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泥だらけの靴と、消えた善意(3 覗く目)
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雨は、犯罪者にとって最高の隠れ蓑だ。 足音は消え、体臭は洗い流され、視界は悪い。 だが、監視する側にとっても、これほど好都合な天気はない。
俺――私立探偵の相馬は、レインコートのフードを目深にかぶり、森の茂みに身を潜めていた。 目の前には、崖の上にそそり立つ古びた洋館。 地元で「一家心中屋敷」と呼ばれている、曰く付きの物件だ。
依頼人は、里見という若い女性だった。 かつてこの屋敷で家庭教師をしていたという彼女は、悲痛な面持ちで俺に言った。
『屋敷に残った足の悪い青年と、精神を病んだ妹さんが心配なんです。 後見人の叔父が、彼らを虐待しているんじゃないか……調査してほしいんです』
ありふれた依頼だ。 俺は軽い気持ちで引き受けた。 だが、この三日間の張り込みで、俺の直感は警鐘を鳴らし続けている。
――この家は、おかしい。
まず、使用人がいない。 これだけの豪邸なら、掃除婦や庭師の一人くらい雇うはずだが、出入りするのは、デップリと太った中年の男――例の叔父――だけだ。 そして、夜になると聞こえてくる、奇妙な音。 獣の唸り声のような、あるいは誰かが笑っているような、不快な声。
俺は防水仕様の双眼鏡を構えた。 リビングの窓には、分厚いカーテンが引かれている。 だが、今夜は少し様子が違った。 カーテンの隙間から、赤い光が漏れている。
「……なんだ?」
俺はピントを合わせた。 隙間から見えたのは、シャンデリアだ。 だが、そのクリスタルガラスは、なぜか真っ赤に濡れていた。 まるで、天井から赤いペンキをぶちまけたように。
次の瞬間、俺は息を呑んだ。 床に、何かが倒れている。 肉の塊だ。 見覚えのあるスーツ。あの叔父だ。 だが、首から上がない。
「おいおい……マジかよ……」
殺人だ。 依頼内容が変わった。これは虐待調査どころじゃない。緊急事態だ。 俺が慌てて懐から携帯電話を取り出そうとした時、レンズの視界に「それ」が入ってきた。
少女だ。 長い黒髪の、美しい少女。依頼対象の一人、妹の「世璃」だ。 彼女は、パジャマ姿で、叔父の死体の上に跨がっていた。 そして、何かをしていた。 顔を上下に動かしている。 死体にキスをしている? いや、違う。 彼女が顔を上げるたびに、口元から赤い液体が糸を引き、肉片がこぼれ落ちる。
――食っている。 人間を、食っている。
戦慄で手が震え、双眼鏡がカチリと音を立てた。 雨音にかき消されるほどの、小さな音だ。 聞こえるはずがない。ここから屋敷までは50メートル以上離れている。
だが。 レンズの向こうで、少女がピタリと動きを止めた。 そして、ゆっくりと顔を上げた。 口の周りを鮮血で真っ赤に染めた彼女が、正確に、一直線に、俺の方を見た。
目が合った。 暗視スコープ越しでもわかる。彼女は笑っていた。 獲物を見つけた獣の笑顔で。
「……ヤバい」
俺は本能的に飛び退いた。 プロの勘が告げている。見られたら終わりだ。 警察に通報? 証拠写真? そんな悠長なことは言っていられない。今すぐここから逃げなければ、俺もあの肉塊の一部になる。
俺は機材を放り出し、泥だらけの森の中を走り出した。
***
叔父様の首の肉は、思ったよりも筋張っていて、脂っこかった。 まあ、空腹を満たすには十分だわ。
モグモグと咀嚼して飲み込んだ瞬間、あたしの鼓膜が揺れた。 カチリ。 金属とプラスチックがぶつかる、硬い音。 距離は50メートル。庭の向こうの、森の中。
あたしは顔を上げた。 窓の外、雨のカーテンの向こう側に、黒い影が見える。 そして、強烈な「恐怖」の臭いが漂ってきた。
――濡れた犬の臭い。 いや、違うわね。あれは「ネズミ」だわ。
どこかの誰かが、あたしたちのお城を覗いていたみたい。 双眼鏡? カメラ? どちらにしても、見られちゃった。 あたしが食事をしているところも、叔父様がただの肉になったところも。
「……世璃?」
お兄様が、あたしの様子に気づいて声をかけてきた。 お兄様は、叔父様の死体から目を逸らして、青い顔をしている。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
あたしは口元の血を手の甲で拭って、ニッコリと笑った。
「ちょっと、お庭にネズミが迷い込んだみたい。 捕まえてくるね」
「ネズミ?」
「うん。放っておくと、ばい菌を撒き散らすから。 ……すぐに『駆除』しなきゃ」
