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婚約破棄したい悪役令嬢とそんな彼女を一途に溺愛する王子
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「ごきげんよう、ラディウス王太子殿下。今日も国王陛下の書庫で『無駄な時間』を潰していらっしゃいましたのね」
ユリアーナは、自らが発した冷たい声に内心で震えていた。
改めて自分自身が転生してしまったこの世界が前世で読み漁った乙女小説の舞台だと気づいて以来、彼女の人生の目標はただ一つ——王太子ラディウスとの婚約破棄と、それに続く破滅の未来を回避することでした。
小説の設定通り、彼女は高慢な悪役令嬢で、そして今、彼女の目の前にいるのは、小説で行われる断罪イベントで彼女を冷酷に追放する未来の夫だ。
ここで私が、彼に愛想良く振る舞うなんて愚の骨頂だわ!私が彼にとってどうでもいい存在になれば、破滅フラグも折れるはずよ多分?
ユリアーナは冷たい笑顔を貼り付けた。
「全く、いつまでその地味な本を読んでいらっしゃるつもりですの?ラディウス王太子殿下が読むべき書物は領地経営、それか魔導戦術の文献でしょう。そのような『趣味の悪い書物』で時間を浪費するくらいなら、私と庭園でお茶を嗜む方がまだましですわ」
敢えて突き放す言葉を選び『趣味の悪い書物』『無駄な時間』という強めの表現を用いた。
これでラディウスは私を『教養のない高慢な女』として認識し、うんざりするに違いないわ。
ラディウスは、薄暗い書庫の片隅で、古い革表紙の本を閉じた。その瞳は深い青色で、感情を一切読み取らせない。ユリアーナは身構える。
さあ、ここで「君はいつもそうだな、ユリアーナ」と、呆れた声を出すはずだわ。
しかし、ラディウスの反応はユリアーナの予想と全く異なっていた。
ラディウスは静かに書棚に本を戻すと、ゆっくりとユリアーナに歩み寄り、一歩手前で立ち止まった。
「君は、本当に素直ではないな」低く抑揚のない声が響く。
ユリアーナは驚いたーーー。
素直ではない?どういう意味?
嫌悪感を抱いたなら、高慢ちきな女だと言えばいいだけでしょ!?
「私の部屋に来れば、ユリアーナが好きな魔術理論の禁書でも出してあげよう。だが、君は私が仕事をしている時でも、こうしてわざわざ顔を出してくれる。それは、君が私に構ってほしいからだろう?」
ラディウスはそう言うと、氷のような表情をわずかに緩め、ユリアーナの耳元に囁いたのだ。
「私の時間を『無駄』と言いながらも、私に時間を『使わせよう』とする。そのいじらしさ、嫌いではないよ。ユリアーナ」
そして、彼の指先がユリアーナの頬を軽く撫でた。
「では、今日はユリアーナが言う『まし』な庭園のお茶に付き合おう。君からのデートの誘いと受け取っておくよ」
ユリアーナは、突然の展開と至近距離の王太子に顔が熱くなるのを感じた。
え、ちょっと待って!デートの誘い!? 私はただ、彼に嫌われて婚約破棄に繋がるような『お茶を嗜む方がまし』と言っただけで、極めてどうでもいい選択肢を提示しただけよ!
悪役令嬢の破滅回避行動は、ラディウスにとっての最高の甘やかし(デートの誘い)として最悪の(最高の)勘違いをされてしまったのだった。
王宮の庭園。見事なバラが咲き誇る一角で、ユリアーナとラディウスはテーブルを挟んで向かい合っていた。
給仕たちが下がり、二人きりになると、静寂が訪れる。
どうしてこうなった!?私の人生プランでは、今は孤独に書庫で魔術理論書を読み込んでいる時間のはずだったわ!
ユリアーナは目の前の冷めた視線のラディウスを前に、焦燥に駆られていた。
破滅ルートを確実に断つには、彼に心底『この女は不快だ』と思わせなければならないのだ。
彼女はわざとため息をつき、テーブルに並べられた最高級のケーキを一瞥した。
「本当に、この程度のお菓子しか用意できないのですか?王宮の給仕係も落ちぶれましたわね」
ユリアーナは、味見もせずにフォークを置いた。貴族令嬢として完璧な、見下す表情。
『これで完璧よ。自分の婚約者が自分の宮殿の侍女やパティシエを侮辱すれば、不機嫌になるはずよ!』
だが、ラディウスは動じなかった。彼は紅茶にミルクを注ぎながら、ふと口角をわずかに上げた。
「私の給仕たちを試しているのか、ユリアーナ?」
「は?」
ユリアーナの頭上には?マークが浮かんだ。なにってんの?
「ユリアーナは、私が彼らを指導し直す『きっかけ』を作ってくれているのだろう。ユリアーナの求める基準は、常に最高水準だ。それは、王太子妃となる者として当然の姿勢であり、この宮廷の堕落を許さない愛情の裏返しだと、私は理解している」
ラディウスはそう言うと、彼女のカップに丁寧に紅茶を注いだ。
「ユリアーナのおかげで、また一つ、宮廷が正される。感謝するよ。そして、このケーキは私が君の口に合うか確認してから、改善点を伝達しよう」
ラディウスは、何事もないようにその「不味い」と言われたケーキを一口食べた。
愛情の裏返し!?テスト!?違いますよ、私はただの嫌がらせですから~。
ユリアーナは内心絶叫した。彼女の完璧な悪役令嬢としての振る舞いが、全てラディウスの中で『聡明で献身的な婚約者のアピール』に変換されてしまっている。
なぜなの~!
「では、私はこの後、王国の下水道整備計画について資料を読み込む必要がありますので――」
ユリアーナは一刻も早くこの場から逃れようと、あえて地味で、美意識の高い令嬢が最も興味を持たないであろう話題を出した。
「お忙しいでしょうから、もうお開きに――」
「下水道整備計画か。それは極めて重要な公務だ」
ラディウスは即座に言葉を遮り、瞳を輝かせた。
「やはり、ユリアーナは表面的な華美に囚われるだけの令嬢ではないな。平民の生活に直結するインフラ整備に目を向けるとは。感心したよ、ユリアーナ」
彼は席を立ち、ユリアーナの椅子の背に手を置いた。
「では、私もその資料を一緒に読み込もう。君がどれほどその計画に情熱を注いでいるのか、そばで見たい」
「えっ……」ユリアーナは立ち上がろうとした姿勢のまま固まった。
はぁ~、一緒に読む!?
嫌がらせのつもりで挙げた話題なのに、なぜ彼までついてくるの!?こんな汚くて文字ばかりの資料、普通の王子は嫌がるはずでしょう!
彼女は完全に誤算だった。ラディウスは、私を「傲慢な悪役令嬢」ではなく、『裏で国のために尽力する、素直になれない賢婦』として認識し始めていた。
違う、違うの!
ラディウスの真剣な眼差しは、私の逃げ道を完全に塞いでしまっている。
「さあ、行こう。未来の王妃として、ユリアーナがどのような視点を持っているのか、二人で語り合いたい」
その手は、いつの間にかユリアーナの手を包み込んでいた。
なんで手を繋ぐの!
ラディウスに手を引かれ、ユリアーナが連れて行かれたのは、王宮の端にある、薄暗く埃っぽい資料室だった。私がイメージしていた「王太子の公務」とは程遠い、地味な部屋だった。
どうして下水道の資料室なんて!私が転生した悪役令嬢としての格が下がってしまうわ!しかもラディウスは資料室でも私の手を離さないなんて、一体何を考えているのよ~!
ラディウスは、卓上の資料の山を指し示した。その中には、緻密な人口統計や、都市の地下構造が描かれた古びた地図などが含まれている。
「ここに、ユリアーナが気にしていた下水道整備に関する全資料がある。まずは現状を把握しよう。ぜひとも意見を聞きたい」嬉しそうに話すラディウス。
ユリアーナは観念した。もはや逃げられない。ラディウスの溺愛スイッチがどこで入ったのかは不明だが、この状況を打開するには、彼に「つまらない女」だと諦めてもらうしかない。
よし、適当に「見栄えが悪い」とか、「王都に不釣り合い」とか、中身のない感想を言って、彼を失望させる作戦にしよう!
ユリアーナは一番上にある地図を広げた。そこには、王都の地下水路の配置図と、人口増加に伴う処理能力の限界を示す数字が記されている。
資料を流し見するユリアーナの瞳に、ある一点が飛び込んできた。
「…あら」
それは、ユリアーナが前世の記憶で知っている都市計画の基礎に反する、致命的な設計ミスだった。水路の合流地点の角度がわずかにズレているせいで、将来的に特定の区画で必ず逆流と汚染が発生する。
まずいわ、これを知っているのは、前世で土木工学を専攻していたからよ!でも、このままでは数年後に疫病が流行る…公爵令嬢として、そして転生者として、これは無視できない事だわ!
「ラディウス王太子殿下、この水路の合流角ですが、設計基準から1.3度ずれていないでしょうか?」
ユリアーナは反射的に、正確な数字と専門用語で指摘してしまった。
ラディウスは一瞬、目を見開いた。その冷徹な表情に、初めて驚愕の色が浮かぶ。
「1.3度…?なぜ、君がその数字を?」
この資料は極秘であり、専門の技師でなければ気づかない微細な設計ミスだ。
「さ、さあ?わたくしには分かりませんわ。ただ、美しくない角度だと思いましたのよ!見た目の問題ですわ、ええ、見た目!」
ユリアーナは必死に取り繕う。悪役令嬢らしく「美意識」のせいにする。
だが、ラディウスはユリアーナの言葉を再び最高の褒め言葉に変換した。
「そうか、見た目の問題か…」
彼は資料の合流角の部分を指でなぞりながら、深くため息をついた。
「ユリアーナは、その美しい感性で、誰も気づかなかった本質的な欠陥を見抜いたのだ。美しくない、とは、『機能として調和が取れていない』という君なりの最高の賛辞なのだろう」
ラディウスは静かにユリアーナの両肩に手を置いた。
「ユリアーナ。君は、飾りだけの令嬢ではない。王都の未来を憂い、それを『美しくない』という言葉で遠回しに私に示唆するとは。貴女は、真の賢婦だ。そして、それを人前でひけらかさない謙虚さも持ち合わせている」
その瞳は、もはやユリアーナを『愛しい婚約者』としてだけでなく『手放すことのできない唯一無二のパートナー』として見定めているかのようだった。
「私のパートナーとして、この問題の解決に力を貸してほしい。ユリアーナ。貴方の持つ知識は、この国の未来に必要だ」
手を握り、真摯に懇願してくるラディウス。ユリアーナは完全に言葉を失ってしまった。
私の前世の土木学科を専攻したオタクな知識が、まさか破滅フラグを折るどころか、王太子からの最上級の信頼につながってしまうなんて……!
