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2章 春:出会い篇
1 田舎の近いは、都会の遠い
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3月下旬の朝なのに、まだ肌寒い。
昨日降った雪が地面のあたたかさをうばっているのだろう。
歩くたびに、霜のシャリシャリとした音がする。
(すごいな、雪国って。3月なのに雪が残ってるんだもん、東京じゃ考えられないよ)
ゆきは、うっすらと白く覆われた道をヨタヨタと進んでいた。
かれこれ、20分以上は歩いている、と思う。
道なりに進むだけなので迷わないけれど、見える場所には雪しかない。
(さすが、雪女のふるさとって感じだよね)
引っ越し先の釜谷村は、母である深雪のふるさとだった。
すでに祖父母の家はなくなっていたが、ご近所さんだったらしい斉藤のおばあが家を融通してくれた。
立地は、立山線からは数キロ離れており、温泉の出る地域らしい。
(おかあさんがお風呂好きなのって、温泉がある土地に住んでたからなんじゃ……)
母のルーツを見た気がして、ゆきは肩をすくめた。
できるだけ人から遠ざかるように住んでいるのは、斉藤のおばあと雪の家だけ。
斉藤家が人を避けなければいけない理由は、ゆきの家と同じだという。
どうやら、斉藤のおばあは雪女らしいのだ。
そう聞けば、ゆきは斉藤家に親近感がわき、二週間で何度も行き来するうちにだいぶ打ち解けた。
そして、今日もお呼ばれし、いそいそと向かっているのだ。
しかし、遠い。
雪ばかりの景色に、少し眠くなる。
「……やっぱり、お母さんについてきてもらえば良かったかな」
そうすれば話しながら行けたし、楽しかったのに。
少し後悔したが、母は仕事がひと段落したとかで、長風呂中である。
それに、数キロも離れているお隣の家に用があるのはゆきだけだった。
(だって、初めてのホタルイカだもん。絶対買いたい!)
そう思うと、おぼつかなかった足も、自然と早く早くとなる。
ホタルイカは3月下旬から解禁となるそうで、お隣さんは買い付けに行く日だという。
多めに買ってくるからと言われ、ゆきは便乗することにしたのだ。
(安いって言ってたし、1キロくらい買っちゃおうかな)
軍資金は母からもらっている。
1週間分の食費は、野菜と米の分を除いてもあまりある。
東京都の物価より格段に安いこの土地では、こころゆくまで食材を買えてしまう。
これだけでも、引っ越してきてよかった。
「ああ、楽しみだなぁ。イカだから、炒め物に使ってもおいしいよね! イカなのに口にぜんぶ入っちゃう大きさなんて、絶対、うまみがすごいに決まってるでしょ。おばあはこじゃれたパスタにのせてもうまいって言ってたし」
夢が広がる。
表情は動かないのに、ムフッと鼻息が荒くなる。
傍から見たら表情のない市松人形が、鼻息だけ荒くしているみたいだろう。
しかし、本人のゆきはまったくそんなことを気にしていなかった。
おいしいもののことを考えるだけで興奮してしまうのは昔からだった。
それができなかったのは、父が亡くなり貧乏になったから。
ゆきは引っ越した幸せをかみしめる。
「でも、まずは沖漬けっていう漬物を作るって言ってたよね」
今日は、透明で小さいホタルイカの沖漬けを作るらしい。
完成図の画像を見せてもらったけれど、醤油まみれのイカがごはんの上で泳ぐ様は絶景だった。
身はプルンとしたゼリー状で、のどごしがとても良さそうに見えた。
想像するだけで、口によだれが広がる。
(どんな味だろう……。すごい楽しみだなあ)
ウキウキしている間に、お隣のおばあの家が見えてきた。
平屋で、瓦ぶきの屋根にはうっすらと雪が積もっている。
近づくと、黒いバンから積み荷を降ろしている男性の姿が目に入る。
おばあの身内の斉藤正だった。
「よっ、来たか」
気づいた正が手をあげて歓迎してくれる。
おばあは近所から出ないので、外のことはすべて正がやっているという。
頬のこけた顔が笑っている。
三白眼なのに、どこか優しい目だった。
(笑い方とか、雰囲気とか、お父さんにちょっと似てるんだよね)
だから、人付き合いの苦手なゆきには珍しく、正がなんとなく好ましかった。
まだ20代前半の正に父が似てるというのは悪くて言えないけれど、彼と一緒にいるのが心地よい。
ゆきはハキハキと声をかけた。
「こんにちは! これ、運ぶんですか? 手伝います!」
「おう、ありがとな!」
優しい声でお礼を言われることが、ただ嬉しかった。
ここにはゆきを傷つける人が驚くほどいない。
(なんて優しい世界なんだろう)
幼馴染の松下優とは、いつもくっついていて距離は近かったけれど、心はとても遠かった。
ここでなら、ゆきも誰かと心の距離を近づけられるかもしれない。
今度こそ友だちを作りたい。
(……できれば正さんと! もっともっと仲良くなりたいな)
