古代スパルタ戦記 スパルティアタイ

キュノ・アウローラ

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第4章

逡巡と決断と

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 夜の闇の中で、寄せては返す波の音だけが響き続けている。
  外洋側からは見えない大きな岩の裏側に回り込み、クレイトスは、呆然と立ち尽くしていた。

 (どういうことだ……)

  先ほどの男が笑いながら名乗った名が、脳裏に反響し続けている。
  クレオン。
  それは、このスファクテリア島を包囲するアテナイ艦隊の、新たな司令官として派遣されてきた男の名ではなかったか。
  最初の衝撃が徐々に抜け落ちてゆくにつれ、投槍で仕留められなかったことに対する後悔が猛然と湧き上がってきた。

  あれが単なる物見などではないことは、すぐに分かった。
  物見のためだけに、こんなふうに日が落ちてから、わざわざ司令官自らが意味ありげな大荷物を載せたボートを引き連れて島に近付いてくるはずがない。

 (何を、しに来た)

  覆いをかけられた、あの大きな荷物の中身は何だったのだろう。
  もしかすると、あの中には、アテナイの兵士たちが潜んでいたのではないか?
  このスファクテリア島に秘密裏に上陸し、陣地を急襲するつもりなのではないか。

  では、自分に発見されて、クレオンはその計画を諦めただろうか?
  いや、それならば、ボートはすぐに島から離れていったはずだ。
  クレオンを乗せたボートは、島から遠ざかることなく、海岸に沿って北上していった。
  だとすれば、このまま、どこかの地点で上陸を決行する意図ではないだろうか?

 (どうすればいい!)

  クレイトスは岩陰から飛び出し、波打ち際へと踏み出して目を凝らした。
  遠ざかるクレオンのボートは今、再び灯りを消しており、そのかたちはもはやほとんど小さな影のようにしか見えなかったが、辛うじてまだ肉眼で捉えることができた。

  選択肢は二つだ。
  今すぐに陣地へと戻り、自分が見たことを報告するか。
  それとも、このまま単身でクレオンたちを追い、その動向を見張るか。

  クレイトスは、すぐに一つめの選択肢を捨てた。
  クレオンは、明らかに何らかの明確な意図を持って島に近付いてきたのだ。このまま目を離せば、自分が仲間たちを連れて戻るまでのあいだに、クレオンはその企図するところを遂げてしまうかもしれない。

  だが、二つめの選択肢にもまた、問題はあった。
  相手はボートに乗り、海上を進んでいるのだ。対する自分は、陸路をゆくしかない。
  海岸線には、地形の険しい箇所もある。今からひとりで追ったところで、追いつけるだろうか?
  また、仮に追いつくことができたとして、相手が上陸を強行しようとした場合、単身でそれを食い止め得るだろうか。

 「智謀すぐれたるアテナよ……!」

  クレイトスは、祈った。
  智慧ある戦いを司る女神に祈り、どうか正しい道をお示しくださるように、と呼びかけた。
  今この瞬間に、自分がひとつ判断を誤れば、このスファクテリア島に閉じ込められた戦士たち全員の破滅につながるということをクレイトスは直感していた。
  もはや決して、決して、昼間のような軽率な判断を下すことは許されないのだ。
  しかも、時は長く与えられていない。
 クレオンたちのボートは刻一刻と遠ざかり、その姿は見えなくなろうとしている。
 
 クレイトスは、決断した。

  彼は胸一杯に息を吸うと、狼の遠吠えにも似た長い叫びをあげた。
  一度、二度。喉を震わせ、長く引きずるような三度の叫びをあげた。
  この叫びが、仲間たちの、レオニダスの耳に届くことを祈りながら。

  そして彼は不意に手にした剣を足元の砂地に突き立て、ぐいぐいと切り込むように動かしていたが、やがて脱ぎ置いていた自分のマントを掴み、大きく広げてその側に置き、駆け出した。
  波音響く海岸を北へと、企みを乗せた小舟を追って。


     *     *     *


  ざあざあと、絶え間ない葉ずれの音が聞こえる。
  風が強まるたびに周囲の森の全てから湧き起こるその音は、決して絶えることなく響き続ける波音を打ち消してしまうほどだった。

  ラケダイモンの戦士たちは、南北に長いスファクテリア島の北部と南部の高
 地、そして中央部の泉の近くにそれぞれ陣地を築き、分散して守りを固めていた。
  唯一の水場である泉の近くに築かれた、この中央の陣地が最も規模が大きく、総司令官であるエピタダス将軍もまた、この陣地にいる。

