西伊豆の廃屋から東京のタワマンへ。美しき食人鬼たちは、人間を喰らって愛を成す

秦江湖

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追憶の章 泥の底に咲く花(2)

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 季節が巡り、夏が来た。  西伊豆の湿気を含んだ熱気が、屋敷の中に澱んでいる。  その頃になると、両親の様子が明らかにおかしくなっていた。

 儀式の頻度が上がったのだ。  以前は「新月と満月の夜」だけだったのが、週に一度になり、やがて三日に一度になった。  両親の目は常に充血し、口の端からは涎が垂れている。  

 彼らは「おまねき」中毒になっていた。  那美の身体を通して降ろされる「託宣(たくせん)」――株価の変動や、隠し財産の場所、あるいは他人の秘密――を知る快楽に溺れ、歯止めが効かなくなっていたのだ。

 その代償を払わされるのは、いつも那美だった。



 ある蒸し暑い夜。  静は、那美の部屋の前で立ち尽くしていた。  中から、那美の独り言が聞こえてくる。

『……だめ。出てこないで』

 『まだ早いわ。まだ、パパたちは呼んでいないもの』

 『……お腹が空いたの? 我慢して。私を食べて紛らわせて』

 静がおそるおそる障子を開けると、那美は鏡台の前に座っていた。  電気もつけず、月明かりの中で、鏡に映る自分自身と会話をしていた。

「……那美?」

 静が声をかけると、那美はビクリと肩を震わせて振り向いた。  その顔を見て、静は息を呑んだ。  痩せこけている。  頬は削げ、目の下にはどす黒い隈がある。  けれど、その瞳だけが、異様に爛々と輝いていた。  それは、人間の生命力の輝きではない。  腐敗する寸前の沼が放つ、燐光のような不吉な光だ。


「兄さん……。起きてたの?」 

「君の声が聞こえたから。……誰と話していたんだ?」


 那美は薄く笑った。  その笑みは、いつもの儚げなものではなく、どこか妖艶で、攻撃的な色を帯びていた。

「『あの子』よ」 

「あの子?」 

「私の中にいる、もう一人の私。  パパたちが色々な霊を詰め込みすぎたせいで、混ざって、固まって、大きくなっちゃったの」


 那美は自分の腹部を愛おしそうに、そして恐ろしそうに撫でた。  まるで、妊婦が胎児を慈しむように。  でも、そこにいるのは新しい命ではなく、死と災厄の塊だ。

「最近ね、あの子がうるさいの。  『狭い』『暗い』『外に出せ』って、私の内臓を内側から爪で引っ掻くの。  ……兄さんにも聞こえるでしょう? この、ギシギシいう音が」

 静には聞こえなかった。  けれど、那美の皮膚の下で、何かが脈打って移動しているのが見えた。  それは蛇のようにも、人間の指のようにも見えた。

「那美……! もう限界だ!」

 静は那美の肩を掴んだ。  熱い。火傷しそうなほど体温が高い。

 「逃げよう。僕が囮になるから、君だけでも逃げるんだ。  これ以上儀式を続けたら、君は死んでしまう!」

「死なないわ」

 那美は、静の手をそっと外した。  その力は、以前よりもずっと強くなっていた。

「死なせてくれないの。  あの子が、私の命を燃料にして燃え上がっているから。  ……それにね、兄さん。  パパたちは、次の儀式で『一番強いもの』を呼ぶつもりよ」

「一番強いもの……?」 

「この土地の底に眠っている、古い古い神様。  ううん、神様なんて上等なものじゃないわ。  何百年もの間、海に捨てられた死体や、飢えて死んだ人たちの怨念が固まった『泥の王様』って言われてる。でももっと古いものよ。もっとふかいところの、どろどろした熱いもの」

 那美の瞳が、月光を受けて冷たく光る。

「それを私に入れたら、きっと私は私じゃなくなる。  容器が壊れて、中身が溢れ出してしまう」

「そんなこと、させるもんか! 僕が止める!」

 「無理よ、兄さん。兄さんは優しいけど、弱すぎるもの」


 那美は立ち上がり、静を抱きしめた。  その身体からは、甘くて腐った匂いがした。  現在のお兄様から漂っているのと、同じ匂い。  人外へと変質しつつある肉体の匂いだ。

「でも、大丈夫。  あの子が言ってるの。  『全部、私がやってあげる』って」

「え……?」

「『いじめる奴はみんな食べてあげる』って。  ……ふふ。頼もしい妹でしょう?」

 那美はクスクスと笑った。  その声色は、那美のものではなかった。  無邪気で、残酷で、底抜けに明るい少女の声。


 ――静は戦慄した。  腕の中にいるのは、最愛の妹なのか。  それとも、妹の皮を被った怪物なのか。  恐怖で身体がすくみ、突き飛ばすことも、抱きしめ返すこ
ともできなかった。


 ***


 ――ああ、思い出した。

 お兄様の記憶を覗き見ているあたしは、懐かしさに目を細めた。  そう。あの時だ。  あの時、あたしは初めて「意識」を持った。  那美の絶望と、両親への憎悪を餌にして、あたしは卵から孵ったのだ。


 那美はあたしを怖がっていたけれど、同時に期待もしていた。  自分では決してできない「復讐」を、あたしが代行してくれることを。  だから彼女は、あたしを育てた。  自分の命を削って、あたしというナイフを研ぎ澄ませたのだ。


 可哀想なお兄様。  この時からもう、あなたの妹は半分いなくなっていたのよ。  あなたが抱きしめていたのは、歪な血肉が溶け合うように混ざり合った、那美とあたしの混ざりもの。    


 そして、運命の日がやってくる。  雷鳴が轟く、あの一家心中の夜が。
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