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遠い遠い西の果てブハイルの湖にて(4)

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5・ 霧雨


 シュリエ城砦のある乾いた丘陵地から、さらに西へ。
 乾いた丘の連なりはやがて、山地へと変じてゆく。地面が高さを増してゆくにつれ、気候も地勢も劇的に変じてゆく。乾いていた空気は急速に湿度を増し、まばらだった灌木の地面には少しずつ背の高い木々が増えてゆく。
 風景もまた丘陵地の単調から一転、断崖や渓谷といった変化に富んでゆく。豊かに茂った木々は林を形づくり、平地よりずっと進んだ秋の中、枝先が美しく黄葉している。富んだ風景を一層に彩っていく。
 ワーリズム家のシャダーの乗る馬車は、この変化と色彩に富んだ世界をたどる山道を進んでいた。
 ……
 朝からずっと、消えそうなほどに細かい霧雨だった。鮮やかな木の葉の黄色に薄霧の白色が混ざり、世界は不思議な色彩だった。しかしシャダーはそれすら見ない。ただ、強張った顔で膝に置いた自分の手だけを見ている。
六人の護衛兵もまた何一つ喋らない。女主人と全く同じ、堅苦しい顔でただ薄霧の前方を見据えながら、狭くうねった山道をたどっている。
 唯一の例外は、少年兵のティフルだった。彼だけが、
「シャダー様。見て下さい。霧が少し薄くなって来ましたよ。木々が綺麗ですよ」
 馬車の窓のすぐ横に馬を寄せ、必死に女主人に気遣っていた。
「ずっと山道が続いて馬車が揺れますからお疲れですよね。でも、もうそろそろ峠の頂きです。もう少しで到着しますから……。もう少しでアール卿の城に着きます。馬車を下りて、乾いた火の焚かれた部屋で休めますよ。今夜は柔らかい寝台でお休みになれますから」
 夢中で笑顔を作りながら言う。しかしそれでも馬車の内側で、女主人は憔悴しきった顔だった。
「早く、休みたい。――早く全てが終わって、帰りたい。ラディンに会いたい」
 周囲の兵達は、見事に無言だった。
 シュリエ城砦での悲劇的な事態から、すでに二夜が過ぎていた。城主カラクに厄災者呼ばわりをされて、追い出された。その際に浴びせられた激しい罵倒の句に、
“貴様のせいでラディンもワーリズム家も飛んでも無い悪運に捕まったんだ! 俺もだっ、貴様にかかわったばかりに飛んでも無い面倒に巻き込まれただろうが! 悪魔とでも寝やがれ! 自ら災いを受けやがれ!”
衝撃に言葉を失ってしまった。その果てに今、こんな陰鬱な山道を馬車で揺られていた。こんな寂しい僻地で、屈辱に内臓を絞られながら馬車に揺られていた。
 それを気遣ってくれるのも、ティフルだけだ。他の六人の衛兵は、本当に一言も喋らなくなった。
「シャダー様。城主のアール卿とは、どんな方ですか? シュリエ城砦にいる時にも少しお話を伺いましたが、もっと教えて下さい」
 ティフルが必死で笑う。シャダーは少しだけ目を上げた。少年を真似して笑おうとした。
「そうね。どこまでを話した? アールがワーリズム家の為にグタの領主と友好の約束を取り付けるのに成功をして、それを祝って城館で宴会が催された話はした?」
「いいえ。まだです。是非聞かせて下さい」
「あの時は、普段は厳格な父上もとても上機嫌になって、アールにしきりと酒を進めて。私にも酌をするように命じて。私が十五歳の時だったかしら……。
 アールの一族は代々にわたってワーリズム家の忠実な臣下なのよ。私に対しても存分な敬意を示してくれて。実際一度は、私との婚礼の話が出たことがあったし。本当に優れた臣下だったわ」
 言葉と共に、古なじみの豪族の姿がよみがえる。あの時の大宴会の場は光に満ちていて。大変な人数がいて。笑い声と喋り声で賑やかで。愛する弟がいて。
「……」
 シャダーはまた黙ってしまった。幸福な思い出が現実の惨めさを際立たせた。疲労感が肩に重さを加えた。
 だが、彼女よりももっと疲れている者なら居る。護衛兵達こそが疲れ切り、苛立ちと不満を内心の一杯に溜めている。でも彼女はそんな現実に気付こうとしない。前後を衛兵に護られながら、馬車は狭い峠道を登ってゆく。
 彼女が心底より待ち焦がれていたアール城への到着は、夕刻になったのだが、
 ……
「ねえ。まだなの? 何をしているの?」
 護衛の一人が門を叩き続けている。
「疲れているの。早くして。早く開けてもらって、早く」
 もう疲労と苛立ちを隠すことすらしない。シャダーは自ら城門の前に立っている。外套はたっぷりと霧雨を含んで重たくなっている。フードの下で、髪は額に張り付き、化粧も落ちている。
 確かに、彼女は疲弊していた。先ほどティフルの手を借りて馬車を下りる際には思わず老婆じみた溜息を漏らしてしまった程、疲労していた。早くして欲しい。雨はもういい。早く乾いた空気に当たりたい。温かい食事と柔らかい寝台が欲しい。全てこの城門一枚の向こうにあるのに。
「ねえ。早くしてもらってっ。なぜこんなに待たされるの? 門を叩いているのに気付いていないの?」
 城門の脇に立つ衛兵隊長カワーイドが振り返った。
「こちらがここにいる事は、必ず物見場から見ているはずです」
「だったらここを直ぐ開けるはずよ? なぜ? 理由は?」
「理由は、私達が拒絶されている為です」
 そう冷めた口調で言われた途端、彼女は苛立った。
「何を言ってるの? そんなはずは無いっ、だったらすぐに門を開けるわよ! お前だってアールは覚えているでしょう? 忠臣だったじゃない。今はナガ城館に出仕していないけれど、ワーリズム家への義には篤かったわ。それなのに何で――!」
 苛立ちは怒りに変じ始める。と同時に外套の下の肩が小刻みに震え出した。
 何で皆が私の邪魔をするの?
 私は何か悪いことをしたの? 何がいけないっていうの? シュリエ城主の酷い言い様のように厄災の魔物に取り憑かれているの? 厄災はハンシスなの? まさかここまで先回りしていてまだ邪魔をするの?
 顔が強張る。両の掌を強く握り締める。混乱する感情のまま、思わず大きく喚き出しかける直前だ。
「お願いします! 早く開けて下さい! ワーリズム家のシャダー様が困っています、お願いします!」
唐突にティフルが叫びながら駆け寄り、力一杯城門を打ち出した。
「早く開けて下さい! 今、シャダー様は本当に困っています! ずっと旅を続けていて、しかも困難に見舞われて――本当に疲れて困っていますっ。ワーリズム家の忠臣であられたアール城主、お願いします。シャダー様を休ませて下さい。ここを開けて、中に入れて下さい!」
 夢中で門を打つティフルの顔の全体を、細かな霧雨の水滴が覆っていく。いくら叩いてもなんら変化の気配の無い門を、それでも散々に叩き続ける。その掌の拳が赤味を帯び出してゆく。赤味がどんどんが酷くなってゆく。
 その頃だった。意外だった。
 ティフルの熱意は報われた。唐突に、門が開いたのだ。
 当地の領主・アール卿は、たった一人だけで立っていた。

