古代スパルタ戦記 スパルティアタイ

キュノ・アウローラ

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第4章

戦場に響く歌

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 敵兵たちが凄まじい雄叫びを上げながら、一丸となって突っ込んでくる。
 そのうちのただ一人の盾の、中心からやや上のただ一点を、クレイトスは左腕に構えた盾の縁越しにじっと見つめていた。
 右手で槍を握り込み、両脚を開いて腰を落とし、備える。

  兜の下で、敵の喚声は、まるで遠い地鳴りのように聞こえた。
  だが、それは敵が目前に迫るまでのこと。
  彼我の距離が詰まるにつれて耳を聾せんばかりになり、続いて、天を暗くする幾条もの投槍が降り注ぐ――

 ぐっと姿勢を低くして盾で我が身を庇い、投槍を防いだ次の瞬間には再び身を起こして、突進してきた兵士の槍の穂先を受け止めた。
 がっと殴り付けられるような衝撃があって、敵の槍の穂先が盾の内側へわずかに突き抜け、飛び出した。
 だが、クレイトスはそれを見ていなかった。
 ずっと、目の前に迫る兵士の盾の、中心からやや上の一点だけを見ていた。
 歯を食い縛りながら右腕を撓らせ、槍を繰り出すと、穂先は見事に狙った一点に突き辺り、金属に覆われた盾の表面を削って滑り、その向こうにある敵兵の喉を突き破った。
 もたらした死の手応えが生々しく伝わり、これまでに流された血で槍を握る手が滑る。

 クレイトスは槍を引き抜き、もう一度繰り出して、斜め前にいた敵兵を狙った。
 だがその兵士は貧弱な盾を素早く掲げて辛くもクレイトスの刺突をはずし、そのまま後退していった。

「亀甲……!」

 もう永遠に聞き続けているような気がする、エピタダス将軍の号令がかすかに耳に届く。
 ラケダイモンの男たちは盾を合わせ、身を寄せ合って互いを守った。
 ばらばらと石つぶてが降り注ぎ、彼らがかざす盾を激しく叩き、地に倒れたアテナイ勢の兵士たち、そしてラケダイモンの男たちの物言わぬ骸をも打ち据えた。

 太陽が中天にかかる頃合いとなっても、熾烈な戦闘はやむことなく続いている。
 当初布陣していた場所が島の中でも平坦で側面からの攻撃を受けやすかったことから、ラケダイモンの男たちは守りを固めながらじりじりと後退し、今や、島内の最南端部にまで退いていた。

 そこには北と同じく、古代に用いられていた砦の跡が残されており、南の守備隊が守っていた。
 砦の背後には切り立った岩山がそびえ、その頂上を越えた向こうはすぐに海だった。
 これより後のないどん詰まりではあったが、少なくとも背後の地形に拠ることはでき、また左右に開けた場所もないことから、正面から攻め寄せる敵だけを押し返していればよかった。

 だが、幾分か防戦が楽になったとはいえ、状況は少しも改善していなかった。
 ラケダイモンの男たちの体は灰と土にまみれ、飛び散った血と汗がその上を流れ落ちて、不気味なまだら模様を描いていた。
 男たちは灰色になった顔にそこだけ白く光る目で互いを見合い、激励し合ったが、もはや声を上げる者はほとんどいなかった。
 あのフェイディアスでさえも、黙ったまま荒い息を吐き、痺れでもあるのか、槍を持つ右腕をしきりに振っていた。
 夜明け前から一切の休息を取ることなく戦い続け、鍛え抜いた男たちの体力も、さすがに限界に近付いている。

 対するアテナイ勢の意気は軒昂たるものだった。
 彼らには補給があり、交代があった。
 突撃を終え、安全な場所まで後退した部隊は、何か一口食べて飲んで体力を回復する暇があったし、負った傷の手当てをすることもできた。
 また、彼我の戦力差が圧倒的であることと、ラケダイモン側がいつまで経っても大規模な反撃に出ようとしないことによって、アテナイ勢は徐々に勇気を強められ、当初は決死の悲愴感を漂わせていた彼らも、いまやラケダイモン勢を侮り、突撃を繰り返すごとに大胆になってきていた。