こうして、ユリアーナの「嫌われよう作戦」は、王太子ラディウスとの『二人だけの極秘公務』というより強固な溺愛ルートへと突入していったのだった。
下水道整備計画の資料室での「公務デート」から数週間。
ユリアーナはもはや、ラディウス王太子に嫌われることを諦めていた。どれほど冷淡な言葉を投げかけ、どれほど難解で退屈な資料を指し示しても、彼は彼女の行動すべてを「王室への貢献」「愛の証」として解釈し、ますます彼女に傾倒していった。
ユリアーナの知識のおかげで、下水道計画は劇的に改善。ラディウスは公務のたびにユリアーナを呼び出し、「二人だけの秘密の協力関係」を築くことに夢中になっていた。
「この排水路の勾配の計算は、君の言う通りで完璧だ。やはり、君ほどの頭脳を持つ女性は他にいない」
そう言って、ラディウスが資料の上からユリアーナの指先をそっと重ねたとき、ユリアーナは頬が熱くなるのを必死で耐えた。
いけない、いけない!このままでは、婚約破棄どころか、愛されすぎて破滅するルートに突入してしまう!彼はあくまでゲームの攻略対象。私の心を乱す存在では……!
ラディウスの献身的な愛情表現が強まるにつれ、ユリアーナは当初の「破滅回避」の目的を忘れ、彼に惹かれ始めている自分に気づき、ますます自己嫌悪に陥っていた。
ある日の午後、ラディウスと共に王都視察に出かけた際、ユリアーナは馬車から降りた瞬間、背筋が凍りつく感覚に襲われた。
目の前にあるのは、乙女ゲーム『聖女の光と愛の試練』の主要な舞台となる、貧民街の孤児院跡地だ。そしてその入り口に、一人の少女が立っていた。
艶やかな亜麻色の髪、透き通るような緑の瞳。
地味な服を着ているにもかかわらず、その存在感は太陽のように明るい。
カロリーナ・エンバーグ。
ゲームの主人公(ヒロイン)の名前が、ユリアーナの脳内に警鐘のように響き渡った。
嘘…嘘でしょう!?まだ学園入学前のはずなのに、もうヒロインが……!?
ゲームの筋書きでは、このヒロイン、カロリーナはここで王太子ラディウスと運命的な出会いを果たし、彼の心を射止めることになっていた。
そして、カロリーナをいじめる悪役令嬢ユリアーナは、最終的に「断罪」される。
「殿下、あちらの…少女は」
ユリアーナは緊張で声が上ずった。
ラディウスは彼女の視線を追い、カロリーナの方を一瞥した。
「ああ、彼女か。先週、孤児院の支援のために訪れた際に出会った娘だ。純粋で、悪意を知らない、実に興味深い…」
興味深いですって!?まさか、もうフラグが立っているの?私の公務協力のせいで、彼のスケジュールが早まり、出会いまで早まってしまったの!?
ユリアーナは焦りから、思わず悪役令嬢らしい高圧的な態度を取ってしまった。
「純粋?殿下。下位の者など、裏で何を企んでいるか分かりませんわ。あのような者が、不用意に殿下に近づくなど、無礼千万。すぐに追い払うべきです」
これは破滅回避のための最終手段だ。ヒロインを排除することで、王太子の怒りを買い、婚約破棄に持ち込むつもりだった。
しかし、ラディウスはユリアーナの言葉を聞き、冷酷な目で少女を睨むどころか、ユリアーナの方を向いて、まるで愛しい子供を諭すような優しい目をした。
「ユリアーナ。君は、優しすぎる」
「…はい?」なに言ってるの?
「彼女のような純粋な光が、この国のどこかに存在すること自体が、君にとっては脅威なのだろう。君は、私を奪われるのではないかと不安で、つい乱暴な言葉を選んでしまう。その独占欲と嫉妬、愛らしいとしか言いようがない」
ラディウスは、ユリアーナの耳元に囁くと、周囲の使用人には聞こえないように、しかし力強く宣言した。
「心配するな。カロリーナという少女がどれほど善良であろうと、私にとって君は唯一無二の存在だ。誰にも君の地位は奪わせない。私は、君のその優しさと独占欲ごと愛している」
ち、違う!私はただ、ヒロインを遠ざけて自分の命を守りたいだけなのに!私の『嫉妬』や『独占欲』なんて、一つも存在しないわ!
ユリアーナの必死の悪役令嬢ムーブは、またしても王太子にとっての「愛の告白」に変換されてしまった。その瞬間、ユリアーナの背後で、ヒロイン・カロリーナが驚きに満ちた瞳で二人を見つめているのが見えた。
新たな破滅フラグが、静かに、しかし確実に立ち上がった。
王太子ラディウスが「独占欲が愛らしい」と宣言した後、ユリアーナはもはや平静を装う余裕がなかった。
このままではいけない!ラディウス殿下のヒロインへの興味の芽を、今、この場で摘み取らなければ、私の断罪ルートは確定してしまうわ!
ユリアーナはラディウスの手を振り払うと、カロリーナに向けて、悪役令嬢が持つべき最高の威圧感を放った。
「そこの娘。聞きなさい」
カロリーナは驚き、ユリアーナの高貴な美しさと、その冷たい眼差しにたじろいだ。
「あなたは王太子殿下に、不用意に近づくべきではありません。身分違いも甚だしい。分をわきまえなさい。王太子殿下のそばに立つのは、選ばれしアーデルハイト家の人間、つまりわたくしでなくてはならないのですから」
ユリアーナは最後の言葉を特に強く言い切った。
これでいい。私利私欲と高慢さ、独占欲を露わにした。これでカロリーナも私を憎み、ラディウス殿下も私の浅はかさに呆れるはず…!
カロリーナは怯えながらも、その緑の瞳でユリアーナを真っ直ぐに見返した。
「あ、あの…私はただ、この孤児院の跡地を、皆が安全に過ごせる場所にしたいと、殿下にご相談しただけで…」
「戯言を!」ユリアーナは鼻で笑った。
「そのような取るに足らない善意で、この国の王太子を煩わせるなど言語道断。そもそも、この場所は水路の構造から見ても、新たな建物を建てるのには適していませんわ。すぐに湿気や異臭の問題が起こるでしょう。あなたのような素人に、王都の計画を語る資格などありません」
ユリアーナは、無意識のうちに、ラディウスと資料室で話し合った専門的な知識を口にしていた。あくまで「相手を馬鹿にするための道具」として。
その言葉を聞いたラディウスは、傍らで深く頷いていた。そして、カロリーナの肩にそっと手を置いた。
「カロリーナ嬢。すまないが、ユリアーナの言う通りだ。ここは水路の構造上、衛生面で問題がある。君の善意は尊いが、場所を変えるべきだ」
ユリアーナは安堵した。これでヒロインは王太子から遠ざかる。
ふふ、ざまぁみろ、ヒロイン!
私の悪役令嬢としてのプライド、そして前世の土木工学知識に勝てるわけがないわ!
ユリアーナの目論見は成功したかに見えたが、ラディウスはすぐにユリアーナの方を向き、とんでもない言葉を囁いた。
「…見ていたぞ、ユリアーナ」
「な、何をです?」
「君は、カロリーナ嬢を守ったのだろう?」
「はあ!?」
ラディウスの解釈は、もはやユリアーナの想像をはるかに超えていた。
「君は、彼女が不適切な場所で施設を建て、将来的に住民が苦しむことのないよう、わざと悪役を演じて忠告した。私の名誉を守るためだけでなく、平民の未来まで考えて。そしてその真意を隠すために、あえて高慢な言葉を重ねたのだ。…その優しさ、相変わらず不器用で、そして誰にも理解されたくないという君の強い意志を感じる」
ラディウスはユリアーナの頬を包み込み、熱烈な眼差しを向けた。
「だが、安心してくれ。君の真の価値は、この私が誰よりも深く理解している。誰にも邪魔はさせない。君は、私の隣にいるべき、唯一の聖女だ」
ラディウスはそう言うと、周囲の視線も気にせず、ユリアーナの手の甲にキスを落とした。
聖女!?なに言ってるの?私はただの悪役令嬢志望の土木オタクですわよ!?なぜ、平民を遠ざけた行為が、平民を救った行為に変換されるの!?
ユリアーナの心臓は激しく波打った。王太子の純粋で、しかし歪んだ溺愛は、もはや恐怖に近い。
一方、遠巻きに見ていたヒロイン・カロリーナは、ユリアーナが去った後、ぽつりと呟いた。
「ユリアーナ様は、なぜあんなに水路のことに詳しかったのだろう。ただの意地悪だけじゃない、何か別の目的があるのかも…」
こうして、ユリアーナは王太子の溺愛を深める一方で、ヒロインからの警戒と誤解という新たなフラグを立ててしまったのだった。
翌日、ユリアーナはラディウス王太子に呼び出され、王宮の一室で向き合っていた。
「ユリアーナ」
ラディウスはいつものように感情を読み取らせない表情で、一枚の羊皮紙を彼女の前に滑らせた。
「君の高貴な慈愛は、時として誤解を生む。君がカロリーナ嬢を遠ざけたのは、彼女の善意が無駄にならないようにするためだと、私は理解している」
理解していませんわ!私はただ自分の破滅を回避したかっただけです!
「しかし、カロリーナ嬢はまだ幼く、君の深い配慮を理解できていないようだ」
ラディウスはユリアーナの手を取り、恭しくキスをした。その手つきは、まるで彼女がこの上なく気高い聖女であるかのようだ。
「そこで、君に命じる。カロリーナ嬢を指導し、真の貴族の務め、すなわち『平民への配慮』というものを教えてやってほしい。具体的には、孤児院の支援に関する公務を、二人で協力して進めるのだ」
ユリアーナは言葉を失った。
ヒロインとの共同作業!? それはつまり、ゲームで「仲良くなるイベント」が頻発する、最も危険なルートではないか!
「な…何を仰います、殿下!わたくしのような高慢ちきな悪役令嬢が、あのような善良な少女に教えられることなどありませんわ!」
ユリアーナは必死に否定したが、ラディウスは微笑んでユリアーナの頭を優しく撫でた。
「またそうやって謙遜する。君の真の優しさを知っている私を、これ以上試すのはよしてくれ、ユリアーナ。君がこの国の福祉にどれほど心を砕いているか、私は知っている」
ああ、もうダメだ。何を言っても『謙遜』か『独占欲』か『慈愛』に変換される!私の悪役令嬢としての存在価値が崩壊しているわ!