・          ・           ・

 数日という時間を経ただけで、乾いた丘陵地に居残っていた夏も完全に過ぎ去っていた。空は曇りがち、鳥の声も減りだしていた。秋の静寂が始まっていた。
 ……
「全く、不幸な偶発でした。 私もその瞬間にどうする事も出来ず……。
 ええ。使者を射殺してしまった事にあの御方は半狂乱に陥られて、私が止めるのにも聞かずに――。何とか思い留まらせようとしたのですが、誠に申し訳ありません、叶いませんでした。
 行先は、当然ナガに御帰還されたのだと思っていましたが、違ったのですか? 街道ですれ違われなかったとすると、まさか別路でお帰りに? だとしたらば何とも心配ですが、しかしなぜそのような事を……?
 それにしても……。本当に、あの時私が無理をかけてもお停めしていれば……。悔いても悔いても、悔いきれません。幾重にも幾重にも、お詫びを申し上げます」
 城主カラクは長々と、いかにも心底より苦悩したという顔をさらしながら言った。
 その日も、丘陵のただ中のシュリエ城砦は東風を受けていた。薄く曇った空の下、城主の美麗な濃紺の長衣をまとった姿を前に、ラディンとカティルは話を聞いていた。城内に入ることもなく、巨大な城門の前で騎乗のままで、無言でその長々の弁を聞き続けていた。
「あの御方がナガ以外の場に向かわれたなどとは考えられません。何かしらの危険を避けて、付近のどこかに待機なさっているのでは。
 ――ところで、貴方様がここにいるという事は、ナガの包囲戦は終結したのですよね? ナガの為、一族の為、姉上の為に、すぐ様にも御帰還なさった方がよろしいのでは。ラディン殿?」
 だが二人は、帰還の道を取らなかった。馬を進めるのは、帰路とは真反対、さらに西のジュバル山地への方向だった。
 ……
「城主のカラクが嘘を言っていると思っているのか?」
 すでに丘陵地を抜けて、ジュバルの山道に入りだしている。狭い路上、馬を横に近づけてからカティルが訊ねる。シュリエ城砦を出てから五度目だった。
「俺も、あんたの姉はナガへ戻っていると思うがな。何をおいてもあんたに会いたいと強く願ってるはずだ。たまたま帰路で何かが起こったんじゃないか? 事故か、もしくは何かしらの事情で身を隠しているとか」
 しかし。
「――」
 やっぱりラディンは応えない。今までの四回と同じく。ラディンは城砦を出てからまだ一言も口を効いていない。
 くねった狭い道の周囲で、風景は山地のそれに変わっていた。急激に数を増した樹々は黄葉し出し、空気が湿度を含み出し、空の雲は厚く、暗くなり始めていた。
「間違ってないだろう? どうして戻らないんだよ、ラディン」
「――」
 応答無し。今回も無視されたなと思った時だ。ついに友人でもある主君は、視線を全く動かさずに言った。
「シャダーはナガに戻っていない」
「やっと口を効いたか。愛しい姉の行方が掴めなくなって、動転で喋れないのかと思ったんだがな。――で、今どこにいる?」
「山地を登り切った、アールの城だ」
「言い切ったな。絶対なのか? 見えてるのかよ。そんなにあんたは姉の事を知り尽くしているのか? “髪の毛から爪先まで”か?」
 その時、ラディンがカティルを振りむいた。真っ黒の眼が示した不快な怒りは、この一番の友をしても一瞬気を飲ませる強さだった。
「俺とシャダーを茶化す気なら、この場で殺してやるぜ」
「……。怒るなよ」
「シャダーなら、アール卿の所だ。父親の代からあの男はワーリズム家に絶対の忠義を持っていた。シャダーにも礼節を尽くしていた」
「それだけか? それだけが理由で、大勢いるワーリズム家臣下の中でアールとかいう奴に限定するのか?」
「ワーリズム家臣下でシャダーに敬意を持っている者なんて、他にいない」
「え?」
 言葉の辛辣さに、思わず一瞬だけ馬を止めてしまった。ラディンだけが全く変わらない歩調で山道を先行していく。
 ……その頃からジュバル山中では、空の暗さが目立ち始めた。いよいよ空気に湿度が増し、薄い霧がかかり始めた。
 峠への道を登るのにつれ、背の高い樹々が一層に増え、木の葉の黄葉が色を強めてゆく。風は無い。鳥の姿も消え、物音も無い。静かだ。
 馬の蹄音だけが不規則に響く。狭くうねった山道を、二頭の馬は登ってゆく。二人はもう口を利かない。少しずつ霧の白さを増していく。静寂の世界は霧に包まれて始めている。
 ――突然、静寂が崩れた。
 カティルの淡色の目、ラディンの猫の眼がほぼ同時に捕えた。ラディンの口が聖典句を口走った。
「守護天使は我が右肩にあり――」
 彼らの左手、渓流が削った谷の向こう側。
崖の斜面の小道をハンシスがたどっていた!
 黄葉した木立の間に、確かに見える。濃緑色の外套をまとい目深にフードを落とした姿で大柄な葦毛馬に跨っているハンシスが、脇目も振らず進んでいる。
 辺りに物音は無い。鳥すら鳴いていない。薄い霧が僅かに動いている。ラディンは丸切り感情を持たないかのように淡々と言う。
「天使は讃えられよ、神の御名において。奴は、こっちに全く気付いてない。
 やれ」
「――。え?」
 猫の目がこちらを、カティルを向いた。
「早く。やれ」
「何のことだ」
「早くしろ。さっさと行ってしまう。今ならちょうど木立の隙間が広く開いている。すぐやれ。早く弩弓を出せ」
「――。ここで、奴を射殺すのか?」
 いとも簡単にラディンの首は頷いた。

