古代スパルタ戦記 スパルティアタイ

キュノ・アウローラ

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第4章

嵐の前

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 雲ひとつない空から日の光が射し、船端を叩く波の上にきらきらと踊っている。 
  陽光のあたたかさを肌ではっきりと感じるほどに風は冷たく、乾いていた。 
  遮るもののない海上では、吹き抜ける風の冷たさはいっそう厳しいものとなる。 
  だが、デモステネスはそれをほとんど感じることなく、今しも真新しい三段櫂船から小舟に乗って漕ぎ寄せてくる男の姿を、感無量の面持ちで見つめていた。 

 「――久しぶりやなァ、デモステネス君」 

  護衛の兵士や付き人たちの先に立ち、砦の海側の壁に垂らされた縄梯子を身軽に登ってきたその男は、デモステネスに向かってにやりと笑いかけた。 

 「ちょっと痩せた? それに、寝不足やな。隈がすごいで」 

 「クレオン君……」 

  デモステネスは呻くように言った。 
  目の前に立つクレオンは、真新しい武装に身を包み、塵ひとつついていない鮮やかな紫の布を肩から垂らしていた。 
  その布が潮風に煽られ、鳥の羽ばたきのように軽やかな音を立てている。 

 「ほんまに、よう来てくれた。君なら、この状況をどないかしてくれるやろう。 
  これ以上、この砦でラケダイモン軍の攻撃をしのぎ切ることは、無理や」 

  自身の副官や、クレオンの付き人たちをも下がらせ、彼と差し向かいで立ったデモステネスの表情には、深い疲労感が滲み出ていた。 

 「もう、限界寸前や。これ以上はもたへん。 
  今かて『この砦をこれ以上攻撃するなら、アテナイ艦隊の全兵力が即日、スファクテリア島に上陸し、人質となっている戦士たちを殲滅する』て脅して、辛うじて、向こうさんの攻撃を食い止めてる状態やねん。 
  けどな。君なら分かると思うが、そんなもん、ハッタリや。 
  来る時に、あの島を見たやろう? スファクテリア島…… 
 全島が森に覆われて、どこに、どんだけの敵がおるかも分からへん。 
  向こうは、既に島の地形を知り尽くしとるはずや。
  ラケダイモンの戦士が手ぐすね引いて待ち構えとるところへ、上陸して、殲滅する? 
  そんな芸当、できるくらいなら、とっくの昔にやっとるっちゅうねん!」 

  ははは! と自分が笑い声をあげたことに、デモステネスは驚いた。 
  何も面白い場面ではないのに、発作的に笑ってしまったのだ。
  やはり、相当に疲れているらしい。 

 「とにかく……君が来てくれて、ほんまに嬉しいわ。 
  こんな状況が、あとひと月も続いたら、僕、確実に発狂しとったわ。 
  いや、それより、兵たちの神経が完全にやられるのが先か――」 

  傷と汚れだらけになった鎧を着込み、無精ひげを生やしたデモステネスの姿は、これまでの筆舌に尽くし難い労苦を雄弁に語っている。 
  クレオンが指摘した通りに、やや落ちくぼんだ目の下にはくろぐろと隈が浮き、以前よりも頬骨や顎の線が目立つようになっていた。 
  家族が見れば、心痛のあまり涙を浮かべたに違いない面相の変わり様だったが、 

 「ああ、そらァ、良かった!」 

  クレオンは、労いの言葉もなく、笑顔のままであっさりとそう言った。 
  今、向かい合っている相手がもっと短気な男だったら、彼はその場で顔面をぶん殴られていたかもしれない。 
  だが、デモステネスは元が穏やかな性格であったし、何しろひどく疲れていたので、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。 
  ただ「え?」と口を開けただけだ。 
  そのあいだに、クレオンは続けた。 