翌日、ユリアーナは憮然とした顔で、カロリーナが待つ旧孤児院跡地に降り立った。
「…良いこと、カロリーナ」
ユリアーナは、威圧感を出すためにあえて冷たい声を出した。
「わたくしは、殿下のご命令だから仕方なくここにいる。貴女のような身分の低い者に、この国で役立つ『善行』とは何かを教え込んで差し上げます。ついていらっしゃい」
カロリーナは、昨日ユリアーナに冷たく突き放された記憶から、警戒心でいっぱいの表情をしていた。
「あ、あの…ユリアーナ様。私は、あなたのお邪魔にならないようにします…」
「邪魔?当然邪魔よ。だから、わたくしの指示に黙って従いなさい」
ユリアーナは強烈に言い放つと、孤児院の裏手に回り、地面を指差した。
「まず、貴女が考えるべきは、『建物の見栄え』などではない。『衛生管理』よ。この場所は湿気がひどい。病気の温床になりかねないわ」
彼女が指差したのは、小さな排水の詰まりだった。前世の知識で、ここに石灰を撒き、水捌けを良くする小さな溝を作れば、衛生環境が劇的に改善することを知っていた。
「さあ、カロリーナ。貴女のその両手で、この排水路の泥を掻き出しなさい。それが貴女の最初の公務よ。そして、この汚い作業が、どれほど重要かを知るがいい」
これでいい。ヒロインに『王族の婚約者は汚い作業を押し付ける最低な女だ』と思わせて、私を心底嫌わせよう!
しかし、ユリアーナの狙いはまたしても外れる。
カロリーナは、泥を見るなり顔をしかめるどころか、目を輝かせた。
「わ、わかりました!ユリアーナ様!あなたが最初に衛生面を指摘してくださったのは、本当に素晴らしいです!この泥が病気の原因になること、私も心配していました!すぐにやります!」
カロリーナは、ユリアーナの冷たい命令を「必要な指導」として受け入れ、目を輝かせながら泥を掻き出し始めた。
えっ…嫌がらないの?泥遊びみたいに楽しそうにしている…!?
さらに最悪なことに、ユリアーナが指示した排水溝の改善は即効性があり、その日の夕方には水捌けが良くなったのが目に見えてわかった。
「すごい…!さすがユリアーナ様!完璧な指示です!あなたは、本当に心優しい方なのですね!」
カロリーナの純粋で真っ直ぐな尊敬の眼差しに、ユリアーナは息を詰まらせた。
私は意地悪をしたかっただけなのに、結果的に尊敬されてしまった!?
その日の晩、ラディウス王太子からの手紙が届いた。
『ユリアーナ。カロリーナ嬢から、君が率先して泥にまみれ、衛生知識を惜しみなく教えたと聞いた。君はやはり、私にとって最高のパートナーだ。そして、君の隠された優しさに、私は今日も深く愛を誓う』
手紙には、ユリアーナが「泥にまみれた」ことになっている、大きな誤解が記されていた。
ユリアーナは、泥にまみれたのはカロリーナであり、自分は日傘を差して指示を出していただけだと、誰も知らないことに、深い絶望を感じた。
ユリアーナがヒロイン・カロリーナとの「慈愛に満ちた共同作業」を始めて三日目のことだった。
孤児院跡地で、ユリアーナが日傘を差しながら、カロリーナに「この土壌のpH値では、貧血気味の子供が好むミントは育たないわ。薬草学を少し学びなさい」などと、悪役令嬢らしく冷たく、しかし専門的な指導を行っていたとき、一人の青年が馬車で現れた。
青年の名は、エリック・フォン・クライス侯爵令息。ラディウス王太子の幼馴染であり、ゲームでは「第二の攻略対象」となる、冷静沈着な公爵令息だ。
エリックはラディウスとは対照的に、常に物事をありのままに見る、鋭い観察眼を持っていた。
「やあ、ラディウスの婚約者殿。そして、そちらは…カロリーナ嬢か」
エリックはユリアーナに一礼したが、その視線は彼女の「悪役令嬢としての振る舞い」と、ラディウスからの「不自然な過保護さ」を同時に見抜こうとしているようだった。
「ごきげんよう、クライス様。このような汚い場所に、わざわざ視察にいらっしゃるとは、暇を持て余していらっしゃいますのね」
ユリアーナは反射的に、エリックを突き放す言葉を選んだ。これで、彼も彼女を「高慢な女」として認識するだろう。
しかし、エリックは鼻で笑うこともなく、興味深げにユリアーナを見つめ返した。
「失礼。私は、陛下からの密命で、ラディウスの最近の奇妙な行動を監視している」
「奇妙な行動?」
ユリアーナは心臓が凍るのを感じた。ラディウスの奇妙な行動とは、間違いなく彼女への異常な溺愛と、その裏付けとなる「ユリアーナは最高に有能な賢婦だ」という勘違いのことだろう。
エリックはユリアーナのそばに寄り、声を潜めた。
「ラディウスは今、『ユリアーナは、悪役を演じながら裏で国の為に尽くす、類稀なる聖女』だと信じ込んでいる。そして、君が下水道整備で発揮した天才的な知識を、誰にも盗まれたくないと、過剰な独占欲を見せている」
エリックはユリアーナの目を見て、冷徹に問いかけた。
「君のその『冷たい態度』は、本当に高慢さから来ているのか?それとも…ラディウスの熱すぎる愛情を冷まそうとする必死の抵抗に見えるが?」
ユリアーナはぐっと言葉に詰まった。図星だった。ラディウスはフィルターを通しているが、エリックは彼女の真意に最も近い部分を直感で見抜いている。
エリックはさらに続けた。
「ラディウスは、君の悪口を言えば言うほど、『いじらしい強がりだ』と深読みする。そして、君が善行をすればするほど、『私だけのユリアーナが世界を救っている』と溺愛を深める」
彼は、ユリアーナがカロリーナに与えた指導の後の、水捌けの改善を確認すると、静かに言った。
「君が賢いことは分かった。そして、君が『王太子に嫌われたい』という、一風変わった願いを持っていることも、なんとなく察しがついた」
ユリアーナは驚き、初めてエリックに真剣な目を向けた。
「な、なぜ…」
「君の表情には、『命懸けの芝居』をしている者の焦りが見える。もし君が本当に高慢な悪役令嬢なら、泥にまみれたカトリーナ嬢にわざわざ知識を与えるなど、ありえないだろう」
エリックは周囲を警戒し、低い声でユリアーナに提案した。
「私と手を組まないか? 私はラディウスの過度な溺愛が、君や、ひいては王家の評判を落としかねないと危惧している。君が真に嫌われることで、ラディウスの目を覚まさせる…そのための共犯者が必要だろう」
「共犯者…」
「そうだ。君は悪役令嬢としての最後の悪行を計画しているのだろう?ならば、私を利用しろ。『ラディウスの親友と秘密の逢瀬を重ね、裏切りの証拠を捏造する』。最も確実に彼を失望させ、婚約破棄に追い込める方法だ」
エリックの提案は、ユリアーナの破滅回避の目的と完全に一致していた。しかし、それは同時に、ゲームで最も危険な『裏切り者』ルートでもあった。
ユリアーナは、冷徹な理性を振りかざすエリックと、純粋な愛情を押し付けラディウスとの間で、究極の選択を迫られることになる。
「クライス様…あなたは、本当に私の悪行を助けてくださるのですか?」
「ああ。私は、『悪役令嬢のフリをする賢い女』と、『その女に夢中な愚かな王太子』、そして『王家の安定』。この三つの問題に決着をつけたいだけだ」
エリックの瞳は、ユリアーナの心を捉えようとしていた。それは、ラディウスの「溺愛」とは異なる、「理性の支配」による新たな攻略の始まりだった
エリックとの密会以来、ユリアーナは破滅回避の希望を見出していた。ラディウスの溺愛フィルターを破るには、彼自身の親友との『裏切り』が最も確実だと考えたからだ。
ユリアーナは再び孤児院跡地での公務を終えた後、エリックと人目のつかない裏門で落ち合っていた。
「今日の私の『悪行』はこれで十分でしょうか、クライス様?カロリーナに、『その泥は私の靴を汚すから、あなた一人で運びなさい』と命じましたわ」
エリックは微笑むこともなく、冷静に分析した。
「高慢に見えるが、君はちゃんとカロリーナ嬢に『正しい運搬方法』を教えていた。ラディウスなら、それを『平民を鍛える厳しくも優しい指導』と解釈するだろう。もっと感情的にならなければ、君の演技は成立しない」
「感情的…」
ユリアーナが唸ったとき、エリックは彼女に一歩近づき、あえて親しげな態度を取った。
「来週、王都郊外にある私の別邸で、『二人きり』で次の計画を練ろう。その計画こそ、ラディウスに『裏切りだ』と確信させるのに十分な材料となる」
エリックはユリアーナの返事を待たず、彼女の耳元に囁いた。
「いいか、ユリアーナ。君が真にラディウスに嫌われるには、私を心の底から愛していると、彼に思わせなければならない」
彼はそう言うと、ユリアーナの肩を抱き、まるで恋人同士のように寄り添う体勢を取った。これは、誰かに見られて『証拠』とするための、エリックの緻密な計算だった。
これで誰かに見られれば、ラディウス殿下もさすがに…!
ユリアーナは身を固くしながら、その状況を静かに受け入れた。
その瞬間、裏門の隅の影から、「ガタン!」という小さな物音が響いた。
ユリアーナとエリックがハッと視線を向けると、そこに立っていたのは、ユリアーナに指示された資材の運び出しを終えたばかりのカロリーナだった。
彼女は、両腕いっぱいに抱えていた薬草の束を地面に落とし、驚きと混乱が入り混じった目で、親密に抱き合う二人を見つめていた。
「あ…ユリアーナ様…クライス公爵令息様…」
カロリーナは、その場にいるべきではないという罪悪感と、目の前の光景に対する衝撃で、顔面を真っ青にしている。
まずい!最悪のタイミングだ!カロリーナに見られた!よりにもよって、ラディウス殿下の親友と抱き合っているところを!