  日暮れとともに、辺りは完全な闇に閉ざされていた。
  いや、夜の闇に慣れぬ者の目には、そう見えるであろう。
  天上の月と星々が、地上にあえかな光を投げかけている。
  戦士たちはその微かなあかりのもとで座り、眠りにつく準備をしたり、髪をくしけずったり、わずかな食糧を口にしたりしていた。

  食糧については、これまでにヘイロータイによって搬入された食糧の全量を頭数で割った一人分を日割りした量よりも、ぐっと少なめに配給されていたが、そのことに文句を言う者などいなかった。
  状況はラケダイモン側にとって好転しつつあると見られていたが、それでも、この「籠城」戦がいつまで続くのか、正確なことは誰にも分からないのだ。物資はできる限り節約し、備蓄に回すのが当然だった。
  さらに、よく困苦と欠乏に耐えることができなければ一人前のラケダイモンの戦士とは認められなかったし、彼らの基準に照らせば、今の食糧事情は、欠乏というほどのことでもなかったのである。

  焚火の炎は見られなかった。
  彼らは皆、深紅のマントにくるまり、物陰にうずくまって寒さをしのいでいた。
  火を焚いても良いのだが、二日ほど前から、急激に風が強まってきている。
  万が一、火の粉でも飛べば、山火事が起きかねない。
  戦士たちは、煮炊きなどの場合はともかく、照明や暖房など不要不急の焚火は控えることにしていた。

  レオニダスは陣地の防壁のかたわらに腰を下ろし、先ほどからずっと身じろぎもせず、何があるというわけでもない闇の向こうを見据えていた。
  フェイディアスとパイアキスは、少し離れたところからその姿を眺め、顔を見合わせて目配せを送り合った。
  レオニダスとクレイトスが揃って姿を消し、レオニダスだけが戻ってきても、仲間たちは心得て沈黙を守り、そのことについては一切触れなかった。
  フェイディアスは、無言で座るレオニダスがクレイトスの帰りが遅いことを案じているのを感じ取り、思わず口元をほころばせた。
  恋する者の思いは、本人が考える以上に、言葉など介さずして充分に伝わるものだ。

 (これで隊長殿も、少しは心を安んじられるというものだ)

  心通わせる者と過ごすひとときは、男に、何にも勝る安らぎと力とを与える。
  この難局にあって、自分とそのかたわらに座るパイアキスとのあいだに通い合うような絆をレオニダスが得たことを、フェイディアスは心から祝福したい気持だった。

 (だが……そう、問題があるとすれば、この後だな)

  黙然と座る隊長の姿を眺めながら、フェイディアスの思考は漫然とさまよっていった。

 (ラケダイモンに戻ったとき、隊長殿はこのことを、リュクネ様に、どのように打ち明けられるのだろうか? いや、何も仰らないかもしれんな。だが、リュクネ様は鋭い女性だ。隠しおおせるとは思わないが……)

  そのとき、不意にレオニダスが立ち上がった。
  内心の出過ぎた考えを読まれたように感じて、フェイディアスは一瞬ぎくりとしたが、無論そうではなかった。
  レオニダスは、彼らのほうを見ていない。
  防壁に手をかけ、暗い森の向こうを見とおすようにして、じっと動かずにいる。

 「どうなさったのです?」

  すかさず、パイアキスが問い掛けた。
  彼らはすでに武器を掴み、立ち上がっていた。
  立ち上がったレオニダスの様子には、彼らを緊張させる何ものかが感じられた。

  レオニダスは初めて彼らのほうに視線を投げ、腕の動きで静かにするようにと合図を送り、再び深い集中に入った。
  今や、その場にいた戦士たちの全員が言葉もなくレオニダスを注視し、神経を研ぎ澄まして、彼らの指揮官を緊張させているものの正体を掴もうとしていた。

  ごうごうと、風が吹いている。
  森の木々は唸り、どよめき、その激しい葉ずれの音の他には何も聞こえない。

 「隊長殿。どうなさったのです?」

  たっぷり十数呼吸ものあいだ沈黙を守ったフェイディアスだが、とうとう耐え切れなくなり、一同を代表してもう一度尋ねた。

 「何か、気になる物音でも?」

  レオニダスが再び顔をこちらへ向けた。
  その表情には、長い付き合いの戦友同士であればこそ判る、極度の緊張があらわれていた。
  フェイディアスは驚き、また、不吉な予感を覚えた。
 《半神》をこのように恐れさせることが、この世にあるだろうか?

