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3章 合宿
監視
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「和樹君。今日も、ちゃんと心臓が動いていますね」
背後から僕を抱きしめる志乃の腕は、震えていた。会長に誘拐された数時間。彼女は、僕がその隙に自暴自棄になって死んでしまうのではないかという恐怖と戦っていたのだ。
「……ごめん、志乃。心配させたな」
「二度と、言わせないでください。……和樹君の命は、和樹君だけのものではないんです。私が観測し続ける限り、和樹君に死ぬ権利なんてありませんから」
彼女の執着は、愛ではない。けれど、これがあるからこそ、僕は今、こうして生きて地面を蹴っている。彼女が僕を見つめ続けてくれるから、僕は自分の輪郭を保っていられる。
「ねえ、和樹君」
志乃が、僕のうなじに顔を埋め、囁く。
「さっきの不純物(会長)に教えてあげました。……和樹君のまつ毛の数も、皮膚の表面温度も、絶望した時の瞳の色の変化も。そのすべてを二十四時間、一生を捧げて網羅する覚悟がある人間だけが、和樹君を『観測』できるのだと」
「……あいつ、絶対泣いて逃げただろ」
「はい。再起不能なレベルで、ストーカーへの憧れを粉砕しておきました」
彼女は満足げに笑う。僕を死なせないための、あまりにも歪で、あまりにも献身的な監視。僕はその心地よい檻の中で、一生、彼女の観測対象として生きていく。
それが、僕に遺された唯一の贖罪であり、同時に、この世界で僕が受け取れる唯一の「愛」の形だった。
合宿二日目の朝。昨夜の「拉致事件」と、それに続く凄まじい「教育」が嘘のように、古民家には平和な――志乃基準の――時間が流れていた。
「はい、和樹君。今朝の味噌汁は、昨夜のストレスで摩耗した和樹君の胃粘膜を優しくコーティングする特別仕様です。温度は五八度に設定しました。あーん」
「……お前、昨夜あんなに暴れたのに、なんでそんなに元気なんだよ」
縁側に座る僕の膝の上に、志乃は当たり前のように陣取っている。昨夜、会長から僕を奪還した際の「獣」のような形相はどこへやら、今の彼女は春の陽だまりのような笑顔で僕に箸を差し出していた。
「愛の力は自家発電ですから、和樹君の生存を確認できている限り無限です。……あ、左の頬にわずかな赤みが」
「いいよ、ただの寝癖だ。あと顔を近づけすぎだ。武田先輩たちが……」
「……なあ、高橋。あいつら、昨夜誘拐騒動があったばかりだよな?」
「ああ。普通ならトラウマで合宿中止レベルのはずなんだけどな。……佐藤のやつ、もう志乃ちゃんの生態系の一部として完全に順応してやがる」
遠巻きに僕らを見る二人の冷ややかな視線も、志乃にとっては背景のノイズでしかないらしい。志乃は僕の腕に自分の頬をすり寄せ、獲物を愛でる蛇のような、あるいは宝物を抱える子供のような瞳で僕を見上げた。
「和樹君。今日の合宿メニューは『川遊び』ですが、私の計算では、和樹君が川で滑る確率は四二%です。常に私が背後から抱きついて重心を固定しますから、安心して流されてくださいね」
「それ、一緒に溺れるやつだろ……」
呆れながらも、僕は差し出された味噌汁を大人しく口に運ぶ。彼女の過剰なまでの「生存確認」が、今は心地よい。昨夜、あの暗いプレハブ小屋で一瞬だけ感じた「自由」よりも、この逃げ場のない腕の中の方が、ずっと深く呼吸ができることを、僕は認めざるを得なかった。
電車の座席に深く腰を下ろし、私はスマートフォンの画面を起動させた。一般の人が使うようなSNSのアイコンの隣、パスワードと虹彩認証で何重にも保護されたアプリ。そこには、私の「命」の輝きがリアルタイムで表示されている。
現在地:西武新宿線・下り急行の三号車、ドア付近。
心拍数:七十二。少しお疲れのようですね
「ふふ……順調、順調」