あたしは立ち上がり、窓を開けた。 激しい雨と風が吹き込んでくる。 冷たくて気持ちいい。 狩りの時間だ。
「行ってきます、お兄様。 デザートも、すぐに持ってくるからね」
あたしは窓枠に足をかけ、闇の中へと身を躍らせた。 逃げ足の速いネズミさん。 せいぜい楽しませてね。
俺――私立探偵の相馬は、レインコートのフードを目深にかぶり、森の茂みに身を潜めていた。 目の前には、崖の上にそそり立つ古びた洋館。 地元で「一家心中屋敷」と呼ばれている、曰く付きの物件だ。
依頼人は、里見という若い女性だった。 かつてこの屋敷で家庭教師をしていたという彼女は、悲痛な面持ちで俺に言った。
『屋敷に残った足の悪い青年と、精神を病んだ妹さんが心配なんです。 後見人の叔父が、彼らを虐待しているんじゃないか……調査してほしいんです』
ありふれた依頼だ。 俺は軽い気持ちで引き受けた。 だが、この三日間の張り込みで、俺の直感は警鐘を鳴らし続けている。
――この家は、おかしい。
まず、使用人がいない。 これだけの豪邸なら、掃除婦や庭師の一人くらい雇うはずだが、出入りするのは、デップリと太った中年の男――例の叔父――だけだ。 そして、夜になると聞こえてくる、奇妙な音。 獣の唸り声のような、あるいは誰かが笑っているような、不快な声。
俺は防水仕様の双眼鏡を構えた。 リビングの窓には、分厚いカーテンが引かれている。 だが、今夜は少し様子が違った。 カーテンの隙間から、赤い光が漏れている。
「……なんだ?」
俺はピントを合わせた。 隙間から見えたのは、シャンデリアだ。 だが、そのクリスタルガラスは、なぜか真っ赤に濡れていた。 まるで、天井から赤いペンキをぶちまけたように。
次の瞬間、俺は息を呑んだ。 床に、何かが倒れている。 肉の塊だ。 見覚えのあるスーツ。あの叔父だ。 だが、首から上がない。
「おいおい……マジかよ……」
殺人だ。 依頼内容が変わった。これは虐待調査どころじゃない。緊急事態だ。 俺が慌てて懐から携帯電話を取り出そうとした時、レンズの視界に「それ」が入ってきた。
少女だ。 長い黒髪の、美しい少女。依頼対象の一人、妹の「世璃」だ。 彼女は、パジャマ姿で、叔父の死体の上に跨がっていた。 そして、何かをしていた。 顔を上下に動かしている。 死体にキスをしている? いや、違う。 彼女が顔を上げるたびに、口元から赤い液体が糸を引き、肉片がこぼれ落ちる。
――食っている。 人間を、食っている。
戦慄で手が震え、双眼鏡がカチリと音を立てた。 雨音にかき消されるほどの、小さな音だ。 聞こえるはずがない。ここから屋敷までは50メートル以上離れている。
だが。 レンズの向こうで、少女がピタリと動きを止めた。 そして、ゆっくりと顔を上げた。 口の周りを鮮血で真っ赤に染めた彼女が、正確に、一直線に、俺の方を見た。
目が合った。 暗視スコープ越しでもわかる。彼女は笑っていた。 獲物を見つけた獣の笑顔で。
「……ヤバい」
俺は本能的に飛び退いた。 プロの勘が告げている。見られたら終わりだ。 警察に通報? 証拠写真? そんな悠長なことは言っていられない。今すぐここから逃げなければ、俺もあの肉塊の一部になる。
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叔父様の首の肉は、思ったよりも筋張っていて、脂っこかった。 まあ、空腹を満たすには十分だわ。
モグモグと咀嚼して飲み込んだ瞬間、あたしの鼓膜が揺れた。 カチリ。 金属とプラスチックがぶつかる、硬い音。 距離は50メートル。庭の向こうの、森の中。
あたしは顔を上げた。 窓の外、雨のカーテンの向こう側に、黒い影が見える。 そして、強烈な「恐怖」の臭いが漂ってきた。
――濡れた犬の臭い。 いや、違うわね。あれは「ネズミ」だわ。
どこかの誰かが、あたしたちのお城を覗いていたみたい。 双眼鏡? カメラ? どちらにしても、見られちゃった。 あたしが食事をしているところも、叔父様がただの肉になったところも。
「……世璃?」
お兄様が、あたしの様子に気づいて声をかけてきた。 お兄様は、叔父様の死体から目を逸らして、青い顔をしている。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
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「ちょっと、お庭にネズミが迷い込んだみたい。 捕まえてくるね」
「ネズミ?」
「うん。放っておくと、ばい菌を撒き散らすから。 ……すぐに『駆除』しなきゃ」
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