「無能」と捨てられた少女は、神の愛し子だった――。 凍てつく北の地で始まる、聖獣たちと冷徹公爵による「世界一過保護な」逆転生活。

秦江湖

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魔法の指先と、温室の秘め事

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 ノースガル公国を支える命綱である魔石鉱山の危機を救ってから、城下でのアデリーンの評判はとどまるところを知らなかった。  かつての「鑑定不能の無能令嬢」という汚名は、今や「淀みを消し去る白銀の女神」という崇拝に近い賛辞へと塗り替えられている。だが、当の本人は至って控えめなまま、今日も今日とて公爵城の一角にある広々とした工房で、山積みの石と向き合っていた。

「……ふぅ。これで、この分は終わりかしら」

 アデリーンは、銀の扇子をパチンと閉じた。  彼女の目の前には、先ほどまで不純物が混じり、鈍く濁っていた未加工の魔石が並んでいた。しかし、アデリーンが扇子をひと振りし、波長を『調律』した後のそれは、まるで深い海を切り取ったかのような、一点の曇りもない透明な蒼(あお)を放っている。

(黄金の国では、魔石の不純物を取り除くには熟練の魔導師が何週間もかけて魔力を流し込まなければならないと教わったけれど……。ここでは精霊たちが協力してくれるから、呼吸をするのと同じくらい簡単にできてしまうわ)

 アデリーンは、透き通った石を一つ、指先で摘み上げて光にかざした。  彼女の力『黒の沈黙』の本質は、魔力を奪うことではない。余計な雑音や淀みを一時的に「無」に帰し、物質や魂が持つ本来の輝きを取り戻させることにある。その結果として精錬された魔石は、通常の何倍ものエネルギー効率を誇る「至宝」へと変貌を遂げるのだ。

 その時、背後から重厚な軍靴の音が聞こえた。

「アデリーン。……また根を詰めているな」

 振り返ると、ゼノスが厳しい表情で立っていた。その手には、上質なカシミアのショールが掛けられている。彼は迷いのない足取りで近づくと、アデリーンの肩を包み込むようにショールを掛けた。

「ゼノス様。……いえ、これくらい何でもありませんわ。公国のためにできることがあって、私はとても嬉しいのです」

「……お前の『嬉しい』の基準は低すぎる。この魔石一つで、ルミナリスの王城が丸ごと買えるほどの価値だということが分かっているのか?」

 ゼノスがテーブルの上の魔石を手に取り、感嘆を押し殺した声で言った。  彼の言う通り、アデリーンが生み出した「最高純度の魔石」は、もはやただの資源ではない。暖房、街灯、移動用の魔導具……すべての性能を飛躍的に向上させ、ノースガル公国を一夜にして大陸一の「魔石大国」へと押し上げるほどの可能性を秘めていた。

「お前の指先は、砂利をダイヤモンドに変える神の手か。……だが、そのせいで指が赤くなっているではないか」

 ゼノスは、石を持っていたアデリーンの右手をそっと自分の大きな手で包み込んだ。  彼が指摘した通り、冷たい魔石に触れ続けていた彼女の指先は、わずかに冷え、淡い赤色に染まっている。ゼノスはそれを痛ましげに見つめると、有無を言わせぬ力強さでアデリーンを立たせた。

「今日はここまでだ。……休憩が必要だ」

「でも、まだ半分も……」

「これ以上作業を続けるなら、この工房ごと封印するぞ。……私がお前をここに置いているのは、働かせるためではない。お前を慈しむためだ」

 ゼノスは強引にアデリーンの手を引き、工房を出た。彼が向かったのは、通常の客間でも、ましてや執務室でもなかった。  城の深部、歴代領主しか通ることを許されない「隠し通路」の先にある、重厚な扉。  ゼノスが魔力を流し込むと、扉は音もなく開き、そこには信じられない光景が広がっていた。