画面上の赤いドットがゆっくりと地図上を移動していくのを見つめながら、私は吐息を漏らしました。合宿中は二十四時間、同じ空気を吸い、同じ重力の中にいたというのに、物理的な距離が数キロ開いただけで、世界はこんなにも不確かで危うい場所に思えてしまう。
耳に装着したノイズキャンセリングイヤホンからは、和樹君のベルトに仕込んだ超小型マイクが拾う「ガタンゴトン」という走行音と、彼の微かな呼吸音が聞こえてくる。一般の方からすれば、これは「盗聴」や「プライバシーの侵害」という言葉で片付けられるのでしょう。けれど、私にとっては違う。
自宅のマンションにつき、自室の重いドアを開けます。暗い部屋。遮光カーテンで密閉された空間。私は照明をつける必要すらありません。
カチッ、とスイッチを入れると、四方の壁を埋め尽くした和樹君が、一斉に私を迎え入れてくれた。笑っている和樹君。講義中に少しだけあくびを噛み殺した和樹君。昨夜、私の腕の中で、少しだけうなされながら眠っていた和樹君。
部屋の壁という壁には、数千、数万枚にのぼる写真が、撮影日時と場所、その時の気象条件と共に整然とグリッド状に貼り付けられている。中央のデスクには、三台のマルチモニター。一台は現在のGPSログ、一台は過去の行動パターンの統計、そして最後の一台には、私が合宿中に撮影した動画の編集画面が映し出されている。
「ただいま、和樹君。今日も、明日も、その先も……」
私は壁の一枚、合宿の縁側で少しだけ夕風に目を細めた彼の写真に、指先でそっと触れた。ここにあるのは、単なる思い出ではない。彼が自ら命を絶とうとする「隙」を、統計学的にゼロに近づけるためのシミュレーションデータ。そして、彼という存在がこの世界に刻んだ「生」の証明。
もし彼が自分の価値を信じられなくなったとしても、この部屋にある膨大な「和樹君」がそれを否定する。お兄ちゃんの身代わりだなんて、そんな悲しい言葉で終わらせはしない。和樹君は、私が観測し続けることで初めて完成する、この世で最も尊い被写体。
画面の中の赤いドットが、彼の自宅マンションの位置で停止。玄関の開閉音。鍵を閉める音。よし、今日も彼は無事に、自分の檻に辿り着いた。
「おやすみなさい、私の和樹君」
私はモニターの光に照らされながら、彼の呼吸音を子守唄にして、深い幸福の中へと沈んでいった。
放課後。夕暮れに染まったサークル棟の屋上。あの日、僕がすべてを終わりにしようとした場所で、僕は志乃の膝に頭を預けていた。
「和樹君。今、瞬きを三回しましたね。……何か、不安なことでもありますか?」
志乃の指先が、僕の髪をゆっくりと梳く。その手つきは、壊れやすいガラス細工を扱うように慎重で、ひどく熱を帯びていた。
「……いや。ただ、少しだけ考えてたんだ。……志乃、お前さ。俺の部屋にいない時も、俺のこと、見てるんだろ?」
僕の問いかけに、志乃の指が一瞬だけ止まった。
「ストーカーですから」
彼女は否定しなかった。ただ、夕焼けを反射するその瞳を細め、僕を射抜くような、けれど蕩けるような愛を込めて微笑んだだけだ。
「……怖いですか?」
「……どうかな」
僕は目を閉じ、彼女の体温を感じる。自分の知らないところで、僕の心拍数が記録され、僕の歩いた道が地図上にプロットされ、僕の寝顔がどこかの壁を埋め尽くしているのかもしれない。普通の人間なら、狂気に触れたような恐怖で逃げ出す状況だ。
けれど、僕の中にあったのは、驚くほど澄み渡った「安らぎ」だった。
あの日、あのランドセルの身代わりになって死んでしまった彼。彼が失った「未来」を、僕が勝手に享受することを、僕の心はどうしても許せなかった。一人でいると、どうしても足元が泥濘に沈んでいくような感覚に襲われる。
でも、志乃という「檻」があれば。彼女が二十四時間、僕という存在を執拗に繋ぎ止めてくれるなら。僕は、自分の意志で生きるという重責を彼女に預け、ただ「観測される物」として、この世界に留まることができる。