ユリアーナは咄嗟に、悪役令嬢として振る舞うしかないと判断した。ここで取り繕えば、エリックとの密約が露見してしまう。
「なんですの、カロリーナ嬢。そんなところに突っ立って。わたくしたちの秘密の逢瀬を覗き見るとは、下賤な趣味ですわね」
ユリアーナは冷たく言い放ち、エリックから離れた。
カロリーナは震えながらも、ユリアーナの言葉を無視するように、エリックに視線を向けた。
「クライス公爵令息様…ラディウス殿下は、ユリアーナ様を心から愛していらっしゃいます。ユリアーナ様も、本当は殿下のことを……」
カロリーナは、ユリアーナが泥まみれになりながらも貧民のために尽くす**『慈愛の姿』をラディウスに伝えていたため、ユリアーナは『実は殿下を愛しているはず』だと信じ込んでいた。
エリックは、ユリアーナの「偽りの不貞」計画を成功させるため、断固として悪役を演じる必要があった。
「カロリーナ嬢。君には、君が信じる物語があるのだろう。だが、現実の貴族社会は甘くない」
エリックはあえて、ユリアーナの腰に手を回し、所有を示すように引き寄せた。
「ユリアーナは、私と愛し合っている。ラディウスの婚約者という地位も、彼女の目的のための道具に過ぎない。君の純粋な善意で、他人の私的な関係に介入しない方がいい。君が見たものが、すべてだ」
カロリーナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女はユリアーナの『優しさ』を信じていた分、この『裏切り』がショックだったのだろう。
「そんな…!ユリアーナ様は、ラディウス殿下を裏切っていらっしゃるのですか…!?」
ユリアーナは、罪悪感から胸が痛んだが、ここで否定すれば、ラディウスから嫌われる唯一の手段を失うことになる。
「ええ、そうですわ」ユリアーナは冷たく微笑んだ。
「わたくしは、この冷徹で理知的な侯爵のほうが、甘い夢を見せるだけの王太子より、遥かに魅力的だと思っただけのこと。いいわね?このことは、誰にも口外しないように」
カロリーナは何も言えず、その場から逃げ去ってしまった。
ユリアーナの背後で、エリックは冷静に言った。
「成功だ、ユリアーナ。彼女は純粋だ。この秘密を一人で抱え込めるはずがない。彼女は必ず、ラディウスに『君の裏切り』を報告するだろう。これで、君の破滅回避計画は、最終段階へ入った」
ユリアーナは、自分の計画が進んでいることに安堵しながらも、ヒロインを傷つけた罪悪感と、ラディウスの「溺愛」が「激怒」に変わるかもしれない恐怖に、身震いした。
密会から二日後、ユリアーナは王太子ラディウスからの「すぐに王宮の執務室に来るように」という、極めて冷たい文面だけの呼び出しを受けた。
来たわ…ついにこの時が…!
ユリアーナは身が引き締まるのを感じた。カロリーナがラディウスに密告したのだろう。これで長年の「破滅回避」という目標が、皮肉にも「自ら仕組んだ断罪」という形で達成される。
これでいい。婚約破棄さえすれば、私は自由になれる。彼の熱すぎる溺愛から解放され、静かに暮らせるわーーー。
彼女は、敢えてド派手なドレスを選び、悪役令嬢として最後の舞台に立つ覚悟を決めた。
王太子の執務室の扉を開けると、そこには、いつもの穏やかな雰囲気はなかった。
ラディウスは窓際に立っており、その背中は怒りに震えているようだった。彼の目の前には、ユリアーナの私的な文具として使われていたはずの、エリックからの密約の手紙の写しが広げられている。
エリック、仕事が速い!もう証拠まで揃えたのね!
「ごきげんよう、ラディウス王太子殿下。このような時間にわたくしを呼び出すとは、よほど緊急な公務でしたのね」
ユリアーナは、最後の悪役令嬢としての誇りを持って、冷たく言い放った。
ラディウスはゆっくりと振り返った。彼の瞳は、これまで見たこともないほど深く、暗い青をしていた。それは、激怒、そして深い裏切りの痛みに満ちていた。
「ユリアーナ」
彼の声は低く、地を這うようだった。
「この手紙は…なんだ?」
ラディウスは、机の上の手紙を指した。それはエリックが用意した、ユリアーナが彼に「愛を告白し、王太子との婚約を解消したい」と書いた偽りの文面だ。
ユリアーナは、悪役令嬢の役を全うするため、顔を上げた。
「見ての通りですわ、ラディウス殿下。わたくしは、クライス様の理知的な思考と大胆な計画性に惹かれました。殿下の一方的で甘い愛よりも、彼とのスリリングな関係の方が、わたくしの心を昂ぶらせるのです」
言ってやった!これでラディウスは激怒し、私を罵倒し、婚約破棄を言い渡すはず!
ユリアーナは、王太子からの罵倒を待った。しかし、ラディウスの反応は、またしてもユリアーナの予想の斜め上を行くものだった。
ラディウスは、激怒しているはずなのに、深いため息をつくと、ユリアーナに一歩近づいた。その顔は悲痛に歪んでいる。
「やはり、そうだったのか…」ユリアーナは身構えた。
「君は、私を試していたのだな」
「は…?」
ラディウスは、ユリアーナの両肩を掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ユリアーナ。君は、私への愛が深すぎるあまり、嫉妬心から私とエリックの関係を試した。そして、『私が裏切りに気づき、君を叱責し、改めて愛を誓う』という、劇的な展開を望んでいたのだろう?」
「ち、違います!私は…」
「否定しなくていい。君の不器用な愛情表現は、いつものことだ。しかし、今回の君の『悪行』は度が過ぎている。エリックを利用し、自らを『裏切り者』として演出するなど…」
ラディウスは、ユリアーナの額に自分の額をそっと押し付けた。
「愛しいユリアーナ。君が、私に『本当に愛されているのか』と不安を抱いた気持ちは理解できる。私が君に、真の愛を十分に示せていなかったせいだ」
愛を試した!?
私にそんなロマンチックな願望はありませんわ!私はただ、嫌われたかっただけなのに!
「この手紙は、二度と目にしないように、私が焼き捨てる。そして、エリックには君の優しさを理解させるために、厳しく罰する。彼を遠ざけよう。もう二度と、君の純粋な心を不安にさせる存在は、私の隣には置かない」
王太子の愛は、ユリアーナの『裏切り』という決定的な証拠すら、『愛の試練』として受け止める、究極の溺愛へと昇華されていた。
ユリアーナは、愕然とした。自分のすべての行動が裏目に出るだけでなく、無関係なエリックまで巻き込んでしまう事態になってしまったのだ。
「ラディウス殿下…あなたは、何を…」
その時、執務室の扉がノックされ、給仕が慌てた様子で報告に入ってきた。
「殿下!大変です!カロリーナ嬢が倒れられました! しかも、その原因が、王都の井戸水の異常だと…」
ユリアーナの頭の中で、下水道整備計画の資料にあった「水路の合流角のミス」の記憶が蘇った。あのまま放置すれば、汚水が井戸水に逆流する、という最悪の破滅フラグだ。
ユリアーナの破滅回避のための行動は、ラディウスとの溺愛ルートを深めただけでなく、ヒロインの命をも脅かす、ゲーム本来の「破滅」へと繋がってしまったのだ。
「カロリーナが倒れた…井戸水の異常…!」
ユリアーナは、ラディウスの執務室の窓から差し込む光の中で、目の前の甘い溺愛と、差し迫った現実との板挟みに立たされた。
私が下水道計画の欠陥を指摘したとき、あの水路の合流角のミスを修正していれば…!私の行動は、結局、溺愛を引き寄せただけで、破滅を止めることはできなかった!
ラディウスはまだ、ユリアーナの「愛の試練」の続きだと勘違いしている。
「心配するな、ユリアーナ。カロリーナ嬢のことは、私が最高の医者を向かわせる。君は私との関係を修復することに集中してくれ」
「違います、殿下!」
ユリアーナは初めて、ラディウスの手を強く振り払った。彼女の目には、迷いや恐怖はなく、ただ王都の危機を救うという使命感だけが宿っていた。
「水路の合流角です!私が以前指摘した1.3度のズレは、汚水が井戸水に逆流する致命的な欠陥を生みました!カロリーナ嬢の症状は、おそらく汚染水による中毒です!」
ユリアーナは、感情を抑えきれずに叫んだ。
「必要なのは、王族の愛ではありません!石灰による緊急の土壌中和と、特定の薬草による解毒です!今すぐ、技術者と薬草師を集めてください!」
その語る内容は、もはや悪役令嬢の範疇を超えていた。
ラディウスは、ユリアーナの鬼気迫る表情に、初めて溺愛フィルターが剥がれたように、言葉を失った。
「ユリアーナ…君は、その知識を一体どこで…」
「私は!前世で、土木工学科を専攻していた日本の一般人ですわ!この世界がゲームだと知り、破滅を避けるために悪役を演じていた!あなたの婚約者としての地位も、命を守るための道具に過ぎません!」
ユリアーナは、長年の秘密を、断罪の場で告白した。
ユリアーナの衝撃的な告白は、ラディウスの「君は私に夢中な愛らしい女」という認識を、完全に打ち砕いた。彼の顔から血の気が失せ、激しい怒りではなく、絶対的な喪失感が溢れ出した。
「…私への愛ではなく…命のため…私を道具にしていたと…」
ラディウスは膝から崩れ落ちそうになりながら、それでも最後の力を振り絞った。
「裏切り者…ユリアーナ・フォン・アーデルハイト!貴様を、王国の危機を救う天才でありながら、王族を騙した罪で断罪する!」
「ありがとうございます、ラディウス王太子殿下!」
ユリアーナは、ついに破滅を達成できた安堵から、満面の笑みを浮かべた。
「これで、婚約破棄ですわね!わたくしは、この国から追放されることを承知いたします!」
しかし、ラディウスは涙を流しながら、想定外の「断罪」を言い渡した。
「婚約破棄は…しない。ユリアーナ!貴様を王族の婚約者として、この場で縛り付ける!」
「は…?」
「貴様の天才的な知識は、この国に必要だ。貴様が私を騙し、私を愛していなかったとしても構わない。私は、君の命と引き換えに得た知識、そして王都を救おうとしたその献身ごと、すべてを愛している!」
ラディウスは、ユリアーナの手を掴み、力いっぱい引き寄せた。
「追放は許さない。貴様は、その知識と命をかけて、この私と共にこの国を守るのだ。一生、私の傍で!それが、貴様への最も重い『愛の断罪』だ!」
ユリアーナは、望んでいた「破滅=追放」ではなく、「溺愛=拘束」という、究極の結末に言葉を失った。
ユリアーナの指示により、すぐに専門家が動員され、石灰と薬草の処置が施された結果、カロリーナの命は救われ、王都の危機も回避された。
そして、ユリアーナは王太子ラディウスとの婚約を続行させられることになった。
「君は、私に嫌われるために必死だった。ならば、これからは君の愛の重さで私を殺してみろ」
ラディウスは、ユリアーナの額にキスをしながら囁いた。彼の溺愛は、真実を知ったことで、もはや「フィルター」ではなく「絶対的な受容」へと変化していた。
数年後。ユリアーナは王太子妃として、土木計画、衛生管理、財政改革にまで口を出す『冷徹で有能な妃殿下』として国民から恐れられ、尊敬されていた。
そして、ラディウス王太子は、誰よりもユリアーナの『真意』を理解している唯一の人間として、彼女のそばを片時も離れなかった。
ラディウスの愛情表現は、公務中に「この書類の設計は、ユリアーナの背骨のように美しい」といった、常人には理解不能なレベルにまで達していた。
ユリアーナの破滅回避の物語は、「悪役令嬢が、自分の知識と行動ですべてを勘違いされ、望まない究極の溺愛ルートに強制連行される」という、異色のロマンスとして、幕を閉じた。
もう、どうにでもなれだわ…
ユリアーナは、ラディウスの腕の中で、前世の知識を使って王国の予算を計算しながら、静かにそう呟いたのだった。
fin
ユリアーナは、自らが発した冷たい声に内心で震えていた。
改めて自分自身が転生してしまったこの世界が前世で読み漁った乙女小説の舞台だと気づいて以来、彼女の人生の目標はただ一つ——王太子ラディウスとの婚約破棄と、それに続く破滅の未来を回避することでした。
小説の設定通り、彼女は高慢な悪役令嬢で、そして今、彼女の目の前にいるのは、小説で行われる断罪イベントで彼女を冷酷に追放する未来の夫だ。
ここで私が、彼に愛想良く振る舞うなんて愚の骨頂だわ!私が彼にとってどうでもいい存在になれば、破滅フラグも折れるはずよ多分?