 「声が……聞こえた、ようだったが」

 「声?」

  戦士たちが、レオニダスの側に集まってきた。

 「隊長殿、どんな声です?」

  レオニダスは、黙り込んだ。
  クレイトスが降りていった浜の方角から、かすかな叫び声が聞こえた気がしたのだ。
  だが、クレイトスの身を案じるあまり、風の唸りを聞き違えたのではないか?
  今は夜だ。夜のあいだは戦いもない。
 クレイトスが助けを求めるようなことなどないはずだ。

  仮に聞き違いであったとすれば、そのために騒ぎ立てるなど、ラケダイモンの戦士にあるまじき行為だった。
 不安に駆られて部隊に動揺を広げるなど、指揮官として最低の行動だ。
  だが――

「私も、聞いたような気がします」

  不意にそう言う声があり、一同が一斉に彼のほうを向いた。
  パイアキスは、一同を見返し、はっきりと頷いた。

 「確かに、人の声だったようでした。ほんの一瞬でしたが」

  フェイディアスは目を丸くしている。パイアキスのすぐ隣にいたが、そんな声など全く聞こえなかったのだ。

 「人の声だと?」

  戦士たちは顔を見合わせた。

 「まさか、アテナイ野郎どもでは?」

 「だが、昼間の哨戒では確かに何者も見なかったぞ」

 「小舟で上陸したか」

 「俺たちが守りを固める、地形も分からん島に、日が暮れてから上陸だと? 狂気の沙汰だ。そんな敵があるものか」

 「だが、もしや、ということもあるぞ」

 「……気になりますね」

  パイアキスは腕を組み、一同を見回した。

 「どうでしょう。念のため、小数で偵察に出てみては?」

 「おい」

  錆を含んだような声が、一同の盛んな議論をぴたりと沈黙させた。

 「日が暮れてから騒がしい馬鹿どもがおるかと思えば……どこの誰が、偵察に出るとな?」

  暗がりから歩み出てきたのは、エピタダス将軍だ。
  たちまち姿勢を正した一同の前をゆっくりと歩きながら、将軍は戦士たちの顔をじろじろと見つめ、パイアキスの目の前で止まると、その胸板を拳で突いた。

 「若造。お前か、この騒ぎのもとは?」

  フェイディアスが隣で目を大きくしたが、パイアキスは落ち着いていた。

 「木々の音に紛れて、人の声が聞こえたような気がしたのです。味方の声であったかもしれませんが、念のため、確かめておくに如くはないかと」

  エピタダス将軍はしばらくパイアキスの目をまっすぐに見返していたが、やがてふと視線を動かし、右端に立っていたレオニダスに目を留めた。
  その顔は、月と星の灯りに照らされて、蒼白に見えた。

 (小僧はどこだ) 

  と、老将軍はまずそれを思い、次の瞬間には稲妻に打たれるように、この騒ぎの本質を理解した。

 「ふむ!」

  将軍が急に咳払いのような大声を上げたので、戦士たちは驚いて身じろぎした。

 「確かに、気になるのう。こういうときは、確かめておくに如くはない。冷静な用心深さは、怯惰とは異なるものよ。
  恥知らずのアテナイ人どもならば、こそつく獣どものように闇に乗じる真似をしたとしても不思議はないからな。レオニダスよ、行け!」

 「おお!」

  フェイディアスが手を打って声を上げ、将軍に睨まれて、すぐに真面目な顔つきに戻った。

 「将軍、どうか、我らも隊長と共に行くことをお許しください」

  と、大きく前へ進み出る。

 「よかろう、行け! 《獅子隊》のうち十名がレオニダスと同行せよ」

 「火は、いかがします?」

  将軍の返答があるや、将軍とレオニダスを交互に見ながらパイアキスが言った。
  夜の斜面を下るのは、明かりがなければ危険が大きい。
 また、この暗さでは重要な兆候を見落とす恐れもあった。
  だが、もし敵がいるとすれば、火を灯すことによってこちらの位置と動きは丸見えになる。
  敵が火を持たず、こちらだけが明かりを灯すならば、かえって一方的な不利となるであろう。

 「灯りは持たず、暗闇を行くのじゃ」

  エピタダス将軍は命じた。

 「わしらは、この陣地で待機しておる。あるいは、我らの注意を引きつけようとする、アテナイ人どもの企みかもしれぬからな。
  事なくば、それでよし。何事かあれば、即座に伝令を走らせよ。行け!」

  レオニダスは頷くや、十人の男たちの名を呼び、その先頭に立って陣地を駆け出した。

  斜面を駆け下ってゆくレオニダスの目は夜の獣のように見開かれ、まるで何も映していないかのようでいながら、暗闇の中の道なき道を瞬時に見極めていった。
  その足取りは飛ぶように速く、後続の十人はしばしばレオニダスの背を見失いそうになった。
  足音や木の枝の折れる音からその進路を聞きとろうにも、頭上でざあざあと鳴り響く木々の枝葉の音がそれらをかき消してしまうのだ。

  やがて、腕や顔に無数の掻き傷をつけた戦士たちは、木々に覆われた斜面を下り切って岩場を踏み越え、砂浜へと飛び出した。
  そこで彼らが目にしたものは、一面に広がる夜の海原と、人の背丈ほどもある大きな岩の傍らに荒い息をついて佇んでいるレオニダスの後ろ姿だった。
  戦士たちの全員が、油断のない目で周辺を探り、近くに敵の姿も気配もないことを瞬時に見て取った。

 「隊長殿……」

  少し抑えた声で呼びかけながら、フェイディアスがレオニダスに近付いていった。
  その時になって彼はようやく、凝固したように立ち尽くしているレオニダスの視線の先、数歩ほど離れた砂の上に、何かがわだかまっているのを見てとった。
  闇の中でほとんど漆黒に見えたそれは、彼らが身にまとっているものと同じ《獅子隊》の深紅のマントだった。

 「あれは……美少年のものでは!?」

  レオニダスは、答えなかった。
  彼の心は今、ひどい混乱に襲われていた。
  クレイトスは、確かにここにいたのだ。
  だが今、その姿はない。マントだけを残し、武器も衣服もない。

  一体、ここで何があったというのか?
  血のにおいは感じられない。敵の死体もない。
  戦いがあったとは思えないが、では、なぜ――

 レオニダスは吸い寄せられるように、砂の上に落ちたマントのほうへと歩み寄っていった。
  彼は愛人メイラクスのマントを拾い上げると、夜の海に顔を向けたまま、しばしその場に立ち尽くした。

  フェイディアスたちが駆け寄ってきた。
  レオニダスは、彼らの顔を無言で見返した。
 これからどうすべきか、咄嗟に判断がつかなかった。
 
 その時である。
  レオニダスは不意に、全身を刺し貫くような恐怖に襲われた。
  このような恐怖を感じたことは、未だかつてなかったほどだ。
 取り返しのつかない間違いをしでかした者が、それに気付いた瞬間に味わう、あの感覚――

「動くな」

  彼は口早に囁いた。
  戦士たちには、それが何のことか全く分からなかった。
  レオニダスは手で戦士たちを制しながら、凍りついたようになった脚をゆっくりと動かし、自分が今まで立っていた場所から一歩、後ずさった。

 「……隊長殿?」

 「動くな、フェイディアス!」

  戦場でしか聞いたことのないレオニダスの怒鳴り声に、彼は飛び上がりそうになったが辛うじて踏み堪えた。
  そしてその瞬間、出し抜けに、彼らの指揮官の激しい動揺の理由をサンダル履きの足裏に感じ取ったのである。
  自分たちが今まさに立っている砂の表面に、不自然な凹凸が感じられた。

 「これは」

  フェイディアスは、レオニダスとそっくり同じ表情を浮かべ、呻いた。

 「皆……動くなよ。いや、下がれ。砂を動かさずにだ。
  俺たちは今、まずいものを踏みつけにしているかもしれん……」

  蒼然とした男たちはそろそろとその場から後ずさり、少し離れたところから、砂の上に残された、もはや極めて不明瞭となった文字列を何とかして読み取ろうとした。

 「神々よ! 伝言か! 気付かなかった……」

 「そうだ、おい、そっちを開けろ! こっちから見るんだ。月の光ですかせば、少しは……」

 「屈め、屈め!」

  戦士たちは砂の上に這いつくばって目を凝らした。
  月明かりが、漠然とした凹凸に陰影を与え、残された文字のおぼろげな形を浮かび上がらせた。

 「二段、あるな」

 「ああ。一段目の語尾は、オン……だろう」

 「……レ……オン……」

 「クレオン、か?」

  その名を誰かが口にした瞬間、絶え間ない波の音があるにも関わらず、その場がしんとなったように一同には感じられた。
  クレオン。新たに、アテナイ艦隊の司令官となった男。
  クレイトスは何故、その男の名をここに刻んだのだろう。

 「続きの、二段目は?」

 「文字はいくつだ」

 「全く読めない……ああ、もっと早く気付いていれば!」 

 「待て、辺りに足跡はないか? クレイトスの行った先が分かるかもしれん」

 「駄目だ、見えない!」

 「神々よ! 我らには灯りが必要だった! 一度陣地に戻りますか、隊長殿?」

  レオニダスは砂の上に両手をつき、無言のまま、大地の上に残された文字の残骸をじっと見つめていた。
  その姿を見て、フェイディアスは、髪の毛を掻きむしらんばかりの後悔と憤りに襲われていた。
  今のレオニダスからは、戦闘の指揮を執るときの明敏さと果敢さが完全に消え失せてしまっているようだった。
  恋は人を盲目にするというが、クレイトスへの想いが《半神》の鋭い目にも覆いをかけてしまったというのだろうか?

 「隊長殿! 御指示を!」

  たまらず叫んだ彼を、レオニダスが見た。

 「クレオンが、ここに来たのかもしれない」

 「……はっ?」

  握り締めていた砂を放し、レオニダスは立ち上がった。

 「ここには戦闘の形跡はない。だがクレイトスはクレオンの名をここに書き残し、姿を消している。
  陣地にも戻らず、彼はひとりでどこへ行ったか? なぜマントだけをここに残したか?
  彼は、敵を発見し、単身で追跡していったのではないか。
  ここに、相手の名と、自分の行く先を書き記し、目印としてマントを残した……」

  ぼそぼそと口にされる言葉は、フェイディアスに話し掛けているというよりも、思考がそのまま音声となって零れ出てくるようだった。
  フェイディアスは、気圧された。

 「では……先ほど、隊長殿が聞いたという声は……」

 「クレイトスには、陣地に戻る時間はなかった。相手を見失わないために。
  何とかして我々に異変を知らせようと、叫びを上げたのかもしれない」

 「では……では、今は、どこに!?」

 「分からん」

  レオニダスはスファクテリア島を覆う背後の森林を見やり、すぐに視線を戻した。

 「だが、相手は海上――小舟に乗ったままかもしれん」

  仮に、叫び声をあげたのがクレイトスであったとするならば、敵が陸上、それもこの暗闇でも見える程度の距離にいるのに、そんな大声をあげるような愚を犯すはずがない。
  クレオンがやって来るとすれば、単身でということは有り得ないのだ。
  上陸するならば、必ずや、かなりの数の兵士を引き連れているはず。
  それだけの相手を単身で相手取らねばならぬような状況に自らを追い込むほど、クレイトスは愚かな若者ではない。
  ならば、クレイトスが見た男は、たとえ存在に気付かれたとしても直接の戦いとなることはない海上にいたのではないか。
  これらの推理を、直感とも見紛う一瞬にして組み立てたレオニダスは、

 「だとすれば、道は二者択一だ。北か、南か」

  それだけを言った。

  小舟に乗った相手が、そのまま本船へと引き返していったのならば、クレイトスが報告に戻らないことの道理が通らない。
  おそらく、敵は何らかの意図をもって、海岸線沿いに移動しつつあるのではないか。
  そしてクレイトスは、それを追跡しているのだ。

  では――彼らが向かった先は北か、それとも、南か?

  ここで長々と迷っている時間はなかった。
  クレイトスからの伝言を踏み消してしまったがために、貴重な時を、すでに相当空費しているのだ。
  レオニダスは、矢継ぎ早に指示を繰り出した。

 「フェイディアス、パイアキス、オイオノス、ヒエロス、テラコス、メリッソスは海岸沿いに南へ回れ。何かあればメリッソスが伝令役をつとめろ。報告は泉の陣地へともたらすこと。
  テレシクラテス、オイクレス、オルセアスは俺と共に北へ回る。
  パルティオス、お前は、これより直ちに陣地へと戻り、エピタダス将軍に状況を報告しろ」

 「なぜ、俺が!?」

  指名された若者は憤然として叫んだ。
  仲間たちのうちで自分一人だけが比較的安全と思われる任務を与えられることは、それがいかに戦略上の重要事であったとしても、ラケダイモンの戦士にとっては恥辱と感じられるものなのだ。
  オルセアスが聞き分けのない愛人メイラクスを殴りつけるよりも早く、レオニダスは若者の肩を掴み、静かに告げた。

 「来ているかもしれないのだ、パルティオス」

  その声に込められた、異様な緊張を感じ取り、大柄な若者は息を呑んだ。

 「お前は十人の中で一番若く、一番の俊足だ。頼む。行ってくれ」

 「……分かりました!」

  パルティオスが身を翻し、元来た道を猛然と駆け戻ってゆく。
  残された男たちは、互いに言葉もなく、ただ頷きあうと、北と南に分かれ、直ちにその場から走り去った。
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