 「僕かて、こんな仕事にひと月もかける気ィなんか、さらさらないもん。 
  デモステネス君、安心せえ。この砦とは、今日を限りにおさらばや!」 

 「……え?」 

 「君らは、、僕たちと共にこの砦を引きはらう。 
  今この時から、そのつもりで準備を進めさせてくれ」 

 「え?」 

 「具体的には、水源池からできるだけの水を汲み、船に積み込むための準備をさせておくということや。 
  もちろん、静かにやってや? ラケダイモンの連中に、動きを気取られへんようにな。 
  船への水の積み込みと、君らの乗船は、昼前に一気に行う。
  連中が気付いたときには、この砦は、もぬけの殻っちゅうわけや――」 

 「ちょ……ちょっと、待てや!」 

  この時になってようやく、デモステネスは、饒舌に語るクレオンに向かって強く片手を突き出した。 

 「この砦を引きはらう、て――
 そんなことしたら、艦隊が維持でけへんやないか! 
  一度に持ち出せる水の量には、限りがある。 
  僕らがここに留まって、この砦の中にある水源池を確保しとかなんだら、アテナイ艦隊が、湾内に三日以上留まることはでけへんぞ!?」 

 「うん、うん、分かってるがな。 
  でも、アテナイ艦隊が湾内にこれ以上留まる必要なんか、もう、ないで」 

 「――必要が、ない!?」 

  今度こそ止めようもなく、デモステネスの声が跳ね上がる。 

 「何が、必要ないんや!? 
  僕らがこれまで、延々とここで踏ん張ってきたのは、スファクテリアのラケダイモン人どもを夜昼なしに見張るアテナイ艦隊を支えるためやないか!  
  アテナイ艦隊がこの湾から退いたら、ラケダイモンの連中、あっという間に、海峡を渡って逃げてまうぞ!?  
  そんなことになったら、僕らは、何のためにこれまで――」 

  昂奮のあまりに喉が詰まり、デモステネスは眼を見開いて、片手を上げ下げした。 
  ややあって、渇いた喉に音を立てて唾を飲み込み、デモステネスはゆっくりと言った。 
  その目つきは、常の彼を知る者ならば別人ではないかと疑いを起こしたであろうほどに、険悪なものになっている。 

 「クレオン君。まさか……まさかとは思うけど、君、ここまで来て、スファクテリア島のラケダイモン人どもを、みすみす見逃すつもりやないやろうな? 
  その選択肢も、最悪の場合、ないではないかもしれんけど――
 悪いが、僕は、今、それを聞かされて、大人しく聞く気にはとてもなられへんわ。 
  これまでの僕たちの苦労が全部パー、無駄、無意味やったなんて、とても……とてもやないけど、死んだ兵たちに申し訳が立たへん……」 

 「うん、うん。まあ、落ち着け、デモステネス君」 

  怒りのあまりに震えてさえいるデモステネスに、クレオンはあっさりとした態度で近付き、ぽんぽん、とその肩を叩いた。 
  その顔から、最前の笑みは消えていないばかりか、いっそう深くなっているように見えた。 

 「ラケダイモン人どもを、みすみす見逃がす?  
  この僕が、そんな間抜けな成り行きを許すとでも思うんか?  
  第一そんなもん、たとえ僕が許したかて、アテナイで待っとる市民諸君が許さへんわ。  
  大丈夫やで、デモステネス君。 
  僕は、三日でスファクテリア島を落とす」 

 「え?」 

 「今日、明日、明後日で三日や」 

 「三日……?」 

 「まあ、アテナイでは、二十日て言うてきたわ。 
  一応、余裕を見といたほうがええかなと思って」 

 「二十日?」 

  デモステネスは既に、クレオンの言葉を、語尾だけ上げてそのまま繰り返すことしかできなくなっていた。 
  目の前の男が何を言っているのか、今度こそ、本当に、理解できなかった。 

 「あーっと、三日っちゅうのは、まあ準備を入れたら三日はかかるかな、っちゅう意味の三日であって、僕としては今日、明日の二日でもええねんけど。 
  準備……つまり、君らをこの砦から引き揚げさすっちゅう段階があるからなあ。 
  君らをこの砦に残したまま、僕らだけで、ぱっぱっぱーと仕事を済ませてまうっちゅう方法もあるけど、僕が作戦を開始すれば、ラケダイモンの陸軍も、これを先途と、この砦に総攻撃をかけてくるかもしれへん。 
  そうなったら、海上の僕らは無事でも、君らはやられてしまうやろうからなあ。  
  そんなん寝覚めが悪いし、僕は、君をみすみす見捨てたくはないんや。 
  僕らは友だちやし、自分の目と鼻の先で友だちを見捨てるなんて、市民たちに対して、これほど聞こえが悪い話もあらへんやん。そやろ?」 

  クレオンはそう言い、デモステネスに微笑みかけた。 
  それが高度な冗談なのか、それとも本気なのか、デモステネスには、判断がつかなかった。 

 「え? いや……けど……三日て」 

 「大丈夫、大丈夫。僕はニキアスの阿呆とは違って、もっと効率のええ方法をとるつもりや。  
  さあ、デモステネス君! この砦をこれまで守り抜いてきた勇士諸君を集めてくれ。これからの行動について、君から、皆に説明してもらわなならん。  
  これ、絶対、僕が言うより、君が言うてくれたほうが、皆の反発が少ないからな。苦しい戦いを共に凌ぎ切ってきた司令官の言葉は、ひょこっと出てきた若造のそれよりも、格段に重い――」 

  デモステネスの肩に手を置き、クレオンは大きく頷いた。 

 「そして、それが、この戦いにおける君の司令官としての最後の仕事や。 
  ほんまにお疲れ様やったなあ、デモステネス君。 
  後は、すべて、この僕が引きうける」 


     *     *     *

    
  見渡す限り、金色の麦の穂が揺れている。  
  ざあざあと風に揺れて鳴る、その音に紛れて、彼女が何と言っているのか聴き取れなかった。  

  だが、レオニダスは、訊き返そうとはしなかった。  
  その必要を感じなかった。  
  こちらを振り向き、微笑みながら口を動かす彼女の姿を見ているだけで、心が満たされる――  

  ざあっと、ひときわ強い風が吹きつけ、彼女の、麦の穂よりも一段深い色合いの黄金の髪が踊った。  
  彼女はからかうような笑みを浮かべると、さっと身を翻し、一面の黄金色の中へと駆け去っていく。  

  追おうとしたが、足がまるで石と化したように動かなかった。  
  驚き、自分の足を掴んで持ち上げようとしても、地面と一体になってしまったかのように、髪ひと筋ほども動かすことができない。  
  彼女の姿が、小さくなってゆく。 

 「リュクネ!」  

  思わず、手を伸ばし、声を上げた――  

  そしてレオニダスが目を見開いたとき、そこには、一面の麦の穂も、愛しい妻の姿も、懐かしいラケダイモンの地に吹く風のにおいもなかった。
  
  辺りは、夕暮れ時の薄闇に包まれている。 
  背中に、もたれかかっていた岩の固い感触があった。 
  耳に届いていたのは、黄金の麦畑のざわめきではなく、周囲を取り囲む木々の葉が風に鳴る音。 
  そして、もっと遠く微かな、途絶えることのない波の音。 

  ほんの一瞬、眠りに落ちて、夢を見ていた―― 

 ここはまだスファクテリア島で、周囲の海にはアテナイ艦隊が浮かび、故郷は遥かに遠い。 
  彼らがいる場所は、島の中でもかなり地勢の高い位置であったから、重なり合う木々の隙間から、茫々と広がる海面が太陽の最後の光を反射するのを見て取ることができた。  

  レオニダスは身動きもせず、ゆっくりと瞬きをし、それから、視線を腕の中に落とした。  
  彼の腕の中で、クレイトスが疲れ果てたように目を閉じている。  
  こうしてクレイトスを抱きながら、リュクネの姿を夢に見ていたことが、ひどく罪深いことのように思えた。 

  あの、月のない夜以来、これまでの数年分の空白を埋めようとするかのように、幾度も身体を重ねてきた。  
  それでも、リュクネを夢に見る。  
  手に入れたから、クレイトスへの熱情が冷めたわけではない。 
  むしろ、その逆だった。 
  暗闇。月の光。濡れたような乳色の肌。赤い果肉――  

  かつて幾度も夢想したことの全てよりも、レオニダスの腕の中にあるクレイトスの姿は美しく、恍惚にけぶったような目の深い青色はほとんどこの世のものとも思われなかった。 
  唇を押し当てた熱くしなやかな肌はどこも、彼らが身を清める海の味がした。 
  互いの身体を締め付けるように引き寄せ合い、夢中で動いているあいだ、他の何もかもが溶けて流れるように消え去り、暗いがらんどうのような世界に、ただ自分と、腕の中にいる青年の息遣いだけが響いているような気がした――  

  それでも、眠れば、リュクネを夢に見る。 
  あの黄金の麦畑と、そこに立つ妻の姿を。 

 (帰りたい)  

  おそらくはそれこそが、自分の心の最も奥底にある望みなのだろう。  
  誰も口には出さないが、戦士たち皆が、心の底で同じことを望んでいるのではないかと、レオニダスは考えていた。  
  もしも自分たちが神々のように、望むままにその身を他の生き物のかたちに変えることができたとしたら、今この瞬間に、この島に留まろうとする者はどれだけいるだろう。 
  多くの者は、たちまち翼ある鳥になって、家族の待つ故郷へと飛び立つのではないだろうか―― 

(馬鹿な)  

  レオニダスは、己の想像の飛躍を笑おうとしたが、うまくそうすることはできなかった。
  笑い飛ばすには、あまりにも、切実な思いであったから。  

  だが、それは今や、まったく空虚な望みというわけでもなかった。  
  スファクテリア島に閉じ込められたラケダイモンの戦士たちは、当初こそ総員討ち死にを覚悟したのであるが、日が経つにつれて、ごく僅かずつではあるが状況が好転しつつある――無論、有利とまではいかないにしても、確実にましになりつつあることを感じとっていた。

  それは、ラケダイモン本国からもたらされる救援物資のためでもあったし、また、彼ら自身の奮闘の賜物でもあった。  
  ニキアス率いるアテナイ艦隊は、島のラケダイモン人たちを飢えさせる作戦が成功しそうにないと見ると、何度もスファクテリア島に上陸を試み、ラケダイモン兵たちを殲滅しようとした。 
  だが、レオニダスをはじめとしたラケダイモンの戦士たちは、そのことごとくを押し返し、海に叩き込んできた。 

  険阻な地形と密生した木立のために、ラケダイモン陸軍の御家芸である強固な密集陣形は、この島ではほとんど役に立たなかった。 
  そこで彼らは伝統的な重装歩兵の戦い方をあっさりと捨て、訓練の内容もがらりと変えていた。 
  少人数の部隊に分かれて木々の合間に姿を隠し、上陸したアテナイ兵たちをじゅうぶんに森の奥へと踏み込ませたところで、密かに忍びよっては突然襲い掛かって殺す、ゲリラ戦法をとることにしたのだ。  

  この戦法はアテナイ兵を苦しめ、恐怖させた。  
  はじめのうちこそ、一日に二度、三度と上陸戦を挑んできたアテナイ海軍が、敗退を重ねるうちにすっかり恐れをなし、ラケダイモン人が待ち受ける暗い森に踏み込むのをためらって、指揮官が武器を振り上げて命じても、誰ひとり砂浜より先に進もうとしないという状態にまでなったのだ。  

  この調子で、冬までを凌ぎ切ることができれば、海が荒れはじめ、アテナイ艦隊は島の包囲を解き、ピュロス湾から引き揚げざるを得なくなる。 
  そうなれば、あとは簡単だ。 
  荒海をついて船出する胆力と、確かな操船の技術さえあれば、祖国に帰ることができる―― 

 冬が近付くにつれて、アテナイ海軍の兵たちの士気は目に見えて衰え、反対に、島に閉じ込められているラケダイモンの戦士たちの意気は軒昂たるものであった。 

 (もうすぐ、帰れる)  

  そんな空気が、スファクテリア島にみなぎっている。 

 (だが……)  

  希望ばかりではない。  
  アテナイ艦隊の司令官が交替するという情報は、国有農奴たちヘイロータイによって既にもたらされていた。 
  ニキアスの後任であるクレオンは、既にピュロス湾に入ったとみられている。 
  今朝早く、物見の兵たちが、海峡を抜けてゆく新造の三段櫂船の列を目撃していた。  
  新造船だとはっきり分かったのは、それらの三段櫂船の船腹には傷ひとつなく、工匠の手を離れたばかりの像のように鮮やかな彩色が施されていたからだ。 

  旗艦と思しき船の横腹には、金塗りの文字で《勝利をもたらす者フェレニケー》と大書されている始末だった。  
  彼らは、ラケダイモン人たちがその文字をはっきりと読めるよう、わざわざ島のすぐ側を通り、最も岸壁に近づいたときには一斉に櫂を引っ込めて船腹を見せつけさえしたのだ。  
  無論、そんなことで恐れ入るようなラケダイモン人たちではない。 
  軟弱者らしいこけおどしよ、と、一同、鼻で笑って取り合わなかった。

  だが、レオニダス自身は、妙な胸騒ぎを感じていた。  
  アテナイのクレオン。 
  評判通りの人物なら、単なる見かけ倒しではなく、狡猾で、情け容赦のない策略家のはずだった。 
  必ず、仕掛けてくる。  
  おそらくは、これまでのニキアスのやり方を上回る方法で。  

  そうなったとき…… 
 自分は、部下たちを、クレイトスを、守り切ることができるだろうか。 
  もしも、彼らを喪ったら……
 クレイトスを、喪ったとしたら…… 
 自分は、戦い続けることが、できるのだろうか。  

  レオニダスは、胸中に湧き上がった不安感を抑え込むように、腕の中のクレイトスを強く抱き直した。  
  そのとき、クレイトスの身体がびくりと震えた。 
  ほんの僅かな、注意して見ていた者があったとしてもほとんど気付かなかったであろうと思われるほどに微かな筋肉の反応だったが、レオニダスは気付いた。 

 「クレイトス」  

  伏せられたその顔を覗き込み、囁くように、呼びかける。 

 「起きているのか……」  

  一瞬の躊躇いがあってから、青年の瞼が開いた。 
  その目が開き、虹彩の深い青があらわれるたびに、いつも、それを初めて目にしたときの感情を思い出す。  

  そうだ、あの時は、こんな風に身体を重ねることになるなどとは、思いもよらなかった。  
  確かに、心の奥底でそれを渇望したが、その望みが叶えられる日が来るとは、思っていなかった―― 

「レオニダス様……」  

  身を起こし、見上げてくるクレイトスの表情は、幾分か憂いを帯びているようだった。 

 「夢を、見ておいでだったのですか?」  

  レオニダスは虚を突かれ、沈黙した。 
  クレイトスが、見返す自分の表情からはいかなる内容も読み取ることができないということを、レオニダスは長年の経験から知っていた。 
  無表情で何を考えているか分からない、下手な職人が彫った石像のような男と、ディオクレスなどにはよく罵られたものだ。  
  だが、それでも、クレイトスの青い目がこちらの心の内を見透かしているように感じてしまうのは、自分自身の後ろめたさのためだ。 

 『夢を、見ておいでだったのですか?』  

  麦畑に立つリュクネの笑顔が心に浮かび、消えていった。 

 「何故」  

  短く問うと、青い目が再び伏せられた。 

 「先程……リュクネ様の、名を」  

  レオニダスは自分自身を殴りつけたくなった。 
  何故だ。何故、いつも自分は、クレイトスの心を傷つけるような真似ばかりしてしまうのか。  

  リュクネとクレイトスとを天秤にかけた事などなかった。 
  レオニダスにとって、二人はそれぞれに心のまったく別の場所で、抜き差しならぬほどの大きさを占めていた。 
  太陽と雨のどちらが大切かと問われるようなもので、選ぶことなどできない。
  どちらも、この上ないものなのだ。  
  だが、この心情を説明できるとは思わなかったし、説明したところで、クレイトスにとっては慰めにもならないということは分かり切っていた。 