ユリアーナは冷たい笑顔を貼り付けた。
「全く、いつまでその地味な本を読んでいらっしゃるつもりですの?ラディウス王太子殿下が読むべき書物は領地経営、それか魔導戦術の文献でしょう。そのような『趣味の悪い書物』で時間を浪費するくらいなら、私と庭園でお茶を嗜む方がまだましですわ」
敢えて突き放す言葉を選び『趣味の悪い書物』『無駄な時間』という強めの表現を用いた。
これでラディウスは私を『教養のない高慢な女』として認識し、うんざりするに違いないわ。
ラディウスは、薄暗い書庫の片隅で、古い革表紙の本を閉じた。その瞳は深い青色で、感情を一切読み取らせない。ユリアーナは身構える。
さあ、ここで「君はいつもそうだな、ユリアーナ」と、呆れた声を出すはずだわ。
しかし、ラディウスの反応はユリアーナの予想と全く異なっていた。
ラディウスは静かに書棚に本を戻すと、ゆっくりとユリアーナに歩み寄り、一歩手前で立ち止まった。
「君は、本当に素直ではないな」低く抑揚のない声が響く。
ユリアーナは驚いたーーー。
素直ではない?どういう意味?
嫌悪感を抱いたなら、高慢ちきな女だと言えばいいだけでしょ!?
「私の部屋に来れば、ユリアーナが好きな魔術理論の禁書でも出してあげよう。だが、君は私が仕事をしている時でも、こうしてわざわざ顔を出してくれる。それは、君が私に構ってほしいからだろう?」
ラディウスはそう言うと、氷のような表情をわずかに緩め、ユリアーナの耳元に囁いたのだ。
「私の時間を『無駄』と言いながらも、私に時間を『使わせよう』とする。そのいじらしさ、嫌いではないよ。ユリアーナ」
そして、彼の指先がユリアーナの頬を軽く撫でた。
「では、今日はユリアーナが言う『まし』な庭園のお茶に付き合おう。君からのデートの誘いと受け取っておくよ」
ユリアーナは、突然の展開と至近距離の王太子に顔が熱くなるのを感じた。
え、ちょっと待って!デートの誘い!? 私はただ、彼に嫌われて婚約破棄に繋がるような『お茶を嗜む方がまし』と言っただけで、極めてどうでもいい選択肢を提示しただけよ!
悪役令嬢の破滅回避行動は、ラディウスにとっての最高の甘やかし(デートの誘い)として最悪の(最高の)勘違いをされてしまったのだった。
王宮の庭園。見事なバラが咲き誇る一角で、ユリアーナとラディウスはテーブルを挟んで向かい合っていた。
給仕たちが下がり、二人きりになると、静寂が訪れる。
どうしてこうなった!?私の人生プランでは、今は孤独に書庫で魔術理論書を読み込んでいる時間のはずだったわ!
ユリアーナは目の前の冷めた視線のラディウスを前に、焦燥に駆られていた。
破滅ルートを確実に断つには、彼に心底『この女は不快だ』と思わせなければならないのだ。
彼女はわざとため息をつき、テーブルに並べられた最高級のケーキを一瞥した。
「本当に、この程度のお菓子しか用意できないのですか?王宮の給仕係も落ちぶれましたわね」
ユリアーナは、味見もせずにフォークを置いた。貴族令嬢として完璧な、見下す表情。
『これで完璧よ。自分の婚約者が自分の宮殿の侍女やパティシエを侮辱すれば、不機嫌になるはずよ!』
だが、ラディウスは動じなかった。彼は紅茶にミルクを注ぎながら、ふと口角をわずかに上げた。
「私の給仕たちを試しているのか、ユリアーナ?」
「は?」
ユリアーナの頭上には?マークが浮かんだ。なにってんの?
「ユリアーナは、私が彼らを指導し直す『きっかけ』を作ってくれているのだろう。ユリアーナの求める基準は、常に最高水準だ。それは、王太子妃となる者として当然の姿勢であり、この宮廷の堕落を許さない愛情の裏返しだと、私は理解している」
ラディウスはそう言うと、彼女のカップに丁寧に紅茶を注いだ。
「ユリアーナのおかげで、また一つ、宮廷が正される。感謝するよ。そして、このケーキは私が君の口に合うか確認してから、改善点を伝達しよう」
ラディウスは、何事もないようにその「不味い」と言われたケーキを一口食べた。
愛情の裏返し!?テスト!?違いますよ、私はただの嫌がらせですから~。
ユリアーナは内心絶叫した。彼女の完璧な悪役令嬢としての振る舞いが、全てラディウスの中で『聡明で献身的な婚約者のアピール』に変換されてしまっている。
なぜなの~!
「では、私はこの後、王国の下水道整備計画について資料を読み込む必要がありますので――」
ユリアーナは一刻も早くこの場から逃れようと、あえて地味で、美意識の高い令嬢が最も興味を持たないであろう話題を出した。
「お忙しいでしょうから、もうお開きに――」
「下水道整備計画か。それは極めて重要な公務だ」
ラディウスは即座に言葉を遮り、瞳を輝かせた。
「やはり、ユリアーナは表面的な華美に囚われるだけの令嬢ではないな。平民の生活に直結するインフラ整備に目を向けるとは。感心したよ、ユリアーナ」
彼は席を立ち、ユリアーナの椅子の背に手を置いた。
「では、私もその資料を一緒に読み込もう。君がどれほどその計画に情熱を注いでいるのか、そばで見たい」
「えっ……」ユリアーナは立ち上がろうとした姿勢のまま固まった。
はぁ~、一緒に読む!?
嫌がらせのつもりで挙げた話題なのに、なぜ彼までついてくるの!?こんな汚くて文字ばかりの資料、普通の王子は嫌がるはずでしょう!
彼女は完全に誤算だった。ラディウスは、私を「傲慢な悪役令嬢」ではなく、『裏で国のために尽力する、素直になれない賢婦』として認識し始めていた。
違う、違うの!
ラディウスの真剣な眼差しは、私の逃げ道を完全に塞いでしまっている。
「さあ、行こう。未来の王妃として、ユリアーナがどのような視点を持っているのか、二人で語り合いたい」
その手は、いつの間にかユリアーナの手を包み込んでいた。
なんで手を繋ぐの!
ラディウスに手を引かれ、ユリアーナが連れて行かれたのは、王宮の端にある、薄暗く埃っぽい資料室だった。私がイメージしていた「王太子の公務」とは程遠い、地味な部屋だった。
どうして下水道の資料室なんて!私が転生した悪役令嬢としての格が下がってしまうわ!しかもラディウスは資料室でも私の手を離さないなんて、一体何を考えているのよ~!
ラディウスは、卓上の資料の山を指し示した。その中には、緻密な人口統計や、都市の地下構造が描かれた古びた地図などが含まれている。
「ここに、ユリアーナが気にしていた下水道整備に関する全資料がある。まずは現状を把握しよう。ぜひとも意見を聞きたい」嬉しそうに話すラディウス。
ユリアーナは観念した。もはや逃げられない。ラディウスの溺愛スイッチがどこで入ったのかは不明だが、この状況を打開するには、彼に「つまらない女」だと諦めてもらうしかない。
よし、適当に「見栄えが悪い」とか、「王都に不釣り合い」とか、中身のない感想を言って、彼を失望させる作戦にしよう!
ユリアーナは一番上にある地図を広げた。そこには、王都の地下水路の配置図と、人口増加に伴う処理能力の限界を示す数字が記されている。
資料を流し見するユリアーナの瞳に、ある一点が飛び込んできた。
「…あら」
それは、ユリアーナが前世の記憶で知っている都市計画の基礎に反する、致命的な設計ミスだった。水路の合流地点の角度がわずかにズレているせいで、将来的に特定の区画で必ず逆流と汚染が発生する。
まずいわ、これを知っているのは、前世で土木工学を専攻していたからよ!でも、このままでは数年後に疫病が流行る…公爵令嬢として、そして転生者として、これは無視できない事だわ!
「ラディウス王太子殿下、この水路の合流角ですが、設計基準から1.3度ずれていないでしょうか?」
ユリアーナは反射的に、正確な数字と専門用語で指摘してしまった。
ラディウスは一瞬、目を見開いた。その冷徹な表情に、初めて驚愕の色が浮かぶ。
「1.3度…?なぜ、君がその数字を?」
この資料は極秘であり、専門の技師でなければ気づかない微細な設計ミスだ。
「さ、さあ?わたくしには分かりませんわ。ただ、美しくない角度だと思いましたのよ!見た目の問題ですわ、ええ、見た目!」
ユリアーナは必死に取り繕う。悪役令嬢らしく「美意識」のせいにする。
だが、ラディウスはユリアーナの言葉を再び最高の褒め言葉に変換した。
「そうか、見た目の問題か…」
彼は資料の合流角の部分を指でなぞりながら、深くため息をついた。
「ユリアーナは、その美しい感性で、誰も気づかなかった本質的な欠陥を見抜いたのだ。美しくない、とは、『機能として調和が取れていない』という君なりの最高の賛辞なのだろう」
ラディウスは静かにユリアーナの両肩に手を置いた。
「ユリアーナ。君は、飾りだけの令嬢ではない。王都の未来を憂い、それを『美しくない』という言葉で遠回しに私に示唆するとは。貴女は、真の賢婦だ。そして、それを人前でひけらかさない謙虚さも持ち合わせている」
その瞳は、もはやユリアーナを『愛しい婚約者』としてだけでなく『手放すことのできない唯一無二のパートナー』として見定めているかのようだった。
「私のパートナーとして、この問題の解決に力を貸してほしい。ユリアーナ。貴方の持つ知識は、この国の未来に必要だ」
手を握り、真摯に懇願してくるラディウス。ユリアーナは完全に言葉を失ってしまった。
私の前世の土木学科を専攻したオタクな知識が、まさか破滅フラグを折るどころか、王太子からの最上級の信頼につながってしまうなんて……!