「……っ、まぁ……!」

 アデリーンは思わず声を上げた。  そこは、広大なガラス張りの温室だった。外は今も猛烈な吹雪が荒れ狂っているというのに、温室内は春の昼下がりのような柔らかな陽光と、甘い花の香りに満ちている。  真っ赤な薔薇、可憐なマーガレット、ルミナリスでも滅多に見られない極彩色の熱帯植物が、所狭しと咲き誇っていた。

「ゼノス様、これは……?」

「お前は黄金の国の太陽を恋しがっているのではないかと思ってな。……ここなら、誰にも邪魔されず花を愛でられる。私の膨大な魔力の使い道としては、ちょうど良い暇つぶしだ」

 彼はぶっきらぼうに言ったが、これだけの広さの温室を、極寒の地で年中維持し続けることがどれほど常軌を逸した魔力量を必要とするか、アデリーンにも分かる。彼はアデリーンのために、この「小さな楽園」を守り続けてきたのだ。

 ゼノスは花に囲まれた白いベンチにアデリーンを座らせると、自らも隣に腰を下ろした。そして、彼女の赤い指先を再び取り、自身の温かな唇をそこに寄せた。

「……ゼノス、様……」

「アデリーン。……勘違いするな。お前のこの手は、国を救うためだけにあるのではない」

 彼はアデリーンの人差し指の先に、深く、熱い接吻を落とした。

「私の心を救い、私に愛されるためにあるのだ。……誰が何を言おうと、お前を道具として扱うことは私が許さない。お前を傷つけるものは、精霊だろうが、お前の兄たちだろうが、この私が叩き潰す」

 独占欲に満ちた、重く切ない言葉。  ゼノスのアイスブルーの瞳には、公爵としての冷静さなど一片もなく、ただ一人の女性を渇愛する、餓えた狼のような熱が宿っていた。





一方、黄金の国「ルミナリス」――。
 かつての栄華の象徴であった王宮は、今や墓標のように静まり返っていた。  第一王子エリオットが最果ての監獄へと連行され、国王もまた病を理由に奥へと隠居した今、この国を実質的に動かしているのはベルグラード家の兄たちだった。

「……寒いな。アデリーンが去ってから、この国の温度は三度ほど下がった気がするよ」

 暗い回廊を歩きながら、三男ファビアンが肩をすくめた。  ノースガルからの魔石供給が途絶えたことで、王都の魔法暖房は完全に停止している。かつて「黄金の光」と謳われた街灯は消え、贅沢に慣れきった貴族たちは、暗闇の中でガタガタと震えながら過ごしていた。

「自業自得だ。精霊たちが、お前たちの主を傷つけたこの国に力を貸すはずがない」

 次男シルヴェスターが冷たく言い放つ。彼は王立魔導院の長として、あえて修復作業を遅らせ、王族に残されたわずかな備蓄魔力をじわじわと削り取っていた。

「……マクシミリアン兄様。エリオットは監獄に到着した頃でしょうか?」

「ああ。あそこはアデリーンが放り出された雪原よりも過酷な場所だ。魔力を持たぬ者が何日持つか……まあ、興味はないがな」

 長男マクシミリアンは、暗がりの窓から北の方角を見つめた。  そこには、自分たちが守りきれなかった――いや、守るために手放した愛しい妹がいる。

「……アデリーンが最高品質の魔石を生成し始めたという報せが入っている。彼女の価値は、我々が思っていたよりもさらに高まっているようだ」

「ふふ、さすが僕らの妹だ。……さて、次はどの『特権』を奪おうか? 王家にはまだ、無駄な宝石や食料が残っているようだしね」

 ファビアンの毒を孕んだ笑みが、暗闇に溶けていく。  エリオットという象徴的な敵がいなくなった後も、兄たちの「清算」は終わらない。彼らにとって、この国はアデリーンに捧げるための『生贄』に過ぎなかった。
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