古代スパルタ戦記 スパルティアタイ

キュノ・アウローラ

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第3章

妻たち

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 一方、ラケダイモンでは、物資を運ぶためにスファクテリア島に赴き、そして帰ってくる国有農奴たちヘイロータイを、女たちが待ち受けていた。  
  彼女らは皆、夫をスファクテリア島に送り出した妻たちだ。  

  妻たちは、夫たちがひどく苦境に立たされていると知って心を痛め、スファクテリア島からヘイロータイが戻るたびに、その口から愛する者の消息が少しでも聞かれはしないかと心待ちにしていた。 

  ヘイロータイが通りかかるたび、彼女らは今にも絞め殺しそうな剣幕で捕まえては問い詰め、どうやら夫たちが無事でいるらしいこと、困難の中にあっても、彼らが決して意気阻喪していないことを知って安堵の声をあげた。 

 「スミクロス!」  

  大きな空っぽの革袋を肩に担いで仲間たちの後からぶらぶらと歩いてきたスミクロスは、人混みの中からひときわ大きな声が自分の名を呼んだのを聞き、道の真ん中で足を止めて、あっちを向いたりこっちを向いたりした。 

 「おい、スミクロス、こっちだ!」  

  手を振りながら走り出てきたのは、金色の髪のリュクネだった。  
  スミクロスの、疲労の色の濃い顔に笑みが広がった。 
  彼女は、スミクロスの主人なのだ。 

 「おう、リュクネ様! この通り、今回も無事に戻りましたよ。どうにかね」 

 「ああ、本当に御苦労だった。
  アテナイ野郎どもに傷を負わされるようなことはなかっただろうな?」 

 「ええ、まあ正直、前回と比べりゃ、かなりやばかったですがね! 
  アテナイの連中、どんどん用心深くなっていやがるんですよ。
  三段櫂船に加えて、そこらに小舟まで浮かべて見張っているような有様でね! 
  何度か、頭上を矢が掠めていくようなこともありましたが、鋏持つ女神様がたには、今回もなんとかお目零しいただいたような次第で」  

  鋏持つ女神とは、テミスの娘、三人の運命の女神モイラたちに他ならなかった。 
  女神たちは人間の運命の糸を紡ぎ、いつでも気が向けば手にした鋏でその糸をぷつりと断ち切ってしまうのだ。 

  この恐るべき女神たちを恐れげもなく話に持ち出してくることからも分かる通り、スミクロスは異民族の出でありながら、いたって剛胆な男だった。 
  ヘイロータイなど人とも思わぬような風潮さえあるこのラケダイモンで、ドーリア人の女からも男からも一目置かれているくらいだ。 

  それもそのはず、もとは傭兵崩れの追い剥ぎ稼業で暮らしを立てていたような男で、ある時うっかり――よりにもよって――《半神》を襲撃し、完膚なきまでに叩きのめされて以来、すっかり彼に心酔して仕えるようになったという経歴の主なのである。 
  命のやりとりの場面に臨んでもあっけらかんとした態度を崩さないところは、これまでの経験によるところが大きいかもしれないが、半分以上は、本人の素質によるものではないかという気もした。 

  ともあれ、そんなスミクロスは、既にスファクテリア島へと物資を搬入するための渡航を三度、成功させている。 
  ラケダイモンが国有農奴たちヘイロータイの志願者を募った条件に照らせば、既に自由を得る資格があったが、敢えて今の立場に留まったままでいたいというのだ。 

  変わった男である。 
  まあ、主も、女主人も変わっているから、従者もこれくらいでなくては務まらないのかもしれない。 

 「で、婿殿は? 元気にしていたか?」 

 「ええ、お目にかかりましたよ、もちろん!
  あいかわらず、口数は少なくていらっしゃいましたがね。お元気でした」 

 「そうか! 良かった!」 

 「あの若者もいましたよ。もちろん、フェイディアス様や、パイアキス様もね。 
  皆、少し痩せて、そうですね、余計に体つきが引き締まって、男前になってらっしゃいましたよ」 

