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泥だらけの靴と、消えた善意(2)
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『――突然のお電話で申し訳ありません。以前、家庭教師をしておりました里見です』
受話器の向こうから、理知的な女の声が響く。 あたしの耳には、その声の波形から「純粋な善意」と「正義感」が読み取れた。 一番厄介な種類(タイプ)の人間だ。
『叔父様が戻られたと風の噂で聞きまして……静くんと、世璃ちゃんのことが心配で。 あの事件の後、ずっと気になっていたんです。静くんの足の具合はどうですか? ちゃんと病院には行けているんですか?』
「あー、問題ない。元気にやってるよ。余計なお世話だ」
『でも、お声だけでは安心できません。 ……実は今、近くまで来ているんです。明日、お屋敷に伺ってもよろしいでしょうか』
叔父様は面倒くさそうに顔をしかめた。
「明日は忙しいんだ。また今度……」
「叔父さん!」
お兄様が、珍しく強い声で遮った。 叔父様の腕を掴み、受話器を奪おうとする。
「……代わってください。先生と話をしたいです」
叔父様は舌打ちをして、乱暴に受話器をお兄様に渡した。
「……もしもし。先生、静です。……はい、お久しぶりです」
お兄様が、電話口で笑っている。 安堵したような、暗闇の中で一筋の光を見つけたような、柔らかい笑顔。 あたしに見せる「共犯者の顔」とは違う。 もっと真っ当で、人間らしい表情。
――嫌だ。
あたしの胸の中で、黒い泥のような感情が渦巻いた。 その女は誰? どうして、お兄様をそんな顔にさせるの? お兄様の世界には、あたしだけがいればいいのに。
「……はい。明日、待っています。……ええ、世璃も一緒です」
お兄様が電話を切った。 受話器を置く指先が、微かに震えている。それは「希望」の震えだった。 でも、その希望はすぐに踏みにじられた。
「ケッ、しつこい女だ。金にもならんのに」
叔父様が、グラスに残ったワインを一気に飲み干して、ゲマン、と下品なゲップをした。 そして、お兄様の肩を突き飛ばした。
「おい静。あんな女が来たところで、お前の足が治るわけでも、金が湧くわけでもないんだぞ。 無駄な期待をするな。お前は一生、この屋敷で俺の世話になってりゃいいんだ」
お兄様がよろめき、壁に背中をぶつける。 叔父様は、さらにあたしの方へ向き直った。 血走った目で、あたしの二の腕をむんずと掴む。
「それより世璃、さっきの話だ! 『帝都製薬』の次はなんだ? 明日、あの女が来る前に注文を入れておきたいんだよ。 ほら、もっと稼げるやつの『匂い』を嗅げ!」
叔父様の爪が、あたしの皮膚に食い込む。 痛い。汚い。 脂とアルコールの悪臭が、あたしの鼻を麻痺させそうになる。
あたしは無言で、叔父様を見上げた。 この豚は、わかっていない。 自分がいま、ライオンの口の中に手を入れているということを。
「……離せ」
「あ?」
「離してよ、汚い」
あたしが低い声で言うと、叔父様は逆上した。 パチン! 乾いた音がして、あたしの頬が熱くなった。 叩かれたのだ。
「誰に向かって口を利いてるんだ! この化け物が! 誰が飼ってやってると思ってる!」
叔父様が腕を振り上げた、その時だった。 部屋の空気が、ふっ、と冷たくなった。 まるで、冷蔵庫の扉を開けたみたいに。
「……叔父さん」
お兄様の声だ。 さっき電話で話していた時の、温かい声じゃない。 深海の底みたいに静かで、冷たい声。
「その汚い手で、僕の妹に触るな」
叔父様が動きを止めて振り返る。 お兄様は、壁に寄りかかりながら、氷のような目で叔父様を見下ろしていた。 そして、ゆっくりとあたしの方を見て、今までで一番優しく微笑んだ。
「世璃。……もう、我慢しなくていいよ」
それは、魔法の言葉だった。 首輪の鎖が外れる音。 あたしは嬉しくて、喉の奥で笑った。
「いいの? お兄様」
「うん。お腹、空いただろう? ……『お夜食』にしておいで」
叔父様が「な、なにを……」と言いかけた時には、もう遅かった。 あたしの顎が外れる。 人間の口の大きさの限界を超えて、耳まで裂けるように開く。
叔父様の瞳に、あたしの口の中の「闇」が映った。 無数の牙。粘つく唾液。
「ひッ、ぎゃあぁぁぁぁ――!?」
悲鳴は一瞬で途切れた。
ガブッ。
ゴクリ、ゴクリ。
喉を通る、濃厚な鉄の味。脂っこいけれど、空腹にはたまらない。叔父様の身体が、糸の切れた人形みたいに床に崩れ落ちる。
手足がピクピクと痙攣しているけれど、もう意識はない。
あたしは口の周りを血だらけにしたまま、振り返った。 お兄様は、目を逸らさずに見ていた。 血の海に沈む豚の死骸と、それを貪り食うあたしを。その顔には、恐怖はなかった。あるのは、どこか憑き物が落ちたような、暗い安堵だった。
