。
おやすみなさい。お兄様。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる