古代スパルタ戦記 スパルティアタイ

キュノ・アウローラ

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第4章

黎明

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 敵陣から、甲高い号令が響くのが聞こえた。

 「亀甲!」

  隊列の右端に陣取ったエピタダス将軍の野太い号令と同時、ラケダイモン軍の男たちは貝が口を閉じるように一瞬で密集し、それぞれの盾の端を重ね合わせて左右、前面、真上に至るまでひとつながりの完全な装甲を作り上げた。
  そこへ、左右から放物線を描いて飛来した無数の石つぶてが、次から次へと降り注ぐ。

 落下加速度のついた石が金属にぶち当たる凄まじい音が戦士たちの鼓膜を叩いた。
 クレイトスもまた盾をかざし、骨までびりびりと伝わってくる衝撃を感じながら、仲間たちと共に石つぶての雨に耐えていた。

 「これぞ、オーリオン様の恵みの雨だな」

  クレイトスの右隣にいるフェイディアスがわざと真面目な顔で言い、

 「小便だろう?」

  クセノクラテスがすかさずそう答えて、盾持つ男たちのあいだに笑いを引き起こす。
  亀甲陣の陰でなおも男たちが軽口を叩き合い、笑い合っているうちに、やがて石つぶての音はまばらになり、止んだ。

 「整列!」

  エピタダス将軍の号令一下、戦士たちは一匹の大蛇の鱗のような滑らかさで盾をきらめかせ、元の隊列を復元した。
  彼らの足元を覆う灰塵が舞い上がり、煙のように立ちのぼった。

  辺りはいまだ青い薄闇の中、夜明け前だ。
  最後の太陽は、まだ姿を見せてはいない。

 「三列目以降! 拾え!」

  もはや何度目かになる、ラケダイモン軍の訓練にこれまではなかった号令をエピタダス将軍は発した。

 「構え! ――投げい!」

  先頭の戦士たちが微動だにせず盾の列を組んで守る背後で、敵が投げ込んできた石つぶてを拾った戦士たちが、力いっぱいに振りかぶり、左右に展開する敵の部隊めがけて投げ返す。
  先ほどに倍するかと思えるほど高々と投げ上げられた無数の石つぶては、先ほど以上に凶悪な速度と衝撃をもって敵陣を襲った。
  連続する鈍い物音にまじって、いくつかの悲鳴が聞こえた。
  ずいぶんと後方で倒れた者もいるようだった。

  今、彼ら《獅子隊》を左右から挟み込もうとしているのは、アテナイ側の軽装歩兵部隊である。
  彼らは投槍と軽い革張りの盾をもって武装していたが、ラケダイモン軍ほどの錬度はなく、降り注ぐ石に対する最も効果的な防御の陣形を素早くとることができないようだった。

 「やれやれ」

  盾を構えたまま、フェイディアスが言った。
  鼻筋を隠す兜のため、わずかに口元と目が見えているだけだったが、声の調子で彼がにやりと唇を曲げていることがはっきりと分かった。

 「まさか、誇り高きスパルティアタイともあろう者が、研ぎ澄ました槍ではなく、野蛮人のように石ころを投げて戦う破目になるとはな」

 「仕方がありませんよ」

  クレイトスもまた、軽い調子で答えた。
  その瞬間、彼らはふと、すぐ側にパイアキスの存在を感じたような気がした。
  彼がいれば、きっと今、クレイトスと同じように答えたはずだ。

 「こちらには、一切の補給が無いのですから。あんな連中に、我々の上等の武器をくれてやるには及びません」

  クレイトスが軽い調子で口にした言葉の内容は、あまりにも絶望的なものであった。
  夜明けが近付くにつれて東の空が白み始め、高台に陣取ったラケダイモン人たちの目には、少しずつ敵軍の全貌が明らかになりつつあった。
  その数は、目視できる範囲だけでもおよそ二千。
  しかも、その数は刻一刻と増えつつあった。
  クレオンは、漕ぎ手の一部を除いた軍勢のほぼ全兵力を投入してきているに違いない。
  焼け焦げた島の斜面を埋め尽くすようにして、アテナイ勢は続々とこちらに向かってくる。

  対する味方の人数は、四百名弱。
  絶望的な数字だった。
  だが、男たちが兜の下で見せる表情に、悲愴感はない。

 「過去にもこういう例はありましたよ。『イーリアス』の戦士たちを思い出してください。彼らだって、石を投げて戦っていたじゃありませんか。皆、英雄と呼ばれるような男たちだというのに」

 「あの頃は野蛮な時代だったんだ、世の中全体がな」

  フェイディアスが真面目くさってそう言い、男たちは一斉にふき出した。

 「とても信じられんよ!」

 「まったくだ。何しろ、俺たちは文明人だからな!」

  彼らはげらげらと笑い、折しも水平線に昇った太陽の最初の曙光を受けて、彼らの盾はさざなみのようにきらめいた。

 「亀甲!」

  再びとどろく号令に、ぴたりと隙間なく盾を合わせる。
  先ほどの石よりも鋭い音を立てて飛来した矢が、その表面に次々と食い込む。
  あるものは金属をかぶせた表面を滑って地に落ち、あるものは重ねられた金属と革の何層かを貫いて盾に食い込んだ。

 「こんな下らんお遊びには、さすがに少々飽きてきたな」

  誰かがそう呟き、一同は賛同の唸りをあげた。

 「敵の重装歩兵部隊は、まだ来ないのか?」

 「その通り、さっきからずっと、槍を握る手がうずうずしているんだ」

 「こうして木っ端どもと毬投げ遊びをするより、敵の主力と直接槍を交えるほうがずっといい。そのほうが話が早いからな」

  クレオンが姿を現しさえすれば、自分たちの手で叩き潰すことができる。

  彼らは、来るべき決戦に向けて力を温存していた。
  戦力で数倍、いや十数倍する敵を壊滅させるなどという芸当は、いかにラケダイモンの男たちといえども不可能だ。
  だが、敵の主力部隊を率いる指揮官であるクレオンただ一人を殺すことさえできれば、それは彼らにとって輝かしい勝利である。
  たとえ、そのために、どれほどの犠牲を払うことになろうともだ。

  クレイトスは我知らず、盾を握る手に力を込めていた。

 (来い、クレオン)

  お前の鎧をこの穂先で貫き、心臓を串刺しにしてやる。
  レオニダス様の代わりに、この僕が、恥知らずの振る舞いの代償を支払わせてやる。
  必ず、この手で……

「来い、クレオン」

  今度は声に出し、クレイトスは低く呟いた。
  その腕が支える盾に、再び降り注いだ石つぶてがぶち当たり、雹のような音を立てた。
  やがて激しい物音がおさまり、エピタダス将軍が新たな「武器」を拾い上げるべく号令をかけるよりも早く、敵の陣地から鯨波の第一声が轟いた。
  二度、三度と鬨の声はくりかえされ、やがて、単なる叫び声にすぎなかったそれは、徐々にまとまりを持ついくつかの語として聞こえ始めた。
  それはラケダイモン人たちに対する罵声であり、呪いと挑発の言葉だった。
  ラケダイモン人たちが血と汚物に塗れて倒れ、その上をアテナイの軍勢が踏みつけてゆくということを、彼らの雄叫びは語っていた。
  やがて突撃の喚声とともに、敵の軽装歩兵部隊が左右から雪崩をうって進撃してきた。

 「整列!」

  男たちは展開して方形の戦陣を組み直し、盾を構え、槍を突き出した。
  後列で出番を待つ者たちの槍は銀色の林のように天をさし、微動だにしなかった。

  兜の下の顔、顔、顔、その目に恐れの色はなく、どの顔も彫像のように静かだった。
  内面に滾る溶岩流の如き憤怒と破壊衝動を、静謐な姿の下に押し隠し――

「死ねい!」

  間近に聞こえた呪いの言葉と共に、無数の投槍が飛来し、次の瞬間、荒れ狂う波が海岸の岩に襲い掛かるようにアテナイの軍勢が突っ込んでくる。
  そして、激突が起こった。



 「うーん」

  ラケダイモン人たちが陣取る高台からいくつかの起伏を隔てた岩山の陰に、デモステネスとクレオンはいた。
  彼らはごつごつした岩の隙間からノネズミのようにそっと頭を突き出し、味方の軽装歩兵部隊が最初の突撃を試みるさまを見ていた。