「……満腹したかい? 世璃」
「うん。美味しかったよ、お兄様」
こうして、あたしたちの城から「王様」はいなくなった。残されたのは、二人の共犯者と、肉の塊だけ。
受話器の向こうから、理知的な女の声が響く。 あたしの耳には、その声の波形から「純粋な善意」と「正義感」が読み取れた。 一番厄介な種類(タイプ)の人間だ。
『叔父様が戻られたと風の噂で聞きまして……静くんと、世璃ちゃんのことが心配で。 あの事件の後、ずっと気になっていたんです。静くんの足の具合はどうですか? ちゃんと病院には行けているんですか?』
「あー、問題ない。元気にやってるよ。余計なお世話だ」
『でも、お声だけでは安心できません。 ……実は今、近くまで来ているんです。明日、お屋敷に伺ってもよろしいでしょうか』
叔父様は面倒くさそうに顔をしかめた。
「明日は忙しいんだ。また今度……」
「叔父さん!」
お兄様が、珍しく強い声で遮った。 叔父様の腕を掴み、受話器を奪おうとする。
「……代わってください。先生と話をしたいです」
叔父様は舌打ちをして、乱暴に受話器をお兄様に渡した。
「……もしもし。先生、静です。……はい、お久しぶりです」
お兄様が、電話口で笑っている。 安堵したような、暗闇の中で一筋の光を見つけたような、柔らかい笑顔。 あたしに見せる「共犯者の顔」とは違う。 もっと真っ当で、人間らしい表情。
――嫌だ。
あたしの胸の中で、黒い泥のような感情が渦巻いた。 その女は誰? どうして、お兄様をそんな顔にさせるの? お兄様の世界には、あたしだけがいればいいのに。
「……はい。明日、待っています。……ええ、世璃も一緒です」
お兄様が電話を切った。 受話器を置く指先が、微かに震えている。それは「希望」の震えだった。 でも、その希望はすぐに踏みにじられた。
「ケッ、しつこい女だ。金にもならんのに」
叔父様が、グラスに残ったワインを一気に飲み干して、ゲマン、と下品なゲップをした。 そして、お兄様の肩を突き飛ばした。
「おい静。あんな女が来たところで、お前の足が治るわけでも、金が湧くわけでもないんだぞ。 無駄な期待をするな。お前は一生、この屋敷で俺の世話になってりゃいいんだ」
お兄様がよろめき、壁に背中をぶつける。 叔父様は、さらにあたしの方へ向き直った。 血走った目で、あたしの二の腕をむんずと掴む。
「それより世璃、さっきの話だ! 『帝都製薬』の次はなんだ? 明日、あの女が来る前に注文を入れておきたいんだよ。 ほら、もっと稼げるやつの『匂い』を嗅げ!」
叔父様の爪が、あたしの皮膚に食い込む。 痛い。汚い。 脂とアルコールの悪臭が、あたしの鼻を麻痺させそうになる。
あたしは無言で、叔父様を見上げた。 この豚は、わかっていない。 自分がいま、ライオンの口の中に手を入れているということを。
「……離せ」
「あ?」
「離してよ、汚い」
あたしが低い声で言うと、叔父様は逆上した。 パチン! 乾いた音がして、あたしの頬が熱くなった。 叩かれたのだ。
「誰に向かって口を利いてるんだ! この化け物が! 誰が飼ってやってると思ってる!」
叔父様が腕を振り上げた、その時だった。 部屋の空気が、ふっ、と冷たくなった。 まるで、冷蔵庫の扉を開けたみたいに。
「……叔父さん」
お兄様の声だ。 さっき電話で話していた時の、温かい声じゃない。 深海の底みたいに静かで、冷たい声。
「その汚い手で、僕の妹に触るな」
叔父様が動きを止めて振り返る。 お兄様は、壁に寄りかかりながら、氷のような目で叔父様を見下ろしていた。 そして、ゆっくりとあたしの方を見て、今までで一番優しく微笑んだ。
「世璃。……もう、我慢しなくていいよ」
それは、魔法の言葉だった。 首輪の鎖が外れる音。 あたしは嬉しくて、喉の奥で笑った。
「いいの? お兄様」
「うん。お腹、空いただろう? ……『お夜食』にしておいで」
叔父様が「な、なにを……」と言いかけた時には、もう遅かった。 あたしの顎が外れる。 人間の口の大きさの限界を超えて、耳まで裂けるように開く。
叔父様の瞳に、あたしの口の中の「闇」が映った。 無数の牙。粘つく唾液。
「ひッ、ぎゃあぁぁぁぁ――!?」
悲鳴は一瞬で途切れた。
ガブッ。
ゴクリ、ゴクリ。
喉を通る、濃厚な鉄の味。脂っこいけれど、空腹にはたまらない。叔父様の身体が、糸の切れた人形みたいに床に崩れ落ちる。
手足がピクピクと痙攣しているけれど、もう意識はない。
あたしは口の周りを血だらけにしたまま、振り返った。 お兄様は、目を逸らさずに見ていた。 血の海に沈む豚の死骸と、それを貪り食うあたしを。その顔には、恐怖はなかった。あるのは、どこか憑き物が落ちたような、暗い安堵だった。
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