 「うん、うん、そうか!」  

  リュクネはにこにこと頷き、まわりにいた女たちの腕を優しく叩いて言った。 

 「皆、聞いただろう? 心配することはない。  
  スミクロスたちの働きのおかげで、戦士たちは骨と皮になることもなく、まあ、ちょっと男前になるくらいで済んでいるようだ!  
  このまま冬までしのぎ切れば、アテナイ艦隊はそれ以上ピュロス湾に留まっていることはできない。
  男たちは悠々と島を出て、わたしたちのもとへ帰ってくるだろう」 

 「ああ、よかった……」  

  女たちは互いに顔を見合わせ、口々に言いはじめる。 

 「心配していたの……本当に……」 

 「まったくだわ。敵と戦って雄々しく戦死するならともかく、飢え死にだなんて、死んでも死にきれないでしょうからね!」 

 「まったくだわ! ――でもね、たとえ飢え死にするとしたって、それで、私の夫がめそめそと泣きごとを言うようなら、私は間違った相手を選んだものだと思うわ。 
  どんな困苦に出会ったとしても、最後の最後まで誇りを持って耐え抜くのがラケダイモンの男というものでしょう? ねえ、そうでしょう?」 

 「大丈夫、とにかく、冬までの辛抱よ。
  あの人たちが戻ってきたら、まあ、たっぷりと食べさせてあげましょうよ。
  パンに、肉に、黒スープ――」 

 「ああ、あの人の強い腕が恋しいわ!
  冬になる頃には戻ってこられそうで、ちょうどよかったわよ。
  冬の独り寝は寒いもの」 

 「ほーんと! 毎晩淋しいわよねえ。
  今回は……ええと、もう何日になる?
  いつもいつも、あたしたち妻が『きちんとして』待っていること、男たちは泣いて感謝していいと思うわ、実際のところ!」 

 「あーら、あんた、本当にそんなに『きちんとして』いるのお?」 

 「ちょっと、何が言いたいの!? あんた、ぶん殴るわよ!」 

 「ごめんね、もちろん冗談よ、冗談!
  ……さて、あたしたちはともかく、男たちのほうはどうかしらねえ?」  

  女たちは意味ありげに目を見交わし、やがて、くすくす笑って囁き合いながら肘で押し合った。 

 「そりゃあ……ねえ?」 

 「それなりに、よろしくやってるわよ、ねえ?」 

 「あんたの旦那と……?」 

 「やあだ! そんなふうに明け透けに言うもんじゃないわよ。
  あの人が、恥ずかしがるじゃない!?」  

  とうとう我慢できなくなったか、笑い転げる女たちを見て、スミクロスはわざと白目を剥き、お手上げだ、と言いたげに首を振った。  
  リュクネは、そんな彼に、にっと笑いかけた。 

