僕たちの物語に「」はいらない。【短編集】「一瞬」ショートムービーシリーズ――どこかの誰かが見た風景

出 万璃玲

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Movie 4『猫と炬燵と宇宙』

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「……あー、寝てた……」

 ほどよく晴れた、冬の午後。

 正月三が日が明け、一つの文句もこぼさずせっせと仕事に出てゆく夫を見習って、今日はもうじゃんじゃんばりばり精力的に活動する予定だった。

 何をかと訊かれるとまあ、うん、あれなんだけど。掃除とか片付けとか? 買ったはいいが、適当に折り畳まれてクローゼットの端にぺたーっとなっているヨガマットを引っ張り出してくるとか?


 気づけば、こたつの一辺にて行き倒れていた。



「とりあえず、夕飯か……」

 そばに落ちていたスマホで時刻を確認し、冷蔵庫の中に思いを巡らす。実家で持たされた煮物や黒豆や、正月関係なく食べたいと夫がお義母さんに頼んでいたコロッケは、あらかた消費してしまった。

 冬の陽は短い。暗くなって寒くなる前に、いい加減買い物に行かなければ。


 立ち上がる元気をチャージするために、行き倒れた格好のままそろそろと足でこたつの中をまさぐった。
 ふなあ、と、生温なまぬるい毛の生えた豆腐みたいな感触が、裸足の足裏に伝わる。そのままそうっとさわさわしていたら、うなあ、と不機嫌そうな声が飛んできた。
 ごめんなさい、と素直に謝って、足を退ける。

 私が上半身を出しているのと逆の辺から、ほんのり涼しい空気を感じる。
 中で寛ぐのが好きなお猫様のために、うちのこたつは常に一辺が全開になっている。こたつ布団をこう、どちらか一方に寄せて、上に乗せる板でうまく固定する。もちろん熱電源も入っていない。


 落ちているはずの分厚い靴下を探すために、私はもう一度中で足を動かした。
 そっと、そっと、うちのお嬢様もといお局様を、間違っても蹴り飛ばしてしまわないように。万が一があれば、次は抗議の声だけでは済まされない。

 だめだ。見つからない。
 ちょっと布団をめくって中を見ればいいだけなのに、諦め悪く、半ば惰性で足を動かし続ける。こんな物ぐさなところ、夫に見られたらなんと言われるだろう。まあ、既にばれている気もするけれど。

 私なりに、一応礼儀というか(元)乙女(だった者の)心というか、夫の前では多少しゃんとしてみせるのだけど、彼には全てお見通しなのだ。穏やかににこにこと笑って、私が拾い忘れたことに気づいてささっと隠した靴下なんかを、いつでも見ないふりしてくれる。


 ふう、と小さく息を吐いて、ついぞ私は足を止めた。
 さすがに見つからなすぎる。こたつの開いた辺からどこかへ飛んでいってしまったか、お猫様の座布団になっているか。

 しょうがないなあと、何がしょうがないのか分からないけれども、観念した私は身にまとっていたこたつ布団を捲り上げた。


「……あれ?」


 ついさっきまでそこにいたはずの、お猫様がいない。毛玉なんか気にせず家の中でスリッパ代わりにしている、分厚い私の靴下も。


 それだけだったら、いい。

 お猫様はいつの間にかささと起きて、キッチンの片隅に置いてある水飲み場へ行ったのかもしれないし、靴下は起き出した彼女と共にどこかへ旅に出てしまったのかも。


 それだけだったらいいのだけれど、でも、これは、一体――。


 捲り上げた布団の中をまじまじと覗く。

 おかしい。

 だって、真っ暗なのだ。こたつの中が暗くて何がおかしいと思う人もいるかもしれないけれど、おかしい。うちの場合は。


 電源を入れていないからこたつのヒーター部分の明るさがないのは当然として。私が身体を出しているのとは反対の側、一辺は全開にしているから、こちらを捲れば向こう側の部屋の景色が筒抜けのように見えるはず、なのに。

 こちら側に手繰り寄せられた布団の量から考えて、誤って向こう側が閉じてしまったとも考えられない。お猫様のため、それは普段から十分気をつけているし。


 いや、ていうか、なんかこれ。


 ……星またたいてない?