ゆきはできるだけ荷物を両手に持って、正の背中を追った。
誰かと近づきたいと思ったのは初めてのことだった。
昨日降った雪が地面のあたたかさをうばっているのだろう。
歩くたびに、霜のシャリシャリとした音がする。
(すごいな、雪国って。3月なのに雪が残ってるんだもん、東京じゃ考えられないよ)
ゆきは、うっすらと白く覆われた道をヨタヨタと進んでいた。
かれこれ、20分以上は歩いている、と思う。
道なりに進むだけなので迷わないけれど、見える場所には雪しかない。
(さすが、雪女のふるさとって感じだよね)
引っ越し先の釜谷村は、母である深雪のふるさとだった。
すでに祖父母の家はなくなっていたが、ご近所さんだったらしい斉藤のおばあが家を融通してくれた。
立地は、立山線からは数キロ離れており、温泉の出る地域らしい。
(おかあさんがお風呂好きなのって、温泉がある土地に住んでたからなんじゃ……)
母のルーツを見た気がして、ゆきは肩をすくめた。
できるだけ人から遠ざかるように住んでいるのは、斉藤のおばあと雪の家だけ。
斉藤家が人を避けなければいけない理由は、ゆきの家と同じだという。
どうやら、斉藤のおばあは雪女らしいのだ。
そう聞けば、ゆきは斉藤家に親近感がわき、二週間で何度も行き来するうちにだいぶ打ち解けた。
そして、今日もお呼ばれし、いそいそと向かっているのだ。
しかし、遠い。
雪ばかりの景色に、少し眠くなる。
「……やっぱり、お母さんについてきてもらえば良かったかな」
そうすれば話しながら行けたし、楽しかったのに。
少し後悔したが、母は仕事がひと段落したとかで、長風呂中である。
それに、数キロも離れているお隣の家に用があるのはゆきだけだった。
(だって、初めてのホタルイカだもん。絶対買いたい!)
そう思うと、おぼつかなかった足も、自然と早く早くとなる。
ホタルイカは3月下旬から解禁となるそうで、お隣さんは買い付けに行く日だという。
多めに買ってくるからと言われ、ゆきは便乗することにしたのだ。
(安いって言ってたし、1キロくらい買っちゃおうかな)
軍資金は母からもらっている。
1週間分の食費は、野菜と米の分を除いてもあまりある。
東京都の物価より格段に安いこの土地では、こころゆくまで食材を買えてしまう。
これだけでも、引っ越してきてよかった。
「ああ、楽しみだなぁ。イカだから、炒め物に使ってもおいしいよね! イカなのに口にぜんぶ入っちゃう大きさなんて、絶対、うまみがすごいに決まってるでしょ。おばあはこじゃれたパスタにのせてもうまいって言ってたし」
夢が広がる。
表情は動かないのに、ムフッと鼻息が荒くなる。
傍から見たら表情のない市松人形が、鼻息だけ荒くしているみたいだろう。
しかし、本人のゆきはまったくそんなことを気にしていなかった。
おいしいもののことを考えるだけで興奮してしまうのは昔からだった。
それができなかったのは、父が亡くなり貧乏になったから。
ゆきは引っ越した幸せをかみしめる。
「でも、まずは沖漬けっていう漬物を作るって言ってたよね」
今日は、透明で小さいホタルイカの沖漬けを作るらしい。
完成図の画像を見せてもらったけれど、醤油まみれのイカがごはんの上で泳ぐ様は絶景だった。
身はプルンとしたゼリー状で、のどごしがとても良さそうに見えた。
想像するだけで、口によだれが広がる。
(どんな味だろう……。すごい楽しみだなあ)
ウキウキしている間に、お隣のおばあの家が見えてきた。
平屋で、瓦ぶきの屋根にはうっすらと雪が積もっている。
近づくと、黒いバンから積み荷を降ろしている男性の姿が目に入る。
おばあの身内の斉藤正だった。
「よっ、来たか」
気づいた正が手をあげて歓迎してくれる。
おばあは近所から出ないので、外のことはすべて正がやっているという。
頬のこけた顔が笑っている。
三白眼なのに、どこか優しい目だった。
(笑い方とか、雰囲気とか、お父さんにちょっと似てるんだよね)
だから、人付き合いの苦手なゆきには珍しく、正がなんとなく好ましかった。
まだ20代前半の正に父が似てるというのは悪くて言えないけれど、彼と一緒にいるのが心地よい。
ゆきはハキハキと声をかけた。
「こんにちは! これ、運ぶんですか? 手伝います!」
「おう、ありがとな!」
優しい声でお礼を言われることが、ただ嬉しかった。
ここにはゆきを傷つける人が驚くほどいない。
(なんて優しい世界なんだろう)
幼馴染の松下優とは、いつもくっついていて距離は近かったけれど、心はとても遠かった。
ここでなら、ゆきも誰かと心の距離を近づけられるかもしれない。
今度こそ友だちを作りたい。
(……できれば正さんと! もっともっと仲良くなりたいな)
ゆきはできるだけ荷物を両手に持って、正の背中を追った。
誰かと近づきたいと思ったのは初めてのことだった。
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