 「まあ、あれだな。何にしても――」  

  だが、その先に彼女が何と続けようとしたのかは、ついに分からずじまいになった。 

 「あ、いたっ! ちょっと! 皆、聞いておくれよ!」  

  慌ててやってきた、年嵩の女が――彼女は先の戦争で夫を失った寡婦だが、今はふたりの息子たちがどちらも従軍している――、息を切らして一同の真ん中に走り込み、叫んだ。 

 「新しい情報だよ! アテナイの連中が、今度、ピュロスに新たな増援部隊を送るんだって、騒いでいるらしいよっ!」 

 「増援部隊ですって?」 

 「あの人たちがいるスファクテリア島に、上陸しようっていうの?」 

 「ちょっと待ちなさいよ。
  そもそも、それって、いったいどこから出た話なのよ?」 

 「どこからもここからもないよ」  

  女は、苛立たしげに両手を振り回した。 

 「噂だよ、噂! でも、どうやら確からしい。 
  アテナイに入っている密偵たちから、そういう報告があったそうだよ!」 

 「パントクセナ、どうか、もっと詳しく教えていただけないか」  

  リュクネが訊ねた。 

 「その噂によれば、アテナイ人どもは陸から行くのだろうか、それとも、海から行くのだろうか?」 

 「ああ、それも聞いてきたよ。海からだよ、もちろん!
  三段櫂船を幾艘も仕立てて、ぜんぶで四百人の弓兵を乗せていくと言ってるそうだよ、重装歩兵ではなしにね!」 

 「弓兵?」 

 「ああ。そして、そいつらを率いるのは、アテナイのクレオン。新しく艦隊の司令官になったそうだよ!」  

  その名が出た途端、急に、その場の空気がざらついたようになった。 

 「クレオン……」 

 「あいつよ。アテナイの急先鋒でしょう?」 

 「そいつが、新しい司令官になったの?」 

 「四百人の弓兵……」  

  先程までとは打って変わった不安げな呟きを洩らす女たちの中で、そう呻いたリュクネの声は、ひときわ張り詰めていた。 

 「どうしたの、リュクネ? 顔色が悪いわ」 

 「これは……少し、まずいかもしれないな」  

  無理に笑みを浮かべようとしながら、リュクネの表情はいつになく引きつっている。  
  彼女は、スミクロスを振り返った。 

 「スミクロス。確か、婿殿たちが立て籠もっているスファクテリア島は、全体が森林に覆われた島だと言っていたな? 起伏が激しく、全島が小山のようなものなのだと」 

 「ええ、リュクネ様、その通りです」 

 「だとすれば……クレオンは、ピュロスに着けばすぐにでも島に上陸し、婿殿たちを追い詰めるつもりでいるらしい。
  それも、必殺の気構えでいると見える……」 

 「何ですって!?」 

 「どういうことなの、リュクネ!」 

 「スファクテリア島は地形が険しく、森林のために、見通しが利かない場所だという。 
  そんな場所では、重装歩兵はさほど役に立たないと、奴は気付いているのだ。 
  軽装の弓兵のほうが、森林での戦闘には向いている……」 

 「そんな」  

  一同は、蒼然となった。 

 「そんなもの、正々堂々の戦いではないわ。
  猟師が獲物を狩るようなものじゃないの!」

 「アテナイ人どもは、あの人たちを獣のように狩り出す気でいるというの……?」 

 「卑怯者! クレオンという男こそ獣よ!
  四百人の弓兵ですって? あの人たちは、百人そこそこしかいないのよ」 

 「リュクネ! こうしてはいられないわ」  

  女たちは決然と頷き合い、手を取り合った。 

 「あたしたち、長老会に掛け合いましょう。
  今すぐに、スファクテリア島に増援部隊を送っていただかなくては!」 

 「そうだわ。そして、上陸してくるクレオンの部隊を迎え撃つ用意を!」 

 「そもそも、このことを婿殿たちは知っているのだろうか……?」 

 「あら、知らなければ、ラケダイモン軍も地に落ちたというものだわ!
  戦争で、女が知っていることを男が知らないなんていうことがあるものですか」 

 「そうよ。そして、戦争で、女に考えつくことを男が考えつかないとすれば、その男は、男と呼べた代物じゃないわ。 
  このままでは、スファクテリア島の男たちは皆、獣のように殺されてしまう。
  それを防ぐためには、どうやってでも、島に増援部隊を派遣してもらわなくては――」  

  ラケダイモンの女たちは、他のどの都市国家ポリスの女たちとも違っていた。  
  彼女たちは、普段は国政を男たちに任せ、差し出た口を利くことはなかったが、ひとたび事あらば決して黙ってはおらず、男たちとも対等に話し、自分たちの意見を堂々と語った。 


  彼女たちはその足で広場アゴラへ押し掛けると、長老会の重鎮のひとりが偶然通りかかったのを有無を言わさず捕まえて、仰天した老人がわあわあ言うのも構わず取り囲み、スファクテリア島へ増援部隊を送る件について熱烈に訴えた。  

  この騒ぎに、何事かと驚いた警備の兵士たちが駆けつけ、さらに他の長老会の面々も駆けつけた。 
  一時は、彼らと、興奮した女たちとのあいだで、ちょっとした乱闘状態になったほどだ。 