こうして、ユリアーナの「嫌われよう作戦」は、王太子ラディウスとの『二人だけの極秘公務』というより強固な溺愛ルートへと突入していったのだった。
下水道整備計画の資料室での「公務デート」から数週間。
ユリアーナはもはや、ラディウス王太子に嫌われることを諦めていた。どれほど冷淡な言葉を投げかけ、どれほど難解で退屈な資料を指し示しても、彼は彼女の行動すべてを「王室への貢献」「愛の証」として解釈し、ますます彼女に傾倒していった。
ユリアーナの知識のおかげで、下水道計画は劇的に改善。ラディウスは公務のたびにユリアーナを呼び出し、「二人だけの秘密の協力関係」を築くことに夢中になっていた。
「この排水路の勾配の計算は、君の言う通りで完璧だ。やはり、君ほどの頭脳を持つ女性は他にいない」
そう言って、ラディウスが資料の上からユリアーナの指先をそっと重ねたとき、ユリアーナは頬が熱くなるのを必死で耐えた。
いけない、いけない!このままでは、婚約破棄どころか、愛されすぎて破滅するルートに突入してしまう!彼はあくまでゲームの攻略対象。私の心を乱す存在では……!
ラディウスの献身的な愛情表現が強まるにつれ、ユリアーナは当初の「破滅回避」の目的を忘れ、彼に惹かれ始めている自分に気づき、ますます自己嫌悪に陥っていた。
ある日の午後、ラディウスと共に王都視察に出かけた際、ユリアーナは馬車から降りた瞬間、背筋が凍りつく感覚に襲われた。
目の前にあるのは、乙女ゲーム『聖女の光と愛の試練』の主要な舞台となる、貧民街の孤児院跡地だ。そしてその入り口に、一人の少女が立っていた。
艶やかな亜麻色の髪、透き通るような緑の瞳。
地味な服を着ているにもかかわらず、その存在感は太陽のように明るい。
カロリーナ・エンバーグ。
ゲームの主人公(ヒロイン)の名前が、ユリアーナの脳内に警鐘のように響き渡った。
嘘…嘘でしょう!?まだ学園入学前のはずなのに、もうヒロインが……!?
ゲームの筋書きでは、このヒロイン、カロリーナはここで王太子ラディウスと運命的な出会いを果たし、彼の心を射止めることになっていた。
そして、カロリーナをいじめる悪役令嬢ユリアーナは、最終的に「断罪」される。
「殿下、あちらの…少女は」
ユリアーナは緊張で声が上ずった。
ラディウスは彼女の視線を追い、カロリーナの方を一瞥した。
「ああ、彼女か。先週、孤児院の支援のために訪れた際に出会った娘だ。純粋で、悪意を知らない、実に興味深い…」
興味深いですって!?まさか、もうフラグが立っているの?私の公務協力のせいで、彼のスケジュールが早まり、出会いまで早まってしまったの!?
ユリアーナは焦りから、思わず悪役令嬢らしい高圧的な態度を取ってしまった。
「純粋?殿下。下位の者など、裏で何を企んでいるか分かりませんわ。あのような者が、不用意に殿下に近づくなど、無礼千万。すぐに追い払うべきです」
これは破滅回避のための最終手段だ。ヒロインを排除することで、王太子の怒りを買い、婚約破棄に持ち込むつもりだった。
しかし、ラディウスはユリアーナの言葉を聞き、冷酷な目で少女を睨むどころか、ユリアーナの方を向いて、まるで愛しい子供を諭すような優しい目をした。
「ユリアーナ。君は、優しすぎる」
「…はい?」なに言ってるの?
「彼女のような純粋な光が、この国のどこかに存在すること自体が、君にとっては脅威なのだろう。君は、私を奪われるのではないかと不安で、つい乱暴な言葉を選んでしまう。その独占欲と嫉妬、愛らしいとしか言いようがない」
ラディウスは、ユリアーナの耳元に囁くと、周囲の使用人には聞こえないように、しかし力強く宣言した。
「心配するな。カロリーナという少女がどれほど善良であろうと、私にとって君は唯一無二の存在だ。誰にも君の地位は奪わせない。私は、君のその優しさと独占欲ごと愛している」
ち、違う!私はただ、ヒロインを遠ざけて自分の命を守りたいだけなのに!私の『嫉妬』や『独占欲』なんて、一つも存在しないわ!
ユリアーナの必死の悪役令嬢ムーブは、またしても王太子にとっての「愛の告白」に変換されてしまった。その瞬間、ユリアーナの背後で、ヒロイン・カロリーナが驚きに満ちた瞳で二人を見つめているのが見えた。
新たな破滅フラグが、静かに、しかし確実に立ち上がった。
王太子ラディウスが「独占欲が愛らしい」と宣言した後、ユリアーナはもはや平静を装う余裕がなかった。
このままではいけない!ラディウス殿下のヒロインへの興味の芽を、今、この場で摘み取らなければ、私の断罪ルートは確定してしまうわ!
ユリアーナはラディウスの手を振り払うと、カロリーナに向けて、悪役令嬢が持つべき最高の威圧感を放った。
「そこの娘。聞きなさい」
カロリーナは驚き、ユリアーナの高貴な美しさと、その冷たい眼差しにたじろいだ。
「あなたは王太子殿下に、不用意に近づくべきではありません。身分違いも甚だしい。分をわきまえなさい。王太子殿下のそばに立つのは、選ばれしアーデルハイト家の人間、つまりわたくしでなくてはならないのですから」
ユリアーナは最後の言葉を特に強く言い切った。
これでいい。私利私欲と高慢さ、独占欲を露わにした。これでカロリーナも私を憎み、ラディウス殿下も私の浅はかさに呆れるはず…!
カロリーナは怯えながらも、その緑の瞳でユリアーナを真っ直ぐに見返した。
「あ、あの…私はただ、この孤児院の跡地を、皆が安全に過ごせる場所にしたいと、殿下にご相談しただけで…」
「戯言を!」ユリアーナは鼻で笑った。
「そのような取るに足らない善意で、この国の王太子を煩わせるなど言語道断。そもそも、この場所は水路の構造から見ても、新たな建物を建てるのには適していませんわ。すぐに湿気や異臭の問題が起こるでしょう。あなたのような素人に、王都の計画を語る資格などありません」
ユリアーナは、無意識のうちに、ラディウスと資料室で話し合った専門的な知識を口にしていた。あくまで「相手を馬鹿にするための道具」として。
その言葉を聞いたラディウスは、傍らで深く頷いていた。そして、カロリーナの肩にそっと手を置いた。
「カロリーナ嬢。すまないが、ユリアーナの言う通りだ。ここは水路の構造上、衛生面で問題がある。君の善意は尊いが、場所を変えるべきだ」
ユリアーナは安堵した。これでヒロインは王太子から遠ざかる。
ふふ、ざまぁみろ、ヒロイン!
私の悪役令嬢としてのプライド、そして前世の土木工学知識に勝てるわけがないわ!
ユリアーナの目論見は成功したかに見えたが、ラディウスはすぐにユリアーナの方を向き、とんでもない言葉を囁いた。
「…見ていたぞ、ユリアーナ」
「な、何をです?」
「君は、カロリーナ嬢を守ったのだろう?」
「はあ!?」
ラディウスの解釈は、もはやユリアーナの想像をはるかに超えていた。
「君は、彼女が不適切な場所で施設を建て、将来的に住民が苦しむことのないよう、わざと悪役を演じて忠告した。私の名誉を守るためだけでなく、平民の未来まで考えて。そしてその真意を隠すために、あえて高慢な言葉を重ねたのだ。…その優しさ、相変わらず不器用で、そして誰にも理解されたくないという君の強い意志を感じる」
ラディウスはユリアーナの頬を包み込み、熱烈な眼差しを向けた。
「だが、安心してくれ。君の真の価値は、この私が誰よりも深く理解している。誰にも邪魔はさせない。君は、私の隣にいるべき、唯一の聖女だ」
ラディウスはそう言うと、周囲の視線も気にせず、ユリアーナの手の甲にキスを落とした。
聖女!?なに言ってるの?私はただの悪役令嬢志望の土木オタクですわよ!?なぜ、平民を遠ざけた行為が、平民を救った行為に変換されるの!?
ユリアーナの心臓は激しく波打った。王太子の純粋で、しかし歪んだ溺愛は、もはや恐怖に近い。
一方、遠巻きに見ていたヒロイン・カロリーナは、ユリアーナが去った後、ぽつりと呟いた。
「ユリアーナ様は、なぜあんなに水路のことに詳しかったのだろう。ただの意地悪だけじゃない、何か別の目的があるのかも…」
こうして、ユリアーナは王太子の溺愛を深める一方で、ヒロインからの警戒と誤解という新たなフラグを立ててしまったのだった。
翌日、ユリアーナはラディウス王太子に呼び出され、王宮の一室で向き合っていた。
「ユリアーナ」
ラディウスはいつものように感情を読み取らせない表情で、一枚の羊皮紙を彼女の前に滑らせた。
「君の高貴な慈愛は、時として誤解を生む。君がカロリーナ嬢を遠ざけたのは、彼女の善意が無駄にならないようにするためだと、私は理解している」
理解していませんわ!私はただ自分の破滅を回避したかっただけです!
「しかし、カロリーナ嬢はまだ幼く、君の深い配慮を理解できていないようだ」
ラディウスはユリアーナの手を取り、恭しくキスをした。その手つきは、まるで彼女がこの上なく気高い聖女であるかのようだ。
「そこで、君に命じる。カロリーナ嬢を指導し、真の貴族の務め、すなわち『平民への配慮』というものを教えてやってほしい。具体的には、孤児院の支援に関する公務を、二人で協力して進めるのだ」
ユリアーナは言葉を失った。
ヒロインとの共同作業!? それはつまり、ゲームで「仲良くなるイベント」が頻発する、最も危険なルートではないか!
「な…何を仰います、殿下!わたくしのような高慢ちきな悪役令嬢が、あのような善良な少女に教えられることなどありませんわ!」
ユリアーナは必死に否定したが、ラディウスは微笑んでユリアーナの頭を優しく撫でた。
「またそうやって謙遜する。君の真の優しさを知っている私を、これ以上試すのはよしてくれ、ユリアーナ。君がこの国の福祉にどれほど心を砕いているか、私は知っている」
ああ、もうダメだ。何を言っても『謙遜』か『独占欲』か『慈愛』に変換される!私の悪役令嬢としての存在価値が崩壊しているわ!