「陸戦最強やて? なんや、あいつら、大したことないやんけ!」

「俺たちが攻撃しても、やり返してきよらんぞ」

「こっちは一撃して逃げるを繰り返して、ちょびっとずつ相手を削っていけばええわけや。あいつらはもう川の流れの真ん中の砂山同然、どれほど粘ろうが、最後には……」

「おい、お前ら! ラケダイモンの名誉とやらは、どないしたんや? 悔しかったら、こっち来てみろや!」

 彼らは後方から口々に声を上げてラケダイモン勢を罵り、彼らの名誉を貶める歌を作って歌い、武器を打ち鳴らして挑発した。
 だが、ラケダイモンの男たちは、打って出ようとはしなかった。



「亀甲……!」

 擦れた声で叫んだエピタダス将軍が、不意に激しく咳き込み、体を丸めた。

「将軍!」

 横にいたフェイディアスが咄嗟に将軍を押し倒し、盾を掲げてその身を庇う。
 雨と降り注いだ石が盾に当たり、将軍を守るフェイディアスの背を打ち据えた。

「フェイディアス様!」

「大丈夫だ……!」

 クレイトスの叫びに、フェイディアスは将軍の体を支え、顔を歪めながらも立ち上がる。
 だが次の瞬間には猛然と将軍の体を突き飛ばし、一瞬宙に放り上げた槍を逆手に持ち替え、突っ込んできた敵兵の腹に突き立てた。
 その横から飛び掛かってきた敵の首を、クレイトスの剣が刎ね飛ばす。

 鋭い警告の叫びが上がり、クレイトスたちが身を伏せると、背後から頭上を越えていくつもの石つぶてが飛び、アテナイ兵たちを牽制した。
 負傷し、戦列に並ぶことが難しくなった男たちが、痛みを堪えて砦跡の防壁の上に這いのぼり、石を投げつけて応戦しているのだ。

きりがない……」

 返り血に塗れた顔を、同じく血みどろの手で拭おうとしながら、フェイディアスは倒れた敵の腹から穂先を抜き、それを地面に突き立てて喘いだ。
 彼らはいまだ砦跡の前面で戦陣を組んで踏みとどまり、繰り返し攻め寄せる敵を何とか食い止め、押し返している。
 だが長時間に及ぶ戦闘は、着実に彼らを疲弊させていた。
 腕も足も、筋肉が意志に反して震え、敵の突撃がやむほんのわずかな休息の間には、冷たい潮風が吹きつけて汗にまみれた体を冷やしてゆく。

「クレオンは、まだ来ないのか!」

「卑怯者め……姿を現せ!」

 男たちの叫びは、アテナイ勢が上げる怒涛のような鬨の声に呑まれ、むなしく消えるばかりだった。

「エピタダス将軍!」

 駆け寄り、血走った目で進言したのは《獅子隊》の若者、パルティオスだ。

「もはや、これまでです。打って出ましょう!」

「……ならん」

「将軍!」

 血を吐くような叫びだった。
 パルティオスの兄役フィロメイラクスオルセアスは、最前列から少し下がったところで石垣の跡に身をもたせ掛けていた。
 その左肩と、首に矢が突き立っている。
 息はあった。
 だが、もう戦えない。話すこともできない。

「このままでは、味方は全滅です! 手遅れになる前に、打って出ましょう!」

 部下の悲愴な叫びに、エピタダス将軍はフェイディアスに押し倒されて打った腰の辺りを押さえながら起き上がり、静かに告げた。

「いいや。まだじゃ。まだ、早い。我らの狙いは、もはやクレオン一人。奴が姿を現すまでは、打って出ることはせぬ」

「しかし、お聞きください、あれを……!」

 パルティオスが涙を流しながら指さしたアテナイの陣からは、陽気な合唱の声が響いてきていた。
 ラケダイモン軍が敗れ、その勇気と名誉が地に落ち、死んだ者は烏に喰われ、生き残った男たちも女たちも奴隷とされ犯されるという歌を彼らは歌っていた。

