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追憶の章 泥の底に咲く花(5)
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バリバリバリッ!!
私の背中が裂け、中から黒い奔流が噴き出した。
それは、ただの液体ではなかった。 何百年もの間、この土地の底に堆積していた死者たちの怨念。 飢え、痛み、憎しみ。 それらが凝縮された、意思を持つ泥だ。
その核にどろどろの溶岩のような泥の王がいる。
泥の王の本質とは、悪霊などではない。 ここの「大地そのもの」であり、そのことを理解している者は誰一人としていなかった。 お腹の中の怪物に怨念と泥の王の力が結びついた。
「な、なんだこれは!? 違う、手順が違うぞ!」
パパが太鼓のバチを取り落とした。 祭壇のロウソクが、黒い風に煽られて一斉に消える。 闇の中で、二つの赤い光だけが爛々と輝いた。 泥の中から現れた、怪物の瞳だ。
『――うるさい』
怪物の声が、広間の空気を振動させた。 次の瞬間、黒い泥が鞭のようにしなり、パパの首に巻き付いた。
「がっ……!?」
悲鳴を上げる間もなかった。 ブチッ。 濡れた雑巾を絞るような音がして、パパの首がねじ切られた。 鮮血が噴水のように舞い上がる。
「あ、ああぁ……あなた!? 嫌ぁぁぁぁ!」
ママが腰を抜かして後ずさる。 怪物は、ゆっくりとママの方へ向き直った。 その姿は、不定形な泥の塊から、徐々に人の形へと変わり始めていた。
『お前も、うるさい』
黒い泥が波のように押し寄せ、ママを飲み込んだ。 骨が砕ける音。肉がすり潰される音。 断末魔の叫びは、泥の中でゴボゴボという泡の音に変わった。
――静かになった。
私は、薄れゆく意識の中で、その光景をぼんやりと見ていた。 ああ、本当に終わったんだ。 パパも、ママも、もういない。 兄さんをいじめる人は、誰もいなくなった。
ふと、身体の異変に気づいた。 痛くない。 さっきまで背中を焼いていた鞭の痛みも、腕に残っていた無数の痣の痛みも、嘘のように引いていく。
見ると、私を包み込んでいる黒い泥が、私の傷口に吸い付いていた。
チュウ、チュウ。
まるで赤ん坊が母乳を吸うように、怪物は私の身体から「痛み」と「傷」を吸い取っているのだ。
――そうか。食べるんだね。 私の命だけじゃ足りないから。 私の痛みも、苦しみも、この身に刻まれた傷跡のすべてを、産まれるための糧にするんだね。
見る見るうちに、私の肌から痣が消えていく。 裂けた皮膚が塞がり、白磁のような滑らかな肌に戻っていく。 皮肉なことだ。 両親がつけた醜い傷を癒やしてくれたのが、両親を殺した怪物だなんて。
私の身体は、死ぬ直前にして、人生で一番美しくなっていた。 傷ひとつない、完璧な人形のように。
『……ありがとう、那美』
頭の中に、無邪気な声が響いた。 あの子(世璃)の声だ。
『いただいたわ。あなたの痛みも、身体の設計図も』
私の意識は、そこでプツリと途切れた。 暗い水底へと沈んでいく。 最後に思ったのは、兄さんのことだった。
ごめんね、兄さん。 約束通り、私は綺麗になったよ。 ……さようなら。
***
音が、止んだ。 両親の悲鳴も、何かを破壊する音も、すべてが唐突に消えた。 残っているのは、激しい雨音だけ。
「那美……?」
僕は震える手で、ドアノブを回した。 鍵はかかったままだ。 でも、もう我慢できなかった。僕は部屋にあった重たい置物を持ち出し、何度もノブを叩き壊した。
ガン! ガン! ガチャリ。
ドアが開く。 僕は車椅子を漕いで、廊下へと飛び出した。
