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◆第24話 託された思い
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ヴェセットの街の人々は、一通りシュトルさんの居宅を綺麗にすると俺やピノラに挨拶をしてから撤収の準備取り掛かった。
掃除は日が傾く時間にまで及び、皆がオール樹の生い茂る山道を下ってヴェセットの街へと帰る頃、木々の隙間から覗く空はすっかり紅色に染まっていた。
本来であればサンティカへ帰るための準備や、ピノラの戦術についてシュトルさんと話し合いの時間を設けるはずだったのだが、思いほのか遅くなってしまった。
俺たちはシュトルさんの好意に甘え、一晩泊まらせて頂いてから翌日の馬車で帰宅することにしたのだが ────────
「ふ、わぁぁああ~~~~~~っ!!」
「す、凄い! ご馳走だらけじゃないですか……!」
沸かした湯で身体の清拭を済ませたあと、夕飯があるというのでリビングに行ってみると……ぴかぴかに磨かれたテーブルの上には、3人で食べ切れるのかと不安になるほどの食べ物が並んでいた。
俺やシュトルさんが食べる人間用の食事のほか、ピノラが好きな茹で豆で作ったハンバーグや、甘いジャムを付けて食べる糖黍のグリッツ、ヒダキノコのスープ、デザートまである。
こんな食事は、高級レストランにでも行かなければなかなか食べられない。
「シュトルさん、これ、どうしたんですか?」
「昼間、カフェの店主が置いて行ったんだ。『ピノラちゃんや訓練士の旦那と、一緒に食べてくれ』って言ってな。闘技会の前に3人で過ごせる最後の夜だし、これくらい豪勢な夕食もまぁ、たまには良いだろ」
そうか、カフェの店主が抱えていた紙袋の中身はこれだったのか。
カトラリーの類を戸棚から出しながら、笑みを浮かべたシュトルさんはテーブルに近付いてきた。
テーブルに並べられた銀製のスプーンやフォークは、昼間にピノラと一緒に仕立て屋のご婦人が磨いていたものだ。
どれもこれも丁寧に磨かれてきらきらと輝いており、曇りなどは一切無い。
周囲を見渡すと、天井から下げられた小さな燭台も、テーブルの下に敷かれた絨毯も、まるで新品であるかのように輝きを放っている。
壁にあしらわれたドライフラワーや、窓際に灯されたアロマキャンドルからは、とてもリラックスできる良い香りが漂ってきた。
まるで貴族のお屋敷の一室のようだ。
「昼間の皆さんのおかげで、家が凄く綺麗になりましたね」
隅々まで掃除された部屋を見渡した俺がそう零すと、シュトルさんはふんと鼻を鳴らして肩をすくめて見せた。
「ああ、ったく……とんでもねえお節介だったぜ。こっちは不便してる訳じゃねえんだから、そんな事ぁしなくったって良いって言ったんだけどよぉ……」
「シュトルさん、街の皆さんはピノラの事も、俺の事もご存知だったようですけど、どういった経緯でこうなったんです?」
俺は特に他意も無く聞いたつもりだったのだが、シュトルさんはむぐっ、と気まずそうに口ごもる。
俺自身、内密にしていたはずのピノラのトレーニングがバレバレになった事は、もはや気にしていない。
今聞いてみたのは、あくまで念のためだ。
だがシュトルさんはピノラの事が知れ渡っていた事に対し、俺に少しばかり後ろめたさもあるようで、歯切れ悪く話し出した。
「いやな、その、この2ヶ月間……お嬢ちゃんの食事を用意するために、ヴェセットの街中に買い物に行ってたらよ……お嬢ちゃんを見たファンの連中に囲まれて、そん時に色々と聞かれちまってな……」