「このような侮りを受けながら、生き延びる時間を引き延ばして何になりますか! 将軍、突撃を許して下さらぬのなら、今、ここで、俺を殺して下さい!」

 怒鳴り付けようとした将軍の目が、さっと斜め上方に動いた。

「パルティオス――」

 しわがれた囁き声が聞こえ、パルティオスは誰かに両肩を掴まれて湿った灰の上に叩きつけられた。
 雨のように矢が降り注ぎ、砦跡の防壁の上からいくつかの断末魔が上がった。
 エピタダス将軍が、クレイトスが、フェイディアスが盾をかざし、何事かを叫んでいる。
 パルティオスがくらくらする頭を押さえて体を引き起こしたとき、彼の上に覆い被さっていたものが音を立てて地面に転がった。
 さらに幾本もの矢を体に受け、目を見開いたまま絶命した兄役フィロメイラクスの姿を見て、パルティオスの目から涙がほとばしった。

「オルセアス様! オルセアス様! おお、神々よ!」

 彼は獣のように叫び、激情のままに戦列を飛び出してアテナイ勢の前に身を晒し、槍を振りかざして叫んだ。

「来やがれ、卑怯者! かかって来い、臆病者どもめ! 俺たちの槍の届くところまで来てみろ、目にもの見せてやるわ! くそったれ!」

 そんな彼の悲嘆を見て、アテナイの兵士たちはどっと笑い、さらに挑発の声を張り上げた。
 投げつけられた石が彼の足元にばらばらと落ち、地面に矢が突き立った。

 「パルティオス様!」

 クレイトスが飛び出し、パルティオスに掴みかかる。
 だが彼は肩を振ってクレイトスの手を振り払った。
 クレイトスは彼に組み付き、引き摺って戦列に引き戻した。

「放せ!」

 パルティオスは激しくもがき、その肘がクレイトスの顔にぶち当たった。
 兜がずれ、唇が切れて血が流れたが、クレイトスは彼を放さなかった。

「放してくれ、クレイトス! 奴らに復讐してやる。奴らの心臓を引きずり出し、口に突っ込んで黙らせてやる!」

「無駄死にしてはなりません!」

 クレイトスもまた、涙を流していた。
 レオニダスが撃たれた瞬間のことを彼は思い出していた。
 リュクネの言葉、そして、レオニダスを見送ったときのことを。

「今はまだ……どうか、耐えて下さい! オルセアス様のためにも……」

 パルティオスはクレイトスに支えられ、いまや声もなく泣いていた。
 フェイディアスは、荒い息を吐きながら、そんな二人を見つめていた。
 彼はエピタダス将軍と視線を交わし、同じ戦列に並ぶ疲れ切った戦友たちの顔を順番に見回し、振り向いて砦跡の防壁の上の友たちを見上げた。
 それから、彼はふと視線を転じ、荒れ果てたスファクテリア島の大地を埋め尽くすようなアテナイ勢、ゆらゆらと揺れる銀色の穂先、光る盾と鎧を見た。

  その一瞬、不意に、全ての物音が遠ざかり、自分の傍らにやわらかな気配が寄り添うのを感じた――

(パイアキス?)

 それは本当に一瞬のことで、疲労が見せた幻であったのかもしれなかった。
 周囲の全ての喧騒から切り離されたような空白の一瞬、フェイディアスはその場に突っ立ち、愛しい者が自分のすぐ側に立っているというあの満ち足りた感覚、これまでは当たり前のように受け取っていた幸福を感じていた。

(パイアキス、俺は――)

 風が吹いた。
 敵陣からとどろく鯨波と歌声、傷付いた味方の呻きと嘆きの声が、再び彼の耳に届いた。

(……そうか)

 あいつが、今、ここにいたならば。
 そうだ。
 彼ならば、きっと――

 フェイディアスはおもむろに槍の穂先を天に向け、血で滑るその柄を握り締めると、その石突きをゆっくりと繰り返し、地面に打ちつけ始めた。


  詩歌女神たちムーサイが叫ぶ、ピーエリエーの峰に住いし
 澄み切った声の女神たちが。


 疲れ果て、うつむいていた男たちが目を上げ、彼を見た。
 隊随一の歌い手パイアキスが倒れてから、彼らの間に歌声が響いたことはなかった。
 だが今、フェイディアスは一人、声を上げ、槍の石突きで固い地面を打って拍子を取りながら歌い始めた。

