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背中にできた痣が気になった。うっすらとではあるが、広い範囲で広がっている。香澄は鏡に映した自分の背中を目を細めて忌々しそうな目つきで眺めた。ちょっと熱めのお湯をかぶったような、赤い痣だった。最初、数日もすれば消えるだろうとなんにも気にしなかった。けれど、一週間、一か月経っても消えなかった。
いやだなー。まだ三十二なのに。別にこれを見る男がいるわけでもないからいいんだけどね。などと思った。
香澄はパジャマを着て、化粧水だけ雑に顔につけると、洗面台の明かりを消して寝室に入った。テレビをつけようとリモコンを手に取ったが、スイッチは押さなかった。代わりにため息をついた。明かりを点けたままベッドに横になった。寝られるかな……、寝られたらいいな……。香澄は起き上がり、やはり明かりを消してまたベッドに横になった。
これってやっぱりあれだよね。
村の、病気。
私、死ぬのかな、このまま。
香澄は違うことを考えることにした。
香澄に恋人はいなかった。学生時代、一人だけ付き合った男はいたが、一緒にいることが苦痛で仕方なかった。相手が悪かったわけではない。むしろ自分にはもったいない相手だと思った。それはわかっていた。けれど、付き合っていくことができなかった。
名前は拓哉といった。同じ大学の学生だった。背は高くて清潔感もあり、頭もいいし優しくて、香澄のことをまるで宝石のように大切にしてくれた。おんぼろの軽自動車を持っていて、デートはいつも楽しませてくれた。クリスマスになぜか牧場に連れていかれ、牛の乳しぼり体験をしたり、下道を一晩もかけて東京まで行き、ディズニーランドに連れていってくれたりした。体の相性も良かった。煙草は吸わなかったから、キスからはだいたい歯磨き粉のミントの匂いかコーヒーの匂いがした。手先がとても器用で、香澄の体のことをよく知っていた。どこをどんな順番で触れば濡れていくのかよく知っていた。香澄の気持ちをうまくリードして、優しさと強引さを巧みに使い分けて絶頂に導いた。香澄は性欲はそんなに強い方ではなかったが、拓哉とのセックスは好きだった。愛されているのを体中で知ることができたからだ。
けれど、拓哉とは別れた。
香澄から別れを告げた。
拓哉を愛していた。
拓哉も香澄を愛していた。
だから別れた。
拓哉の死ぬところを、見ているのが辛かったから。
拓哉は六年後の二十八歳の夏、乗っていたバイクが交通事故に巻き込まれて死ぬ。そのことが、拓哉と深く関われば関わるほど、リアルに見えてくるようになった。信号を無視した白い車が、拓哉の横を走っていた黒い車をかするようにしてぶつかり、その反動で向きを変え回転するように拓哉を巻き込んだ。
最初、それはただの映像だった。音を消したテレビから見えてくるような無機質なものだった。けれど拓哉と関われば関わるほど、唇を重ねれば重ねるほど、拓哉が私の身体を貫き、その汗の匂い、湿気た肌の感触、荒い呼吸、体の重さを感じれば感じるほど、その死の映像はリアルなものになっていった。
アスファルトに削られる肩の痛み、もぎ取られるように飛んでいくヘルメット、左側頭部に受ける衝撃、首が捻じ曲げられ、血の匂い、味、体が押しつぶされ、肺から温かい液体を吐き出した。真っ白な光となった視界、濃縮された恐怖、すべてを何度も何度も、拓哉に触れるたびに忘れられない記憶として刻まれるようになった。
香澄ははっと目を覚ました。知らない間に寝ていたようだった。いつも拓哉のことを思い出し、目を覚ます。毎日これの繰り返しだ。ここから朝まで、また寝られなくなる。
拓哉と別れたのは間違いだったのだろうか。
目が覚めた後は、いつもこの自問に苛まれる。
拓哉はもう死んでいる。拓哉とは大学の卒業とともに別れ、それから連絡を取っていない。けれどもう、死んでいるはずだ。二十八歳の夏に、事故に巻き込まれて。
拓哉は私を恨んだだろうか。
理由も言わず別れた私を。
それともすぐに忘れただろうか。それは悲しいことだけれど、それならよかったとも思う。
死ぬ瞬間、誰の顔を思い浮かべただろう。恋人はいただろうか。拓哉は誰から見ても魅力的な男性だった。だからきっといい人がいただろう。もしかしたらもう結婚をしていたかもしれない。だとしたら、その誰かはきっと苦しんだだろう。拓哉の死を受け入れられず、悲しみに暮れたことだろう。
やはりその悲しみは、私が受け止めるべきだったのではないか。香澄はいつもその考えに苛まれた。拓哉の死を知っていた私がいちばん、それにふさわしい人間だったのではなかっただろうか。
