西伊豆の廃屋から東京のタワマンへ。美しき食人鬼たちは、人間を喰らって愛を成す

秦江湖

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吠える番犬、凍る鎖(4:泥沼の父親)

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     西伊豆からの帰り道、俺は助手席でずっとイラついていた。  ハンドルを握る荒田が、「いやあ、何もなくてよかったですね」などと能天気なことを言っているのが、神経に障って仕方がない。


 何もなかったわけがない。  あの屋敷には、確実に「犯罪」の臭いがあった。  玄関ホールの微かな血臭。怯える兄。そして、狂った妹の叫び声。  


     あの妹――世璃とか言ったか――の目は、ただの精神異常者のそれじゃなかった。  もっと底知れない、こちらを見透かすような目。  あいつらは何かを隠している。そして、その「何か」は金になるはずだ。


「……ここで降ろせ」

 世田谷の自宅近くで、俺は荒田に車を止めさせた。  雨はまだ降り続いている。  俺はコンビニで缶ビールと唐揚げを買い、傘もささずにアパートの階段を上がった。
 築20年の2DK。住宅ローンはあと15年残っている。  玄関のドアを開けると、冷ややかな空気が俺を迎えた。
「……おかえり」
 リビングには、妻が起きて待っていた。  ダイニングテーブルの上には、夕食の残りではなく、家計簿と電卓が置かれている。  俺は無言でスーツの上着を脱ぎ、ソファに投げ出した。

「あなた、聞いてる?」  

  妻の声が尖る。

 「美咲のピアノ教室から、また催促の電話があったわよ。先月分もまだだって」

 「わかってるよ。来週にはボーナスが出る」 

「そのボーナスは、ローンの返済で消えるのよ!  ……ねえ、もう無理よ。ピアノなんて贅沢、うちには早すぎたのよ。辞めさせましょう」


 妻の言葉は正論だ。  だが、俺のプライドがそれを許さなかった。  俺は万年ヒラ刑事で、出世コースから外れた負け犬かもしれない。  だが、娘には惨めな思いをさせたくない。  娘が「パパ、ピアノ弾けたよ」と笑う顔だけが、俺の人生に残された唯一の光だった。


「辞めさせるもんか」  

   俺は缶ビールのプルタブを乱暴に開けた。 

「金ならなんとかする。俺は刑事だぞ? なんとでもなる」 

「どうやって? またパチンコ? それとも……」


 妻は俺を軽蔑の眼差しで見つめ、寝室へと消えていった。  リビングに一人残された俺は、ぬるくなったビールを流し込んだ。


 ――金だ。  金さえあれば、妻も黙る。娘も笑う。  俺の人生のすべてが解決する。

 俺はふらりと立ち上がり、娘の部屋のドアを少しだけ開けた。  薄暗い部屋の中で、小学4年生の美咲が、クマのぬいぐるみを抱いて眠っている。  その寝顔は天使のように無垢だ。  俺はそっと近づき、娘の柔らかい髪に触れた。


「……パパが、守ってやるからな」


 守るためには、力が要る。  きれいごとじゃ飯は食えない。  俺の脳裏に、あの西伊豆の洋館がフラッシュバックする。

 あそこに住む叔父は、株で億単位の金を稼いだという噂だ。  だが、今日行ってみると、叔父の姿はなかった。  兄妹は「旅に出た」と言ったが、あの血の臭い……おそらく、叔父はもうこの世にいない。  兄妹が殺したのか、あるいは事故か。


 どちらでもいい。  重要なのは、「あの大金を稼いだ叔父が消えて、ガキ二人が残された」という事実だ。  

     屋敷のどこかに、叔父の隠し財産があるはずだ。  タンス預金か、金塊か、あるいは株の権利書か。  ガキ二人なら、脅せばいくらでも巻き上げられる。  

     これは捜査じゃない。没収だ。犯罪者の金を、正義の刑事が有効活用してやるだけだ。

 俺の心の中で、どす黒い言い訳が組み上がっていく。  それは泥沼への第一歩だったが、今の俺には蜘蛛の糸に見えた。


 俺は娘の部屋を出て、クローゼットの奥から「ある物」を取り出した。  以前、押収品の中からくすねて、未登録のまま隠し持っていた回転式拳銃。  そして、警察手帳。


 俺は再びスーツを着込んだ。  時刻は深夜2時。  今から出れば、明け方前には西伊豆に着く。  雨音に紛れれば、誰にも気づかれずに侵入できるはずだ。

「行ってくるよ」

 俺は誰に言うでもなく呟き、雨の夜へと飛び出した。  背中には借金と家族の重圧を、懐には凶器を隠し持って。


 ***


 西伊豆の崖の上は、嵐のような暴風雨だった。  俺は屋敷から少し離れた場所に車を止め、徒歩で近づいた。  街灯ひとつない闇の中、洋館が黒い怪物のように佇んでいる。


 門は閉ざされていたが、低い塀を乗り越えるのは造作もなかった。  庭はぬかるんでいて、靴が泥だらけになる。  俺は舌打ちをして、裏口へと回った。

 勝手口の鍵は、ピッキングツールで簡単に開いた。  セキュリティが甘い。やはり、世間知らずのガキの城だ。  俺は音を立てないように、慎重にドアを開けた。


 中に入ると、暖かい空気が肌に触れた。  そして、あの奇妙な甘い香り。  俺は廊下を汚さないように――いや、足音を消すために、革靴を脱いだ。  靴下ごしに伝わる床の冷たさ。


 静かだ。  広すぎる屋敷の中は、死んだように静まり返っている。  俺は拳銃を握りしめ、叔父の書斎があると思われる2階へと足を進めた。

 ギシッ。  階段が小さく鳴る。  俺は息を止めた。  誰か起きてくるか? ……いや、反応はない。  俺は安堵の息を吐き、階段を登りきった。

 その時だった。

「ねえ」

 背後から、鈴を転がすような少女の声がした。

 心臓が止まるかと思った。  俺は反射的に振り返り、銃口を向けた。  廊下の暗闇の中に、白いパジャマを着た少女が立っていた。  世璃だ。  彼女は、まるで最初からそこにいたかのように、闇に溶け込んでいた。


「う、動くな! 手を上げろ!」

 俺の声が裏返る。  だが、少女は動じない。  彼女はゆっくりと、小首を傾げた。  その瞳は、暗闇の中でも爛々と妖しい光を放っていた。

「ここはお兄様の家よ。  どうして靴を履いていないの? ……泥棒なの?」

 その言葉は、俺の核心を突いていた。  俺は刑事じゃない。今はただの泥棒だ。  少女に見透かされた気がして、俺の背筋に冷たいものが走った。



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