 「お前が、彼女の代わりだというのではない……」  

  苦しい沈黙の後で、ようやく口にした言葉がそれだった。 

 「分かっています。僕などでは、とても……」 

 「そうではない」  

  神々はなにゆえに、言葉などという不自由な代物を人間に与え給うたのだろう。   
  なにひとつ、伝えることができない。本当に大切な事は、なにひとつ――  

  結局、できたのは、立ち上がろうとするクレイトスの肩を押さえ、そのまま抱きすくめることだけだった。  
  だが、そんな動作でさえも、何かを伝えることができるとは思われなかった。

  素行を咎められた不実な男が、幾人もの恋人のひとりを宥めようとするように、抱けば相手の心を和らげることができるなどとは思わなかった。  
  クレイトスは、誇り高いラケダイモンの男だ。 
  彼の誇りを傷つけたまま、立ち去らせることはできない。 

 「お前は……」  

  どう言えばいい。どう言えば?  
  何度も、口を開け閉めして、首を振り、やっと吐き出すように言った。 

 「俺のメイラクスだ。クレイトス、お前が、いなければ、俺は――」  

  俺は、もう、戦うことはできないかもしれない。 

 「レオニダス様」  

  クレイトスの口許を、微笑みがかすめた。 

 「その御言葉……何よりの誉れです」  

  何と答えるべきか、レオニダスが逡巡したあいだに、クレイトスはもう立ち上がっていた。  
  逞しくもしなやかな身体つきに、思わず目を奪われる。  
  無数の傷痕があり、日に焼けた、鍛え上げられた戦士の身体だ。  

  その瞬間に、レオニダスは、ふと感じたのだった。  
  自分は、このクレイトスの中にラケダイモン人の理想を見ているのかもしれない、と。  
  強く、誇り高くあること。 
  揺るがぬ忠誠心を持ち、勇気を持ち、精神の美点があますところなく肉体の美しさにあらわれている。 

  彼を見ていると、いつも、ラケダイモンの男のあるべき姿を思い出すことができた。  
  だからこそ、自分は、戦えるのかもしれなかった――  

  レオニダスがそんな思いにとらわれているあいだに、クレイトスは乱れた衣服を手早く整えていた。 
  鎧は、身に着けなかった。 
  もうすぐ夜が来る。夜のあいだは、戦いもない。 
  だが、レオニダスもクレイトスも、剣と手槍だけは片時も身辺から離していなかった。 
  初夜の床の傍らにさえ武器を横たえておくのが、ラケダイモンの流儀だ。 

 「浜へ降ります」  

  クレイトスは言った。 
  海に入り、身を清めるという意味だ。  
  情交の名残の気配をまとったままで仲間たちのところへ戻ることはできない。  

  レオニダスは一拍、思案した。 
  部隊の皆を砦に残してきている。
  留守はフェイディアスに任せてあるが、あまり不在を長引かせることは望ましくない。 

 「……俺は、先に戻っている」 

 「はい。急ぎ、戻るようにします」  

  クレイトスは言葉通りに、すばやく身を翻し、木々のあいだの斜面を駆け下りていこうとする。 

 「クレイトス」  

  立ち上がり、レオニダスは思わず、クレイトスの後ろ姿に声をかけた。  
  斜面の下で立ち止まり、振り向いた彼に向かって、まだ、何を言うべきか思い付かないまま、 

 「気をつけて行け」  

  ほとんど反射のように、それだけ言った。  
  クレイトスは一瞬微笑み、頷いて、飛ぶように斜面を下っていった。  
  レオニダスは、その姿が木々のあいだに消えるまで見つめていたが、やがて踵を返し、砦へと歩き出した。 
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