けれど私はもう、愛する人の死を、何十回、何百回と見ていくことに耐えられなかったのだ。
いやだなー。まだ三十二なのに。別にこれを見る男がいるわけでもないからいいんだけどね。などと思った。
香澄はパジャマを着て、化粧水だけ雑に顔につけると、洗面台の明かりを消して寝室に入った。テレビをつけようとリモコンを手に取ったが、スイッチは押さなかった。代わりにため息をついた。明かりを点けたままベッドに横になった。寝られるかな……、寝られたらいいな……。香澄は起き上がり、やはり明かりを消してまたベッドに横になった。
これってやっぱりあれだよね。
村の、病気。
私、死ぬのかな、このまま。
香澄は違うことを考えることにした。
香澄に恋人はいなかった。学生時代、一人だけ付き合った男はいたが、一緒にいることが苦痛で仕方なかった。相手が悪かったわけではない。むしろ自分にはもったいない相手だと思った。それはわかっていた。けれど、付き合っていくことができなかった。
名前は拓哉といった。同じ大学の学生だった。背は高くて清潔感もあり、頭もいいし優しくて、香澄のことをまるで宝石のように大切にしてくれた。おんぼろの軽自動車を持っていて、デートはいつも楽しませてくれた。クリスマスになぜか牧場に連れていかれ、牛の乳しぼり体験をしたり、下道を一晩もかけて東京まで行き、ディズニーランドに連れていってくれたりした。体の相性も良かった。煙草は吸わなかったから、キスからはだいたい歯磨き粉のミントの匂いかコーヒーの匂いがした。手先がとても器用で、香澄の体のことをよく知っていた。どこをどんな順番で触れば濡れていくのかよく知っていた。香澄の気持ちをうまくリードして、優しさと強引さを巧みに使い分けて絶頂に導いた。香澄は性欲はそんなに強い方ではなかったが、拓哉とのセックスは好きだった。愛されているのを体中で知ることができたからだ。
けれど、拓哉とは別れた。
香澄から別れを告げた。
拓哉を愛していた。
拓哉も香澄を愛していた。
だから別れた。
拓哉の死ぬところを、見ているのが辛かったから。
拓哉は六年後の二十八歳の夏、乗っていたバイクが交通事故に巻き込まれて死ぬ。そのことが、拓哉と深く関われば関わるほど、リアルに見えてくるようになった。信号を無視した白い車が、拓哉の横を走っていた黒い車をかするようにしてぶつかり、その反動で向きを変え回転するように拓哉を巻き込んだ。
最初、それはただの映像だった。音を消したテレビから見えてくるような無機質なものだった。けれど拓哉と関われば関わるほど、唇を重ねれば重ねるほど、拓哉が私の身体を貫き、その汗の匂い、湿気た肌の感触、荒い呼吸、体の重さを感じれば感じるほど、その死の映像はリアルなものになっていった。
アスファルトに削られる肩の痛み、もぎ取られるように飛んでいくヘルメット、左側頭部に受ける衝撃、首が捻じ曲げられ、血の匂い、味、体が押しつぶされ、肺から温かい液体を吐き出した。真っ白な光となった視界、濃縮された恐怖、すべてを何度も何度も、拓哉に触れるたびに忘れられない記憶として刻まれるようになった。
香澄ははっと目を覚ました。知らない間に寝ていたようだった。いつも拓哉のことを思い出し、目を覚ます。毎日これの繰り返しだ。ここから朝まで、また寝られなくなる。
拓哉と別れたのは間違いだったのだろうか。
目が覚めた後は、いつもこの自問に苛まれる。
拓哉はもう死んでいる。拓哉とは大学の卒業とともに別れ、それから連絡を取っていない。けれどもう、死んでいるはずだ。二十八歳の夏に、事故に巻き込まれて。
拓哉は私を恨んだだろうか。
理由も言わず別れた私を。
それともすぐに忘れただろうか。それは悲しいことだけれど、それならよかったとも思う。
死ぬ瞬間、誰の顔を思い浮かべただろう。恋人はいただろうか。拓哉は誰から見ても魅力的な男性だった。だからきっといい人がいただろう。もしかしたらもう結婚をしていたかもしれない。だとしたら、その誰かはきっと苦しんだだろう。拓哉の死を受け入れられず、悲しみに暮れたことだろう。
やはりその悲しみは、私が受け止めるべきだったのではないか。香澄はいつもその考えに苛まれた。拓哉の死を知っていた私がいちばん、それにふさわしい人間だったのではなかっただろうか。
けれど私はもう、愛する人の死を、何十回、何百回と見ていくことに耐えられなかったのだ。
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