・             ・             ・

 当地の城主アールが、ただ一人で立っていた。
 彼は、雨よけの外套を着ていない。黒色の胴着も短く刈り込んだ髪も、水滴をたっぷりと吸っていた。この場に長く立ち続けていたことは明白だった。
「アール卿、ご無沙汰をしております」
 カワーイド隊長が頭を垂れる。
 が、アールは返さない。高い上背の背筋を伸ばしたまま、全く動かない。ただ鋭い眼が、来訪者を見据えている。
 嫌な沈黙になった。と、ティフルの若い勘が早くも不穏を察した時、
「アール!」
 シャダーが滑りやすい地面をぎこちなく歩きながら相手の所まで来た。彼女は即座、夢中で相手の手を取って握ったのだ。
「ああ、全然変わっていない……会いたかったわ! 貴方の出仕をずっと待っていたのよっ、本当に会いたかった」
 唐突の言葉に偽りはない。誰の目にも明らかだ。彼女の顔は苛立ちから一転、鮮やかに笑んでいる。たった今までの憔悴は消え、一気に生気を取り戻している。
「本当に、全然変わっていないのねっ。父上が死んでラディンの代になってすぐに貴方が領地へ戻った時は驚いたわ。あんなに止めたのに――。でも、こうやって再会できた、良かった。話したいことが一杯あるの。中に入れて」
 だが。
「アール? ずっと山道で揺られていたから、早く中に入れて。どうしたの? とにかく乾いた空気にあたりたいから」
 無言の、微動だにしない眼でただ見据えている。
「何なの? 早く――? ……なぜ?」
「貴方を受け入れません。お帰り下さい」
 一瞬、シャダーは意味が理解できないという情けない顔になる。しかしすぐに察した。顔はまた変わる。唇を噛んだ憎悪の態に転じる。
「ハンシスね」
「何の事ですか」
「誤魔化さないで。ハンシスね! あの恩知らずがここにも先回りしていたって訳ね。
 でも、だからって――聖天使様、信じられません! 貴方が……父上からあんなに信頼を受けていた貴方が……その貴方がハンシスに買収されるなんて!」
「私は買収など受けていません。全て私の意思で決めた事です。
 私は、貴方と、貴方の弟に嫌悪を覚えます。故に拒絶をします」
「……。何を言っているの?」
「早く去って下さい。さもないと私は武力をもって貴方を追い返しますよ」
 白い細かい霧雨の中、アールはどこまでも冷ややかだった。言葉も、態度も、全く感情をまみえず冷徹を貫いていた。
 周囲の衛兵達は、誰一人も言葉を発しない。ただ、唖然と言葉を失ってしまった女主人を見据えていた。彼女が次に何を言い出すのか、どんな態を示すのかを無言で待っていた。その言葉を予測していた。
「酷い……」
 聖者よ。予想通りだ。
 シャダーは涙をにじませ出した。予想外という衝撃に怒りと屈辱を加え、口端を僅かに震わせ、必死で相手を睨みつけた。
「お前だけは、ワーリズム家の危機にも頼りになると――一番頼れると、信頼出来ると思っていたのに……この、罰当りの裏切り者……っ」
「裏切り者呼ばわりは止めて下さい。私は、先代ワーリズム殿にとって最高の臣下であったと自負しています」
「だったら私を助けなさい! 今すぐ私を城に入れなさい!」
 シャダーが激しく怒鳴った瞬間、アールの怒鳴り声が霧雨を突いた。
「少しは現実を見ろ! 愚か者が!」
 淡然ぶりが吹きとぶ。アールの形相が憎悪に引きつり、燃えるような憤懣の眼でシャダーに迫る。
「無知で、傲慢で、現実を見ない者が! ワーリズム家を害した者が!」
 だがシャダーもひるまない。シュリエ城砦の時は何も言えなかった。為に惨めさに泣く羽目になった。もうそれを繰り返すのは嫌だ。感情を剥いて叫んだ。
「私が何をしたっていうの! どこが無知で一族を害しているっていうの!
 貴方だって知っている――ええ、知らないなんて言わせない。私こそが現実を見てワーリズム家を支えてきたわ。母上がラディンを産んですぐに亡くなってからは、母親代わりにあの子を育ててきた。ラディンが当主に就いてからだって、いつでもあの子を助けて一族の為に――それを何で――!」
「その身勝手な論理を止めろ! 聞いていて恥ずかしい。“私はどれ程弟を愛したか”だと? その挙句に今回の内紛騒動を引き起こしたとなぜ気付かない? そこまで愚鈍なのかっ」
「そうよ、その通り私はラディンを愛しているわっ、それのどこが悪いの? なぜ責められるの!」
「誰か!」
 唐突にアールは声を遠くに放った。同行の六人の衛兵達に向かい問いかけた。
「誰か言ってやれ。この女の弟への執着が、それでなくても無能な弟を一層の阿呆に仕上げたとな」
「呪われろ! アール、全ての聖者から罰を受けろ――!」
「早く、誰か言ってやれ。お前たちが一番良く知っているはずだ。この女の愛とやらの為にラディンはいまだに乳離れ出来ない阿呆になり、よって当然の結果として無様に当主の座から落ちたとな」
「罰当たりな嘘を――! 城館の誰一人だって私達のことをそんな――誰も私達のことを責めたりなど――!」
「『真実は驚愕と共に示される。雨夜の闇を割く雷光の如く』」
 唐突の、はっきりの口調が、カワーイド隊長から発せられた。
「神聖なる聖典の句が伝える通りです。御理解を。シャダー様」
「……。何を、言っているの?」
「私も、アール卿と全くの同意見です。私も、貴方を拒絶します」
「……」
 もうシャダーには、自分がどのような顔になっているのか分からなかった。喉の底から搾るように、やっと言った。
「……。よく、そんな事が言えるわね……。何十年も城館に仕えた果てに、そんな酷い事を――良く……」
「先代のワーリズム殿は、間違いなく尊敬に値する卿でした。しかしながら――。いくら血筋の良い猟犬だろうと、仔犬の時にきちんと躾けられていなければ、殴られて追い払われるのではありませんか? それがラディン殿です。
アール卿の言葉の通り、貴方様の弟への執着が、ワーリズム家を悪しき方へと招いてしまった。今となっては、御従弟のハンシス殿だけが御一族の唯一の希望です」
「――。黙りなさい。黙れ。
 カワーイド隊長。お前をナガ城館から追放します。今すぐ、どこへでも消えなさい」
「喜んで」
 カワーイドはその場で、深々と身を垂れる。そして彼は歩みだした。
「……え?」
 シャダーの目の前、白い霧雨の中、カワーイドはそのままアール城主の許へと進んいってしまった。絡み付く細かい霧の水滴の中、貴方様の名の許に私の忠誠を捧げますというカワーイドの至極簡素な宣誓の辞が聞こえたのだ。
 シャダーの顔から激怒は消える。呆然へと変わる。しかもさらに事態は進む。背後から、泥を踏む複数の足音が起こった。残る護衛兵達――ティフルを除く全員がカワーイドに従い、アールの側へと歩んでいったのであった。
「……」
 水滴がシャダーの顔にも絡みついてゆく。シャダーの顔が白くなる。もう彼女は感情を上手く表すことが出来ない。言葉も、動きも無くしていく。
「ワーリズム家のシャダー。この領地内から出ていけ」
 アールは再び、感情無く吐き捨てた。
「嫌よ」
 何の理由も無い。ただ、発した。
「出ていけ。武力で追い出すぞ」
「嫌っ」
「ワーリズム家のシャダー、出ていけ。今すぐ出ていけっ」
「もう止めて下さい!」
 泣き出しそうな顔でティフルが叫んだ。
 ティフルには今、現実がどのようにねじれてしまったのか、それに自分がどう対応すればよいのか全く判断ができなかった。感情だけが高揚し、目に勝手に涙がにじみ、ただ大声で叫んだ。
「止めて下さい! こんなのおかしい、止めて下さい!」
 アールはもう、見向かなかった。
「止めて下さい!」
 少年の叫びの続く中、城の門は閉ざされてしまった。
 霧雨が深まり出してゆく。世界はどんどん白さを増してゆく。
 その時初めてティフルははっと振り返った。声が聞こえた。シャダーが、声を上げて泣き出していた。
「シャダー様……っ」
 ティフルは本当に、本当にもう、何をすればよいのか判らなかった。

・           ・           ・

 濃緑の外套をまとったハンシスの騎馬姿が、黄色く彩られたジュバル山地の崖沿いの道を、黙々と進んでいる。それをラディンは、猫のような細い眼で遠く見据えている。
 そして、もう一度繰り返した。
「奴を射ろ」
「……」
「お前の腕なら一矢で充分だろう? 巻上式の弩弓は殺傷力が高いから確実に殺せる。本当に天使は肩に居たんだな。ここで俺の邪魔は消える」
 無邪気なほどに喜々と言った。
「……」
 カティルは、返答に窮する。相手の平然とした口調に当惑する。
「いや――。一応あんたにとっては、幼馴染の従兄だろう? 会見の時だって仲が良さそうだったじゃないか。何も殺さなくても……」
「俺に戦をけしかけてきた男だぜ」
「今回の包囲戦ならば、明らかに決着は交渉で付けられた。おそらくハンシスも最初からその筋書きで仕掛けてきたはずだ。それをあんたとあんたの姉は拒否したんだがな。
 何も殺さなくても、少し傷でも与えて足を遅らせておけば充分――」
「早く。ほら見ろ、樹の隙間を通り抜けてしまった。次は、あの正面――あそこの岩の所でまた見通せる。早く狙え。あそこを過ぎたらもう狙えないぞ。
 奴を殺せ。早く。早く殺さないと、今度は俺が殺される」
「まさかそれは無いだろう? ハンシスがあんたを殺すなんて、そんな事を奴――」
「カティル」
 ゆっくりと首を動かし、ラディンは彼を振り向き見た。その眼が、
「反対するのか?」
凄まじい、とカティルは思った。
 一年半前から護衛として、もしくは質の良くない友人として受け入れられた。一応は信頼を得ている関係だと、互いに理解し合っていると思っていた。それでも、
 ――全く理解できない。ここまで本気の殺意は。
 なぜ? なぜ、そこまで憎悪するんだ? 兄のように仲の良かった従兄をそこまでして? 第一、自分が殺されるってどうしてそう思う?
 ハンシスの馬は、規則正しく蹄を刻んで進む。真っ直ぐと進んでゆく姿が、渓谷の向こう側、樹々の狭間に見え隠れする。
 狙うならばあの、霧で湿った大きな岩の所。あの脇を通過するとき、ハンシスの姿は完璧に見通しになる。標的に収まる。
「早くしろっ、早く弩弓を準備しろっ」
 カティルは馬から下りると、鞍に下げていた弩弓を取り出す。弦をハンドルで巻き上げ、矢をつがえてゆく。
 ハンシスは何も気づいていない。薄い霧の中を真っ直ぐに死の場へ近づいて来る。それをラディンは喰らい付くように見続ける。カティルは弩弓を握り直す前に、その表情を見る。――見て、言う。
「……。奴に――仲良しの従兄に恨みがあるのはあんただろう? やりたければ自分の手でやれよ。この距離ならあんたでも外さないだろう?」
「俺に弓を渡すのか。俺は貴様がわざと的を外して、それで事を濁すのだろうと思っていたのに」
 辛辣の台詞を淡と言った。なのに顔は少年のように素直で可愛いほどで、カティルの眉を歪ませた。
 ラディンは馬から下りる。差し出された弩弓を受け取る。それを目の高さで構える。
「狙うなら首のすぐ下だ」
 カティルが言う。もうラディンは応えない。十字の形をした弩弓の、その支柱をぴたりと頬につける。左目を閉じ、狙いを定めた。何の感情も見せない。何を感じているのか、全く判断が出来ない。
 音が無い。谷の向こう側、ハンシスのまとう濃緑色が黄葉と薄霧の中を動いてゆく。あと呼吸数回分で標的となる岩の前に達する。
 黄葉の隙間に、相手の横顔が見えた。普段の明朗な印象と違う。感情を殺した固い顔は、何を考えているのか示さない。従弟と同じ様に見える。こちらに全く気付かず、ただ道をたどって進んでいる。
 あと三呼吸。引き金にかけたラディンの指が微かに動いた。
 あと二呼吸。狙う。背中側の首筋、最も柔らかい首の下。
 来る。確実に。ハンシスはそこに、岩の前に来る。あと呼吸一回。
 そこへ、来た! 今!
 ……矢は飛んだ。
 右手の方向、見当はずれの林の中に音も無く飛び、消えた。横から伸ばされた手が、発射される瞬間に弩弓を押してしまった。
 ハンシスは何も気付かない。何事も無く、規則正しく山道を進んでゆく。すぐにその姿は、樹々の奥に消えてゆく。
 カティルもまた真顔で無言だった。何も弁明は無かった。ただ横に立ったまま、進み去っていくハンシスを遠目に見ていた。
 それに対してラディンもまた声を張り上げて激怒することもなかった。ただ、唐突に弩弓を上へと振り上げた。一瞬の重い音をたてて護衛の顔を打っただけだった。
 ……霧が少しずつ、少しずつ濃くなってゆく。
 山中に物音は無い。ハンシスはもうとっくにいない。右耳の上の切り傷から僅かに血をにじませながら、初めてカティルは言った。
「ハンシスの背中を見張りながら進んだ方が良い。あの様子だと、奴はお前の姉の行く先を知っているな。俺達に先じてシュリエ城砦に立ち寄り、聞いたんだろう。シュリエ城主とは以前から通じていたんだろうな」
「そうだな」
「あの気取りまくった城主野郎。しゃあしゃあと惚けた顔で騙しやがって」
「そうだな。奴が俺達を捕えなくて良かった」
 丸切り他人事のようにラディンは答えた。その横顔にはもう、たった今までの冷酷な殺意は残っていない。感情を捕えにくい眼で前を見据えていた。
 ようやく今、カティルには判った気がする。この若いワーリズム家当主が周囲から本気で疎まれている――というよりは敬遠されている理由だ。それは、ただ未熟で生意気で傲慢な餓鬼というだけではない。
 怖いのだ。何を感じて、何を考えて、何を行動するのかの予測が全くつかなくて、薄っすらと怖いのだ。
 耳元の血をぬぐった後、カティルはそう思った。
「奴の後をつける。行こう」
 ラディンは馬に跨ると、腹を蹴った。カティルも続く。
 霧が少しずつ濃くなってゆく。シャダーは先に進んでいる。ハンシスはそれを追いかけて行く。ラディンとカティルもまた追いかけてゆく。




6・ 灰空


 峠を越えたジュバル山地の反対側では、緩い風が吹いていた。
 風向きが変わっていた。西からの風が秋の雲を運んでいた。空気はナガの平野とも、乾いた丘陵地とも、ジュバル山地の東側ともまた質感が変わっていた、別の世界を作っていた。
 そしてこの地までたどり付いたシャダーは、声を失っていた。
 
