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遠い遠い西の果てブハイルの湖にて(5)

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7・ 曙光


“ここまで一人で来たの? たった一人って、どういう事なの? でも嬉しいわ。今日から私の弟が二人になるのね”
“ナガでの生活はどう? 楽しい? 城館の皆が貴方を褒めていたわよ。みんなが貴方を好きだって。勿論、私も好きよ”
“ねえ、お願いがあるの。もっとラディンの話し相手になってくれない? あの子、私以外には誰とも親しくしないのよ。お願い。貴方を信じているわ、ハンシス”

 ゆっくりと、世界は色を帯び始めた。
 闇から濃紺へ、さらに薄紫へと変じ始めていた。
「月だ」
 ハンシスが呟く。陽が昇る直前、山の端に弱い月が留まっている。湖からは僅かな水霧が漂い、空気は冷えている。
 目を戻した時、湖に突き出した小さなアルアシオン城が大きく視界を占めた。一晩の孤独と静寂の果てに鋭敏になった感覚で、ハンシスは前方の斜面の上、小さな城門に集中した。夜明け前の、薄紫色の視界の中――城門が少しだけ開いているのに気付いた。
 彼は立ち上がる。僅かにけぶる焚火の燃えかすを踏み、数歩を進み出る。そして待つ。
 待つ時間を、長く、酷く長く感じる。風音すらない無音の中に、自分の息音が聞こえた気がする。少しずつ明るさを帯びてゆく視界に集中し、そして途方もなく長い時間を覚えた頃。
 ――緋色だった。緋色の長衣を着たシャダーが約束の通り、夜明けの城門に現れた。
 ハンシスの表情が変わった。ちょうど初めて会った時の少年のような、僅かに当惑した表情を示した。

「来た」
 ハンシスの背中の側。遥かに遠い、高い位置。黄色い木立を越えた場所。乾いた小声が告げた。
 灰色の城門、緋色のシャダー、立ち上がったハンシスの後ろ背を一直線に見捕えて、淡色の視線は張り詰めた。
「さあ。もう少し前に出てこい。そこじゃ駄目だ」
 湖を左手に遠く見下ろす崖沿いの、僅かばかりの草地の上、カティルは腹ばいに身を伏せている。腕に十字の形をした巻上式弩弓を握っている。
「もう少し。もう少しだけ右だ、そうだ。右だ」

 緋色を着たシャダーが城門から出てくる。足場の悪い斜面をゆっくりと下って来る。
 ハンシスは戸惑いとも喜びとも、どちらともつかない顔だ。ただ静かに、ゆっくりと斜面を登っていき、
「……。来てくれると、信じていました。ありがとうございます」
足を止め、向かい合った時に、言った。
「皆が幸せなのが一番良いと思ったから。だから来たの」
 その答えに、ハンシスは強張るように笑う。その笑顔に、シャダーは素直に笑う。
「とにかく今は、ワーリズム家が一つにまとまった方が良いから。もう争うのは嫌。貴方とラディンが平和にまとまった方がよいから」
 それがシャダーの望みだ。深い事情も奥底の感情も思わない。弟と従弟と自分が穏やかに親愛を交わせればそれで良い。とにかく今は、目の前の従兄が穏やかな好意を示してくれれば、それで良い。
 月は消えてゆく。朝が進む。山の稜線からようやく金色の陽光が射し出し、湖面の朝霧に光に透ける。
 背後からの光に、ハンシスの顔は陰になっている。だからその顔の複雑の感情の吐露を、シャダーは読み取れない。呼吸七回の沈黙となった。彼は子供のように素朴な口調となり、
「今。一つだけ、私の願いを聞いてもらえますか?」
言った。
「今。ここで、貴方を抱き締めて良いですか?」
 シャダーは答えられない。ただ、僅かだけ体の重心を後方へと動かした時、山の端にほとんど消えた月の輪郭を見た。

「そこだっ、もう誰も動くな!」
 研ぎ澄まされた淡色の視線が定まった。
 草地の上、カティルの弩弓は完全に定まった。一分たがわず狙いを定め、右の指先が今、動いた。
 空気の一瞬の振動。矢は放たれ、
 ――。僅かな知覚が捕える。はっと振り向く。
 それが何かハンシスには分からない。ただ視界の中の黒い軌線に気付く。反射的に右足が地を蹴る。目の前のシャダーを突き飛ばす。そして、
 静寂。
 シャダーは自分の足元を見た。呼吸二回の間沈黙し、そして三つ目、
「嫌ぁ――――っ!」
 絶叫した。

