西伊豆の廃屋から東京のタワマンへ。美しき食人鬼たちは、人間を喰らって愛を成す

秦江湖

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腐食する季節と、蜜の味

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     季節がいくつか過ぎた。  お城の周りの木々は、鮮やかな緑から、錆びたような赤へ、そして骸骨みたいな茶色へと色を変えた。  けれど、あたしたちの時間は止まったままだ。  

     壁の時計の針は進んでいるけれど、この空間に流れる空気は、琥珀の中に閉じ込められた虫のように、永遠に固定されている。


 平和だ。  叔父様という汚らしい「王様」がいなくなり、里見先生という邪悪な「外敵」が埋まり、警察という「番犬」が飼い慣らされた今。  この城は、完全な孤島になった。

    でも、風向きが変わると、嫌な匂いがする。  あたしはテラスに出て、崖の下を見下ろした。  鬱蒼とした森の向こう、海沿いにへばりつく集落の灯り。そこから、ネバネバとした「視線」が這い上がってくるのがわかる。


 『忌まわしい』『出ていけ』『あそこには鬼がいる』


 何百人もの老人たちの、陰湿な囁き。  彼らは、あたしたちを恐れ、憎み、そして機会があれば踏み潰そうと、じっとこちらの隙を窺っている。  まるで、天井の隅に巣食う蜘蛛を見上げるような、粘着質な殺意。


 ……気持ち悪い。  いつか、あの灯りを全部消してやりたい。


※※※※※


 週に一度、決まった曜日の午後に、裏口のチャイムが鳴る。  番犬――犬飼の訪問だ。

 ガチャリ。  あたしが鍵を開けると、そこには疲れ切った顔の中年男が立っていた。  

     数ヶ月前までは、あれほどギラギラと脂ぎっていたのに、今はまるで幽霊みたいに痩せ細っている。  頬はこけ、目の下には消えない隈がある。  けれど、身につけているスーツだけは、以前よりもずっと上質なブランド物に変わっていた。

「……頼まれていた品だ」

 犬飼の声は、枯れ木の擦れる音に似ていた。  彼は両手に抱えた大きな段ボール箱を、土間に置いた。  

     中身は、最高級の牛肉、ワイン、新鮮な野菜、そしてお兄様の常備薬。  あたしが指定したリスト通りの「貢ぎ物」だ。

「ご苦労様。……あら、いい靴を履いているわね」

 あたしが足元を指差すと、犬飼はビクリと肩を震わせた。  ピカピカに磨かれたイタリア製の革靴。  あたしが教えた株で儲けた金で買ったものだ。

「……おかげさまでな」  

     犬飼は自嘲気味に笑った。

 「娘のピアノも買い換えた。妻も上機嫌だ。家庭は円満だよ。  ……俺の魂が腐っていくこと以外は、すべて順調だ」

 彼の匂いを嗅ぐ。  以前のような「安酒と焦り」の悪臭は消えた。  代わりに、「諦め」と「金」の匂いが染み付いている。  

     彼はもう、警察官としての矜持(プライド)も、人間としての良心も捨て去った。  ただ、あたしの予知に縋り、贅沢な暮らしを維持するためだけに生きる、哀れな亡者。

「よかったわね。  じゃあ、次の『神託』よ」

 あたしはメモを渡した。  犬飼はそれをひったくるように受け取り、貪るように読んだ。  その目には、麻薬中毒者のような狂気的な光が宿っていた。 とっても面白い反応。

「……ありがとう。ありがとう……!」

犬飼はメモを大事そうに懐にしまうと、ふと表情を曇らせて、言い淀むように口を開いた。


 「……それとな、世璃様。少し耳に入れておきたいことがある」  

「なあに?」 

 「最近、麓の集会所が騒がしいんだ。  行方不明者が増えている件で、警察よりも先に、地元の自警団が色めき立っている。  あの連中は警察と違って、法律なんて守っちゃいない。古い因習だけで動く厄介な連中だ。  ……『山狩り』と称して、ここへ乗り込んでくる日も近いかもしれん」