もごもごと口籠もるような、気恥ずかしさを必死に隠すような仕草をしながらシュトルさんは続ける。
気まずそうにするシュトルさんなんて、滅多に見る機会は無い貴重なものだ。
俺は、にやけてしまう口元を必死で隠しながら聞き入った。
「まさかお嬢ちゃんが、あんなに顔が知られた獣闘士だなんて思ってなくてな……それに最初はお前の事も黙ってた方がいいと思って、ちゃんと隠してたんだけどよ……アレン、お前さんを騙してお嬢ちゃんを奪ったんじゃねぇかとか疑われたときに、つい頭にきて、そこで色々喋っちまったんだ」
「なるほど、だからヴェセットの街の皆さんが事情をご存知だったんですね」
「い、いや、すまねぇ……でも、そこで変な事になってよぉ」
シュトルさんは複雑そうな表情で、顎の髭を掻いた。
「馬車駅の前にあるカフェのおやじが通りがかって、何故かは知らんが俺の事を庇い立ててくれてな。『シュトルはピノラちゃんをトレーニングするために預かったんだろう、なら、ピノラちゃんのために街の皆で手伝ってやろうじゃないか』なんて言いやがってよ……」
馬車駅前のカフェというと……やはり、あの筋骨隆々のシェフが営んでいるアップルステーキの店だろう。
「それからだ。街に行く度に、やれ『こいつをピノラちゃんに食べさせてやれ』とか、やれ『ピノラちゃんをあんな家に住まわせるな、もっと綺麗にしろ』とか、お節介を焼く奴らが増えちまって……今日だってこっちから何も頼んだ覚えも無いのに、いつの間にかあれこれやられちまって、こんな状態って訳よ」
そう言いながら、シュトルさんは深いため息を吐いた。
なんとも居心地悪そうに、唇を尖らせている。
もしかして、親切にされる事に慣れていないシュトルさんは、街の人の厚意に困惑しているのだろうか?
そんなシュトルさんが何だかおかしくなってしまい、俺は笑いながらピノラに語りかけた。
「はははっ、ピノラ、ヴェセットの人たちに沢山優しくしてもらったんだな」
「うんっ! ピノラ、ヴェセットのみんな大好きっ! サンティカにいるときよりも、街中でみーんなが声をかけてくれるの! えへへへ!」
ご馳走を前にお行儀良く座っているピノラだったが、嬉しさが溢れたのか足をぱたぱたと跳ねさせた。
にっこりと笑いながら話すピノラは、本当に可愛らしい。
このヴェセットで暮らした2ヶ月半の間、本当に皆に優しくしてもらったのだろう。
でなければ、こんな満面の笑みを見せてはくれまい。
だが、当のシュトルさんは荒々しく鼻息を吐くと不満気に呟いた。
「どいつもこいつも、現金なもんだよな。乞食みたいな生活をしていた俺が、サンティカで大人気の獣闘士のお嬢ちゃんを預かっているって聞いた途端にこんな扱いでよ、ははは」
戸棚から新しいワインの瓶を取り出しながら、シュトルさんは自虐的に言い放った。
俺は笑って済ませることもできたのだが……
それは違う、と俺は思う。
「シュトルさん。ヴェセットの皆さんは、多分……ピノラのためだけに世話を焼いてくれたんじゃないと思いますよ」
「はぁ? 俺の為に世話を焼いてくれたって事か? ンな訳ねぇだろ」
「間違いないですよ。だって、本当にピノラの為だけだって言うなら、こんな人間族様の食事なんて貰えないはずじゃないですか」
俺は食卓に所狭しと並んだ豪華な食事に目を移す。
並べられた料理のうちのいくつかは、人間族と兎獣人が共通して食べられるものだ。
だが丁寧にローストされた肉料理や、酒漬けにされた果実が練り込まれたキッシュなどは、明らかに人間族用のものである。
小さな瓶に入れられた薬味は、わざわざ兎獣人用と人間族用に分けてあるほどだ。
「いや、しかし…………」