「和樹君。……もし、私が和樹君のすべてを、一秒の隙もなく閉じ込めてしまったら。和樹君は、私のことを恨みますか?」
志乃の声は、微かに震えていた。彼女もまた、知っているのだ。自分の愛が、相手を蝕む毒であることを。自分が救ったはずの男を、別の形の地獄に引きずり込んでいることを。
僕は目を開け、彼女の頬に手を伸ばした。その指先で、彼女が押し殺していた孤独をなぞる。
「……恨まないよ。俺はもう、お前の視線がない場所じゃ、自分がどこにいるかも分からなくなっちゃったからな」
それは、告白という名の降伏だった。僕は自分から、彼女が用意した透明な鉄格子の中に足を踏み入れ、自ら鍵をかけた。
「……ふふ。嬉しいです、和樹君」
志乃が僕の上に覆いかぶさるようにして、ぎゅっと抱きしめてくる。石鹸の香りと、彼女の鼓動。それは僕を生に縛り付ける、鎖の音。
「じゃあ、約束してください。……一生、私の視界から消えないこと。もし消えようとしたら、その時は……二人で、あの日の続きをしましょうね」
「……ああ。お前に見張られてるうちは、勝手に死ぬこともできないしな」
僕が苦笑しながら彼女の背中に手を回すと、志乃は「あーん」と言いながら、カバンから取り出した――おそらく僕の体調に合わせて調合されたであろう――栄養補助のクッキーを僕の口に押し込んできた。
「はい、和樹君。今日の糖分補給です。私の愛情を百分の一に凝縮しておきました。……残りの九九%は、今夜、和樹君の夢の中でじっくりお届けしますね」
「……重いよ。胃も、愛も」
口いっぱいに広がる甘さと、どこか切ない罪の味。僕らは、夕焼けに溶けていく影の中で、いつまでも抱き合っていた。共依存という名の、美しくも悲しい檻。その中で、僕らは誰にも邪魔されない、僕らだけの幸福を貪り続ける。
世界がどれほど広くても、僕の居場所は、彼女の網膜の中だけでいい。
夕闇が二人を包み込み、街に灯りが灯り始める。僕のポケットの中で、志乃のスマホが「和樹君の生存」を告げる通知を静かに鳴らした。
背後から僕を抱きしめる志乃の腕は、震えていた。会長に誘拐された数時間。彼女は、僕がその隙に自暴自棄になって死んでしまうのではないかという恐怖と戦っていたのだ。
「……ごめん、志乃。心配させたな」
「二度と、言わせないでください。……和樹君の命は、和樹君だけのものではないんです。私が観測し続ける限り、和樹君に死ぬ権利なんてありませんから」
彼女の執着は、愛ではない。けれど、これがあるからこそ、僕は今、こうして生きて地面を蹴っている。彼女が僕を見つめ続けてくれるから、僕は自分の輪郭を保っていられる。
「ねえ、和樹君」
志乃が、僕のうなじに顔を埋め、囁く。
「さっきの不純物(会長)に教えてあげました。……和樹君のまつ毛の数も、皮膚の表面温度も、絶望した時の瞳の色の変化も。そのすべてを二十四時間、一生を捧げて網羅する覚悟がある人間だけが、和樹君を『観測』できるのだと」
「……あいつ、絶対泣いて逃げただろ」
「はい。再起不能なレベルで、ストーカーへの憧れを粉砕しておきました」
彼女は満足げに笑う。僕を死なせないための、あまりにも歪で、あまりにも献身的な監視。僕はその心地よい檻の中で、一生、彼女の観測対象として生きていく。
それが、僕に遺された唯一の贖罪であり、同時に、この世界で僕が受け取れる唯一の「愛」の形だった。
合宿二日目の朝。昨夜の「拉致事件」と、それに続く凄まじい「教育」が嘘のように、古民家には平和な――志乃基準の――時間が流れていた。
「はい、和樹君。今朝の味噌汁は、昨夜のストレスで摩耗した和樹君の胃粘膜を優しくコーティングする特別仕様です。温度は五八度に設定しました。あーん」
「……お前、昨夜あんなに暴れたのに、なんでそんなに元気なんだよ」
