「無能」と捨てられた少女は、神の愛し子だった――。 凍てつく北の地で始まる、聖獣たちと冷徹公爵による「世界一過保護な」逆転生活。

秦江湖

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氷の王宮の舞踏会

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 ノースガル公国に来てから、初めての大きな夜がやってこようとしていた。

  城内は朝からどこか浮き足立った空気に包まれている。今日は、公国に冬の訪れを告げる伝統行事であり、同時に領主ゼノスが、保護したアデリーンを正式に領民や有力貴族たちへ紹介するための「冬の舞踏会」が開催される日だった。


「アデリーン様、あまり緊張なさらないで。今のあなた様は、雪の精霊よりもお美しいのですから」

 侍女長のマーサが、アデリーンの髪を丁寧に編み上げながら優しく語りかける。 

 鏡の中に映る自分を見て、アデリーンはふと、数週間前の自分を思い出した。あの時、黄金の国ルミナリスの神殿で、泥にまみれ、婚約者に罵られていた少女と同じ人物だとは、到底信じられない。 

 今の彼女が纏っているのは、ゼノスが特注させたノースガル伝統の礼装だった。 

 深いネイビーブルーのシルクをベースに、銀の糸で雪の結晶が刺繍されたドレス。ルミナリスのロココ様式のような過度な膨らみはないが、歩くたびに流れるようなドレープが、アデリーンの凛とした立ち姿を際立たせている。首元には、ゼノスから贈られた『氷魂石』の首飾りが、彼女の肌の上で静かな魔力の鼓動を刻んでいた。


「……ありがとうございます、マーサ。でも、私が現れることで、閣下に迷惑がかからないかだけが心配で」

「迷惑、だなんて。閣下があれほど楽しそうに準備を命じられたのを、私共は初めて見たのですよ」

 マーサがくすくすと笑う。その時、控えの間の扉がノックされ、低い声が響いた。

「アデリーン、準備はいいか」


 入ってきたゼノスの姿に、アデリーンは思わず息を呑んだ。 

 普段の軍服も威厳があったが、今夜の彼は、正礼装である黒と銀の外套を翻し、まさに氷の国の王そのものの風格を漂わせている。いつもは鋭いだけのアイスブルーの瞳が、アデリーンの姿を捉えた瞬間、甘い熱を帯びたように細められた。

「……見事だ。やはり、お前にはノースガルの色がよく似合う」

 ゼノスはアデリーンの前に立つと、その細い腰を引き寄せ、耳元で低く囁いた。

「今夜、お前を狙う不届き者が現れたら、私は容赦なく城から叩き出すつもりだ。……いいな、私のそばを離れるな」


「ゼノス様……。ふふ、過保護すぎますわ」


 アデリーンは小さく笑いながら、彼に銀の扇子を向けて見せた。それは、ルミナリスで使っていたものとは別の、ノースガルの職人たちが彼女のために作り上げた、純銀の骨組みを持つ新しい扇子だ。

「私には、この力があります。精霊たちも、私を守ってくれていますもの」

 二人は腕を組み、大広間へと続く扉へと向かった。


 扉が開かれた瞬間、光り輝くシャンデリアと、数百人の視線がアデリーンを射抜いた。 

 ノースガルの貴族たちは、当初、黄金の国から追放された「無能の令嬢」がどのような者か、疑念を持って眺めていた。しかし、アデリーンが一歩踏み出し、会場全体に調律の波動が優しく広がると、広間を満たしていたざわめきは一瞬で静まり返った。


「……なんて清らかな空気だ」

 「彼女が歩くだけで、魔力の淀みが消えていく……」


 誰からともなく感嘆の声が上がる。アデリーンは背筋を伸ばし、かつてルミナリスで否定された自分の力を誇るように、優雅に一礼した。 



 舞踏会が始まると、アデリーンの周囲には、彼女の「調律」を直接受けた領民や騎士たちが次々と挨拶に訪れた。

「アデリーン様、先日は娘の魔導具を直していただき、ありがとうございました」

 「あなた様が来られてから、馬たちの体調がとても良いのです」


 一つ一つの言葉が、アデリーンの心を満たしていく。ここには、自分を必要としてくれる人々がいる。鑑定結果という数字ではなく、自分が行った「行為」で評価してくれる世界。  その幸福感に浸っていた時だった。


「……ア、アデリーン……嬢……? 本当に、アデリーン様なのか?」

 会場の隅から、場違いな、そして聞き覚えのある掠れた声が聞こえた。 

 アデリーンが振り返ると、そこには薄汚れた旅装のまま、青ざめた顔で立ち尽くす一人の男がいた。 

 男の名前は、カイル。ルミナリスの伯爵家の次男であり、以前は第一王子エリオットの側近として、アデリーンを馬鹿にしていた遊び仲間の一人だった。


「カイル様……。なぜ、あなたがここに?」

 アデリーンの問いに、カイルは崩れ落ちるように膝をついた。


「助けてくれ……! 王国は、もう滅茶苦茶だ! アデリーン様がいなくなってから、国内の精霊たちが一斉に牙を剥き始めたんだ。作物も育たず、水も腐り……あまつさえ、ベルグラードの兄上たちが『粛清』を始めて……!」


 カイルは震える手でアデリーンのドレスの裾に縋ろうとした。だが、その手は届く前に、冷たい氷の壁によって阻まれた。  ゼノスが、アデリーンの前に壁のように立ち塞がったのだ。


「……ルミナリスの鼠が、我が国の舞踏会に何のご用だ。招待状も持たず、礼儀も知らぬのか」


「公爵閣下! 頼みます、アデリーン様を返してください! 彼女がいなければ、ルミナリスは……王子はもう正気じゃない! 彼女を連れ戻せば、すべてが元通りになると王子が……!」


 カイルの絶叫に、会場が凍りついた。 

 アデリーンは、かつて自分を捨てた国の惨状を聴き、悲しみよりも先に、深い空虚さを感じた。


「カイル様。……私はもう、あの国には戻りません。ここは、私の新しい故郷なのです」

 アデリーンはゼノスの腕に自分の手を重ね、カイルを静かに見つめ返した。


「王子に伝えてください。……私という『歯車』を無理やり引き抜いたのは、あなたたち自身だと」


 ゼノスは冷たく兵士たちに命じた。 

「……連れて行け。この男には、ノースガルの最も冷たい地下牢がお似合いだ。王国の惨状をゆっくりと報告してもらおう」

 引きずられていくカイルの叫びが遠のく中、ゼノスはアデリーンの肩を抱き、その震えを止めるように強く引き寄せた。



「……大丈夫だ、アデリーン。あんな国のために、お前が心を痛める必要はない。……今夜は、お前のための夜だ」


 ゼノスは楽団に合図を送り、再び華やかな音楽が流れ出す。 

 アデリーンは、黄金の国との決別を改めて確信しながら、ゼノスの先導で舞踏会のフロアへと足を踏み出した。


  その背後で、彼女の銀の扇子が、ルミナリスの崩壊を予感させるような、美しくも鋭い旋律を夜空に刻んでいた。

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