「2ヶ月前、俺たちが初めてこの街に来たとき……カフェでは、確かにシュトルさんのことを皆が辛辣に言ってました。でも……それって、ヴェセットの皆さんはずっとシュトルさんに期待をしてたってことじゃないですか?」
2ヶ月前、初めてヴェセットを訪れた時……
カフェの店主やその客たちが、口々にシュトルさんの事を非難していた時、俺はどこか不思議に思っていた。
本当に街中から嫌われている人間なら、人々からもっと無関心にされてしまうはずだ。
なのに、あの場にいた客たちはまるでシュトルさんが落ちぶれてしまった事を残念がるような口ぶりであったのを覚えている。
静かにテーブルを見つめるシュトルさんに、俺は微笑みながら続けた。
「きっと皆さんは、シュトルさんがもう一度兎獣人を……ピノラをトレーニングすると聞いて、期待してるんですよ。20年前の伝説の獣闘士、ファルルを育てた伝説の訓練士が復活するんじゃないかって」
「アレン…………」
隣で話を聞いているピノラも、『うんうんっ!』と頷いている。
「あのね、シュトルさんっ! 今日おそうじに来てたおばさんも言ってたよ! 『シュトルさんは、本当は凄い訓練士なのよ』って! ピノラが頑張れば、シュトルさんもヴェセットも元気になるから、頑張ってねって!!」
「俺はあなたに会うために、このヴェセットを訪れましたが……素晴らしい街じゃないですか。俺は、こんなにも温かな人々が溢れた街で、皆に愛されているシュトルさんが羨ましいです」
しばらく考え込むかのように黙っていたシュトルさんだったが、大きく息を吐いた。
ゆっくりと開いた灰色の瞳の中は、天井から吊るされた燭台の灯火が揺れている。
どこか、吹っ切れたような清々しい表情。
まるで意固地になっていた過去を全て洗い流したかのような、そんな顔に見える。
シュトルさんはいつものような良く響く低い声で、ぽつりと呟いた。
「…………お嬢ちゃん、ありがとうよ」
突然のお礼の言葉を向けられたピノラは、真っ白い長耳をぴょこんと跳ねさせて驚いた。
「ふぇっ?」
「あの時……お嬢ちゃんが俺の持っているこいつを…………ケルコの実のアミュレットを見つけて声をかけてくれたからこそ、今俺はこうして訓練士の真似事ができている。今日までの2ヶ月は、ここ十数年のなかで間違いなく一番充実した2ヶ月だった。本当に、ありがとうな…………」
シュトルさんは、いつもの様に左のポケットに入れていたケルコの実のアミュレットを取り出し、指で優しく撫でた。
やや掠れたような、しかし温かみのある声。
シュトルさんのピノラに対する言葉や態度には、いつも底知れぬ程の優しさを感じる。
今の俺とピノラの関係のように、20年前はシュトルさんもファルルと共に互いを支え、愛し合いながら日々を過ごしていたのだろうか。
そんな穏やかな日々が垣間見えるかのような優しい視線に、ピノラもにこりと笑って答えた。
「ううん! シュトルさん、ピノラだってそうだよっ! ずっとトレーナーと離れ離れで、すっごく寂しったけど……トレーニングの間、いつもシュトルさんが優しくしてくれたから、ピノラ頑張れたんだ! ありがとう! シュトルさんっ!!」
「へへ……獣闘士自身にそう言って貰えるなんて、引退したとはいえ、元・訓練士として冥利に尽きるってもんだな」
照れを隠すかのように微笑むシュトルさんは顔をあげ、俺を見据えた。
口元の笑みはそのままに、力強い視線で俺の目を見る。
「アレンよ、俺はこの2ヶ月半で、自分の知る兎獣人の戦い方のすべてをお嬢ちゃんに託すことができた。そこにある手記に、過去に俺が培ってきた闘技会での戦術の全てが書かれている。そいつを、お前にやろう」
シュトルさんはソファの横に置かれた小さなサイドテーブルの上にある手帳を指さした。