 犬飼の忠告に、あたしは鼻を鳴らした。  さっきテラスから感じた、あの粘着質な視線の正体はこれだったのね。


 「ふーん。カエルさんたちが、ゲコゲコ騒いでるのね。教えてくれてありがとう」


 彼は深々と頭を下げ、逃げるように去っていった。  


     車のエンジン音が遠ざかっていく。  あたしは段ボール箱を持ち上げた。  ずっしりと重い。  思いわりにはずいぶんちっぽけ。   これは、人間の「欲」と「弱さ」の重さだ。


 ***


 キッチンでシチューを煮込む。  犬飼が持ってきた牛肉は、ナイフがいらないくらい柔らかい。  コトコトと鍋が鳴る音。  窓の外の雨音。  そして、リビングから聞こえるお兄様の咳払い。

「……ゴホッ、ゴホッ」

 あたしはスプーンを止めて、耳を澄ませた。  お兄様の咳は、ここ最近、少しずつ増えている。  乾いた咳じゃない。  肺の奥から、何か湿ったものを吐き出そうとするような、重たい音。

 あたしは火を止めて、リビングへ向かった。  お兄様は、暖炉の前のロッキングチェアで、毛布にくるまって眠っていた。  読みかけの本が、膝から滑り落ちそうになっている。

 あたしは足音を忍ばせて近づいた。  お兄様の寝顔は、透けるように白かった。  瞼の血管が青く浮き出ている。  頬は以前よりこけて、顎のラインが鋭くなっている。  

     美しい。  まるで、教会のステンドグラスに描かれた殉教者のようだ。

 でも、匂いが変わった。  あたしは鼻を近づけ、くんくん、と嗅いだ。


 石鹸の匂いが薄れ、代わりに、甘くて重たい匂いが漂っている。  熟れすぎて、樹から落ちて、地面で発酵し始めた果実の匂い。  あるいは、ドライフラワーになりかけた花弁の匂い。

 ――死の匂いだ。

 あたしの胸が、きゅっと痛んだ。  わかっている。原因はあたしだ。  

     あたしはこの身体に「異界のナニカ」を宿している。  あたしが呼吸をするたびに、この屋敷には、人間には毒となる成分(瘴気)が充満していく。  普通の人間なら、この濃密な気配に当てられて、三日で発狂するか、身体を壊して逃げ出すだろう。

 でも、お兄様は逃げない。  あたしへの愛だけで、精神の均衡を保っている。  その代償として、肉体が静かに、確実に蝕まれているのだ。

「……ん……」

 お兄様が身じろぎをした。  苦しそうに眉を寄せ、うわ言を漏らす。

「……那美……」

 まただ。  お兄様は、夢の中で死んだ妹の名前を呼ぶ。  あたしという怪物がそばにいて、命を削りながら愛しているのに。  魂の深いところでは、まだあの白い着物の少女を求めている。

 あたしは、お兄様の口元に滲んだ血を、指先で拭って舐めた。  鉄の味と、腐りかけた甘い蜜の味。  お兄様は、内側から溶けている。  あたしという毒に侵されて、人間としての形を保てなくなりつつある。


 あと、どれくらい保つのだろう。  半年? それとも数ヶ月?  お兄様がただの肉塊になって崩れ落ちるのが先か。  それとも、あたしと一つになるのが先か。 ああ、どうしよう。

「……世璃?」

 お兄様が、薄く目を開けた。  熱で潤んだ瞳が、あたしを捉える。

「ごめんね……起こしちゃった?」

 「ううん。いい匂いがしたから」 

「シチューができたよ。お兄様の好きな、お肉がいっぱい入ってる」

 お兄様は、ふわりと微笑んだ。  その笑顔は、ガラス細工みたいに脆くて、今にも壊れてしまいそうだった。 どうにかしないと。


「ありがとう。  ……ねえ、世璃。雨の音がするね」 

「うん。今日は一日中、降ってるよ」 

「そうか。あの日と同じだ」


 お兄様は、窓の外の闇を見つめた。  その瞳の焦点が、また「ここではない場所」へ飛ぼうとしている。  過去へ。  すべての始まりだった、1年前のあの雨の日へ。
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