 月のない夜より、まぶたを閉じたのなんかより、何倍も何十倍も、暗い闇。
 その深淵しんえんに、ちかちかと銀色の小さな光が無数に瞬いている。初めは真っ暗だと思ったけれど、どうやら目が慣れてきたようだ。

 いや、目が慣れるって、何。自分ちのこたつで。


 そっと、布団を閉じた。ついでに目も閉じた。寝正月がたたった。まだ寝惚ねぼけている。

 特に意味はないけれど、いち、に、さん、と心の中で十まで数えた。目を開け、布団を捲る。



 いつもと変わらず、毛の生えた白い豆腐がふなあ、と横たわっていた。


 彼女の頭の下あたりに毛玉の靴下が見える。明るく、部屋の向こう側の景色も当然のように見てとれる。

 ほっとして、私はこたつの反対側に回ると二足の毛玉靴下を引き摺り出した(無言で睨まれた)。





「ただいまあ」

 呑気な声を上げて、夫が帰宅してきた。数日ぶりの会社からの帰り道は寒かったのだろう、手を洗うや否やこたつに直行している。

 しかし、その前にコートとスーツをハンガーに掛けるのを忘れないところが、私の夫とは信じられないくらい出来た人だ。何でもてきぱきやってくれてしまうので、平日の夕飯くらい私が全部用意するからと、帰宅したら座って待ってもらうよう取り決めている。


 カレーを温め直したりしていると、夫が何か思い出したようにこたつから出てきた。

「そういえば、無くしたって言ってたピアス、あったよ」
「え、うそ。どこに?」
「んー? 洗面所のとこ」

 開いて見せられた夫の手のひらには、少し大きめの、猫の顔の形を模したカジュアルな金のピアスが片方乗っていた。高いものではないが、気に入っていて、ちょっとした外出のときによく身に付けている。

「洗面所の棚の中に戻しとくね。小鞠こまりいじらないように」
「……うん、ありがとう」


 小鞠とは、うちで一番偉い、お猫様の名だ。

 ピアスはてっきりどこか外で落としたと思っていた。家の中だとしたら、心当たりは小鞠を入れないようにしている洗面所しかないけれど、だからこそそこはしっかり探したのに。
 私はずぼらだけど、こういう細かいものの扱いにだけは注意している。小鞠様に危険がないことが一番だから。

 帰ってきて手を洗いに行った夫の洗面所への滞在時間は、ほんの二、三分。爪の隙間や手首あたりまでを石鹸で洗い、うがいもきちんと済ませる彼にとって、その時間はすぐだ。ピアスはそんなに分かりやすいところにあったのだろうか。


 再び洗面所から戻ってきた夫はこたつに潜り込んだ。すかさず小鞠がやってきて、あぐら座で座る彼の膝あたりにちょこんと乗る。ごはんを食べたあとみたいに、みゃむあむと甘ったれたような、話しかけるような口調で夫に何か言っている。
 小鞠は私よりも夫が好きだ。彼女のごはんを用意しているのは私だというのに。まったく。


 その一人と一匹の様子をカウンターキッチン越しに眺めていたら、ふと、ぷかりと。脳内にこんなアフレコ音声が浮かび上がった。


『ねえねえ家来そのいち。今日、家来そのにがさあ。うっかりわたしが気を抜いてるときに、こたつ布団捲っちゃったんだよねえ』

『えっ、じゃあもしかして、見られたのかい? あれを』

『見てた見てた、まじまじと見てた。でも、自分が寝惚けてるせいだと思ったみたい。そのにはほんと、しょっちゅう寝てるから』

『じゃあ、僕がさっきこの中からピアスを取り出したことも、気づかれてたり?』

『それはないでしょう。まさかこんなこたつの中に宇宙の入り口があるなんて、そのにが気がつく訳ないじゃない……』


 ……なんて。

 まさかこんな会話をしてたり、そんなこと、有り得ない、……よね?



 どうしたのー? と、ほとんど用意ができたのにキッチンで動きを止めている私に、夫が呼びかける声が聞こえた。


「あ、いやなんでも。ちょっとお腹空いてぼーっとしてた」

 帰るの遅くなってごめんと、言いながら運ぶのを手伝ってくれる夫。
 取り決めをしても、結局はこうやって私が苦にしない程度に手を出してくれる。まったくよく出来た人だ。

 ふにゃあ、と、欠伸あくびとも鳴き声ともつかない声を、こたつの隣の小鞠が発した。

 昼間、そのこたつの中で目にしたはずの光景と、先ほどふと浮かんでしまったアフレコ音声と。交互に思いながら、私はこっそりふっと笑った。


 普通に考えて、気のせいだろう。

 でも、もしもそれが気のせいじゃなかったとしても。そんなことはどうでもいい。


 愛する人間ひとと、愛する猫と。
 この小さな世界が、いずれにせよ私の全て宇宙であることに変わりはないのだから。






  ―『猫と炬燵と宇宙』(了)
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