視線で促され、俺は手を伸ばして手帳を取ると、結ばれた革紐を解いて中を見た。
美しい紅色に染められた柔らかな革で装丁されたそれは、なんと闘技会に於ける兎獣人の戦闘指南を記したものだった。
基礎的な訓練内容から、筋肉を維持させるための訓練メニュー、そして…………
闘技会の試合で用いるピノラの戦術のほか、対戦相手となるであろう各獣人族の獣闘士ごとに分けられた攻略法まで書かれている。
それはまさに、20年前から現在に至るまで長い時間をかけて研究された、兎獣人専用の戦闘教本であった。
「す、凄い……!? こ、こんな貴重なものを、俺に……!?」
「ああ、持っていってくれアレン。その手記とともに、お前に託す。サンティカの連中に、お嬢ちゃんの強さを見せつけてやってくれ」
びっしりと、だが解りやすく纏められた手帳の中身は、その一文一文が驚くほど価値のあるものだ。
これは正に、シュトルさんが訓練士として人生を賭して書き記したものだろう。
協会認定の訓練士として学んだ時の教本よりも、遥かに実戦的な内容だ。
『史上最年少の協会認定訓練士』などと謳われた俺は、一般的な教本以上の知識や経験を得られずにいた。
そんな俺にとって、この手帳は最も必要なものに違いない。
これさえあれば、俺は闘技会でピノラに指示を出す事ができる。
と、一人興奮してページを捲っていると…………
「うぅぅぅっ…………」
「え? ど、どうしたんだ、ピノラ!?」
すぐ横から、ピノラの唸り声が聞こえてきた。
まるで狼獣人族を思わせるほどに、悲痛なうめき声。
不満そうな目で俺を見上げると、ピノラはお腹を抱えて叫んだ。
「トレーナーっ、ピノラ、お腹すいたーーっ! 先にご飯食べようよ~~~~っ!!」
「うぇっ!? あ、そ、そうだよな、ごめんよ……」
し、しまった。
すっかり夢中になっていて、これから食事ということが頭から離れかけてしまっていた。
おあずけを食らったままになっていたピノラの不満が爆発し、涙目を向けられた俺は慌てて手帳を閉じた。
「はっはっは! そうだよなぁ、お嬢ちゃん。せっかく貰った料理も冷めちまし、頂こうじゃねえか」
「うんっ! いっただきまぁぁーーーーす!!」
満面の笑みに変わったと思うと、驚くほどの早さでスプーンを口に運ぶピノラを見て、俺は久しぶりの賑やかな食卓を囲んだのだった。
掃除は日が傾く時間にまで及び、皆がオール樹の生い茂る山道を下ってヴェセットの街へと帰る頃、木々の隙間から覗く空はすっかり紅色に染まっていた。
本来であればサンティカへ帰るための準備や、ピノラの戦術についてシュトルさんと話し合いの時間を設けるはずだったのだが、思いほのか遅くなってしまった。
俺たちはシュトルさんの好意に甘え、一晩泊まらせて頂いてから翌日の馬車で帰宅することにしたのだが ────────
「ふ、わぁぁああ~~~~~~っ!!」
「す、凄い! ご馳走だらけじゃないですか……!」
沸かした湯で身体の清拭を済ませたあと、夕飯があるというのでリビングに行ってみると……ぴかぴかに磨かれたテーブルの上には、3人で食べ切れるのかと不安になるほどの食べ物が並んでいた。
俺やシュトルさんが食べる人間用の食事のほか、ピノラが好きな茹で豆で作ったハンバーグや、甘いジャムを付けて食べる糖黍のグリッツ、ヒダキノコのスープ、デザートまである。
こんな食事は、高級レストランにでも行かなければなかなか食べられない。
「シュトルさん、これ、どうしたんですか?」
「昼間、カフェの店主が置いて行ったんだ。『ピノラちゃんや訓練士の旦那と、一緒に食べてくれ』って言ってな。闘技会の前に3人で過ごせる最後の夜だし、これくらい豪勢な夕食もまぁ、たまには良いだろ」