「まずい!」
 カティルが舌打つ。その真後ろでルアーイドが声を失う。いや、声を失ったのは一瞬だ。裏返る叫びが喉を突き破る。
「聖者様――! ハンシス――!」
 外した! シャダーではなくハンシスを射てしまった!
 そのまま草地を飛び出す。湖畔までの急斜面の崖を転落も恐れず滑るよう、夢中で走り下る。千切れそうな息で湖畔に達した時、視界の中に主君の姿が大きく迫った。友でもある大切な男は動きを止めている。倒れた地面には早くも赤い血だまりが出来上がっている。赤い血だまり――血の始まっている所――右の肩下を射ている一本の矢!
「ハンシス!」
 駆け寄り、かがみこむや顔に手を当て息を確認する。
 神様、まだ死んでいない、でも神様――もうすぐに死んでしまう!
「助けて! 死んでしまう……血を止めてっ、早く!」
 シャダーが叫ぶ。
「私を押して――助けて、その代わりに……! なぜそんな……自分の命を捨ててまでそんな――!」
「ハンシス!」
「早く助けてっ、やっと和解できると――やっと今朝――私を愛しているって……! だから私の代わり……命を捨てて――そんなの嫌っ、ハンシス! 助けて!」
「ハンシスっ、死ぬな!」
 ルアーイドの声も泣き出す。その間にも血は確実に失われてゆく。とにかく血を止めないと。この矢を抜かないと。意識の無い顔は苦痛に歪み、血は流れ続けている。
「愛しているって言ったのっ、言ってくれたのっ、だから私――早く! 早く助けてっ、矢を抜いて!」
 流れ続けている。苦痛を訴える激しい息と表情。もう躊躇出来ない。泣きながら、混乱しながらしかしルアーイドは覚悟を決める。泥の地面の上、ルアーイドは左手で相手の胸上を抑え、矢の付根を掴む。その手に力を込める。
「止めろ! 殺す気かっ。抜いたら体中の血が抜ける!」
 唐突、カティルの怒鳴り声が響いた。はっと振り向いたルアーイドも引きずられたように怒鳴る。
「貴様のせいだ! 貴様が失敗するから――だから――っ」
 途端、カティルは相手の目の前で馬から飛び降り、相手の顔を殴った。必死で対抗しようとするルアーイドに凄まじい怒鳴り声で命じた。
「城に運ぶぞ! 早く脚を持てっ、絶対に揺らすな!」
「駄目よ! こんな状態で運んだら、もっと血が流れる。死んでしまうっ」
「シャダーっ、先に行って城の全員を叩き起こせっ。ハンシスを横たえられる場所を見つけておけっ。清潔な水と布もっ、薬があるかもっ。早くっ、急げ!」
 射し込み始めた曙光の中、淡色の眼の色が血走っているのがわかる。この男もまた動転している。こんな時なのに昨夜の言葉がルアーイドの頭を過る。
“同意見だ。俺も奴の未来には、心底から期待している。奴には何が有っても、最高の為政者になって欲しい。
 だから、貴様の案に同意する。奴の障害を取り除く。――殺す”
 ルアーイドの涙が止まらない。その場に座り込んで、自分の行為を責めたい。叫んで身を投げだして詫びたい。泣き続けながらルアーイドは、ハンシスの身体を持ち上げて運び出す。
 ……アルアシオン城内の石床に、血のシミが続いてゆく。ハンシスの身体は地階の埃臭い一室に運び込まれる。粗末な敷布の上に横たえる。
 この時になってハンシスは漠然と意識を取り戻した。と同時、限界まで顔を歪ませた。
「――痛い」
 当然の単語に、ルアーイドの泣き顔が引きつる。
「ハンシス! 気が戻ったの? ハンシス!」
 シャダーが夢中で相手を見る。夢中でその左手を掴む。
「どうして――私の為に――、どうして!」
 横でカティルは城の守番男に矢継ぎ早に指示を出す。もっと水を用意しろ、城内には薬草の備えはあるのか、どの薬草がどのくらい、一番近い集落はどこだ、そこに医者か薬はあるか、もしくは僧院は、距離は――。
「ルアーイドっ、このまま山道を西に進むと聖コードの庵所が有るらしい。そこへ行け。俺は北の村に行く。とにかく医術に詳しい者か少なくとも腐れ止め薬だけは絶対に手に入れろ」
 カティルの言葉にルアーイドも即座に反応する。分かった、すぐ行くと叫ぼうと振り向いた時――。
 ルアーイドは気付いた。ハンシスは、必死で従姉の視線を受け止めていた。
 痛みは想像を絶するだろう。再び失神してしまった方がよほど楽だろう。それを必死に拒否しシャダーを見つめているのだ。
 そのシャダーの顔こそは、ハンシスが欲するのも当然だった。長い愛憎の過程を経て今、相手を受け入れ始めた眼だ。相手が無二の愛を与えると初めて知り、それに応じ始めた顔だ。それこそは何年もかけてハンシスが渇望したものではないか。
「早くしろっ、ルアーイド」
 カティルの声が飛ぶ。と同時に室外を出る。アルアシオン城のすり減った通廊をカティルは外を目指して一気に走る。
「イッル! 待ってくれ!」
 それを追いかけながら、泣きながら大声で叫ぶ。
「私のせいだっ、気付かなかったんだっ」
「何をっ」
「何も気付かなかった、知らなかった、だから――」
「だから何の事だっ、言いたいなら言え! ただし、走りながらだっ」
「ハンシスの事を思って! だから君に依頼した、シャダー殿を射殺せと! だってそうだろう? 君だってそう思っただろう? 今のままではハンシスも従弟の二の舞になると。シャダー殿にあそこまで執着してしまうのは危険だと――ラディンと同様ハンシスもまた身を亡ぼしかねないと!」
「思った。だから貴様に同意した」
「そうだろう? そう思ったから……あの執着心では従弟の二の舞となるから、だから、君の話を聞いて、思い当たることが幾らでもあって……。私は愚かで、何も気付かなかったんだ! だから私は――ハンシスの為だと思ったから……!」
「で、俺になんて言って欲しいんだ?」
 城門を出たところ、湖畔へと下る斜面の途中でカティルは振り向いた。
「貴様の感傷に付き合ってる暇は無い。自責にかられるくらいなら初めからやるな。忠義面した自己弁護は苛立つ」
 凄まじく冷たい眼で言い放った。
「俺は貴様の為に矢を射た訳じゃ無い。自分の判断でやった。貴様の下卑た自責など糞に塗れろ」
 言い放つと、もうルアーイドなど見向きもしない。湖ぎわに乗り捨てられていた馬を目指し走った。流れるような速い動作で鞍に飛び乗った。
「おそらく俺の方が早く戻れる。だがもし貴様の方が早く腐れ止めを持って帰れたら、即座に処置にかかれ。矢の抜き方は知ってるな」
「駄目だっ。私はやったことが無い、君がやった方が良いっ」
「俺にその暇は無い。もう一つ、すぐにやらないとならない事がある」
「何を――」
「ラディン」
 あっ、とルアーイドは思い出した。
 あの黒猫のような少年。あの猫がこの事態を知ったら……?
 ブハイル湖の水面に、薄い秋の陽が差し込んでいた。その水際をカティルの馬はもう走り出した。ラディンを見つけたらどうするんだと聞きたかったのに、その間は無かった。時間は無かった。
 時間は無い。今はハンシスの矢だ。もう泣き続ける余裕もなく、ルアーイド走った。
 ……
 時間は無いのに、アルアシオン城へと薬と共にルアーイドが戻って来たのは、その日の午後も遅い時刻になってしまった。
「ルアーイド! 腐れ止めは有ったかっ」
 城門前に待ち構えていたカティルが怒鳴りながら走り寄ってきた。
「有ったっ」
「良かった! 俺の方は熱薬しか見つからなかった。――時間が無い。俺はすぐに出発する。いいか、必ず一回で抜け、いいなっ」
 いきなり熱薬の薬瓶を相手に押し付ける。相手に有無を言わせず、カティルはそのまま再び馬に跨り、走り出してしまった。後の事は全て、引きつった顔のルアーイドに託されてしまった。
(止めろ! 俺だけに押し付けないでくれ!)
 そう叫びたいのに出来ない。泣く余裕すらない。動悸を覚え、喉が渇く。それでも城内に飛び込み、通廊を走り、瀕死の友が待つ部屋へと走り込む。
 その瞬間に目に飛び込んだ。ハンシスが、起きていた。
「……何で、……お前がここに――? ルアーイド……?」
 運が悪いことにハンシスは起きていた。起きてしまい荒い、呻くような息を吐いていた。このような時だというのにそれでも意思を込めた眼で見返し、ルアーイドを刃物で切られるような自責と混乱に追い込んだ。
 違う。自罰は後だ。だって自分は今から、もっと重要なことをやらないとならない。
「喋るな。全ては後で説明するから。今は」
「……お前が、矢を、抜くのか」
「――。そうだ」
「……分かった……」
 ハンシスが深い、苦しい息を吐きながら見てくる。思わず彼は泣き出しそうに怒鳴った。
「何で気を失ったままでいてくれないんだっ、起きないでくれ!」
 普段のハンシスならば、気の利いた冗談句でも返しただろうか。だが今は目の前で苦痛で歪んだ顔を示すだけだった。
 そして、シャダーは何も言わなかった。敷布の横に座り、ただハンシスの左手を握りしめている。相手の一呼吸すらを見逃すことなく見つめ続ける様は、この状況ですらルアーイドの感情に焼き付けられた。
 体に表れそうになる震えを抑えこみ、彼は横に座る。取り敢えず血が止まっていることを確認する。シャダーの助けを借りて体の姿勢を正すと、深く矢の刺さったままの矢の周囲をあらためて冷たい水で洗う。
「動かないで。力を抜いていてくれ」
 僅かだけ、ハンシスは頷く。彼は、自分の胸上を押さえる友の左手が震えているのに気付いた。
「目を閉じて、力を抜いていてくれ――」
 その通り、目を閉じる。友の手が、刺さったままの矢の根元を握るのを感じる。天上の唯一なる神よ……諸聖人よ……という友の消え入るような祈祷句が静寂の中に聞こえてくる。
 友の緊張が伝わって来る。ハンシスは、苦痛を予想する。だが。
 左手が温かい。シャダーが握っている掌が信じられなく柔らかく、温かい。その温もりの時間を長く、近く、長く感じ、
 胸を押さえる手、矢を握る手に力がこもった。祈祷の結句が聞こえた。
「天上の絶対者よ。その名において我を憐れみたまえ……、恵みたまえ――」
 瞬間、目を開けてしまった。友の硬直した顔と目が合った、そう思った瞬間――激痛が全身を走った。悲鳴が喉を突き、すぐ消えた。再び気絶した。
 ……
 その直後の事をルアーイドはよく覚えていない。主君の傷の手当のために様々なことを行っていたような気がするが、よく思い出せない。
 ただ、長い長い時間だけがじりじりと流れていった気がする。その間、身を切り刻まれる自責に苛まれていた気がする。その間に陽は進み、陽は没し、夜が始まり、夜が更け、また陽が昇っていく。
 カティルがアルアシオン城へと帰還したのは、その陽が再び沈みかけようとしだした頃だった。
「どこへ行っていたんだっ」
 城門から飛び出し、夢中でルアーイドは叫んだ。その眼は、緊張と疲労と独り何も出来なかったことで真っ赤になっていた。それに目もくれずにカティルは大股で中へ駆け込む。目指す部屋へと通廊を走り進み、即座に扉を開ける。
 そこには――二人の姿があった。
 窓から淡い秋の光が射していた。敷布の上、矢を抜かれ傷口に布を当てたハンシスがいた。薬を与えられて眠っているというのに、それでも苦痛があるのだろう、眉間が歪んでいる。酷く苦悶している様が伝わる。
 その枕元で、シャダーが左手を握りしめ続けていた。
 扉口を見ようともしない。彼女は相手が眠りについている顔を見つめ続け、しかし心配と不安を隠すことなく、しかしただ、とにかく見ている。ただ相手を哀しみ慈しむ純粋な横顔が、僅かな光の中に浮き彫られている。何の音もしない静謐の中。
“美しいな”
 初めて、カティルは思った。
 確かに、シャダーは美しかった。偽りなく自分を愛する男を認め、受け入れ、そしてそれに応えることで、彼女は確実に変わっていた。カティルですら、この二人の静謐の空間に立ち入るのに躊躇を感じてしまった。それ程に、静謐だけの空間だった。
 彼は静かに扉を閉じて通廊に出る。と、目の前ではルアーイドが待ち構えて、即座に訊ねてきた。
「ラディンは?」
「ハンシスは?」
 先に、強張った顔のルアーイドが応える。
「再び血が流れることは無かった。今のところ熱は出てない。傷口の腫れも無い。ただずっと意識が無い」
「傷はすぐに閉じそうか?」
「医者がいないから、判らない。――神しか、判らない」
「そういう言い方は止めろ」
「解らない。私には、この先がどうなるのか何も解らない。でも、ハンシスはいつでも意志が強いから、だから……だから、助かるのかな? 私には判らない、だから私――私は何をして償えばよいのか、分からないから……っ」
 強張ったまま、徐々に呼吸を荒くしてゆく。
「イッル! ラディンは今どこにいるんだっ」
「――少し落ち着け」
「答えてくれ! 一昨日の朝に独りで去ったままだ。教えろ、どこだ? これから私は命に代えてもハンシスを守らないといけないんだ、だからラディンの事を知らないといけないんだっ、今どこにいるんだ!」
「ラディンなら、ここには来ない」
「殺したのかっ」
 真顔で迫る眼に、カティルは驚いた。
「止めろ。そこまではやってない。奴はアール城にいる」
「どういう事だ?」
「アール城主の奴がとっくにナガから離反しているとは、先日立ち寄った時にすぐ判った。だから奴には密かに、俺の素性を伝えた。機を見て捕えろとも」
「……。捕える――ラディンを?」
「さすがにもうこれ以上シャダーを追わせるのは危険だと判断した。ハンシスを殺しかねないからな。アール城を出た後、あそこの兵士がずっと俺達の後ろを尾行していたんだが――貴様も同時に俺達を付けていただろう? まさか全く気付いてなかったのか? 本当に鈍い野郎が――」
「……。そんな事……私は、全く――」
「たった今アール城に行き、奴の様子を確認してきた。城主には、ラディンを絶対に逃すな、厳重に拘束しろと念押しした。取り敢えず、ラディンは取り除いてあるから安心しろ。
ルアーイド。言っておく。今後の事は神のみでは済ませない。俺達が慎重に考えるんだ」
「……」
 呼吸五回の間、ルアーイドは息をすることすら失ったように動きを止めてしまった。自分の知らない所で起こっていた出来事を知り、どうしてよいのか全く分らなくなってしまったのだ。
 相手の肩越しに、明り取りの窓が見える。そろそろ陽が没しようとする頃合いだった。あの瞬間から長い時間を経ているのに彼は今、初めて気づいた。そして泣き出すように笑い始めた。
「おい、何を笑ってるんだ。お前はどうしたいんだよ。ルアーイド」
答えない。笑い続ける。
「もし、本気でラディンを殺すべきだと思ったのなら、そう言え。それがハンシスの為になるのなら、いつでも俺がやってやる」
「……」
「それから。貴様は少し休め。酷い顔だぞ。今はハンシスの看護はシャダーに任せろ。とにかく、笑うのを止めろ」
 笑い声がかすれてゆく。もうどうしてよいのか分からない。そういえば、この丸々一日、いや、さらにその前の夜からか・ 寝ていない気がする。食べてもいない気が。もうどうでも良い。
 カティルはまだやるべき事があるのだろうか。早々に通廊を歩き去っていった。その後ろ背があっという間に消えていった。
 通廊に残されたまま、ルアーイドは立ち尽くした。明り取りの窓の外では、薄い秋の陽がブハイルの湖面に当たり、くぐもっていた。
 ……
 そして。夜の時が始まってゆく。そして、
 ブハイルの湖に面するアルアシオンの城で、世界はゆっくりと変わり始める。