縁側に座る僕の膝の上に、志乃は当たり前のように陣取っている。昨夜、会長から僕を奪還した際の「獣」のような形相はどこへやら、今の彼女は春の陽だまりのような笑顔で僕に箸を差し出していた。
「愛の力は自家発電ですから、和樹君の生存を確認できている限り無限です。……あ、左の頬にわずかな赤みが」
「いいよ、ただの寝癖だ。あと顔を近づけすぎだ。武田先輩たちが……」
「……なあ、高橋。あいつら、昨夜誘拐騒動があったばかりだよな?」
「ああ。普通ならトラウマで合宿中止レベルのはずなんだけどな。……佐藤のやつ、もう志乃ちゃんの生態系の一部として完全に順応してやがる」
遠巻きに僕らを見る二人の冷ややかな視線も、志乃にとっては背景のノイズでしかないらしい。志乃は僕の腕に自分の頬をすり寄せ、獲物を愛でる蛇のような、あるいは宝物を抱える子供のような瞳で僕を見上げた。
「和樹君。今日の合宿メニューは『川遊び』ですが、私の計算では、和樹君が川で滑る確率は四二%です。常に私が背後から抱きついて重心を固定しますから、安心して流されてくださいね」
「それ、一緒に溺れるやつだろ……」
呆れながらも、僕は差し出された味噌汁を大人しく口に運ぶ。彼女の過剰なまでの「生存確認」が、今は心地よい。昨夜、あの暗いプレハブ小屋で一瞬だけ感じた「自由」よりも、この逃げ場のない腕の中の方が、ずっと深く呼吸ができることを、僕は認めざるを得なかった。
電車の座席に深く腰を下ろし、私はスマートフォンの画面を起動させた。一般の人が使うようなSNSのアイコンの隣、パスワードと虹彩認証で何重にも保護されたアプリ。そこには、私の「命」の輝きがリアルタイムで表示されている。
現在地:西武新宿線・下り急行の三号車、ドア付近。
心拍数:七十二。少しお疲れのようですね
「ふふ……順調、順調」
画面上の赤いドットがゆっくりと地図上を移動していくのを見つめながら、私は吐息を漏らしました。合宿中は二十四時間、同じ空気を吸い、同じ重力の中にいたというのに、物理的な距離が数キロ開いただけで、世界はこんなにも不確かで危うい場所に思えてしまう。
耳に装着したノイズキャンセリングイヤホンからは、和樹君のベルトに仕込んだ超小型マイクが拾う「ガタンゴトン」という走行音と、彼の微かな呼吸音が聞こえてくる。一般の方からすれば、これは「盗聴」や「プライバシーの侵害」という言葉で片付けられるのでしょう。けれど、私にとっては違う。
自宅のマンションにつき、自室の重いドアを開けます。暗い部屋。遮光カーテンで密閉された空間。私は照明をつける必要すらありません。
カチッ、とスイッチを入れると、四方の壁を埋め尽くした和樹君が、一斉に私を迎え入れてくれた。笑っている和樹君。講義中に少しだけあくびを噛み殺した和樹君。昨夜、私の腕の中で、少しだけうなされながら眠っていた和樹君。
部屋の壁という壁には、数千、数万枚にのぼる写真が、撮影日時と場所、その時の気象条件と共に整然とグリッド状に貼り付けられている。中央のデスクには、三台のマルチモニター。一台は現在のGPSログ、一台は過去の行動パターンの統計、そして最後の一台には、私が合宿中に撮影した動画の編集画面が映し出されている。
「ただいま、和樹君。今日も、明日も、その先も……」
私は壁の一枚、合宿の縁側で少しだけ夕風に目を細めた彼の写真に、指先でそっと触れた。ここにあるのは、単なる思い出ではない。彼が自ら命を絶とうとする「隙」を、統計学的にゼロに近づけるためのシミュレーションデータ。そして、彼という存在がこの世界に刻んだ「生」の証明。
もし彼が自分の価値を信じられなくなったとしても、この部屋にある膨大な「和樹君」がそれを否定する。お兄ちゃんの身代わりだなんて、そんな悲しい言葉で終わらせはしない。和樹君は、私が観測し続けることで初めて完成する、この世で最も尊い被写体。
画面の中の赤いドットが、彼の自宅マンションの位置で停止。玄関の開閉音。鍵を閉める音。よし、今日も彼は無事に、自分の檻に辿り着いた。