そうか、カフェの店主が抱えていた紙袋の中身はこれだったのか。
カトラリーの類を戸棚から出しながら、笑みを浮かべたシュトルさんはテーブルに近付いてきた。
テーブルに並べられた銀製のスプーンやフォークは、昼間にピノラと一緒に仕立て屋のご婦人が磨いていたものだ。
どれもこれも丁寧に磨かれてきらきらと輝いており、曇りなどは一切無い。
周囲を見渡すと、天井から下げられた小さな燭台も、テーブルの下に敷かれた絨毯も、まるで新品であるかのように輝きを放っている。
壁にあしらわれたドライフラワーや、窓際に灯されたアロマキャンドルからは、とてもリラックスできる良い香りが漂ってきた。
まるで貴族のお屋敷の一室のようだ。
「昼間の皆さんのおかげで、家が凄く綺麗になりましたね」
隅々まで掃除された部屋を見渡した俺がそう零すと、シュトルさんはふんと鼻を鳴らして肩をすくめて見せた。
「ああ、ったく……とんでもねえお節介だったぜ。こっちは不便してる訳じゃねえんだから、そんな事ぁしなくったって良いって言ったんだけどよぉ……」
「シュトルさん、街の皆さんはピノラの事も、俺の事もご存知だったようですけど、どういった経緯でこうなったんです?」
俺は特に他意も無く聞いたつもりだったのだが、シュトルさんはむぐっ、と気まずそうに口ごもる。
俺自身、内密にしていたはずのピノラのトレーニングがバレバレになった事は、もはや気にしていない。
今聞いてみたのは、あくまで念のためだ。
だがシュトルさんはピノラの事が知れ渡っていた事に対し、俺に少しばかり後ろめたさもあるようで、歯切れ悪く話し出した。
「いやな、その、この2ヶ月間……お嬢ちゃんの食事を用意するために、ヴェセットの街中に買い物に行ってたらよ……お嬢ちゃんを見たファンの連中に囲まれて、そん時に色々と聞かれちまってな……」
もごもごと口籠もるような、気恥ずかしさを必死に隠すような仕草をしながらシュトルさんは続ける。
気まずそうにするシュトルさんなんて、滅多に見る機会は無い貴重なものだ。
俺は、にやけてしまう口元を必死で隠しながら聞き入った。
「まさかお嬢ちゃんが、あんなに顔が知られた獣闘士だなんて思ってなくてな……それに最初はお前の事も黙ってた方がいいと思って、ちゃんと隠してたんだけどよ……アレン、お前さんを騙してお嬢ちゃんを奪ったんじゃねぇかとか疑われたときに、つい頭にきて、そこで色々喋っちまったんだ」
「なるほど、だからヴェセットの街の皆さんが事情をご存知だったんですね」
「い、いや、すまねぇ……でも、そこで変な事になってよぉ」
シュトルさんは複雑そうな表情で、顎の髭を掻いた。
「馬車駅の前にあるカフェのおやじが通りがかって、何故かは知らんが俺の事を庇い立ててくれてな。『シュトルはピノラちゃんをトレーニングするために預かったんだろう、なら、ピノラちゃんのために街の皆で手伝ってやろうじゃないか』なんて言いやがってよ……」
馬車駅前のカフェというと……やはり、あの筋骨隆々のシェフが営んでいるアップルステーキの店だろう。
「それからだ。街に行く度に、やれ『こいつをピノラちゃんに食べさせてやれ』とか、やれ『ピノラちゃんをあんな家に住まわせるな、もっと綺麗にしろ』とか、お節介を焼く奴らが増えちまって……今日だってこっちから何も頼んだ覚えも無いのに、いつの間にかあれこれやられちまって、こんな状態って訳よ」
そう言いながら、シュトルさんは深いため息を吐いた。
なんとも居心地悪そうに、唇を尖らせている。
もしかして、親切にされる事に慣れていないシュトルさんは、街の人の厚意に困惑しているのだろうか?