(水の、匂い……、それに、光……)
 淡く、小さく灯った燭台の火が、微かな風にゆれていた。
 ゆっくりと、ワーリズム家のハンシスは目を覚ました。
 と同時に、焼け付くような痛みが体に襲い掛かってくる。耐えられずに顔を歪める。息苦しさを覚える。
(痛い……矢……肩の上、誰かが――ルアーイドが抜いた……?)
 記憶が、ぼやけている。霧が覆うようなぼやけた記憶をたどってゆく。
(矢――。湖の水際、音が無く、月が消えて……あの時、――シャダー……)
「目が覚めた?」
 左を向こうとし、蠟燭の光をもろに見てしまい、一度目を閉じてしまう。あらためてゆっくりと、ゆっくりと、目を開いてゆく。
 そこにシャダーがいた。
 慈しみの眼で自分を見ていた。一つだけの光の中。
 握られている左手から、体温が伝わっていた。長い、長く続いた静寂の果て、ハンシスは初めて乾いた声を発した。
「ここは……アルアシオンの城……?」
「そう」
 声がかすれる。声が、喉に張り付く。痛みが頭の中を覆いつくし、何を言って良いのか分からない。
「矢を……。誰かが、殺そうと、矢を……、誰――?」
「知らない」
「――ルアーイド、コルムの……私の臣下、なぜ?」
「あの茶色の髪の男? 彼は今も城にいるわ」
「なぜ……? もう、コルムに――ナガにも、使者を……?」
「知らない。どうでも良いから」
 再びの、静寂。
 傷の痛みが熱を帯びて脈づく。漠然と訊ねたい事柄は浮かぶのに、それを声にして訊ねる力はない。ただ目の前にいる、自分を見つめる相手を見てしまう。
 全て、遠い。遠い昔に思える。あの水霧の朝は、遠い時間だった。あの時は。そして今、目の前でシャダーが自分を見ている。
 ハンシスは、左の掌に力を入れた。自分の手を握るシャダーの手を、僅かに握り返した。
「朝……あの朝。――貴方は、受け入れると言ってくれ……、でも……果たせなかった」
「――」
「唇を、重ねて下さい」
 シャダーが自分を見ている。苦痛と沈黙、そして冷えた静寂の中、ハンシスは子供のように頼りない感情にさらされる。相手の答えに怯えている。
 一つだけの光の中。空気の冷気と湿度の中。彼女が自分を見ている。記憶の姿からよほどに印象を変えた、静かな、柔らかな、美しい姿だと感じる。
 苦痛と沈黙の中、長い時間を待ち続ける。シャダーが自分を見つめている。その姿から伝わる。彼女は変化をしている。受け入れてくれている。そして待ち続ける。
 水の匂いがする。シャダーの体がゆっくりと動いた。彼女は、自分が愛していると思う相手へと唇を重ねた。
 ハンシスの長い時間が、ようやく終わった。