 彼女は今、声を失っていた。
 湿った砂利が広がるブハイル湖の水際に座り込み、言葉を失い、呆然としてしまっていた。全ての動きを失ってしまっていた。
 その眼の前に、ティフルの小柄な体があった。
 たった今まで一生懸命に元気をふるまって動いていた口は、ぽかんと開けられたまま空気を吸う事を止めてしまった。必死に気遣いを見せていた眼は、もう何も見なかった。剥きだされた眼球が、西風の抜ける空のどこかに向けられていた。
 僅か十数年生きただけで、うら寂しい、人すらいない湖の脇で、ティフルは死んでしまっていた。
 ……
 半刻前――。峠を越えたジュバル山地の西側では、ゆるい西風が枝を揺らして音を立てていた。
 ティフルが妙に詩的な言葉を言った。つい半刻前。
「何だか静かですね。鳥もいない。生き物の気配がしない。別の世界みたいだ」
 アール卿の城を出た後、ただひたすらに山道を下っていた。
 馬車は、アールに奪われた。僅かばかりの恩情で、馬を一頭だけを許された。
 付き従うのもティフル一人だけになった。あとの護衛兵達は全員、アールの城に入っていってしまった。そうして彼女の目の前で城門は閉じられた時、彼女はもう声を発することも出来なかった。
 深い山中を騎乗で進む。ティフルは馬の手綱を握りながら横を歩む。狭くて急な崖沿いの道を進みながら時折にティフルが何やらを話しかけるが、女主人はほとんど応えない。ほとんど喋らない。そうやって進んで行く。崖沿いに続く狭い山道を、ただ下って行く。
 やがてだった。左手の崖の下側、木立の間の青色が見え隠れしているのに先に気づいたのは、少年の方だった。
「あっ、ほら。シャダー様、やっと見えてきましたっ」
 木立が少し途切れて見通しが広がった時だ。山地の中に唐突に、広大な湖が見えてきた。
「これが仰っていたブハイル湖ですね。ほら、やっとここまで来た、もう少しですよ」
 ティフルは馬の足を止める。山道の左手の下方、周囲を黄葉に囲まれる中、ブハイル湖の濃い青色の湖面が雲間の薄日を受けて広がっているのを夢中で見た。
「ああ、湖ってこんなに大きいのか。ナガの貯水の池よりはるかに大きいんですね。生まれて初めて見ました。綺麗な青緑色だけれど、でも水が全然動いていない。何の音もしない。少し寂しいけれど、でも美しい」
 だが女主人は、その詩的な言葉も風景も無視した。
「疲れた――。今はもう昼を回っているの?」
 疲労には、苛立ちもまた込められていた。シャダーはもう馬に横乗りはしていなかった。男のように鞍に跨がり騎乗していたが、それでももう、背骨から腰にかけての凝り固まった痛みが耐え難かった。
「今夜こそは寝台で眠れると思ったのに……」
「それが叶う事を私も願っています。シャダー様。アルアシオンの城へは、まだどのくらいかかるのですか?」
「知らないわ。子供の頃に一度来ただけの城なのよ。そんな昔の事を覚えているはずないじゃないっ。ブハイル湖沿いのどこかよ。お前が探してよっ」
「済みません。でも……道は間違っていませんよね。この辺りは村も無いし、人もいませんから……。湖沿いに進めばすぐだとの貴方様の言葉――」
「それで私を責めるの? 私が間違っていると責めるの!」
「いいえ! そんなことは決してっ。ただ、思ったよりずっと大きな湖だったから、もし道を反対側に取ったりしたら大変な遠回りになりますから、一刻も早く貴方様が安全に休める場――」
「お前まで私を責めるの? 間違っているっていうの? 私が信じられないのなら――だったらさっさとナガへ帰れ!」
 甲高い声で苛立ちを発した!
 ティフルの全身が縮まる。すがるように女主人を見る顔が、ほとほと疲れ切っている。長時間にわたりたった独りで女主人に護衛同行するという責務は、この少年には荷が重すぎた。緊張と不安で心身を疲弊させ、もうどうしたら良いのか分らないという目で心底から謝った。
「非礼をお詫びします。シャダー様、お詫びします。済みません、ごめんなさい」
 その哀れな顔こそが、シャダーを一層に苛立たせる。泣き出したいまでの気持ちに追い込む。
(どうして? 私はほんの先日まで、夏の終わるあの夜まで、ナガの城館で宴会を楽しんでいたのよっ。それなのに何で今、こんな誰もいない山奥で、薄ら寒い場所で、疲れ切って、苛立って、子供を相手に怒鳴り散らしているの!)
 西風がゆるく吹き付けている。薄暗い空に雲がゆっくりと動いている。時折に雲間からの陽射しが落ちる時、湖面の色が短時間だけ青く透き通る。
「シャダー様――」
「話しかけないで!」
 苛立ちが収まらない。自分でもどうして良いのか判らない。彼女はいきなり馬の腹を蹴った。幅の狭い湿った泥の崖道を下り出した。
「シャダー様、待って下さいっ。道幅が狭いから危険です」
 待たない。必死の声を無視する。
「待ってっ、私が馬の手綱を取りますから待って。シャダー様、私と一緒――」
 いきなり声は途切れた。
 物音が響いた。大きく木立がすれて折れる音がした。
 振り返った時、そこに少年の姿は無かった。
「ティフル?」
 何の物音もない。彼女はただ、たたずむ。現実が解からず、ただ呆けたままたたずむ。
 少年が泥に足を滑らせて崖を落ちたと理解したのは、浅い呼吸十回の後だった。
 無言で見下ろした崖の遥か下方、湖の湖畔に、ティフルの身体が落ちていた。
 ……
 ゆっくりと、時間が過ぎてゆく。
 ブハイル湖の水面は、死に絶えたように静まっている。辺りは物音がない。荒涼とした静寂にしずんでいる。
 シャダーはティフルの死体の横、湖岸の地面に座り込んだまま、何もしない。泣くこともない。ただもう、立つことが出来ない。ぼんやりと、その場にいる。
「お前が悪い。足を滑らせるから」
 緩い西風は湖面を渡り、冷たい。それを僅かに肌に感じる。あとは何も無い。音もしない。湖面と、死体と、山を取り巻く黄色い色彩しかない。シャダーはもう何も出来ない。何も考えられない。
「勝手に落ちるから。だから――」
 小声で呟く。時間だけが流れる。もう何をすればいいか分からない。
 風が、強く湖面を抜けた。風音がした。
「――。シャダー?」
 振り向いた。
 視界に、自分が乗っていた栗毛の馬が映った。水を飲んでいた。
 その向こう側、秋の薄い日差しが差し込む方向の湖畔。水際のぎりぎりを進んでくる影が見えた。
 無音の中に、微かな蹄音が近づいて来る。影は大きくなってくる。やがてそれは、葦毛の馬は自分の横で止まり、鞍から相手が下りる。自分を見ている。
 どちらも喋らない。呼吸数十回分の間、色の無い無音がよみがえる。そして。
「なぜ、ここにいるの?」
 シャダーが言った。
「貴方を追いかけてきました」
 ハンシスが言った。
「なぜ」
 シャダーが言った。
「会いたかったから」
 ハンシスが答えた。その顔が、シャダーが知っているものと違っていた。固く強張り、感情が読めない。いつでも臆せず真っ直ぐに伝えてくるはずの感情が、消えている。
 だからシャダーも当惑する。今、どの感情を選択すればよいのか解らず、混乱する。再び横の死体を見た。漠然と言った。
「ティフルが、死んだわ」
 ハンシスも振り向き、顔を歪ませる。
「崖から落ちたのか。可哀想に。まだ子供なのに」
「……。可哀想だわ」
「ええ」
「――。本当に。可哀想だわ」
 微妙に語調が変わった。そして立ち上がった。彼女の感情は今、怒りを選んだ。唐突に、獣のように激しい怒りを剥きだし、
「お前が悪いのよ!」
叫んだ!
「お前が全て悪い! お前さえいなければ、ティフルは死ななかった!」
「シャダー?」
「お前がワーリズムの当主座を狙わなければ、ナガ城館を攻撃しなければ、こんなことにはならなかったのよ! お前さえ大人しくしていれば、何も狂わなかったのよ! ティフルは死ななかったのよ!
 ティフルは死ななかった! こんな山奥の惨めな旅も無かった! 私はアールに裏切られることも無かった! シュリエ城砦を追い出されたり、シュリエで伝令を死なせることも無かった!」
「シャダー、その件――」
「お前が起こした! だからお前が代わりに死ねば良かったのよっ、死ぬべきよっ、お前さえあの嵐の日にナガ城館に来なければ、全ては調和していたのよっ、私はずっとナガにいられたのに!」