 「待て、皆、静まれ! ……ええい! 静まれい、というのにっ!」  

  髪と髭をぐいぐい引っ張られて涙目になり、なおも掴みかかってくる女の顔を片手で鷲掴みにして押し退けているという状況で、最も年嵩の男が叫んだ。 

 「聞け! 聞くのじゃ……聞けい!  
  よいか、おぬしらの危惧するところは、もっともじゃ。  
  じゃが、スファクテリア島に直接、増援部隊を派遣するなどということは、できん!」  

  一斉に、不服の喚き声が上がった。 

 「静まれえい!」  

  再び飛び掛かってきそうな剣幕の女たちを、幾多の戦場で鍛えた一喝で辛うじて押しとどめ、彼は、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。 

 「女ども! おぬしらは、わしらが人間の心を持たんとでも思うのか? 
  わしらとて、できるものなら、そうしたいわい!
  じゃが、状況が許さんのじゃ! 
  考えてもみよ、スファクテリア島に直接、増援部隊を送るためには、海上をゆくしかないのじゃぞ!
  小麦や葡萄酒を運ぶのとは、わけが違うわい!  
  アテナイ艦隊が、日に日に警備を厳しくして見張っておる、その監視をすり抜けて、増援の戦士たちを、ものの役に立つほどの数、島へ送り込むなどということが、いったい、どうやったら、できると言うんじゃっ!?」 

  こんかぎりの大声で怒鳴り、老人は激しく肩を上下させた。  
  その、ぜいぜいという息遣いが響くあいだ、女たちは、険しい顔で黙り込むばかりだった。  

  老人の言葉を認めてしまうことは、愛する夫たちを見殺しにすることに等しかった。  
  だが同時に、彼の言う事は圧倒的に正しく、誰も、他に画期的な案を思いつくことができなかったのである。 

 「数が、足りぬのよ。男たちの数が……! 今、これ以上の人数を戦場へ送り出せば、国内にはドーリア人の男がいなくなってしまう! そうなったら……」  

  老人は不意に言葉を切り、少し離れた広場の入り口で手持無沙汰にぶらぶらしていたスミクロスのほうを、ぎろりと睨みつけた。  

  リュクネには、老人の言いたいことがよく分かった。 
  ラケダイモンの国土には、支配階級のドーリア人たちの、実に十倍にものぼる数の被支配民たちがいる。 
  万が一、男たちのほとんどがラケダイモンを留守にしているあいだに、反乱が起こったら――? 

 「無論、スファクテリア島の戦士たちには警告の使者を送り、アテナイ側の動きを知らせておる。  
  そして、陸軍には、ピュロスの砦に戦力を集中し、可能な限りすみやかに砦を落とすように厳命してある!  
  アテナイ艦隊に、海上で直接の手出しができぬ以上、ピュロスの砦を陥落させ、飲み水の補給を断って、奴らを撤退させる――これが、今現在、わしらにできる限りの最善の行動じゃ。  
  分かったら、皆、家に戻れ!
  男たちが戻るまで、おぬしらの家を……奴らの帰ってくる場所を、守ってやってくれ……」  

  長老会の男たちが去ると、女たちは、その場に座り込んだ。  
  皆、無力感に打ちひしがれ、普段は気丈な女たちの中にも、涙を流す者がいたほどだった。 

 「さあ、とにかく、家に帰ろう!
  ここで座り込んでいたって、どうなるものでもない」  

  リュクネは大声でそう言うと、啜り泣く女の背に手を添えて立ち上がらせた。 
  三々五々、家路につく女たちの様子は、まるで葬列のように見えた。 

 「さあ」  

  まだ涙を流している女のひとりを、リュクネは、その女の家の中まで送り届けた。 
  彼女は、すぐ向かいの家の住人で、男たちがいないあいだ、ほとんど姉妹同然の付き合いをしている。  

