西伊豆の廃屋から東京のタワマンへ。美しき食人鬼たちは、人間を喰らって愛を成す

秦江湖

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吠える番犬、凍る鎖(5:脳髄の図書館)

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「う、動くな! 手を上げろ!」


 俺の声が裏返る。  威嚇射撃をするつもりだったが、指が震えて引き金にかからない。  目の前の少女――世璃は、銃口を向けられても眉ひとつ動かさなかった。  ただ、暗闇の中で爛々と光る瞳で、俺の全身を観察している。


「ここはお兄様の家よ。  どうして靴を履いていないの? ……泥棒なの?」


 その言葉は、俺の核心を突いていた。  俺は刑事じゃない。今はただの泥棒だ。  少女に見透かされた気がして、俺の背筋に冷たいものが走る。


「だ、黙れ! 俺は公務執行中だ!」  俺は必死で虚勢を張った。

 「お前たちには、叔父殺害の容疑がかかってるんだ!  公務執行妨害と……殺人容疑で、署まで来てもらうぞ!」

「ようぎ?」

 世璃は小首を傾げた。  その仕草は無邪気だが、口元には冷ややかな笑みが張り付いている。  彼女は一歩、俺の方へ踏み出した。


「ねえ、おまわりさん。教えて」

 「あ、あぁ?」

 「あたしたちに縄をかける根拠は?  あんたが今、勝手にここに入ってきていることは、どういう『ほうりつ』に基づいているの?」


 俺は鼻で笑おうとした。  ガキが。法律論で俺を言いくるめようってのか。  俺は刑事だぞ。条文なんて頭に入ってる。

「ガキが知ったような口をきくな。  俺たちにはな、疑わしい奴を引っ張る権限があるんだ。  刑法第199条、および刑事訴訟法に基づき……」

 俺が言いかけた、その時だった。

「……刑法第199条。人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」

 世璃の口から、流暢な言葉が溢れ出した。  俺の言葉じゃない。彼女が先に言ったのだ。  俺が今、まさに言おうとしていた条文を。

「刑事訴訟法第201条。逮捕状の呈示。ただし、急速を要し逮捕状を得る事能わざる場合においては、その理由を告げて……」 

「……なお、現行犯逮捕及び準現行犯逮捕の場合、令状は不要とする」


 機械のような声。  抑揚のない、丸暗記したデータを読み上げるような口調。  世璃は、スラスラと難解な法律用語を並べ立てた。  一字一句、間違わずに。  俺が脳内で組み立てていた文章を、そのままトレースしたように。


 俺の顔が凍りついた。  全身から嫌な汗が吹き出す。 

「お、おまえ……なんだ? なんでその条文を……」

「なんだ?簡単なことね」

 世璃はニッコリと笑った。いつもの、子供の顔に戻って。


「あたしが質問したから、あんたが今、頭の中で一生懸命考えたんでしょう?」

「……は?」

「あんたの脳みそに書いてあったわ。教科書みたいに綺麗に並んでた。  だから、読んであげたの」


 ヒュッ、と俺の喉が鳴った。  理解したくない。だが、理解せざるを得ない。  こいつは、心を読んだのか?  いや、そんな生易しいものじゃない。  

     俺の脳内にある情報を、本棚から本を抜き取るように、勝手に閲覧したのだ。

「ば、バカな……化け物め……!」 

「心じゃないわ。『信号』よ。  あんたの頭、すごくうるさい電気の音がするから」


 世璃がまた一歩、近づいてくる。  距離はもう3メートルもない。  俺の本能が絶叫した。  撃て。撃たなきゃ殺される。

 俺は銃を構え直した。  狙いは右肩。致命傷は避けて、動きを止める。  引き金に指をかける。  その指に力が入るコンマ1秒前、世璃は知っていた。  俺が「撃つ」と決めた未来を。


「撃ってもいいけど、当たらなければ意味がないわよ?  ……ほら、右に外す」

 パン!

 乾いた銃声が廊下に響いた。  マズルフラッシュが闇を照らす。  弾丸は世璃の右耳の横を通り過ぎて、背後の壁に穴を開けた。  俺が狙った場所ではない。  

     世璃がほんの少し頭を傾けただけで、弾道が変わったのだ。  いや、最初から「ここに撃つ」と誘導されていたのか?