 いきなり駆け寄る。両腕を振り上げて従弟を打とうとする。
「戻して! いつも通りのナガを戻してっ、この夏までのナガを! 私にラディンを返して!」
 感情のまま従弟の体を強く打とうとする。思わずハンシスはその手を掴もうとし、しかし逃す。その手がたまたまハンシスの胴着の胸元に収められていた短剣に触れた時、
「それは駄目っ、危ない……っ」
 叫びは一瞬の後、苦痛の呻きに変わった。彼は湿った小石の地面に膝を落とした。右手を左の上腕に押し当てて、身を屈めた。
「お前も死ぬの?」
 右手に握る短剣の血と、従弟の腕の血。それを見比べながら表情を失った。
「お前も、死ぬの? 今から? ティフルと同じに?」
 ハンシスは顔を上げる。痛みを噛み砕くようにして答えた。
「いいえ。かすった程度の傷です。血もすぐ止まる」
「ティフルと同じ――、いえ、死なないの――? でも……、死んでも……でも、それはお前が悪いから……。だから、仕方ないわ。お前のせいだから」
 左の上腕を押さえて、ハンシスは見上げる。その目の前でまたシャダーの表情が変わった気がした。
「あの日。五年前――あの時。お前がナガに来なければ、私は今こんな所で――」
「――」
「あの日から、皆で幸せになれると思ってたのに。でも、私は今、こんな所にいる――。なぜ、こんな事に?」
「――」
「なぜ、ラディンを攻撃したの?
 他の馬鹿な連中ならともかく、お前は分かっていたでしょう? あの子だって力量ならあるのよ? まだ十六歳よ? これからも幾らでも良い方へ伸びてゆくのに、だから私が気遣っているのに。なのに皆があの子には当主に相応しくない、臣下からも領民からも信頼されないと言い切って……。
 言って。なぜなの? なぜあの子はそこまで責められなけらばいけないのよ!」
「まだ、ラディンの事を言うのですか?」
 緩い風の中、ハンシスの静かな声が告げた。
「こんな場所に、ナガから離れたこんな寂しい所に追い込まれて、それでも貴方はラディンの事ばかりを言うんですか?」
「なぜ? 当たり前でしょう? あの子は私をこの世の誰よりも大切にしている、だから私もこの世の誰よりもラディンを愛している」
「だったら、私の事も愛して下さい。この世の誰よりも貴方を愛しています」
「――」
 音の無い世界だ。
 雲に、陽は薄れている。人けの欠片も無い。無機質な世界で、長らくの沈黙になった。
 長く長く秘めたものを今、ようやく表せた。ハンシスは静かに、自然に告げた。
「シャダー。駄目ですか。私は愛してもらえないのですか」
 その目の前で、感情はまたぶれる。怒りに傾く。声を荒げて叫ぶ。
「私だって貴方を可愛いと思っていたのに、なのに……! なぜよ! だったらなぜ、今、私をこんなブハイルの湖の岸にまで追い込んだのよ!」
「この騒動ならば、終わりにしましょう。ワーリズム家を一つにまとめましょう。ラディンには今まで通りナガ領主としてワシール卿の指導の許に成長すればいい。
 シャダー。コルムの私の所に来てくれませんか?」
「駄目よ! ナガにはラディンを信頼してない者が多いのよっ。敵の多いそんな場所に独りで残すことは出来ない」
「まだ“ラディンが”ですか?」
「実の弟よ? 貴方より可愛いのは当たり前でしょう? 貴方にとやかく言われる筋合い――」
「だから攻めたんだ。貴方とラディンを引き離したくて、攻めた」
 率直に、真っ直ぐに言った。言う事が幸福だった。もう押さえ込まなくて良い。長くひたすらに感情を抑えてきたあの苦痛から解放されたい。今、自分が何を想っていたのかを知って欲しい。
「恐れずに、言います。シャダー。――私はラディンに嫉妬していた。ナガにいた時からずっと、貴方の眼を自分に向けたくて、猛烈に嫉妬していた。だから、その為に動いたんだ。
 私を受け入れて下さい。ラディンではなく、私の所へ来て下さい」
「でも、あの子――ラディン――」
「だからもうその名前を口にしないで下さい!
 もうナガでの包囲戦は決着しています。皆が望んでいるのは、私がワーリズム家当主になること、そしてラディンが自力で正道に則った統治をナガ領に敷くことだ。その為にも、貴方には私の所に来て欲しい。お願いします」
「――」
「それでも、まだ貴方には不満が残るのでしょうか?」
 従弟が少年のように素直に言う。その言葉にシャダーもまた同様に、素直に、真っ直ぐに応じる。
(“不満が残るか”って? 皆が望んでいるからって、私の幸福を壊して、それで、不満が残るかって?)
 そう叫びたいと思った。顔を打ってやりたいとも。
 だが、静まった世界で相手は見ていた。薄雲にくすんだ光の下、くすんだ濃緑色の外套に包まれて、真っ直ぐに自分を見ていた。
 五年前にやってきて弟同様に可愛がった少年は、とっくに成長していた。人が言う通り、支配者に相応しい質を感じさせた。支配者の質と、青年らしい感受性のどちらも兼ね備えた姿を見せつけていた。
「シャダー。どうか――どうぞ、私と一緒に来てください。お願いします」
 自分がどちら付かずの顔をしているのが自覚できる。
 自分はどう選択すれば良いのだろう。この青年を受け入れてよいのだろうか。
 静寂が耳に付く。感情と思考を上手くまとめ上げられない。だから彼女は自身の質に従った。ただ子供のように、思うことを小声でもらした。
「ラディンに会いたい」
 目の前で、従兄の眼の色が変わった。
 成熟の印象が消えて、子供っぽい不満の眼を表した。これは傷付けてしまったかもとシャダーが珍しく自覚し、弁明の言葉を述べようとした直前、
「私は、勝者です」
 ハンシスが先んじた。
「そして、貴方の大切な弟は敗者だ」
「――。それって、何?」
「言っている意味が解りませんか? ラディンの事です。彼の身柄については、私の裁量でどうにでもできる」
 ぱちんとはじけたよう、その一言にシャダーの感情が反転した。生来の強い感情がよみがえった。目を大きく開いて叫んだ。
「そんな事を言うの?」
 びくりとハンシスの眼色が変わる。
「言うの? そんな卑怯なことを。お前が?」
 眼が濁りを帯びる。後悔する。自身の言葉に恥辱の自覚があったのだ。
 ――この男、卑屈を帯びた!
 途端、シャダーの感情は大きく嫌悪にふれた。まだ座り込んでいる従弟の全身を、上から下まで見据える。その姿があっという間に色褪せた、そう思った途端、もうこの男と同じ場にいることすら嫌悪を覚えた。
「人の心にまで命令できると思っているの?」
 面白いではないか。ハンシスの顔が、丸切り最初に会った時のような頼りなさに変じた。一層に怒りと不快を覚え、叫び上げたくなった。
 だが、本当にそれは不快なのか?
 感情の混乱ではないのか?
 出会ってからの五年間。再会してからのこの僅かな時間。その間に重なった感情をうまく整理・消化できないだけではないのか? 遠い昔、ずっと可愛がっていた少年の、その成長した果ての感情に混乱しただけではないのか?
 ――そんなこと、シャダーに判るものか!
「もう見たくない」
 真っ直ぐに吐き捨てた。彼女は自分の馬へと歩み、その手綱を取る。この場から去ることを選ぶ。
「待って下さいっ。シャダー」
「見たくないって言った。苛立つから。もし追いかけてきたら、もう一度刺すわよ」
 ハンシスは迷う。自分は今、追いかけるべきか。今は止めるべきか。
 どちらが良いのか判らない。それを決めたのは、腕の傷となった。鈍い出血と鈍い痛みが、踏み出しそうとした足を止めてしまった。
「このまま湖沿いにアルアシオン城に行くんですかっ。そこに泊まるんですかっ」
「ええ。――傷に触るわよ。もう喋らないで」
「後で追いかけます。必ず私も行きます。門の前で待ちます。
 もしもまた、あの最初の日のように私を受け入れてくれるのなら、どうか明日の夜明けに門を開けて下さい、私は必ず――必ず、外で待っていますっ」
 シャダーはもう答えなかった。
 ゆっくりと、馬に乗る。音の無い湖面の際を歩みはじめた。
 今は二人ともが、何をどうすれば判らなかった。どうすれば世界が進むのか。世界から肌寒い霧が消えてゆくのか。
 くすんだ光の射しこむブハイル湖の世界からシャダーは消え、ハンシスだけが残った。