 それは古代から伝わるスパルタの勇士たちの戦いの物語で、多くの戦士たちが聴き知っている歌だった。
 パイアキスとは違い、決して美声ではない。
 だが、フェイディアスの声は戦友たちの耳に届き、彼らの疲弊し切った心に気力と誇りを吹き込んだ。

 ラケダイモンの男たちはすぐに、擦れた声を合わせて歌い始めた。
 あるいは手を打ち、あるいは盾と槍をぶつけ合わせて拍子をとる者たちもいた。
 アテナイ勢はこの状況に気付いて驚き、口を閉じて、耳を傾けた。

(パイアキス……) 

 歌ううちに、フェイディアスの声はますますはっきりと響き、そこに男たちの声が力強く唱和する。
 汚れ果てた武具に身を包んだラケダイモンの男たちは、いまや屈めていた背を伸ばし、その顔を再びまっすぐに敵に向けていた。

(パイアキス、俺は、お前と共に戦う。お前は今この時も、俺と共にあるのだから……)

 フェイディアスは槍を振り上げ、調子を変えて、朗々と声を張り上げた。


 アテナイの男よ、傲慢にして臆病、ネズミのような輩、
 お前がもしも本物の男であるのならば、
 母親の衣の陰に隠れる幼子同然のふるまいをやめて、
 我らの穂先の届くところまで進み出ることができるはずだ。


 それを耳にしたアテナイの軍勢にどよめきが起こり、ラケダイモンの男たちは一斉に笑い声を上げた。
 アテナイの男というのが誰を指した呼び名か、その場にいる誰もが理解していた。
 フェイディアスは砦跡の防壁の上に登り、槍を振り回して注意をひきつけると、挑発的な仕草をして敵を嘲笑い、さらに声を張り上げた。


 クレオンよ、お前は臆病な子供か、それとも軍勢を率いる者か?


 ラケダイモンの男たちはどっと声をあげて笑い、槍と盾を打ち鳴らして囃し立てた。
 彼らは声を限りに張り上げて、ただ一人に対する挑戦の文句フレーズを繰り返した。

  
 クレオンよ、お前は臆病な子供か、それとも軍勢を率いる者か?




 ラケダイモン軍が立てこもる砦跡から、遠く微かに、ただひとつの文句フレーズが繰り返し響いてくる。
 デモステネスは眉を寄せ、傍らに立つクレオンの表情をうかがった。

「クレオン君……」

「うーん」

 だが、デモステネスの呼びかけにも、クレオンは生返事を繰り返すばかりで、一向にはかばかしい反応がなかった。
 彼は相変わらず岩陰に立ち、顔の上半分だけを突き出し、敵の陣地のほうをじっと見つめるばかりだった。

 俗に「戦いの風向きは変わりやすい」というが、まったくその通りである。
 一時は完全に挫かれたかに見えたラケダイモン側の士気であったが、砦跡の防壁の上に立った男が歌い始めたことから、戦場の空気がすっかり変わってしまった。
 砦跡に立てこもるラケダイモン人たちは気力を取り戻し、戦いの意志を新たにしている。

 一方で、自分たちの圧倒的有利を確信し、意気軒昂たる様子だったアテナイ側は、これまでの勢いをすっかり失ってしまったようだった。

 クレオンとデモステネスは相変わらず後方にいて、敵に直接姿をさらすことがないよう、物陰に身を隠していた。
 デモステネスとしては、この状況には内心、忸怩たる思いがあった。
 ピュロスの砦では、百名の重装歩兵たちと共に海岸で決死の防衛戦を繰り広げ、圧倒的多数で上陸してくるペロポネソス同盟の戦士たちを相手に踏み止まって一歩も退かなかった彼である。
 今、ちょうどあの時とは真逆の状況にあるわけだが、だからといってデモステネスには、この状況を当然だと考えることはできなかった。
 自分たちにはザキュントス島からの援軍という希望があったのに対し、この瞬間のラケダイモンの男たちには、何の助けも約束されていない。

 さらに、ラケダイモンの男たちをここまで追い詰めるために使った幾多の卑怯な戦術がデモステネスの念頭にはあった。
 飛道具をもって勇士を討ち取り、島を焼き、夜襲をかけ――
 そして今、それを主導した男は、前線のはるか後方にいて武器を手に取ることもなく、戦場の様子をうかがっている。

 クレオンよ、お前は臆病な子供か、それとも軍勢を率いる者か?

