西伊豆の廃屋から東京のタワマンへ。美しき食人鬼たちは、人間を喰らって愛を成す

秦江湖

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追憶の章 泥の底に咲く花(1)

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 雨音が遠ざかる。  代わりに、耳の奥で、ドンドコ、ドンドコ……という太鼓の音が響き始めた。  お兄様の意識が、現在から切り離され、過去の深淵へと沈んでいく。  あたしは、その意識の波に同調して、一緒に深い闇の底へとダイブした。
 ――そこは、まだあたしが生まれる前の世界。  色がなくて、カビと線香の臭いが充満する、1年前のこの屋敷だ。


 ***


 記憶の中のお兄様――静は、廊下の隅で小さくなっていた。  当時の彼は、今よりもっと影が薄く、まるで家具の一部みたいに息を潜めている。  足が悪い彼は、両親にとって「失敗作」だった。   

 この一族にとって、子供は愛する対象ではなく、「おまねき」の儀式に使うための「器」でしかない。  だから、器として不適合な静は、空気のように無視されていた。

 ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ。

 奥の間から、重低音が響いてくる。  パパとママが叩く儀太鼓の音だ。  そして、その隙間から、少女の苦しげな呻き声が漏れてくる。

『……うぅ……あぁぁ……ッ!』

 那美の声だ。  静は、耳を塞いで震えていた。  助けに行きたい。でも行けない。  この儀式を邪魔すれば、那美がもっと酷い折檻を受けることを知っているからだ。



 数時間が過ぎて、ようやく音が止んだ。  静寂が戻る。  ふすまが開き、両親が出てきた。  二人は汗だくで、どこか恍惚とした表情を浮かべている。  廊下にうずくまる静を一瞥もしないまま、二人は談笑しながら去っていった。


「今回は長かったな」 「ええ。あの子、随分と耐えられるようになったわ」


ママは美しい。那美の美しさが完成するとこうなるのだろう。
力もなかなか強い。でもあたしよりは弱い。見ればわかる。



 両親の気配が消えると、静は這うようにして奥の間へと向かった。  薄暗い和室。  その中央に、白い着物を着た那美が倒れていた。

「那美!」

 静が駆け寄り、抱き起こす。  那美の身体は、燃えるように熱かった。  乱れた着物の襟元から、無数のミミズ腫れと、新しい痣が見える。  霊を降ろした反動で、全身の毛細血管が悲鳴を上げているのだ。

「……兄、さん……」

 那美が薄く目を開けた。  その瞳は、焦点が定まらずに揺れている。  でも、静の顔を見ると、安堵したように口元を緩めた。

「ごめんね……また、怖い音を聞かせちゃったね」 

「そんなこと……! 僕のことなんていい!  痛むのか? 水を持ってこようか?」

 静は泣きそうな顔で、那美の汗ばんだ額を拭った。  自分の方がずっと辛い目に遭っているのに、那美はいつだって、無力な兄のことばかり気遣う。  それが、静には痛かった。  自分の無力さが、ナイフになって胸を抉るようだった。


「平気だよ。……あいつら、今日はもう満足して寝ちゃうから」


 那美は、震える手で静の頬に触れた。  その指先には、自身の爪で掌を食い込ませた傷跡があった。  痛みに耐えるために、自分自身を傷つけた跡だ。


「ねえ、兄さん。  今日は雨が降ってる?」 

「ああ。土砂降りだよ」 

「そう……。雨音を聞くと、安心するの。  世界から切り離されたみたいで、私たちだけで、お城に閉じこもっているみたいで」


 那美は夢見るように呟いた。  それは、今のあたし(世璃)と同じ感性だった。  この閉鎖的な空間だけが、彼女にとっての安息の地だったのだ。

「いつか、二人だけで暮らしたいな。  パパもママもいなくて、怖い儀式もなくて……。  ただ、雨の音を聞きながら、兄さんに本を読んでもらうの」

 那美のささやかな願い。  でも、静は知っている。  この家の呪縛から逃れるには、死ぬしかないということを。  一族の歴史の中で、「器」として使い潰された女たちは、みんな若くして狂い死にするか、海に身を投げてきたのだから。


「……僕が、なんとかするよ」

 静は、叶うはずのない約束を口にした。 

「僕が強くなって、君を連れて逃げるから」

「ふふ。ありがとう、兄さん」

 那美は、静の嘘を優しく受け入れた。  そして、静の胸に顔を埋めて、泥のように眠りに落ちた。


 薄暗い部屋の中で、二人は寄り添っていた。  地獄の底で咲く、二輪の白い花のように。  美しくて、脆くて、どうしようもないほど孤独な共依存。

 ――なるほどね。

 あたし(世璃)は、記憶の外側から冷ややかに観察していた。  お兄様と那美の絆は、あたしが思っていたよりも深く、そして強固だ。  これは「愛」なんて綺麗なものじゃない。  同じ傷を舐め合う、血の味がする「契約」だ。


 だからこそ、那美はあんな決断をしたのね。  この地獄を終わらせるために、自分ごとすべてを焼き払うという、最悪の決断を。


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