西伊豆の廃屋から東京のタワマンへ。美しき食人鬼たちは、人間を喰らって愛を成す

秦江湖

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追憶の章 泥の底に咲く花(3)

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その日は、朝から空が低かった。  台風が近づいているという予報通り、生暖かい風が屋敷の窓をガタガタと揺らしていた。  湿度計の針は100%を指している。  屋敷全体が水底に沈んだように息苦しい。


 僕は自分の部屋で、車椅子に座ったまま爪を噛んでいた。  今日だ。  今日、あの儀式が行われる。

 廊下を歩く両親の足音が、朝から慌ただしい。  父の怒鳴り声と、母の高い笑い声が聞こえる。二人は興奮状態にある。  

 この土地の底に眠る「泥の王」を招き入れ、桁違いの莫大な富と力を手に入れるのだと、狂ったように信じ込んでいる。

「……止めなきゃ」

 僕は震える手で車椅子の車輪を掴んだ。  那美が危ない。  あんな痩せ細った身体で、これ以上「おまねき」なんてさせたら、彼女の精神が砕けてしまう。  僕は部屋を出ようとして、ドアノブに手をかけた。

 コン、コン。

 向こう側から、静かなノックの音がした。  心臓が跳ねる。  両親の乱暴なノックではない。控えめで、優しいリズム。

「……那美?」 

「うん。入ってもいい? 兄さん」

 ドアが開き、那美が入ってきた。  僕は息を呑んだ。  彼女はすでに「死装束」に着替えていた。  純白の着物。長く伸ばした黒髪は、椿油で艶やかに整えられている。  

 化粧をしているせいだろうか。その顔色は、陶器のように白く、唇だけが血のように赤い。  この世のものとは思えないほど美しく、そして不吉だった。


「那美、その格好……」

 「これから支度があるから、今のうちに挨拶に来たの」

 那美は、僕の前に膝をついた。  その瞳は、嵐の前の湖面のように静まり返っていた。  昨夜の、「あの子(怪物)」の話をしていた時の不安定さは微塵もない。  あるのは、透き通った覚悟だけだ。


「兄さん。約束して」

 那美が僕の手を包み込む。  その手は氷のように冷たかった。

「これから何があっても、どんな音が聞こえても、絶対にこの部屋から出ないで」

「どうして? 那美、君は何をする気だ?」 

「終わらせるの」

 那美は淡々と言った。  まるで、少し散らかった部屋を片付けるような口調で。

「この家の呪いも、パパたちの欲望も、全部。  ……兄さんだけは、私が絶対に逃がしてあげる」

「逃がすって……君はどうなるんだ!?」

 僕が叫ぶと、那美はふわりと微笑んだ。  それは、聖母の慈愛と、死刑囚の諦念が混ざり合ったような笑顔だった。


「私は『器』だから。中身がいっぱいになったら、割れるしかないの」

 那美は立ち上がり、懐から何かを取り出した。  鍵だ。  この部屋の鍵。いつの間に持ち出したのだろう。

「那美!」

 僕は車椅子から身を乗り出して、彼女の袖を掴もうとした。  だが、指先は空を切った。  那美は風のように身を翻し、廊下へと出ていった。

「愛してるよ、兄さん。  ……さようなら」

 バタン。  ドアが閉まる。  カチャリ、と鍵がかけられる音がした。  外側からだ。


「開けろ! 那美、開けてくれ!!」

 僕はドアを叩いた。  ノブをガチャガチャと回す。でも、びくともしない。  僕は閉じ込められた。  妹に守られるという形をした、牢獄の中に。

 廊下の向こうから、両親の声が聞こえてくる。

『おい那美! 遅いぞ! 準備はできているのか!』

 『はい、パパ。今行きます』

 那美の声は明るかった。  遠足に行く子供のように、無邪気で、残酷な響きを含んでいた。  遠ざかる足音。  そして、広間の方角から、儀式の始まりを告げる太鼓の音が響き始めた。


 ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ……。


 僕はドアにもたれかかり、無力感に泣き崩れるしかなかった。
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