  前の通りを、スミクロスが巨大な革袋を担いで通り過ぎていく足音が聞こえた。  
  リュクネはてきぱきと小さな灯をともすと、相手を安心させるように笑いかけた。 

 「こういうときは、すぐに眠ってしまうといい、アスパシア。
  眠って、目覚めれば、気分もましになる。さあ、横になって――」  

  だが、女は両手をかたく揉み絞りながらその場に突っ立ち、じっと睨みつけるように壁の一点を凝視していた。  
  彼女の視線の先を追ったリュクネは、一瞬にして、そのわけを理解した。  
  壁の一部分だけ、丸く色の変わった部分がある。 
  そこに、彼女の夫の盾がかけられていたのだ。 

 「『この盾を携えて、さもなくば』――」  

  男でも、女でも、ラケダイモン人として生まれれば誰しもが学ぶその言葉を呟き、彼女はいっそう悲痛な叫びをあげた。 

 「おお、神々よ! もう、あの人たちは帰って来ないんだわ。
  盾に乗ってさえ!」 

 「……きっと、また会える」  

  リュクネは、穏やかに言った。 

 「少なくとも、わたしは、そう信じる。 
  男たちだって、わたしたちを信じて戦っているはずだ。
  わたしたちが、彼らの無事を確信し、待っているはずと信じて、今も戦っているんだ…… 
 なあ、そうだろう、アスパシア?
  わたしたちだって、そうしてやろうじゃないか……」 

  リュクネの声は、まるで、自分自身に語りかけているようでもあった。 
  アスパシアは涙を拭い、リュクネをじっと見つめてから、やがて頷いた。 

 「そうね。ありがとう、リュクネ。 
  どうか、神々の恩寵が、彼らの上にありますように――」 

 「わたしも祭壇に供物を捧げて、同じように祈ろう。
  じゃあ、また明日!」  

  快活にそう言って、リュクネはアスパシアの家を出た。  

  そうして自分の家に入り、部屋に入ったとき、その表情から笑みが消えた。 
  彼女はどすんと寝台に腰を下ろし、膝に頬杖をついて、固く組んだ両手の上に顎を載せた。 

 (確か、婿殿が話していたことがあったな―― 
 クレオンという男は、目的のためには手段を選ばない人物だと。  
  四百人の弓兵だって? 冗談じゃない。何か、嫌な予感がする……)  

  リュクネは立ち上がって部屋の奥へ行き、アスパシアに言った通り、祭壇に灯や酒を捧げて熱心に祈った。 
  だが、それでも、胸の内の不吉な予感は消え去ることはなかった。  

  彼女は託宣を受けようとする巫女のように部屋の中をぐるぐると歩き回り、 ふと、ひとつの品物に目を留めた。  
  それはレオニダスの持ち物で、彼が置いていった、鋭い剃刀だった。  
  リュクネは長いこと立ち止まり、それを見下ろしていた。  
  そして、出し抜けに大声を張り上げた。 

 「スミクロス!」 

 「……はあ!?」  

  遠くから気の抜けた返事が聞こえ、ややあって、足音が近付いてくる。 

 「何でしょう、リュクネ様」  

  彼は部屋の入口の外に立って、姿を見せないまま問い掛けてきた。 
  レオニダスの妻の部屋に、レオニダスの留守中に入ることがあったら、今度は叩きのめされる程度では済まないということが彼にはよく分かっていたのだ。 
  だが、リュクネはあっさりと、 

 「まあいいから、ちょっと入ってくれ」  

  と言った。  

  それから、しばしの間があったのは、スミクロスの逡巡のあらわれだったろう。  
  やがて、彼は入り口からのっそりと顔を出し、リュクネの手に剃刀がぎらりと輝いているのを見て首を振った。 

 「あんまり聞きたくねえな。
  俺の勘が確かなら、どうも、ろくでもねえ事を思い立たれたんじゃねえかって気がしますが」 

 「お前に、手伝ってもらいたいことがある」  

  リュクネは言った。  
  その顔には、先程までとは違う、不敵な微笑みが浮かんでいた。 

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