・             ・             ・

 全く同じ時。
 こちらの室内には、限られた量の光しか差し込んでいなかった。一つだけの明り取り窓には格子がはめられていた。
 広い空間には何も無い。たった一つの出入り口である木扉には固く錠が下され、開けられることがない。
「開けろ! アールの野郎、悪魔に喰われろっ、俺が食い殺してやる! アールっ、来いっ、開けろ、ハンシスに寝返りやがって――!」
 暴れる回る獣のよう、狂ったように扉を打っていた。
 アール城内の北の片隅、普段であれば貯蔵庫として使われている離れ場に、ラディンは閉じ込められていた。何も無い石組の四角い空間に、たった独りで拘束されていた。
 あの日、カティルと別れた途端に数名の兵士に襲われた。捕縛され、アール城に連れ込まれた。その時点から今に至るまで、誰一人も何も言わない。どんなに喚いても、木扉の向こうからは何の物音もない。日に一度、無言の兵が食事を運ぶ以外は、物の気配は全くない。
 何も無い。鉄格子のついた明り取りの窓が、ぼやけた空と冷たい風を与えてくれるのみだった。それでも、ラディンは叫び続けていた。
「出せ! アール! 糞な裏切者野郎がっ、殺してやる、ハンシスも殺す、あの野郎も殺す、あの野郎こそさっさと安物の毒で殺しとくべきだったんだ! 殺してやる!」
 どんなに叫んでも、返って来るのは静寂だけだ。それでも叫ぶ。木扉を打つ。今日も、昨日も、その前も、さらに前も。この部屋に閉じ込められた最初の日から、ひたすらにラディンは打ち続けている。
「殺してやる! 貴様、殺してやる、ハンシス! ここを出せっ、シャダーは渡さない!」
 何も起こらない。扉を打つ音だけが、何も無い空間に響き続る。



8・  水滴

 時間が、秋が進んで行く。何回も何回も陽が昇り、沈み、星が昇り、沈み、その時間の流れの間に、空気も湖も冷えてゆく。
 アルアシオンの城の中では、大怪我を負ったハンシスが夢中で自分に出来る事を行っていた。
 ハンシスは、とにかく寝続けた。寝続けることで、脈打ち焼け付く激痛から自らを守った。起きてしまった時間には、朦朧としながらも何でも良い、何とか食べられる物を食べていった。そのような単純な努力の繰り返しは、慈悲深い神の同情を惹いたようだ。彼は高熱に陥ることも無く、傷口が腐り出すことも無く、少しずつ、少しずつ危機から抜け出し始めていった。
 まだろくに身体を動かせない。勿論、右腕は動かせない。ズキズキと肉を打つ痛みは傷口に強く残って響く。意識すらもぼやけがちだというのに、彼は不屈の気力をもって乗り越えていったのだ。――全能の神よ、感謝を致します。
 時間は進む。ブハイル湖に秋は進み、ようやく思考が正常に動き出し、人と長く、真っ当に会話ができるまでになった頃だ。彼が最初に行ったのはルアーイドを呼び出し、質問をする事だった。

「なぜ、君がここにいるんだ?」
 何も無い、がらんとした室内。
 大きく取られた窓からは、秋の薄色の空とブハイル湖が見える。横たわったままのハンシスが、僅かに顔を横に傾けて相手を見捕えている。荒い息の狭間から彼はゆっくりと、しかし立て続けに、知りたくてたまらない事を訊ねてゆく。
「今、私がここにいて負傷していることは、誰が知っているんだ……?」
「ナガの包囲戦の結末は……?」
「この怪我はいつ頃完治するのか? 腕は元通りになるのか……?」
 ルアーイドは、その視線にさらされていた。
 二人きりの空間で、寝台の横の椅子に座り、窓からの冷えた風を受けていた。感情を交錯させた硬い表情をさらしていた。主君でもある友の質問の一つ一つを聞く時も答える時も神経質に、茶色の瞳が揺れていた。
「だって――。貴方の突然の失踪を私が探さないはずないだろう……?」
「貴方の負傷について知るのは、この城内で働く数人を除けば、貴方の従姉殿と、ナガのイッル……カティルと、私だけだ……」
「ナガ城館は、とっくに降伏をした。貴方の勝利だ。貴方が一族の当主だ。ともかくワーリズム家は、貴方の望む通り、一つにまとまりそうだ」
「傷は本当に酷かったんだ! 最初はもう駄目かとひたすら神に祈り――!
 だから、回復が叶ったのは、貴方自身の体力と気力と、あとは神の御加護だと思う」
 そして。
「――私に矢を射たのは、誰だ?」
 ハンシスは訊ねた。
「貴方に矢を射たのは――」
 声が一度、ルアーイドの喉で途絶える。
 寝台の上から、ハンシスの眼がじっとみている。著しく体力を損なっているはずなのに、なのに強い力をこめてその眼は見ている。言葉を待っている。ルアーイドの瞳が不安定に揺れ動きながら瞬く。
「解らない」
 長い呼吸一回の後、言った。
「イッルも――彼も貴方を追いかけて来た訳だが、イッルが言うには、おそらく……ナガに属する兵の誰かだろうと。そう言っていた。包囲戦の決着ならばとっくに付いたっていうのに、何を今さら……。呪われた奴だ……」
 ハンシスの眼がじっと見ている。
 ルアーイドは、風が冷たいと感じる。室内に何の物音がしないとも。
「――その矢はあるのか?」
「……。何?」
「私の体から抜いた矢は、今どこにある? 見れば誰の者か判るかもしれない」
「……」
 ハンシスが見ている。寝た姿勢の横顔で、強い眼で見ている。
 当惑と緊張で一杯になるのを、必死で抑える。矢――あの矢でシャダーを殺そうとし、失敗し貴方を瀕死に追い込んだとは、それをやったのが自分だとは、それだけは知られてはいけない。何が有っても知られてはいけない。神の許に嘘は守られなければいけない。だから。
「矢は、捨てた」
「捨てたのか? どこに?」
「カティルが、捨てた」
「彼はどうして来ない? 今、城内にいるのか? それに、さっきイッルと言ったな。奴の事を、知っているのか?」
「……いや。知らない――いや、違う――違う、知っている。本人が少しだけ話した。驚いたよ。貴方の知り合いだったんだ。彼はつまり、貴方の――」
「私の?」
 視線に縛られ、ルアーイドは限界に達してた。悲愴な表情で首を横に振った。
「私は、知らないっ。矢も、イッルも分らないから……だから……、信じてくれ……だって私はいつも貴方の未来を思っているから……、頼むっ、嘘はついていないから!」
 嘘だ。嘘はついている。自分はハンシスに重大な噓をついている、神様っ、罰して下さい!
 呼吸する胸が大きく上下し、思わず何かを叫ぼうとする直前、扉が開いた。両者は同時に振り向いた。
 シャダーが、立っていた。
 簡素な服をまとったシャダーが、食事の皿を持って立っていた。その眼をもう、ハンシスへと向けて。
「もう出て行って。あまりハンシスに話をさせないで」
 静かな、しかし反論の余地を与えない口調だった。
 ハンシスの眼ももう、彼女を追っている。ルアーイドもまた、彼女を見てしまう。彼女は落ち着いた、しかし確固とした存在感だった。そして何よりも綺麗だった。愛を得ることで一つ高い場に移ったのだろうか。つい過日に自分が殺そうとしたはずの存在は、今や大きく転じてしまっていた。
「出て行って。早く」
「……」
 逆らえない。強張る足で、椅子から立ちあがった。無言で部屋から出ていった。二人の様を見ていたくない、そう思いながら。
 これから二人きりで何を語り合うのだろう?
 互いの眼を見ながら、何ら曇りなく思う通りを、感じる通りを語り合うのだろうか? そうやってさらに、一層に信頼と愛を深めていくのだろうか?
 通廊に出て扉を閉じ切った時、ルアーイドは呻くような息を吐いてしまった。……
ルアーイドは、息を殺しながら通廊の端にある螺旋階段を登る。城の上階にある物見台に達する。そちらに出た瞬間、全身に冷たい外気を感じた。秋の薄日の空の下に、ぼやけた湖が広がっているのを見留めた。
(世界は、良い方向へ進んでいくのだろうか?)
 ハンシスは、望み通りシャダーを手に入れた。シャダーはその愛を受け入れて、高い場へ昇ったのだろうか。弟への執着も消したのだろうか。二人はより良い場へ、曇りの無い調和の場へ立つのだろうか。
(ハンシスを中心において、世界は光の射す方へ進んでいくのだろうか?)
 だとしたら、自分は――。
 曇っているはずなのに光が眩しい。なのに風は身を切るように冷たく、体の底にぞっとする寒さを覚える。眼下のブハイル湖の色は黒くて暗くて、見続けていると息が詰まる気がする。
 嘘は湖の底へと沈めてしまえるのか?
 沈めてしまえば、湖の色に光は戻るのか? 本当に?
 本当に、自分もまた、光の射す世界へと進んでゆくことが出来るのだろうか?