翌日、ユリアーナは憮然とした顔で、カロリーナが待つ旧孤児院跡地に降り立った。
「…良いこと、カロリーナ」
ユリアーナは、威圧感を出すためにあえて冷たい声を出した。
「わたくしは、殿下のご命令だから仕方なくここにいる。貴女のような身分の低い者に、この国で役立つ『善行』とは何かを教え込んで差し上げます。ついていらっしゃい」
カロリーナは、昨日ユリアーナに冷たく突き放された記憶から、警戒心でいっぱいの表情をしていた。
「あ、あの…ユリアーナ様。私は、あなたのお邪魔にならないようにします…」
「邪魔?当然邪魔よ。だから、わたくしの指示に黙って従いなさい」
ユリアーナは強烈に言い放つと、孤児院の裏手に回り、地面を指差した。
「まず、貴女が考えるべきは、『建物の見栄え』などではない。『衛生管理』よ。この場所は湿気がひどい。病気の温床になりかねないわ」
彼女が指差したのは、小さな排水の詰まりだった。前世の知識で、ここに石灰を撒き、水捌けを良くする小さな溝を作れば、衛生環境が劇的に改善することを知っていた。
「さあ、カロリーナ。貴女のその両手で、この排水路の泥を掻き出しなさい。それが貴女の最初の公務よ。そして、この汚い作業が、どれほど重要かを知るがいい」
これでいい。ヒロインに『王族の婚約者は汚い作業を押し付ける最低な女だ』と思わせて、私を心底嫌わせよう!
しかし、ユリアーナの狙いはまたしても外れる。
カロリーナは、泥を見るなり顔をしかめるどころか、目を輝かせた。
「わ、わかりました!ユリアーナ様!あなたが最初に衛生面を指摘してくださったのは、本当に素晴らしいです!この泥が病気の原因になること、私も心配していました!すぐにやります!」
カロリーナは、ユリアーナの冷たい命令を「必要な指導」として受け入れ、目を輝かせながら泥を掻き出し始めた。
えっ…嫌がらないの?泥遊びみたいに楽しそうにしている…!?
さらに最悪なことに、ユリアーナが指示した排水溝の改善は即効性があり、その日の夕方には水捌けが良くなったのが目に見えてわかった。
「すごい…!さすがユリアーナ様!完璧な指示です!あなたは、本当に心優しい方なのですね!」
カロリーナの純粋で真っ直ぐな尊敬の眼差しに、ユリアーナは息を詰まらせた。
私は意地悪をしたかっただけなのに、結果的に尊敬されてしまった!?
その日の晩、ラディウス王太子からの手紙が届いた。
『ユリアーナ。カロリーナ嬢から、君が率先して泥にまみれ、衛生知識を惜しみなく教えたと聞いた。君はやはり、私にとって最高のパートナーだ。そして、君の隠された優しさに、私は今日も深く愛を誓う』
手紙には、ユリアーナが「泥にまみれた」ことになっている、大きな誤解が記されていた。
ユリアーナは、泥にまみれたのはカロリーナであり、自分は日傘を差して指示を出していただけだと、誰も知らないことに、深い絶望を感じた。
ユリアーナがヒロイン・カロリーナとの「慈愛に満ちた共同作業」を始めて三日目のことだった。
孤児院跡地で、ユリアーナが日傘を差しながら、カロリーナに「この土壌のpH値では、貧血気味の子供が好むミントは育たないわ。薬草学を少し学びなさい」などと、悪役令嬢らしく冷たく、しかし専門的な指導を行っていたとき、一人の青年が馬車で現れた。
青年の名は、エリック・フォン・クライス侯爵令息。ラディウス王太子の幼馴染であり、ゲームでは「第二の攻略対象」となる、冷静沈着な公爵令息だ。
エリックはラディウスとは対照的に、常に物事をありのままに見る、鋭い観察眼を持っていた。
「やあ、ラディウスの婚約者殿。そして、そちらは…カロリーナ嬢か」
エリックはユリアーナに一礼したが、その視線は彼女の「悪役令嬢としての振る舞い」と、ラディウスからの「不自然な過保護さ」を同時に見抜こうとしているようだった。
「ごきげんよう、クライス様。このような汚い場所に、わざわざ視察にいらっしゃるとは、暇を持て余していらっしゃいますのね」
ユリアーナは反射的に、エリックを突き放す言葉を選んだ。これで、彼も彼女を「高慢な女」として認識するだろう。
しかし、エリックは鼻で笑うこともなく、興味深げにユリアーナを見つめ返した。
「失礼。私は、陛下からの密命で、ラディウスの最近の奇妙な行動を監視している」
「奇妙な行動?」
ユリアーナは心臓が凍るのを感じた。ラディウスの奇妙な行動とは、間違いなく彼女への異常な溺愛と、その裏付けとなる「ユリアーナは最高に有能な賢婦だ」という勘違いのことだろう。
エリックはユリアーナのそばに寄り、声を潜めた。
「ラディウスは今、『ユリアーナは、悪役を演じながら裏で国の為に尽くす、類稀なる聖女』だと信じ込んでいる。そして、君が下水道整備で発揮した天才的な知識を、誰にも盗まれたくないと、過剰な独占欲を見せている」
エリックはユリアーナの目を見て、冷徹に問いかけた。
「君のその『冷たい態度』は、本当に高慢さから来ているのか?それとも…ラディウスの熱すぎる愛情を冷まそうとする必死の抵抗に見えるが?」
ユリアーナはぐっと言葉に詰まった。図星だった。ラディウスはフィルターを通しているが、エリックは彼女の真意に最も近い部分を直感で見抜いている。
エリックはさらに続けた。
「ラディウスは、君の悪口を言えば言うほど、『いじらしい強がりだ』と深読みする。そして、君が善行をすればするほど、『私だけのユリアーナが世界を救っている』と溺愛を深める」
彼は、ユリアーナがカロリーナに与えた指導の後の、水捌けの改善を確認すると、静かに言った。
「君が賢いことは分かった。そして、君が『王太子に嫌われたい』という、一風変わった願いを持っていることも、なんとなく察しがついた」
ユリアーナは驚き、初めてエリックに真剣な目を向けた。
「な、なぜ…」
「君の表情には、『命懸けの芝居』をしている者の焦りが見える。もし君が本当に高慢な悪役令嬢なら、泥にまみれたカトリーナ嬢にわざわざ知識を与えるなど、ありえないだろう」
エリックは周囲を警戒し、低い声でユリアーナに提案した。
「私と手を組まないか? 私はラディウスの過度な溺愛が、君や、ひいては王家の評判を落としかねないと危惧している。君が真に嫌われることで、ラディウスの目を覚まさせる…そのための共犯者が必要だろう」
「共犯者…」
「そうだ。君は悪役令嬢としての最後の悪行を計画しているのだろう?ならば、私を利用しろ。『ラディウスの親友と秘密の逢瀬を重ね、裏切りの証拠を捏造する』。最も確実に彼を失望させ、婚約破棄に追い込める方法だ」
エリックの提案は、ユリアーナの破滅回避の目的と完全に一致していた。しかし、それは同時に、ゲームで最も危険な『裏切り者』ルートでもあった。
ユリアーナは、冷徹な理性を振りかざすエリックと、純粋な愛情を押し付けラディウスとの間で、究極の選択を迫られることになる。
「クライス様…あなたは、本当に私の悪行を助けてくださるのですか?」
「ああ。私は、『悪役令嬢のフリをする賢い女』と、『その女に夢中な愚かな王太子』、そして『王家の安定』。この三つの問題に決着をつけたいだけだ」
エリックの瞳は、ユリアーナの心を捉えようとしていた。それは、ラディウスの「溺愛」とは異なる、「理性の支配」による新たな攻略の始まりだった
エリックとの密会以来、ユリアーナは破滅回避の希望を見出していた。ラディウスの溺愛フィルターを破るには、彼自身の親友との『裏切り』が最も確実だと考えたからだ。
ユリアーナは再び孤児院跡地での公務を終えた後、エリックと人目のつかない裏門で落ち合っていた。
「今日の私の『悪行』はこれで十分でしょうか、クライス様?カロリーナに、『その泥は私の靴を汚すから、あなた一人で運びなさい』と命じましたわ」
エリックは微笑むこともなく、冷静に分析した。
「高慢に見えるが、君はちゃんとカロリーナ嬢に『正しい運搬方法』を教えていた。ラディウスなら、それを『平民を鍛える厳しくも優しい指導』と解釈するだろう。もっと感情的にならなければ、君の演技は成立しない」
「感情的…」
ユリアーナが唸ったとき、エリックは彼女に一歩近づき、あえて親しげな態度を取った。
「来週、王都郊外にある私の別邸で、『二人きり』で次の計画を練ろう。その計画こそ、ラディウスに『裏切りだ』と確信させるのに十分な材料となる」
エリックはユリアーナの返事を待たず、彼女の耳元に囁いた。
「いいか、ユリアーナ。君が真にラディウスに嫌われるには、私を心の底から愛していると、彼に思わせなければならない」
彼はそう言うと、ユリアーナの肩を抱き、まるで恋人同士のように寄り添う体勢を取った。これは、誰かに見られて『証拠』とするための、エリックの緻密な計算だった。
これで誰かに見られれば、ラディウス殿下もさすがに…!
ユリアーナは身を固くしながら、その状況を静かに受け入れた。
その瞬間、裏門の隅の影から、「ガタン!」という小さな物音が響いた。
ユリアーナとエリックがハッと視線を向けると、そこに立っていたのは、ユリアーナに指示された資材の運び出しを終えたばかりのカロリーナだった。
彼女は、両腕いっぱいに抱えていた薬草の束を地面に落とし、驚きと混乱が入り混じった目で、親密に抱き合う二人を見つめていた。
「あ…ユリアーナ様…クライス公爵令息様…」
カロリーナは、その場にいるべきではないという罪悪感と、目の前の光景に対する衝撃で、顔面を真っ青にしている。
まずい!最悪のタイミングだ!カロリーナに見られた!よりにもよって、ラディウス殿下の親友と抱き合っているところを!