そんなシュトルさんが何だかおかしくなってしまい、俺は笑いながらピノラに語りかけた。
「はははっ、ピノラ、ヴェセットの人たちに沢山優しくしてもらったんだな」
「うんっ! ピノラ、ヴェセットのみんな大好きっ! サンティカにいるときよりも、街中でみーんなが声をかけてくれるの! えへへへ!」
ご馳走を前にお行儀良く座っているピノラだったが、嬉しさが溢れたのか足をぱたぱたと跳ねさせた。
にっこりと笑いながら話すピノラは、本当に可愛らしい。
このヴェセットで暮らした2ヶ月半の間、本当に皆に優しくしてもらったのだろう。
でなければ、こんな満面の笑みを見せてはくれまい。
だが、当のシュトルさんは荒々しく鼻息を吐くと不満気に呟いた。
「どいつもこいつも、現金なもんだよな。乞食みたいな生活をしていた俺が、サンティカで大人気の獣闘士のお嬢ちゃんを預かっているって聞いた途端にこんな扱いでよ、ははは」
戸棚から新しいワインの瓶を取り出しながら、シュトルさんは自虐的に言い放った。
俺は笑って済ませることもできたのだが……
それは違う、と俺は思う。
「シュトルさん。ヴェセットの皆さんは、多分……ピノラのためだけに世話を焼いてくれたんじゃないと思いますよ」
「はぁ? 俺の為に世話を焼いてくれたって事か? ンな訳ねぇだろ」
「間違いないですよ。だって、本当にピノラの為だけだって言うなら、こんな人間族様の食事なんて貰えないはずじゃないですか」
俺は食卓に所狭しと並んだ豪華な食事に目を移す。
並べられた料理のうちのいくつかは、人間族と兎獣人が共通して食べられるものだ。
だが丁寧にローストされた肉料理や、酒漬けにされた果実が練り込まれたキッシュなどは、明らかに人間族用のものである。
小さな瓶に入れられた薬味は、わざわざ兎獣人用と人間族用に分けてあるほどだ。
「いや、しかし…………」
「2ヶ月前、俺たちが初めてこの街に来たとき……カフェでは、確かにシュトルさんのことを皆が辛辣に言ってました。でも……それって、ヴェセットの皆さんはずっとシュトルさんに期待をしてたってことじゃないですか?」
2ヶ月前、初めてヴェセットを訪れた時……
カフェの店主やその客たちが、口々にシュトルさんの事を非難していた時、俺はどこか不思議に思っていた。
本当に街中から嫌われている人間なら、人々からもっと無関心にされてしまうはずだ。
なのに、あの場にいた客たちはまるでシュトルさんが落ちぶれてしまった事を残念がるような口ぶりであったのを覚えている。
静かにテーブルを見つめるシュトルさんに、俺は微笑みながら続けた。
「きっと皆さんは、シュトルさんがもう一度兎獣人を……ピノラをトレーニングすると聞いて、期待してるんですよ。20年前の伝説の獣闘士、ファルルを育てた伝説の訓練士が復活するんじゃないかって」
「アレン…………」
隣で話を聞いているピノラも、『うんうんっ!』と頷いている。
「あのね、シュトルさんっ! 今日おそうじに来てたおばさんも言ってたよ! 『シュトルさんは、本当は凄い訓練士なのよ』って! ピノラが頑張れば、シュトルさんもヴェセットも元気になるから、頑張ってねって!!」
「俺はあなたに会うために、このヴェセットを訪れましたが……素晴らしい街じゃないですか。俺は、こんなにも温かな人々が溢れた街で、皆に愛されているシュトルさんが羨ましいです」
しばらく考え込むかのように黙っていたシュトルさんだったが、大きく息を吐いた。
ゆっくりと開いた灰色の瞳の中は、天井から吊るされた燭台の灯火が揺れている。
どこか、吹っ切れたような清々しい表情。
まるで意固地になっていた過去を全て洗い流したかのような、そんな顔に見える。
シュトルさんはいつものような良く響く低い声で、ぽつりと呟いた。
「…………お嬢ちゃん、ありがとうよ」
突然のお礼の言葉を向けられたピノラは、真っ白い長耳をぴょこんと跳ねさせて驚いた。
「ふぇっ?」