・            ・            ・

 世界は――ブハイルの湖とアルアシオンの城は、光の射す方向へと進んでいくのだろうか。
 何日もの秋が進んでゆくのに合わせて、樹々の黄色も、ブハイル湖の色も、複雑に変わり続けた。その夜明けも世界は、湖は静まり返っていた。
 ……
 星は消え、湖面は薄い曙光を受けている。
 ルアーイドは今朝もまた、眠れぬ床を抜け出て物見台に立っている。この場に立つのが、彼の日課になっていた。この高い場より神経質な眼で湖を遠くまで見通し、胸の底に沈むような不穏を覚えることも。
(早くここを去りたい)
 全てが静寂の中に進むアルアシオン城で、ルアーイドの思いは日ごとに増してゆく。今すぐにでもここを出ていきたいと。
 ……昨日、城門から出発する時だった。
「“この世は万事、ことも無し”って事か」
 こうカティルが言った。
「ハンシスは完全に危機を乗り越えた。しっかりと体力を回復させている。もう心配は要らない。見事なものだ。月が半分に痩せる頃には、奴も馬での遠乗りが出来るようになるだろうから、そうしたらコルムに帰れるな」
 口調には、ごく素直な喜びが込められていた。
「向こうでは皆が、新当主となったハンシスが戻って来るのを待ってる。ワーリズム家の新しい時代が来るのを皆が待ち望んでいるんだ、勿論俺もだ。これからはハンシスが中心に立って、世の中が上手く回っていくんだよ。
 ――おい、何を悲壮な顔をさらしてるんだよ。悲嘆主義者のルアーイド殿よ」
 そう言って、珍しく素直に笑ったのだ。
「……」
 自分は笑えない。
 だって、本当に、万事世はことも無しなのだろうか?
 だってイッル。君だってまだ隠していることがあるんじゃないか? 今もそうだ。君は毎日の様にどこへいくんだ? 私の知らないところで、勝手に物事を動かしているのか? 以前もそうだったように? それに、
 ――あの猫の様な少年。
「ラディンならずっとアール城内に閉じ込めているんだぞ。心配するな。心配ばかりで身動きの取れない老婆か?」
 本当にそこにいるのか? 本当にもう何も隠してないのか? 今度こそ信じて良いのか? 本当にあの猫の様な少年は閉じ込められていて安心なのか? ……
「ルアーイド」
 びくりと身がすくむ。唐突の声に驚きと苛立ちを同時に覚える。
 またかっ、また気配を消して背中から近づいてきて、そうやって私の愚鈍と臆病をからかうのか!
「いい加減にしろ! イッル!」
 顔を歪めて振り返ると、――ちょうど曙光が差し込む場所だった。淡い光に縁どられるように、彼女は独りで立っていた。
「どうしたの?」
「……。失礼をしました。――申し訳ありません。イッルと……、カティルだと勘違いをしました」
「どうしたら私とカティルの声を間違えられるの?」
 驚くでも怒るでも茶化すでも無い。シャダーは静かだった。
「カティルは、昨夜戻って来たのかしら。今、どこにいるの?」
「彼ならば、昨夜の、かなり遅くになってから戻りました。今は自室で仮眠をとっているはずです。起こしましょうか?」
「そう。いいわ。自分で行きます。彼に訊ねたいことが有るから」
 それって? イッルに訊ねたい事って? 私の知らない事か? 二人で何について話し合うんだ?
 夜明けの光が白い色を増してゆく。冷たい風が吹き抜けている。シャダーは髪を押さえて立ち、黒い毛先だけがゆっくりと揺れている。
 あらためて光の中で間近に見た姿に、当惑を覚えた。それ程に彼女は落ち着いた、成熟をした女性だった。もう過去の姿が思い出せないほどに、見違えるほどに、彼女は内面から満ち足りた美しさを光らせていた。
「……」
 聞きたい。今こそ聞いて、確認したい。
“本当に貴方の心はもう、ハンシスだけで占められているのですか? もうラディンへの執着は消えたのですか? あれ程の執着を? 本当に?”
 訊ねたい。だが不安で訊けない。どのような回答を聞く羽目になるのかと思うと怖くて、訊けない。
「ハンシスもまだ寝ているわ。昨日は馬に乗って一緒に湖沿いをかなり遠くまで進んだから、そのせいで疲れているみたい」
「ハンシスに充分に体力が戻って、本当に良かったです。
 ……シャダー様。これならば、そろそろここを出発出来るのではないでしょうか? この城には守備兵がいません。警備に不安があります。加えて、コルムとナガの状況を考慮するならば、一日でも早く帰途についた方が良いと私は思います」
「それはまだ駄目よ。まだ充分じゃない。ハンシスの身体にさわるから」
「しかしながら――」
「その辺りについても、ちょっとカティルに訊きたい事があったのに。――ねえ。彼は連日のようにどこに行っているの?」
「……。私も良く分かりません。でも、勿論、ハンシスとワーリズム家の為に動いているはずです」
「ハンシスと、ワーリズム家と、ラディンの為でしょう?」
 びくりとルアーイドの表情が揺らいだ。ラディンという単語を、シャダーが口にした、それだけで恐怖を覚えた。
 シャダーは、本当にもう弟への執着を消したのか?
 あの不気味な猫は今、本当に拘束されているのか? もしかしたらイッルは連日、ラディンに会いに行っているのでは? 彼は本当はハンシスを裏切っているのでは? 二人で何かを画策しているのでは?
 解らない。なのに誰も真実を教えてくれない。自分が誰を信じてよいのか、何をすれば良いのか解らないのに、一日の時間は途方もなく長い。ブハイル湖の色だけが確実に変わってゆく。
 世界は本当に良い方へと進んでいるのだろうか。全く、解らない。
 ……
 シャダーが去った後も物見台に残り、ひたすらにひたすらに湖を見続ける事しか出来なかった。ようやく足を踏み出すことが出来た頃には、すでに太陽は天頂を過ぎかけていた。
 行き先を決められない。歩いた果て、気づくと城門を出ており、その位置からまたブハイル湖を見てしまう。何をすれば良いのか解らない時間は、ルアーイドの神経を蝕んでいく。秋の昼過ぎ、雲間からの陽射しを受けて、湖面は淡い青色を帯び始めて……、
 はっと、物音に振り返った。
「イッルっ」
 カティルが馬に跨りながら城門から姿を現した。
「行くのか、また行くのか? どこへっ、夜遅くに戻ったばかりなのにまた行くのか、アール城に?」 
 相手が無視して進もうとするのをルアーイドは馬の手綱にすがり付いて停めた。
「退けよ。邪魔だ」
 うんざりといった眼が、鞍上から見下してくる。
「教えてくれ、アール城に行くのか? もう昼過ぎなのに今からいくのか? 行先はアール城なんだろうな?」
「なんで同じことを何回も訊くんだ? ――そうだ。アール城だよ。あそこに行けば、鳩を飛ばしてナガの老ワシールと連絡を取れる」
「ラディンは?」
「勿論、城に閉じ込めたままだ」
「本当なのか? 本当に?」
 薄い陽射しの中に、カティルの瞳も明るい淡色に浮かび上がっている。その明るい色彩だけで相手のことが解らなくなる。相手の言葉が本当なのか判ぜられなくなる。
「本当は、何か私に隠している事があるんじゃないか?」
 カティルが苦々しい顔で吐いた。
「そんなに俺の言葉が信じられないのなら、信じなくて良いぜ」
「やっぱり嘘なのか! 真実を教えてくれっ、隠さないでくれっ」
「しつこい。馬鹿か?」
「頼むから! 教えてくれ! 毎日どこに行っているんだ、何をやっているんだ!」
にやりと、子供っぽい笑が浮かぶ。カティルはからかった。
「――誰が教えてやるものか」
 途端、ルアーイドが蒼ざめた真顔になり動きを失ってしまったのに、カティルは驚いた。
「何だよ、その顔。冗談だよ。貴様があんまりしつこいから悪い。
大体、何がそんなに心配なんだ? 外敵か? それだったら、このアルアシオン城は外周のほとんどが湖に突き出しているから安心だ。地続きの部分は、ここの城門部分だけだ。城門が閉まっている限り、誰も侵入出来ない。だからお前も少しは落ち着け、老婆野郎」
「……」
「物事は良い方に進んでいるんだぞ。少しは笑え。陰気な顔ばかりさらすな」
「……。ならば、私は今、ここで……何をすれば良いのかな……?」
「俺に訊くな、阿呆が。自分で考えろ。好きにしろ」
 あっさり言い切った途端、もう見向きもしなかった。カティルは馬を走らせ湖沿いに行ってしまった。
 独り残されたまま、湖からの冷気に吹かれ、体の芯が冷えてゆく。世界にはなんの音もない。それだけで不穏だ。ルアーイドは城内へと逃げるよう、踵を返したのだが、
 ぞくりと――背筋に冷気が走った。
 湖を見下ろす城の物見台に、シャダーとハンシスが立っていた。
 つい先程まで自分が立っていた場所だ。そこに秋の薄い陽光を受けて、二人が並んで立っていたのだ。
 顔が良く見える。螺旋階段も無難に歩けるようになったことを喜んでいるのだろうか、揃って穏やかな笑顔だ。こちらには全く気付かず、共に空と湖を見ている。流れる雲と青い湖面を見ながら互いに目を交わし、嬉しそうに喋り合っている。
 ルアーイドは、感情を覚えられなくなった。意味すら解らない涙が目ににじんだが、その自覚も無かった。そして、