・             ・             ・

 ハンシスが腕の血が完全に止まるのを待ち、それから気の毒なティフルを湖岸の眺めの良い場所に葬っている頃だった。
 ……
 ブハイル湖から峰を一つ東に移った辺りの山中では、二人が冷えた視線で互いの顔を見ていた。
「つまり――。誰かが、俺の後を付けているって事か?」
 ラディンの口調には氷の様な冷やかさがある。陰質な眼が、相手を凝視している。
 しかしカティルもまた動揺なく平然と答えた。
「有り得る。だがそれ以外の可能性も有り得る。例えば、ごく単純に夜盗に盗まれたとか。手綱の結びが解けて勝手に逃げてしまったとか」
「――」
「勿論、あんたの考えてる通りに、誰かに尾行され妨害されていることもあるがな。ラディン」
 途端、ラディンはにんまりと、低い声を漏らして笑い出したのだ。
 見据えるカティルもまた、釣られた様に口許を上げる。内心では勿論、誰もいない静寂の上に響く笑い声に不快な、不穏なものを覚えている。
 ……今朝。山中での野宿の夜が明けた時。木立につないでおいたはずの彼らの馬が消えていた。
 誰かが行く手を邪魔しているのだろうか。アール卿だろうか。奴もとっくに離反したのだろうか。先日短時間だけ立ち寄った時に何となく白々しさを感じたが、秘かに何かの策謀を仕掛けているのだろうか。それとも、シュリエ城砦のカラク領主が延々ここまで追跡してきたのだろうか。
 馬無しでシャダーとハンシスを追跡することは無理だ。馬の捜索に数刻を費やし、しかし結局見つから無かった。ラディンはとっくに強い苛立ちに捕らわれていた。その闇のような眼が冷やかに護衛を睨みつけた時、先程の台詞となった。
 ジュバル山地の中に、時間だけが進んでゆく。空は灰色の雲が大半を占めて、湿度が高い。峠を、そしてアール城を過ぎて間もない場所だった。
 ラディンの耳障りな笑いを聞きながら、カティルの思考には冷えた緊張感が増してゆく。“さあ。この先、どうするのが一番よいか”と、淡色の眼の奥で考え続けながら、陰湿な笑い顔と笑い声を目の当たりにしている。と。
「馬はもういい。時間の無駄だ」
 唐突にラディンが笑いを止めて言った。一瞬遠くの全景を見据えた後、その足はもう湿った下り道へと踏み出していた。
「徒歩で追う気か? 有り得ないぞ、無理だ。第一、すでに俺たちはあんたの姉の背中もハンシスの背中も失ってしまった。この先どこへ行くんだ?」
「峠を超えた以上、シャダーが向かうのはアルアシオンの城だ。俺たちの母方が持っていた小さな城だ。ブハイルとかいう湖にある。そこに行く」
「道を知っているのか? そこまで歩いてゆくって言うのか? もう無駄だ。どう考えてもハンシスの方が先んじてあんたの姉に会う。もう手遅れだ。奴があんたの姉を奪う」
と言った途端、弾かれたようにラディンが振り返って見たその眼!
 憎悪に憑かれた眼だ――、そう思った瞬間、相手は泥を蹴り上げ走り寄る。両腕を伸ばし、はるかに上背に勝るカティルの首を鷲掴みにする。
「奪わせない!」
 首を絞められ――いや違う、驚きによってカティルは応えられない。唖然と相手を見る。
「聞いてるのか! 奪わせない! カティル!」
 本気で首を締め上げてくる。冗談ではなく息が出来ない。
「奪わせるものか、絶対! そんな事を貴様の口から言わせないっ。――忘れてないぞ、貴様は俺に逆らった、奴の射殺を邪魔した、その貴様の口から奪われるなんで言わせない! 俺を怒らせるな! 分かったなっ、カティル!」
「……。分かった」
と、息を漏らしつつ言わなければ、本当に絞め殺す気だったろう。
 最後にもう一度、切り殺すような視線で友を射抜くと、ラディンは手を放したのだった。
 後は、一瞥もなかった。小柄な身にまとう黒い外套の裾を翻して独り、泥がちの峠道を下っていってしまった。
 ……ジュバル山地では、雲が低く、厚くなっていく。陽射しが見えなく無ってゆく。
 ひんやりと湿気を含む空気の中に、カティルは独り、無言で立っていた。
 彼は、己のすべき仕事を心得ていた。このままワーリズム家のラディンから離れる気はなかった。ただ取り敢えず今は、心臓に残る鼓動の乱れを、動揺を抑えることを優先させた。
 動揺? いや。違う。軽い恐怖か。本気の恐怖を感じたなんて何年振りだろう?
 すでにラディンの黒い外套は、黄色い木立の向こうへ消えていた。一回だけ、一羽の山鳥の甲高い鳴き声が響いた。カティルは長く深い呼吸を七回行った。それからようやく湿った土に踏み出し、そして十三歩を進んだところで――、
 再び止まる。素早く振り返り、静寂を破る大声で怒鳴った。
「貴様は一人なのかっ、馬泥棒が!」
 呼吸十回の静寂。カティルの淡色の眼は、道の後方をじっと見据え続ける。
 さらに呼吸十回。無音は続く。木々の梢は僅かに揺れて……、
 ようやく、泥を噛む蹄の鈍い音が聞こえだした。山道の上、ほんの少しだけ風に揺れる木立の間からゆっくりと、一人の騎乗の男が現れた。
「……。どうして、尾行していると分かった?」
「馬で追跡する気なら、もっと充分に距離を置け。こんな静かな場所だと馬の蹄音はかなり遠くまで響く。昨日からずっとだ」
「……」
「貴様、この前の草地にいた、コルムの臣下だな。今、貴様一人だけだろうな?」
「ああ」
「ラディンはもう貴様の仲間に取っ捕まっているのか?」
「いや。本当に、私だけだ。今、本当に……。
 ナガの包囲戦がどうなったか、情報はあるか?」
「先刻、アール城に立ち寄った時に聞いた。勝敗はとっくに片が付いている。俺達が城館を出た翌朝には、ナガ側が降伏した。老ワシール卿がハンシスの当主座を即刻に認め、これにナガの家臣は誰も反対しなかった」
「ラディンはすぐにナガに戻らなくて良いのか」
「俺もそう思う。だがラディンにはどうでも良いらしい。
本気で奴が今後どうする気なんだか、俺にも分らない。望みが叶って姉と再会したとして、その後、ナガに戻るのかどうかも。まさか素直にハンシスに頭を垂れるとは思えないが」
「そうだな」
「奇妙な状況だ。シャダーを追ってハンシスが。それを追ってラディンが。それを追って貴様が、か。――まるで子供の鬼ごっこだな。奇妙な鬼ごっこだ。みんなどんどん奇妙な場所に進んでいく」
「……。そうだな」
 その時、カティルは気付いた。
 鞍上に座ったまま、相手の品性良い顔立ちは固く強張り、凍り付いていた。微動だにせず、強い緊張を見せていた。怯えるように、怯えながらも挑むように自分を見ていたのだ。
「何だよ。俺を殺したいのか?」
 答えない。口許が固まっている。
「それとも殺されたいのか? 何か言えよ。何だよ」
 一度、何やらを口ごもる。それから上擦りそうな声を押さえて、ゆっくりと喋り出した。
「この前の草地だけじゃない。ずっと、ずっと前にも、私達は会っている。――覚えていないのか? イッル?」
「――。カティルだ。俺の名前は」
と答えるカティルのあせた眼の色が、僅かに変わった。相手の方へゆっくりと歩み寄っていった。
「教えろ。いつ俺達は会った?」
「二年前に。コルムの城館で」
「コルム城館に行ったのは一度きりで、しかもたった数刻居ただけだ。まさかそれを覚えていた奴がいたのか」
「覚えていたよ。……」
 蒼ざめるほどに強張った頬は、ピクリとも動かない。
 冷えた微風の中、ルアーイドはまだ馬を降りようとしない。眼に露骨な動揺を示したまま言う。
「覚えていた。忘れていない。ハンシスがこう言ったんだ。確か、こう――
『東域の、ダラジャ域のもっと遠い向こうから来たんだって。イッルという名の。先日知り合った異邦人だよ』」
 その瞬間にルアーイドもカティルも同じ記憶の情景を思い浮かべた。
 二年前のコルムの城館。まだ少年ぽさを残す新領主が、不安定ながらも懸命に為政を執り始めてから間もない頃。
ほんの一瞬程の、中庭でのすれ違い様だった。ハンシスは楽しそうに目を輝かせながらルアーイドに言った。
『イッルという名前なんだって。言いにくい変な名前だろう? 弓の凄腕なんだ。俺はこっそり弓を習っている。前にシャダーに下手糞だって笑われた事があったから、だから上達して驚かせてやるんだ。
 イッルなんて、本当に変な名前だろう? 奴の国では普通なんだって。変な髪色だし、目色なんてまともに物が見えているとは思えないだろう? でもこれが普通なんだって』
 確かに変わった見た目の異邦人だな、どこで出会ったんだろう。見るからに腕の立ちそうな、何だか猟犬みたいな印象の。……と、その時ルアーイドは思ったのだ。
 確かに思ったのだ。覚えていたのだ。その異邦人を再び見たのは先日の、東風の吹き抜ける草地だった。
「……。覚えていたんだよ。その薄気味悪い目色も。名前も」
「俺の国では、どっちも普通だぜ」
「ならば貴様の国では、友人を裏切るのも普通なのか?」
「――」
「なぜだ……っ。なぜ貴様がラディンと共にいるんだ! ハンシスの友達だったんだろう?それを裏切ったのか? 買収されたのか?貴様がなぜ今――裏切者!」
「――」
 カティルはもう答えなかった。それどころか相手をさっさと見捨てる。再び泥の山道を下り出す。
「逃げるのか! 答えろっ、卑怯者!」
 歩いたまま背を向けたままカティルは言った。
「俺は卑怯者ではない。その質問に答える権限も無い」
「権限って何だ? 何の事を言ってるんだっ」
「ハンシスに禁じられている」
 え?
 意味を理解できない。すぐに馬を進ませ、カティルの前へと先んじ、行く手を遮って向かい合う。
「どういう意味だ? ハンシスが貴様に何を……?」
 面白くもなさそうにカティルは馬の鼻面を右手で横に押しやり、再び足を進める。
「待て! 聞け――いや、聞いてくれ。
 私は二年前にハンシスがコルムの城館に戻ってからずっと、彼に従事してきた。会って直ぐに彼を君主として認めた。彼の怜悧で明敏で清廉な質が理想の君主に相応しいと認めて、その時からずっと忠勤してきたんだ。彼が統治を安定させるまでの一番困難な時期も共に過ごし、ハンシスの一番近い臣下との自負を持っているっ」
「だから何だ? 褒めて欲しいのか? 急いでいるんだ。じゃあな」
「イッル! 頼むから教えてくれ! なぜハンシスの知り合いだった貴様が、ラディンの護衛になっているんだ? それってどういうことなんだ、何かあったんだ?」
「二年だろう? 二年もハンシスの横にいて何を見ていたんだ」
「だから何を――っ」
「笑わせてくれるな。奴は清廉潔白の理想の主君なんかじゃないぜ。そんな事あるものか。
 奴は、欲しいものを手があれば、どんなに手を汚しても手に入れる。どんな卑怯な手でも使う。でなければいくら力量があったって、あの若さで、たった二年でコルムを掌握して一族の当主座を要求するまでの地位に就けるものか」
 だから、何を――? 
 心底から言葉の意味が解からない。ただ求めるように相手の顔を見る。質問を返したいのに言葉が出ない。
「今回の戦闘での、ハンシスの本当の狙い。――まさかまだ気付いてない訳じゃないだろう?」
「……何を……」
「シャダーだよ」
「――。何を――」
「側にいたんだろう? なのに本当に全然気付かなかったのか? 少しは気づけよ、間抜け頭が。
 確かにハンシスの質は為政者として文句無しだが、唯一、あの従姉についてだけは、異様だ。なにせあの女を手に入れる為に、戦役まで起こしたんだから」
「……いや。違う――、何を言ってるんだっ。この戦役は一族とラディン双方の未来の事を熟考しての出兵――」
と言いかけた瞬間、ルアーイドの脳裏に、逆光の中の横顔がよみがえった。包囲戦を敷いた六日目だったか? 丘の上からナガ城館を見ていたあの横顔。――淀んだ、凝り固まった感情を示したあの眼。
 あの眼は、戦況を焦っていたんじゃなかったのか? 当主の座を欲して焦っていたののでは無いのか? まさか、
「……シャダーを、手に入れる為……?」
 初めてカティルが白々とした笑を見せた。
「俺も貴様と一緒だ。ハンシスの力量と魅力に惚れて、友となり臣下となった。で、奴に頼まれてナガ城館に行った。ラディンと親しくなってナガに居つき、奴の監視をしろとね。
 しかし、本当に笑ってしまう。ラディンも全く一緒だ。シャダーとなると狂い出す。なぜなんだ? 美女という訳でも無い、あんな我儘な性格の阿呆な女のどこが良いんだか、俺には全く理解できないがな」
「――」
「ラディンについては、シャダーのせいで臣下も城館も当主座も失う羽目になった。ハンシスの方も戦争まで起こし、果てはこんな所まで流れ着いて……。
 今後はどうなるんだろうな。ハンシスに限っては馬鹿な従弟とは違う道をたどってくれる事を願うが、ここから先は神のみぞ知るだ。
 どうだ? 貴様はどう思う? あの執着心の果てに、この先ハンシスはどの方向へ進むと思うか?」
「――」
「黙り込むなよ。どう思ってるんだよ、良き理解者殿よ」
 三度目。カティルは相手を見捨てて、足場の悪い坂道を進みだした。薄暗い山道の上、長身の後ろ背はどんどん木々の中に吸い込まれていってしまった。
 そしてルアーイドは、馬上で動けなくなってしまった。二年にわたって敬愛し、忠勤し続けたはずの主君の全く知らなかった顔を知り、動けなくなってしまった。
 たった今まで、全く気付かなかった。気づけなかった自分の無能ぶりに吐き気を、激しい嫌悪を覚えた。手袋を付けていない指先に、震えを覚えた。
 ――いや。駄目だ。
 残っていた冷静で、懸命に判断する。もうすでに、こんなところまで来てしまったのだ。取り敢えずここで立ち止まっていては駄目だ。とにかく、進むべき正しい方向へと道を進まないと。何でも良い。やるべき事をやらないと。それが、ハンシスの為なのだから。
 ルアーイドは前方の木立を見る。そちらへ向かい、大きな声で発する。
「貴様はまだハンシスの友人なんだな!」
 静まり返った黄色い樹々の向こうへ、もう一度、夢中で叫ぶ。
「イッル! 聞こえているか? もっと私に状況を教えてくれ。貴様に金を払うから、頼むっ、イッル!」
 遠い木立の向こうから、ぶっきら棒な声が響いた。
「俺は金で雇われて動く間者じゃないぜっ」