「あの時……お嬢ちゃんが俺の持っているこいつを…………ケルコの実のアミュレットを見つけて声をかけてくれたからこそ、今俺はこうして訓練士の真似事ができている。今日までの2ヶ月は、ここ十数年のなかで間違いなく一番充実した2ヶ月だった。本当に、ありがとうな…………」
シュトルさんは、いつもの様に左のポケットに入れていたケルコの実のアミュレットを取り出し、指で優しく撫でた。
やや掠れたような、しかし温かみのある声。
シュトルさんのピノラに対する言葉や態度には、いつも底知れぬ程の優しさを感じる。
今の俺とピノラの関係のように、20年前はシュトルさんもファルルと共に互いを支え、愛し合いながら日々を過ごしていたのだろうか。
そんな穏やかな日々が垣間見えるかのような優しい視線に、ピノラもにこりと笑って答えた。
「ううん! シュトルさん、ピノラだってそうだよっ! ずっとトレーナーと離れ離れで、すっごく寂しったけど……トレーニングの間、いつもシュトルさんが優しくしてくれたから、ピノラ頑張れたんだ! ありがとう! シュトルさんっ!!」
「へへ……獣闘士自身にそう言って貰えるなんて、引退したとはいえ、元・訓練士として冥利に尽きるってもんだな」
照れを隠すかのように微笑むシュトルさんは顔をあげ、俺を見据えた。
口元の笑みはそのままに、力強い視線で俺の目を見る。
「アレンよ、俺はこの2ヶ月半で、自分の知る兎獣人の戦い方のすべてをお嬢ちゃんに託すことができた。そこにある手記に、過去に俺が培ってきた闘技会での戦術の全てが書かれている。そいつを、お前にやろう」
シュトルさんはソファの横に置かれた小さなサイドテーブルの上にある手帳を指さした。
視線で促され、俺は手を伸ばして手帳を取ると、結ばれた革紐を解いて中を見た。
美しい紅色に染められた柔らかな革で装丁されたそれは、なんと闘技会に於ける兎獣人の戦闘指南を記したものだった。
基礎的な訓練内容から、筋肉を維持させるための訓練メニュー、そして…………
闘技会の試合で用いるピノラの戦術のほか、対戦相手となるであろう各獣人族の獣闘士ごとに分けられた攻略法まで書かれている。
それはまさに、20年前から現在に至るまで長い時間をかけて研究された、兎獣人専用の戦闘教本であった。
「す、凄い……!? こ、こんな貴重なものを、俺に……!?」
「ああ、持っていってくれアレン。その手記とともに、お前に託す。サンティカの連中に、お嬢ちゃんの強さを見せつけてやってくれ」
びっしりと、だが解りやすく纏められた手帳の中身は、その一文一文が驚くほど価値のあるものだ。
これは正に、シュトルさんが訓練士として人生を賭して書き記したものだろう。
協会認定の訓練士として学んだ時の教本よりも、遥かに実戦的な内容だ。
『史上最年少の協会認定訓練士』などと謳われた俺は、一般的な教本以上の知識や経験を得られずにいた。
そんな俺にとって、この手帳は最も必要なものに違いない。
これさえあれば、俺は闘技会でピノラに指示を出す事ができる。
と、一人興奮してページを捲っていると…………
「うぅぅぅっ…………」
「え? ど、どうしたんだ、ピノラ!?」
すぐ横から、ピノラの唸り声が聞こえてきた。
まるで狼獣人族を思わせるほどに、悲痛なうめき声。
不満そうな目で俺を見上げると、ピノラはお腹を抱えて叫んだ。
「トレーナーっ、ピノラ、お腹すいたーーっ! 先にご飯食べようよ~~~~っ!!」
「うぇっ!? あ、そ、そうだよな、ごめんよ……」
し、しまった。
すっかり夢中になっていて、これから食事ということが頭から離れかけてしまっていた。
おあずけを食らったままになっていたピノラの不満が爆発し、涙目を向けられた俺は慌てて手帳を閉じた。
「はっはっは! そうだよなぁ、お嬢ちゃん。せっかく貰った料理も冷めちまし、頂こうじゃねえか」
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