ユリアーナは咄嗟に、悪役令嬢として振る舞うしかないと判断した。ここで取り繕えば、エリックとの密約が露見してしまう。
「なんですの、カロリーナ嬢。そんなところに突っ立って。わたくしたちの秘密の逢瀬を覗き見るとは、下賤な趣味ですわね」
ユリアーナは冷たく言い放ち、エリックから離れた。
カロリーナは震えながらも、ユリアーナの言葉を無視するように、エリックに視線を向けた。
「クライス公爵令息様…ラディウス殿下は、ユリアーナ様を心から愛していらっしゃいます。ユリアーナ様も、本当は殿下のことを……」
カロリーナは、ユリアーナが泥まみれになりながらも貧民のために尽くす**『慈愛の姿』をラディウスに伝えていたため、ユリアーナは『実は殿下を愛しているはず』だと信じ込んでいた。
エリックは、ユリアーナの「偽りの不貞」計画を成功させるため、断固として悪役を演じる必要があった。
「カロリーナ嬢。君には、君が信じる物語があるのだろう。だが、現実の貴族社会は甘くない」
エリックはあえて、ユリアーナの腰に手を回し、所有を示すように引き寄せた。
「ユリアーナは、私と愛し合っている。ラディウスの婚約者という地位も、彼女の目的のための道具に過ぎない。君の純粋な善意で、他人の私的な関係に介入しない方がいい。君が見たものが、すべてだ」
カロリーナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女はユリアーナの『優しさ』を信じていた分、この『裏切り』がショックだったのだろう。
「そんな…!ユリアーナ様は、ラディウス殿下を裏切っていらっしゃるのですか…!?」
ユリアーナは、罪悪感から胸が痛んだが、ここで否定すれば、ラディウスから嫌われる唯一の手段を失うことになる。
「ええ、そうですわ」ユリアーナは冷たく微笑んだ。
「わたくしは、この冷徹で理知的な侯爵のほうが、甘い夢を見せるだけの王太子より、遥かに魅力的だと思っただけのこと。いいわね?このことは、誰にも口外しないように」
カロリーナは何も言えず、その場から逃げ去ってしまった。
ユリアーナの背後で、エリックは冷静に言った。
「成功だ、ユリアーナ。彼女は純粋だ。この秘密を一人で抱え込めるはずがない。彼女は必ず、ラディウスに『君の裏切り』を報告するだろう。これで、君の破滅回避計画は、最終段階へ入った」
ユリアーナは、自分の計画が進んでいることに安堵しながらも、ヒロインを傷つけた罪悪感と、ラディウスの「溺愛」が「激怒」に変わるかもしれない恐怖に、身震いした。
密会から二日後、ユリアーナは王太子ラディウスからの「すぐに王宮の執務室に来るように」という、極めて冷たい文面だけの呼び出しを受けた。
来たわ…ついにこの時が…!
ユリアーナは身が引き締まるのを感じた。カロリーナがラディウスに密告したのだろう。これで長年の「破滅回避」という目標が、皮肉にも「自ら仕組んだ断罪」という形で達成される。
これでいい。婚約破棄さえすれば、私は自由になれる。彼の熱すぎる溺愛から解放され、静かに暮らせるわーーー。
彼女は、敢えてド派手なドレスを選び、悪役令嬢として最後の舞台に立つ覚悟を決めた。
王太子の執務室の扉を開けると、そこには、いつもの穏やかな雰囲気はなかった。
ラディウスは窓際に立っており、その背中は怒りに震えているようだった。彼の目の前には、ユリアーナの私的な文具として使われていたはずの、エリックからの密約の手紙の写しが広げられている。
エリック、仕事が速い!もう証拠まで揃えたのね!
「ごきげんよう、ラディウス王太子殿下。このような時間にわたくしを呼び出すとは、よほど緊急な公務でしたのね」
ユリアーナは、最後の悪役令嬢としての誇りを持って、冷たく言い放った。
ラディウスはゆっくりと振り返った。彼の瞳は、これまで見たこともないほど深く、暗い青をしていた。それは、激怒、そして深い裏切りの痛みに満ちていた。
「ユリアーナ」
彼の声は低く、地を這うようだった。
「この手紙は…なんだ?」
ラディウスは、机の上の手紙を指した。それはエリックが用意した、ユリアーナが彼に「愛を告白し、王太子との婚約を解消したい」と書いた偽りの文面だ。
ユリアーナは、悪役令嬢の役を全うするため、顔を上げた。
「見ての通りですわ、ラディウス殿下。わたくしは、クライス様の理知的な思考と大胆な計画性に惹かれました。殿下の一方的で甘い愛よりも、彼とのスリリングな関係の方が、わたくしの心を昂ぶらせるのです」
言ってやった!これでラディウスは激怒し、私を罵倒し、婚約破棄を言い渡すはず!
ユリアーナは、王太子からの罵倒を待った。しかし、ラディウスの反応は、またしてもユリアーナの予想の斜め上を行くものだった。
ラディウスは、激怒しているはずなのに、深いため息をつくと、ユリアーナに一歩近づいた。その顔は悲痛に歪んでいる。
「やはり、そうだったのか…」ユリアーナは身構えた。
「君は、私を試していたのだな」
「は…?」
ラディウスは、ユリアーナの両肩を掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ユリアーナ。君は、私への愛が深すぎるあまり、嫉妬心から私とエリックの関係を試した。そして、『私が裏切りに気づき、君を叱責し、改めて愛を誓う』という、劇的な展開を望んでいたのだろう?」
「ち、違います!私は…」
「否定しなくていい。君の不器用な愛情表現は、いつものことだ。しかし、今回の君の『悪行』は度が過ぎている。エリックを利用し、自らを『裏切り者』として演出するなど…」
ラディウスは、ユリアーナの額に自分の額をそっと押し付けた。
「愛しいユリアーナ。君が、私に『本当に愛されているのか』と不安を抱いた気持ちは理解できる。私が君に、真の愛を十分に示せていなかったせいだ」
愛を試した!?
私にそんなロマンチックな願望はありませんわ!私はただ、嫌われたかっただけなのに!
「この手紙は、二度と目にしないように、私が焼き捨てる。そして、エリックには君の優しさを理解させるために、厳しく罰する。彼を遠ざけよう。もう二度と、君の純粋な心を不安にさせる存在は、私の隣には置かない」
王太子の愛は、ユリアーナの『裏切り』という決定的な証拠すら、『愛の試練』として受け止める、究極の溺愛へと昇華されていた。
ユリアーナは、愕然とした。自分のすべての行動が裏目に出るだけでなく、無関係なエリックまで巻き込んでしまう事態になってしまったのだ。
「ラディウス殿下…あなたは、何を…」
その時、執務室の扉がノックされ、給仕が慌てた様子で報告に入ってきた。
「殿下!大変です!カロリーナ嬢が倒れられました! しかも、その原因が、王都の井戸水の異常だと…」
ユリアーナの頭の中で、下水道整備計画の資料にあった「水路の合流角のミス」の記憶が蘇った。あのまま放置すれば、汚水が井戸水に逆流する、という最悪の破滅フラグだ。
ユリアーナの破滅回避のための行動は、ラディウスとの溺愛ルートを深めただけでなく、ヒロインの命をも脅かす、ゲーム本来の「破滅」へと繋がってしまったのだ。
「カロリーナが倒れた…井戸水の異常…!」
ユリアーナは、ラディウスの執務室の窓から差し込む光の中で、目の前の甘い溺愛と、差し迫った現実との板挟みに立たされた。
私が下水道計画の欠陥を指摘したとき、あの水路の合流角のミスを修正していれば…!私の行動は、結局、溺愛を引き寄せただけで、破滅を止めることはできなかった!
ラディウスはまだ、ユリアーナの「愛の試練」の続きだと勘違いしている。
「心配するな、ユリアーナ。カロリーナ嬢のことは、私が最高の医者を向かわせる。君は私との関係を修復することに集中してくれ」
「違います、殿下!」
ユリアーナは初めて、ラディウスの手を強く振り払った。彼女の目には、迷いや恐怖はなく、ただ王都の危機を救うという使命感だけが宿っていた。
「水路の合流角です!私が以前指摘した1.3度のズレは、汚水が井戸水に逆流する致命的な欠陥を生みました!カロリーナ嬢の症状は、おそらく汚染水による中毒です!」
ユリアーナは、感情を抑えきれずに叫んだ。
「必要なのは、王族の愛ではありません!石灰による緊急の土壌中和と、特定の薬草による解毒です!今すぐ、技術者と薬草師を集めてください!」
その語る内容は、もはや悪役令嬢の範疇を超えていた。
ラディウスは、ユリアーナの鬼気迫る表情に、初めて溺愛フィルターが剥がれたように、言葉を失った。
「ユリアーナ…君は、その知識を一体どこで…」
「私は!前世で、土木工学科を専攻していた日本の一般人ですわ!この世界がゲームだと知り、破滅を避けるために悪役を演じていた!あなたの婚約者としての地位も、命を守るための道具に過ぎません!」
ユリアーナは、長年の秘密を、断罪の場で告白した。
ユリアーナの衝撃的な告白は、ラディウスの「君は私に夢中な愛らしい女」という認識を、完全に打ち砕いた。彼の顔から血の気が失せ、激しい怒りではなく、絶対的な喪失感が溢れ出した。
「…私への愛ではなく…命のため…私を道具にしていたと…」
ラディウスは膝から崩れ落ちそうになりながら、それでも最後の力を振り絞った。
「裏切り者…ユリアーナ・フォン・アーデルハイト!貴様を、王国の危機を救う天才でありながら、王族を騙した罪で断罪する!」
「ありがとうございます、ラディウス王太子殿下!」
ユリアーナは、ついに破滅を達成できた安堵から、満面の笑みを浮かべた。
「これで、婚約破棄ですわね!わたくしは、この国から追放されることを承知いたします!」
しかし、ラディウスは涙を流しながら、想定外の「断罪」を言い渡した。
「婚約破棄は…しない。ユリアーナ!貴様を王族の婚約者として、この場で縛り付ける!」
「は…?」
「貴様の天才的な知識は、この国に必要だ。貴様が私を騙し、私を愛していなかったとしても構わない。私は、君の命と引き換えに得た知識、そして王都を救おうとしたその献身ごと、すべてを愛している!」
ラディウスは、ユリアーナの手を掴み、力いっぱい引き寄せた。
「追放は許さない。貴様は、その知識と命をかけて、この私と共にこの国を守るのだ。一生、私の傍で!それが、貴様への最も重い『愛の断罪』だ!」
ユリアーナは、望んでいた「破滅=追放」ではなく、「溺愛=拘束」という、究極の結末に言葉を失った。
ユリアーナの指示により、すぐに専門家が動員され、石灰と薬草の処置が施された結果、カロリーナの命は救われ、王都の危機も回避された。
そして、ユリアーナは王太子ラディウスとの婚約を続行させられることになった。
「君は、私に嫌われるために必死だった。ならば、これからは君の愛の重さで私を殺してみろ」
ラディウスは、ユリアーナの額にキスをしながら囁いた。彼の溺愛は、真実を知ったことで、もはや「フィルター」ではなく「絶対的な受容」へと変化していた。
数年後。ユリアーナは王太子妃として、土木計画、衛生管理、財政改革にまで口を出す『冷徹で有能な妃殿下』として国民から恐れられ、尊敬されていた。
そして、ラディウス王太子は、誰よりもユリアーナの『真意』を理解している唯一の人間として、彼女のそばを片時も離れなかった。
ラディウスの愛情表現は、公務中に「この書類の設計は、ユリアーナの背骨のように美しい」といった、常人には理解不能なレベルにまで達していた。
ユリアーナの破滅回避の物語は、「悪役令嬢が、自分の知識と行動ですべてを勘違いされ、望まない究極の溺愛ルートに強制連行される」という、異色のロマンスとして、幕を閉じた。
もう、どうにでもなれだわ…
ユリアーナは、ラディウスの腕の中で、前世の知識を使って王国の予算を計算しながら、静かにそう呟いたのだった。
fin
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