「おやすみなさい、私の和樹君」
私はモニターの光に照らされながら、彼の呼吸音を子守唄にして、深い幸福の中へと沈んでいった。
放課後。夕暮れに染まったサークル棟の屋上。あの日、僕がすべてを終わりにしようとした場所で、僕は志乃の膝に頭を預けていた。
「和樹君。今、瞬きを三回しましたね。……何か、不安なことでもありますか?」
志乃の指先が、僕の髪をゆっくりと梳く。その手つきは、壊れやすいガラス細工を扱うように慎重で、ひどく熱を帯びていた。
「……いや。ただ、少しだけ考えてたんだ。……志乃、お前さ。俺の部屋にいない時も、俺のこと、見てるんだろ?」
僕の問いかけに、志乃の指が一瞬だけ止まった。
「ストーカーですから」
彼女は否定しなかった。ただ、夕焼けを反射するその瞳を細め、僕を射抜くような、けれど蕩けるような愛を込めて微笑んだだけだ。
「……怖いですか?」
「……どうかな」
僕は目を閉じ、彼女の体温を感じる。自分の知らないところで、僕の心拍数が記録され、僕の歩いた道が地図上にプロットされ、僕の寝顔がどこかの壁を埋め尽くしているのかもしれない。普通の人間なら、狂気に触れたような恐怖で逃げ出す状況だ。
けれど、僕の中にあったのは、驚くほど澄み渡った「安らぎ」だった。
あの日、あのランドセルの身代わりになって死んでしまった彼。彼が失った「未来」を、僕が勝手に享受することを、僕の心はどうしても許せなかった。一人でいると、どうしても足元が泥濘に沈んでいくような感覚に襲われる。
でも、志乃という「檻」があれば。彼女が二十四時間、僕という存在を執拗に繋ぎ止めてくれるなら。僕は、自分の意志で生きるという重責を彼女に預け、ただ「観測される物」として、この世界に留まることができる。
「和樹君。……もし、私が和樹君のすべてを、一秒の隙もなく閉じ込めてしまったら。和樹君は、私のことを恨みますか?」
志乃の声は、微かに震えていた。彼女もまた、知っているのだ。自分の愛が、相手を蝕む毒であることを。自分が救ったはずの男を、別の形の地獄に引きずり込んでいることを。
僕は目を開け、彼女の頬に手を伸ばした。その指先で、彼女が押し殺していた孤独をなぞる。
「……恨まないよ。俺はもう、お前の視線がない場所じゃ、自分がどこにいるかも分からなくなっちゃったからな」
それは、告白という名の降伏だった。僕は自分から、彼女が用意した透明な鉄格子の中に足を踏み入れ、自ら鍵をかけた。
「……ふふ。嬉しいです、和樹君」
志乃が僕の上に覆いかぶさるようにして、ぎゅっと抱きしめてくる。石鹸の香りと、彼女の鼓動。それは僕を生に縛り付ける、鎖の音。
「じゃあ、約束してください。……一生、私の視界から消えないこと。もし消えようとしたら、その時は……二人で、あの日の続きをしましょうね」
「……ああ。お前に見張られてるうちは、勝手に死ぬこともできないしな」
僕が苦笑しながら彼女の背中に手を回すと、志乃は「あーん」と言いながら、カバンから取り出した――おそらく僕の体調に合わせて調合されたであろう――栄養補助のクッキーを僕の口に押し込んできた。
「はい、和樹君。今日の糖分補給です。私の愛情を百分の一に凝縮しておきました。……残りの九九%は、今夜、和樹君の夢の中でじっくりお届けしますね」
「……重いよ。胃も、愛も」
口いっぱいに広がる甘さと、どこか切ない罪の味。僕らは、夕焼けに溶けていく影の中で、いつまでも抱き合っていた。共依存という名の、美しくも悲しい檻。その中で、僕らは誰にも邪魔されない、僕らだけの幸福を貪り続ける。
世界がどれほど広くても、僕の居場所は、彼女の網膜の中だけでいい。
夕闇が二人を包み込み、街に灯りが灯り始める。僕のポケットの中で、志乃のスマホが「和樹君の生存」を告げる通知を静かに鳴らした。
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