血の臭い。 鼻が曲がりそうなほどの濃厚な鉄錆の臭いが、広間の方から漂ってくる。 僕は這うようにして、広間の襖を開けた。
「……ッ!?」
そこは、地獄だった。 壁も、畳も、天井も、すべてが赤く染まっていた。 部屋の隅には、両親だったものが、肉塊となって転がっていた。
そして、部屋の中央。 血の海の中に、ポツンと、白い花が咲いていた。
那美だ。 彼女は横たわっていた。 その姿は、あまりにも綺麗だった。 あれほど酷かった痣も、傷も、すべて消え失せていた。 まるで眠っているかのように、透き通るような白い肌で、安らかに目を閉じていた。
「那美!」
僕は駆け寄り、彼女を抱き起こした。 冷たい。 呼吸がない。心臓も止まっている。 外傷はどこにもないのに、命だけが完全に抜け落ちている。
「嘘だ……那美、目を開けてくれ!」
僕が泣き叫んだ、その時だった。 那美の身体の陰から、ヌラリと動く影があった。
「……お兄様?」
鈴を転がすような声。 影が立ち上がり、月明かりの下に姿を現した。
僕は息を呑んだ。 そこに立っていたのは、もう一人の「那美」だった。 顔も、髪も、声も、死んだ那美と寸分違わない。 けれど、その身体は生まれたばかりの赤子のように湯気を立て、瞳は爬虫類のように縦に裂けていた。
怪物が、那美の姿を模倣(まね)て立っていた。
「だ、誰だ……君は……」
「あたし? あたしは……」
少女は小首を傾げ、那美の死体を見下ろし、そして僕を見て、ニッコリと笑った。 無邪気で、残酷な笑顔。
「あたしは『世璃』。 お兄様の、新しい妹だよ」
その瞬間、僕は理解した。 那美は、自分の命だけでなく、その肉体の情報すべてを差し出して、この怪物を産み落としたのだ。 僕を守るために。 そして、僕を一生この罪悪感で縛り付けるために。
遠くで、サイレンの音が聞こえた。 警察が来る。 僕は、目の前の怪物――世璃の手を取った。 那美の死体と、那美の顔をした怪物。 僕にはもう、この地獄を受け入れる道しか残されていなかった。
私の背中が裂け、中から黒い奔流が噴き出した。
それは、ただの液体ではなかった。 何百年もの間、この土地の底に堆積していた死者たちの怨念。 飢え、痛み、憎しみ。 それらが凝縮された、意思を持つ泥だ。
その核にどろどろの溶岩のような泥の王がいる。
泥の王の本質とは、悪霊などではない。 ここの「大地そのもの」であり、そのことを理解している者は誰一人としていなかった。 お腹の中の怪物に怨念と泥の王の力が結びついた。
「な、なんだこれは!? 違う、手順が違うぞ!」
パパが太鼓のバチを取り落とした。 祭壇のロウソクが、黒い風に煽られて一斉に消える。 闇の中で、二つの赤い光だけが爛々と輝いた。 泥の中から現れた、怪物の瞳だ。
『――うるさい』
怪物の声が、広間の空気を振動させた。 次の瞬間、黒い泥が鞭のようにしなり、パパの首に巻き付いた。
「がっ……!?」
悲鳴を上げる間もなかった。 ブチッ。 濡れた雑巾を絞るような音がして、パパの首がねじ切られた。 鮮血が噴水のように舞い上がる。
「あ、ああぁ……あなた!? 嫌ぁぁぁぁ!」
ママが腰を抜かして後ずさる。 怪物は、ゆっくりとママの方へ向き直った。 その姿は、不定形な泥の塊から、徐々に人の形へと変わり始めていた。
『お前も、うるさい』
黒い泥が波のように押し寄せ、ママを飲み込んだ。 骨が砕ける音。肉がすり潰される音。 断末魔の叫びは、泥の中でゴボゴボという泡の音に変わった。
――静かになった。
私は、薄れゆく意識の中で、その光景をぼんやりと見ていた。 ああ、本当に終わったんだ。 パパも、ママも、もういない。 兄さんをいじめる人は、誰もいなくなった。
ふと、身体の異変に気づいた。 痛くない。 さっきまで背中を焼いていた鞭の痛みも、腕に残っていた無数の痣の痛みも、嘘のように引いていく。