「な、なんだお前……なんなんだお前は!!」


 俺は腰を抜かしてへたり込んだ。  銃を持つ手が震えて、もう構えることさえできない。  世璃はゆっくりと俺に近づき、しゃがみ込んだ。  まるで、雨に濡れた仔犬をあやすように。

「ひっ、く、来るな……!」

 俺は床を這って逃げようとする。  でも、無駄だ。  世璃の細い手が伸びてきて、俺の手首を掴んだ。  万力のような力。骨が悲鳴を上げる。  彼女は俺の手から、いとも簡単に拳銃をもぎ取った。


「ねえ、おまわりさん」

 世璃はクスクスと笑いながら、その鉄の塊を指先で弾いた。カン、と軽い音がした。

「あんたたちはそんなものを持っていても、とっても弱い」

 俺は絶望して彼女を見上げた。  世璃は、空いている方の手で、俺の汗ばんだおでこを、トン、と人差し指で突いた。

「だって、見て。ここ」 

「あ……あ……」

「指や手や足を動かす器官が、たった一個しかないんだもの」

 世璃の冷たい指先が、俺のこめかみを撫でる。  皮膚の下で、脈打っている血管。その奥にある、柔らかくて脆い脳髄。

「おかしい身体ね。ここを少し突っつくだけで、あんたたちは指一本動かせなくなる。  鉄砲も撃てない。逃げることもできない。  ……大事な家族のことも、思い出せなくなる」

「か、家族……?」

 俺の顔色が変わった。  恐怖の色から、もっと深い、絶望の色へ。  世璃はニッコリと笑って、残酷な呪文を唱えた。


「世田谷区、経堂。  青い屋根のアパートの203号室。  可愛い奥さんと、ピアノを習っている娘さん。名前は美咲ちゃん。  ……今日の夕飯はハンバーグだった。そうでしょ?」

 俺の喉から、ヒューッという音が漏れた。  完了した。  俺の個人情報は、すべてこいつの手のひらの上だ。  こいつは、いつでも俺の家族を殺せる。  俺がここで何をしようと、家にいる美咲の命はこいつが握っている。


 ガチャン。  俺は床に額を擦り付けた。  プライドも、刑事としての魂も、人間としての尊厳も、すべて捨てて。

「や、やめろ……頼む、それだけは……!  俺はどうなってもいい! 娘だけは、美咲だけは……!」

「あら、あたしはまだ何もしないわよ?  この『一個しかない器官』が、あたしの言うことを聞いてくれるならね」

 世璃は俺の頭を、いい子いい子するように撫でた。  冷たくて、恐ろしい感触。  それは、新しい飼い主が、駄犬に首輪をつける儀式だった。


「叔父様がいなくなって、あたしたち不便しているの。  お兄様を守る『番犬』が欲しいのよ。  ……警察という立派な首輪をつけた、賢い番犬が」

 俺は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、ただ頷くことしかできなかった。  拒否権はない。  俺はもう、人間ではない。こいつの所有物だ。

「わ、わかった……従う……何でもする……だから……!」

「いい子。  じゃあ、最初のお仕事よ」


 世璃はポケットから一枚のメモを取り出し、俺の目の前に落とした。  そこに書かれていたのは、製薬会社の名前だった。

「明日、この株を買いなさい。  お昼にはすごくいいニュースが出るから」

 俺はハッと顔を上げた。  恐怖で塗りつぶされていた脳裏に、チロリと卑しい「欲」の光が灯る。

「……娘さんの月謝、足りないんでしょう?」

 悪魔の囁き。  だが、今の俺にはそれが、天からの救いのようにも聞こえた。  恐怖で支配し、金で飼い慣らす。  完璧な調教だ。

 廊下の奥で、ドアが開く音がした。  静だ。銃声で目が覚めたのかもしれない。  世璃は振り返り、満面の笑みで言った。


「お兄様、起きたの? 安心して。  新しい『番犬』飼うことにしたから」




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