  当初はラケダイモン軍が抱える国有農奴たちを懐柔して抱き込み、彼らに歯向かわせるという計画だったのだが、それを予想していたのか、ラケダイモン人たちは深夜のうちに国有農奴たちをあるだけのボートに分乗させ、島から解き放ってしまっていたのである。
  アテナイ艦に拿捕された一部のボートに乗っていたという国有農奴たちの口からそれを聞いたとき、クレオンは残念がるとも感心するともつかぬ「はあ!」という声を漏らしたのだが、それだけで、さっさと頭を次の作戦に切り替えたようだった。
  その作戦こそが、軽装歩兵たちによる左右両面からの攻撃だったのだが――

「なあ、正直に言うてええか、クレオン君。……全然、効いてへんみたいやねんけど」

  デモステネスがぼそりと言った言葉の通り、軽装歩兵たちの最初の突撃は、巨岩にぶつかった波頭が無数の水滴と化して砕け散るように、ラケダイモン人たちの鉄壁の守りによって打ち砕かれたかのように見えた。

  重装歩兵部隊どうしの戦いは、槍を交え、盾と盾をぶつけ合わせ、隊列を組んだまま、全部隊の「重量」をかけて互いの敵陣を押し切ろうとする力頼みのぶつかり合いとなることも少なくない。
  だが、陸戦最強を謳われるラケダイモンの重装歩兵を相手に、軽い盾と鎧しか身につけぬ軽装歩兵たちが押し勝てる可能性など、万にひとつもなかった。
  彼らはたちまち、ばらばらに戦列を乱して後退しはじめる。

 「ああ、ああ……」

  彼我の槍が一度目に交差したあたりの地面に、ばたばたと人が倒れているのが見えた。
  どうやらほとんどはアテナイ側の死傷者で、その向こうに、Λの印をつけた盾の列が鈍く輝いて並んでいるのが見える。

 「あかんやんけ!」

 「あかんなあ」

  デモステネスの声が悲鳴のように響いたのに対し、クレオンの声は、落ち着き払っていた。

 「奴ら、追撃しよらんな。さすがに状況がよう分かってはるわ。
  軽装歩兵による突撃は、撒き餌にもならんか……」

  ラケダイモン軍の強さの根幹は、完璧に統率のとれた集団戦闘にある。
  軽装歩兵たちの挑発で怒り狂ったラケダイモン人たちが我を忘れて追撃にかかり、ばらばらの白兵戦となれば、いかに個々の錬度が高かろうとも、数で上回る側が有利となるはず。
  一人に対して数人でかかり、取り囲み、殺すのだ。

  だが、ラケダイモン人たちは、彼らの狙いの通りには動かなかった。
  完全な隊列を組んだまま、微動だにしなかった。
  まるで、何かを――誰かを、待っているかのように。

 「敵の戦列を崩してから叩こうっちゅう、君の発想はよう分かった」

  デモステネスは手元の岩をしきりに引っ掻き、灰にまみれた表面を指先で削りながら呻いた。

 「せやけど、これは無理とちゃうか? 完全に見抜かれとる。このまま突撃を繰り返しても、無駄な犠牲を――」

 「いや。まだ、やる」

  クレオンはそう言い切った。
  反論しようとするデモステネスの顔の前に手のひらを突き出し、言った。

 「奴らには、補給が無いんや。無疵に見えても、必ず、少しずつ摩耗していく。武器も、体力も、意気地もなあ」

  彼は目を細めて、今しも東の空に昇ろうとしている太陽を見上げた。

 「今日も天気がええわ。それに、この潮風! 舞い飛ぶ灰! 長いこと戦ううちに、喉が渇くやろうなあ。でも、奴らに水の補給はない。腹が減っても、食い物もない。ものを食ってる時間も、あるはずがない!」

  クレオンは語るうちに思わず興奮して立ち上がろうとし、そんな自分に気付いて、慌ててもう一度岩陰に引っ込んだ。
  真新しい銀色にてらてらと輝く鎧は、絶好の目標物だ。
  まだだ。まだ、早い。

 「まずは、物量で押す! 押して押して奴らを休ませず、とことんまで押しまくり、削り取る!
  軽装歩兵部隊には、交代しながら間断なく突撃を繰り返すように伝えてくれ。ただし深入りはせず、一撃したら後退するように。
  後方部隊は、突撃した味方が後退してくるのに合わせ、投石でも弓矢でも、とにかく飛道具で支援し、敵を消耗させる!」
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