 ラケダイモンの男たちが繰り返し歌う言葉の意味が、デモステネスにはよく分かった。
 指揮官ならば、戦闘の開始から終結まで盾と槍をもって戦陣の最前列の右端に陣取り、大声を上げて味方を鼓舞し、敵に挑みかかるのがならいである。
 それなのに――

 デモステネスはもはや抑え難い苛立ちを込めた横目で、悠然と突っ立っているクレオンを見た。
 個人としてあれほど明らかな挑戦を受けながら、応じようともしないとは、敵を増長させるのみならず、アテナイ軍全体の士気に関わる。
 現に今も、味方の中に、ちらちらとこちらに視線を投げる者たちがいた。

(そろそろ、限界や)

 デモステネスは、覚悟を決めた。
 クレオンに引き留められて、これまでは渋々ながらこの場にとどまっていたデモステネスであるが、これ以上おとなしく引っ込んでいたのでは、自分自身の名誉にも関わる。
 たとえ数によって最終的に勝利をおさめることができたとしても、これほど不名誉な勝利はないではないか。

「クレオン君!」

 デモステネスは傍らに置いていた盾と槍とを掴み、決然として声を上げた。

「僕は行く! いくら止めても――」

「よっしゃ、行こかァ!」

「……え!?」

 ぱんと両手を打ち合わせ、クレオンが朗らかに叫んだので、デモステネスはもう少しで槍を取り落とすところだった。
 彼が呆然としているあいだに、クレオンはさっさと自分の盾と槍を取り上げ、岩陰から出て歩き始めた。
 味方がどよめき、道を開ける。

「おい、おい」

 虚を突かれて一瞬、出遅れ、彼を小走りに追いかけるかたちになりながら、デモステネスは思わず呼びかけた。

「クレオン君……えっ、君も、ほんまに来るのんか?」

「当ったり前やん!」

 クレオンは、先ほどまでの無反応ぶりとは打って変わった愛想のよさで答え、大股に進み続けた。

「まあ、そやけど」

 デモステネスは、言わずもがなのことを確かめずにはいられなかった。

「だいぶ弱っとるとはいえ、相手は、決死の覚悟や。……君、死ぬかもしれへんぞ?」

「そらそやろ」

 クレオンはあっさりとそう答えた。
 戦場に慣れた勇者のような落ち着きぶりにデモステネスは驚きを隠せず、思わず言った。

「君は……たとえどんな局面になっても、絶対に、自分の命を懸けたりはせえへん男やと思うとったわ」

 クレオンにすれば、婉曲ながらも明らかに臆病者呼ばわりされたことになるが、彼は別段腹を立てることもなく、馬の毛で飾った兜の下でちょっと笑ってみせた。

「物事にはすべて、押さえとくべき勘所ちゅうのがあるやろ?」

 デモステネスと付き人たちを率いてクレオンが進むにつれて、アテナイ勢のあいだからどよめきが起こり、それはやがて波のうねりのようにひとつにまとまり、鬨の声となって響き渡った。

「今、ここ、この瞬間がこの戦争の勘所、切所、正念場や!
 ここで僕が出ぇへんかったら、アテナイの市民諸君は、僕の勝利を認めへん。
 肝心要の一大決戦で、最後まで後ろにスッ込んでた司令官の話なんか、誰も聴きゃせんわ。それでは困るんや」

 味方の歓声にいちいち頷いてみせながらも、ひたすらに前方を、ラケダイモンの男たちが立てこもる砦跡を睨み据え、口元にはかすかな笑みをたたえたまま、クレオンは早口に呟いた。

「――僕は僕で、後がないんよ」

 とどろく鯨波の中で、その声を耳にした者は、おそらく最も近くにいたデモステネスだけだっただろう。
 目を見開いた彼の顔をちらりと見返して、クレオンはいたずらっぽく笑った。

「なに、大丈夫、勝てると思うから行くんや。
 僕は、誇りや美学のために軽々しく命を投げ出す阿呆とは違う。
 僕が突撃するのは、ただ勝利への道のみ……! デモステネス君、僕の左側は任したで!」
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