西伊豆の廃屋から東京のタワマンへ。美しき食人鬼たちは、人間を喰らって愛を成す

秦江湖

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泥だらけの靴と、消えた善意(1)

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 それから数日が過ぎて、あたしたちの城は少しずつ、けれど確実に汚され始めていた。  原因は、あの「脂ぎった肉の塊」――叔父様だ。

 あたしが気まぐれに教えた「帝都建設」の株価は、予知通りに暴落した。

  逆に「帝都製薬」は、新薬の発表で天井知らずに高騰した。

  叔父様は、一夜にして、一生かかっても使い切れないほどの大金を手に入れたのだ。

  そして、小金を持った人間が必ずそうするように、彼は「王様」の気分に浸り始めた。


 玄関ホールには、悪趣味な金色の壺が置かれた。

  古びた洋館のシックな陰影の中に、ピカピカと光る成金趣味の金メッキ。

  まるで、美しい頭蓋骨に、一本だけ金歯を埋め込んだみたいで、見るたびに吐き気がする。  


 廊下には、目が痛くなるような極彩色の抽象画が飾られた。

  画商に騙されて買ったのだろう。そこからは「才能」の匂いはせず、ただ「詐欺」と「インク」の臭いだけが漂っている。

 そして今夜も、リビングには叔父様の下品な笑い声が響いている。

「 見ろ静、このヴィンテージワインを! 一本で数十万だぞ!」

 叔父様は泥酔していた。  シャツのボタンを外し、だらしなく腹の肉を晒しながら、赤ら顔でグラスを掲げている。  以前のような、あたしに対する「怯え」は、もう薄らいでいる。

 人間というのは単純だ。  懐が暖かくなると、自分が強くなったと勘違いする。  あるいは、アルコールで脳みそを麻痺させて、恐怖を忘れようとしているのかもしれない。  目の前にいるのが、自分の生殺与奪を握る怪物だということさえ忘れて。


「……叔父さん、飲み過ぎですよ」  

 お兄様が冷ややかに窘める。 

「うるさい! 誰のおかげでこの屋敷に住めていると思ってるんだ!  おい世璃、次はどこの株だ? もっとデカい山を当ててくれよ!」

 叔父様が、脂ぎった手であたしの肩を叩く。  ペチン、ペチン。  その感触が、あたしの神経を逆撫でする。  あたしは無言で、肩に乗ったその手をじっと見つめた。


 ――汚い。  今すぐ、手首から先を噛みちぎって、暖炉に放り込んでやりたい。
 あたしの口角が、ピクリと引きつる。  でも、あたしは本能的な殺意を理性でねじ伏せて、愛想よく微笑んでみせた。


「ええ、叔父様。また『いい匂い』がしたら、教えてあげますね」 

「うむ。お前は聞き分けがいいな」


 あたしが良い子にしていると、叔父様は満足そうに鼻を鳴らした。  そして、余計な一言を口にした。

「……あの陰気な姉(那美)とは大違いだ」

 空気が、凍りついた。  お兄様の眉が、ピクリと跳ね上がる。  叔父様は気づかずに続けている。


「あいつは可愛げがなかったからなぁ。いつも俺たちを軽蔑したような目で見て……。  死んで清々したよ。  お前みたいな『使える』やつが生き残ってくれてよかった。  やっぱり、出来損ないの姉より、妹のほうが優秀だったってことだな!」


 ギリッ。  お兄様が、膝の上で拳を握りしめた音。  関節が白く浮き出るほど強く、強く握りしめている。

 許さない。  あたしは、お兄様の心の中で怒りの炎が燃え上がる匂いを嗅ぎ取った。  那美を愚弄された怒り。  そして、目の前の怪物を「優秀な妹」と褒められたことへの、生理的な嫌悪感。

 大丈夫よ、お兄様。  この豚は、いずれ一番苦しい方法で『出荷』してあげるから。  それまで、もう少しだけ太らせてあげましょう。

 あたしがお兄様の背中をそっと撫でて、怒りを鎮めようとした、その時だった。

 ジリリリリリリリ……!!

 廊下の電話が鳴り響いた。  
 黒電話のけたたましい音。  

 あたしたちの静寂を引き裂く、侵入者の警報。  この屋敷に電話をかけてくる人間なんて、もう誰もいないはずなのに。


「……ちっ、誰だこんな時間に。せっかくの酒が不味くなる」

 叔父様が舌打ちをして、千鳥足で廊下へ向かった。  ガチャン、と乱暴に受話器を取り上げる。

「はい、もしもし! ……あ? 誰だ?  ……里見?」

 叔父様の顔から、酔いが少し醒めるのが見えた。  あたしは耳をそばだてた。


「……ああ、あの時の家庭教師か  ……なんだ? 静の様子?」

 お兄様が、ハッとして顔を上げた。 

「里見先生……?」

 お兄様の声色が、華やいだ。  その変化に、あたしは敏感に反応した。  まるで暗闇の中で光を見つけたような、縋るような響き。


 あたしは不快感で眉をひそめながら、聞き耳の感度を上げた。 
 
 受話器の向こう側の音が、すぐ耳元で聞こえるように鮮明になる。 ノイズの向こうから、女の声が聞こえてくる。
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