見ると、私を包み込んでいる黒い泥が、私の傷口に吸い付いていた。
チュウ、チュウ。
まるで赤ん坊が母乳を吸うように、怪物は私の身体から「痛み」と「傷」を吸い取っているのだ。
――そうか。食べるんだね。 私の命だけじゃ足りないから。 私の痛みも、苦しみも、この身に刻まれた傷跡のすべてを、産まれるための糧にするんだね。
見る見るうちに、私の肌から痣が消えていく。 裂けた皮膚が塞がり、白磁のような滑らかな肌に戻っていく。 皮肉なことだ。 両親がつけた醜い傷を癒やしてくれたのが、両親を殺した怪物だなんて。
私の身体は、死ぬ直前にして、人生で一番美しくなっていた。 傷ひとつない、完璧な人形のように。
『……ありがとう、那美』
頭の中に、無邪気な声が響いた。 あの子(世璃)の声だ。
『いただいたわ。あなたの痛みも、身体の設計図も』
私の意識は、そこでプツリと途切れた。 暗い水底へと沈んでいく。 最後に思ったのは、兄さんのことだった。
ごめんね、兄さん。 約束通り、私は綺麗になったよ。 ……さようなら。
***
音が、止んだ。 両親の悲鳴も、何かを破壊する音も、すべてが唐突に消えた。 残っているのは、激しい雨音だけ。
「那美……?」
僕は震える手で、ドアノブを回した。 鍵はかかったままだ。 でも、もう我慢できなかった。僕は部屋にあった重たい置物を持ち出し、何度もノブを叩き壊した。
ガン! ガン! ガチャリ。
ドアが開く。 僕は車椅子を漕いで、廊下へと飛び出した。
血の臭い。 鼻が曲がりそうなほどの濃厚な鉄錆の臭いが、広間の方から漂ってくる。 僕は這うようにして、広間の襖を開けた。
「……ッ!?」
そこは、地獄だった。 壁も、畳も、天井も、すべてが赤く染まっていた。 部屋の隅には、両親だったものが、肉塊となって転がっていた。
そして、部屋の中央。 血の海の中に、ポツンと、白い花が咲いていた。
那美だ。 彼女は横たわっていた。 その姿は、あまりにも綺麗だった。 あれほど酷かった痣も、傷も、すべて消え失せていた。 まるで眠っているかのように、透き通るような白い肌で、安らかに目を閉じていた。
「那美!」
僕は駆け寄り、彼女を抱き起こした。 冷たい。 呼吸がない。心臓も止まっている。 外傷はどこにもないのに、命だけが完全に抜け落ちている。
「嘘だ……那美、目を開けてくれ!」
僕が泣き叫んだ、その時だった。 那美の身体の陰から、ヌラリと動く影があった。
「……お兄様?」
鈴を転がすような声。 影が立ち上がり、月明かりの下に姿を現した。
僕は息を呑んだ。 そこに立っていたのは、もう一人の「那美」だった。 顔も、髪も、声も、死んだ那美と寸分違わない。 けれど、その身体は生まれたばかりの赤子のように湯気を立て、瞳は爬虫類のように縦に裂けていた。
怪物が、那美の姿を模倣(まね)て立っていた。
「だ、誰だ……君は……」
「あたし? あたしは……」
少女は小首を傾げ、那美の死体を見下ろし、そして僕を見て、ニッコリと笑った。 無邪気で、残酷な笑顔。
「あたしは『世璃』。 お兄様の、新しい妹だよ」
その瞬間、僕は理解した。 那美は、自分の命だけでなく、その肉体の情報すべてを差し出して、この怪物を産み落としたのだ。 僕を守るために。 そして、僕を一生この罪悪感で縛り付けるために。
遠くで、サイレンの音が聞こえた。 警察が来る。 僕は、目の前の怪物――世璃の手を取った。 那美の死体と、那美の顔をした怪物。 僕にはもう、この地獄を受け入れる道しか残されていなかった。
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