・             ・           ・

 黄葉するジュバル山地の中の、広大なブハイル湖。
 湖水の中に突き出すようにして立つ小さなアルアシオン城。
 長い旅の果て、ようやくシャダーはたどり着いていた。僅か数人のみの城の守番に迎えられたその夜、ついに、やっと、待ち焦がれて止まなかった柔らかな寝床を得た。
 今、彼女が疲れ切って寝ている。
 部屋の窓は固く閉められている。
 閉じられた窓の外には、黒々と冷えた夜の湖面が広がっている。
 その上には、星と銀河を見え隠ししながら雲がゆっくりと流れている。
 月は無い。音もない。

 ハンシスもまた、音を立てない。ただ、小さな火を見ている。
 外套にくるんだ身を丸くかがめ、湖畔に座したまま、緩い夜風に揺れる焚火の炎を見つめていた。そうやって長い長い時間、無音と孤独の中にあった。
 目を上げる。視界の真正面には本当に僅かに、アルアシオン城の輪郭線が浮かび上がっている。何年かぶりで主を迎えた城には、消え入りそうな灯がほんの一つ二つだけ点っている。あとは闇の中に眠っている。
 頭の芯に眠気は無かった。この長い一夜に想うべき過去・考えるべき未来は余りにも多かった。自分が冷静なのか高揚しているのか、よく分からなかった。ただ、緩い風が運ぶ冷たさと、左の腕の上でひりついている痛みを、どこかで感じとっていた。

 カティルとルアーイドも今、ようやく馬を降りた。
 結局二人は、共に行動することになった。その現実が二人の道筋を、本来あるべきだった場から変え始めていた。特にルアーイドの道筋を大きく変え始めていた。カティルに様々を訊ね、様々の回答を聞き、現実を知り、そのことでルアーイドは心身を歪ませていった。恐ろしい程に強張った顔になっていった。
(……ならば、私は、何かをしないと)
 何度となく、同じ言葉が頭の中で渦巻いてゆく。
 主君であり親友でもある男。理想と視ていた男。その男の実際を、自分は何も知らなかったという事実。……
 日没が迫るジュバル山地の中、彼は今、馬を止める。野宿の場と定めた崖上の小さな草地に立つ。遠く下方に、ブハイルの湖そして湖に突き出たアルアシオンの城が見通せる。それを見下しながら感情は淀み、言葉は呪縛になってゆく。
(何かをしないと。ハンシスの未来への道が歪まないように)
 見下ろす世界では陽が没し始め、みるみると光を失っていった。城に接する湖の水が、暗い闇色に変じ出していた。
その時、――彼ははっと息を飲んだ!
 世界の中に、ハンシスが現れた。馬に跨り城の前まで進み出る小さな黒い点が、ハンシスが視界に映った。
(ハンシス!)
 ルアーイドの全身が絞られるように硬くなる。主君がアルアシオンの城門の前で馬を降り、そこに座り込むまでの動きを、瞬きすらせずに見捕えてゆく。
 何をしているんだ? こんな人すらいない僻地まで来て。暗い湖の脇で冷えた風を受けて。そしてただ一人で夜を明かすのか? なぜ? 何の為に?
 シャダーの為に。
 日没の空気に、猛烈な冷たさを感じた。背筋に沿って小刻みに震えるような感触を覚えた。
「ハンシスは城に入らないな。シャダーはもう城内なのか? 出てくるのを待っているのか?」
 いつの間にかカティルが横に立っていた。その問いにも応えない。ルアーイドの体内で、思考と感情が勝手に進んで行く。勝手に考え続けてゆく――歪みの無い未来の為――理想たるべきハンシスの為――その為に、やるべき事――。
 やるべき事は、彼の未来を正しい道筋に戻す事。
「おい。聞いてるのか」
 ルアーイドは全く視線を動かさなかった。顔の色が失われていた。その様にカティルは、相手の極限までの緊張を見た。おそらくこいつは今夜、もう口を利けないだろう、眠れないだろうなと思ったのだが。
 だが。ルアーイドは、小声で言った。闇に包まれて行こうとする城と湖そしてハンシスを見下ろしながら、はっきりと言ったのだ。
「彼の為に――やらないと」

 そしてラディンは、姿を消した。
 無音と薄闇の中にある山と湖の世界の、どこかに消えた。




【 続く 】



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