 ブハイル湖からの冷たい風に、水の感触を覚えた気がする。
 水の感触が夜、闇の中、ルアーイドに襲い掛かる。

        ・           ・           ・

 星が、時間が、流れる。
 いや。とどまっているのか。解らない。
 ……
 真夜中だった。
 感じた。水の匂いがする。
 水の匂いが漂っている。なぜ? 水の匂いと冷たい空気。そして、僅かな音。水滴が硬い床に落ちる音。はっと、ルアーイドは闇の寝台から身を起こした。
 室内は闇だった。今夜も一晩中燭台の灯を付けておくはずだったのに、その灯を見て過ごすつもりだったのに、いつの間にか寝ていたのか。その間に火が消えたのか。
「誰かいるのか?」
 闇に、何かの気配がする。
「いるのか? 誰だ?」
 闇を見ながら、右側に腕を伸ばす。一晩中壁に立てかけておいた長剣を掴もうとし、
 その瞬間、右腕に激痛が走った!
 潰れた悲鳴を発した途端、体を引っ張られて寝台から落ち、床へ崩れこむ。途端、次の苦痛が右肩を襲った。
「誰――っ」
 やっと振り上げた顔に、右頬に、ひやりとした水の一滴が落ちた、と次の瞬間、襟首を掴まれ強い力で引き上げられた。
「ハンシスはどこだ」
 水の生臭みが臭う。荒く息を吐き、もう一度闇に目を凝らそうとした途端、強かに顔を殴られた。体の上に圧し掛かられた。
「言え。ハンシスはどこだ」
 この声……覚えている。
「ナガの、ラディン――」
 やっぱり嘘だったじゃないかっ。心配無いと言ったくせに、確実に拘束していると言ったくせに、イッル!
「早く言え。シャダーもいるんだろう? どこだ」
「どこから入ってきたんだ……?」
 闇に慣れた目がようやく捕えた。今、自分の顔の前に、小柄な輪郭の顔が有る。闇を通してすらはっきり分かったのは――怒りの感情を剥きだした大きな黒い眼。
 ラディンの右腕が振り上げられた瞬間、ルアーイドは夢中で叫んだ。
「待て! 止めろっ、話すから!」
「早く言え!ハンシスとシャダーはどこだ」
「今は、ここに、いない」
「嘘をっ、この場で切り刻むぞ!」
「嘘じゃない、二人とも今朝から……城を離れて――、
 ナガのラディン殿、どこにいたんだっ、ずっと探していたものを……」
 僅かな笑みを作り敵意を打ち消そうとする間にも、頭の中では猛烈な勢いで様々な考えを巡らす。とにかくこの状況を崩さないと。この圧倒的な不利を何とかしないと。視線をちらっと流す。闇の右隅に、壁に立てかけられたままの長剣が写る。
「おい!」
 びくりと視線を戻した時、ルアーイドは気づく。相手の髪から水が滴っているのに、初めて気づく。汚れ切り、いたる所が損傷した服もまた、ぐっしょりと濡れている。
 さらに気付く。自分の襟を掴む掌が酷い傷を負っている。本当に酷い、見るだけで痛々しい、数え切れないほどの切り傷や腫れが両掌を覆い、血と体液が一面ににじんでいる。
「……まさか、――泳いで来たのか? この寒空の夜に湖を、まさか……泳いで……。それに、その両掌……」
「訊いているのは俺の方だぜ」
 濡れた傷だらけの右手が、しかし平然と脇にあった燭台を掴んだ。大きく振り上げた。
「止めろ! だから二人とも、ここにはいない。ハンシスの傷を診てもらうために、近くの村に行っている」
「しゃあしゃあと言うぜ。真実だけを言えよ、糞がっ。ふざけやがって、――おいっ、俺を見ろ! 打つぞ!」
「分ったから! ラディン殿、真実を言うからっ、だから殴らないでくれっ」
 ルアーイドの顔が恐怖に歪むのを見て、猫じみた笑みを見せつける。獲物を追い詰めた眼だ。絶対的に上位に立った嗜虐の笑みだ。
 その笑みが一転した! 猫が凄まじい苦痛の悲鳴を上げた。
 ルアーイドが相手の左掌を握り掴むと、力づくで引き寄せ思いきり噛んだのだ。即座、相手を押しのけて転げるように石床を動く。ぽつんと立て掛けられたままの長剣を目指す。
「剣!」
 両者が同時に叫んだ。同時に剣に手を伸ばした。
(掴める!)
 一瞬早く掴む。これで勝てる。今ならできる。まとまらない思考の中でずっと考えてきた事、決意しきれず躊躇していた事、未来の為の事。それが難なく今なら出来る。
 猫を殺せる。ハンシスの前から永遠に抹消できる!
(神様!)
 今度はルアーイドが苦痛の悲鳴を上げた。燭台で背中を思い切り打たれた。握ったはずの剣が手からこぼれる。それをラディンが素早く奪い取る。はっと視線を動かし、相手の顔を見る。
 何の躊躇もなく人を殺せる眼が、――その眼が自分を捕えている!
「殺す! 言え!」
 恐怖が一瞬にして身を縛る。恐怖に縛られ動けない。
「今すぐ殺す、言えっ、ハンシスは!」
 動けない。思考が出来ない。判断が出来ない!
「止めろ! ハンシスは最上階の奥だ!」
 しまった――!
 なぜ言ってしまったんだっ、なぜ――!
 夢中でラディンに手を伸ばす。だが目の前でラディンは素早く立ち上がり走り出し、部屋の扉を抜けてしまう。
「待て! 違うっ――ラディン、待て!」
 即座追いかけたその鼻先、部屋の扉はすさまじい音を立てて閉まった。
「開けろ! 違う、待てっ、ラディン、教えるから――今までに起こった事……聞いてくれっ。頼む、扉の錠を開けて――ラディン! ハンシス!」
 閉じた扉越しに相手が石床を走る微かな足音が聞こえ。消えた。
 ルアーイドは恐慌に陥る。自分のせいでまたハンシスが傷付く。傷付き――死に追いやるっ、自分のせいで!
「開けろ! 止めろ! ハンシス――!」
 自分の剣がハンシスを切る!



【 続く 】


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