ハッピーエンドはカーテンコールのあとで

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#33 ハッピーエンドはカーテンコールのあとで

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 ――アバル、いやだ
 そのときアバルは雨の音を聞いていた。朝から雨が降る天気で、夕方からはやや風をともないはじめていたあの日。『パライソ』で死に至り、吸血鬼となった悠里に噛まれた夜。
 熱を出した百葉を背負って須王にあとを任せようとしたのだった。須王の、母犬を探して鳴く子犬のような瞳を今でも覚えている。
 あのときのアバルは須王を自分が守る家族の一人だと思っていたし、北辰寺の責任者として須王を叱咤し鼓舞し、あとを託した。

(でも須王、今は違うだろ?)

 アザゼルの力を手に入れたことも大きなきっかけの一つだったに違いない。以来、自分がアバルの右腕になるのだとばかりに子どもたちをまとめる姿が目についた。一郎太を失ったときにはアバルを慰めに来た。
(たぶん、あのときから)
 須王の前で泣いたあの日から、気づかないところで自分たちの何かが大きく変わっていたのだろう。だって大事な須王の命を盾にされてもさえ自分はアザゼルとのセックスを躊躇していたのに、あのときはあんなにもたやすく承諾してしまった。
 精気だけが目的なら何も意識のある状態で行なう必要はない。眠っている間に好きにしてくれ、と言ってもよかったはずだった。知らないうちに行われていた交合に嫌悪を示し非難するべきだった。だって無理やりアバルを犯そうとしたアザゼルにはひどい罵倒を浴びせたではないか。

(だから須王は怒ったのかな)

 アバルはぼんやりと考える。
 頭のいい子どもだからアバル自身でさえ気づいていない矛盾を見抜いていたのかもしれない。そのうえで彼はアバルの気持ちがそこまで追いつくのを待つつもりでいたのかもしれなかった。
(なるほど、トウコが言ってたの、これかあ)
 須王が見廻り組に加わることを決めたときのことだ。愚かな自分は突然大人びてしまった彼に対してのんきに寂しさなど感じていたが、思えば彼はアバルのために急いで大人になろうとしていたのだろう。

 ふふ、とアバルは笑う。
 いつのまにか、守っているつもりが須王に守られていた。そしてそのことをはっきりと知ったとき、子守唄が口からこぼれていた。
 アスモデウスにとりこまれ、しかし自我だけははっきりとした世界で「己」がおこなう殺戮を見ているしかなかった自分に、最後の時間をくれた須王への感謝のつもりだった。これまで彼がくれたたくさんのしあわせな時間への感謝と別れの言葉。大事な家族で弟でこれから輝かしい未来を歩んでいくであろう一人の少年の背中を押してやりたかった。
 傷つけて傷つけて傷つけて、最後の最後まで泣かせてばかりだったけれど。どうかこの先の彼の未来が愛と幸福に満ち溢れていますように。それくらいしか須王のために今の自分ができることはないと思ったから、全身全霊、心のすべてで祈った。

(“あとは、俺のことなんかさっさと忘れてしあわせになってくれたら”――)

 考えて、アバルは心がざらつくのを感じる。
 くれたら、なんだ?
 真にアバルが須王の兄であり保護者であるのなら、少々のさびしさとともにため息をついたのかもしれない。だけれどもアバルがしたのは、須王の隣に立つ女の顔を真っ黒に塗りつぶすことであり、その空想を破り捨てることだった。

(嫌だな)

 以前に同じ想像をしたときにあったのは醜悪な優越感だった。今は他人に許可なく私室をいじられたような不快さで心がざらついている。今頃しみじみと自覚したところでもう遅いのに。
(ああ、嫌だなあ)
 肉体がなくてよかったと思った。体があったらきっとみっともなく泣き叫んでいた。
(それでもしあわせだったって、ありがとうって思いながら消えたかったのに)
 ヤマタノオロチは倒され、アスモデウスの野望もついえた。物語ならば「めでたしめでたし」のハッピーエンド、だって洛土は水穂国は救われたのだ。幕は降り、劇場から観客たちが帰ってゆく。
 ライトどころか大道具も役者もなくなった舞台。そこへ、観客が落としていったゴミを回収するための清掃が入る。
 アバルがいるのはその回収されたゴミの入ったダストボックスだった。アスモデウスが消滅しペアトが消滅したそこで、アバルだけが残されている。

(死にたくない。消えたくない。もっとあそこにいたいよ。――須王に会いたい)

 考えて、驚いた。
 水穂国にたどりついたあの日、アバルは死んでいたはずだった。それが顕典に命を救われ、食べるものにも寝る場所にも困らず、気まぐれな暴力におびえることも顔色をうかがい注意深く言葉を選ぶこともない生活を得た。かわいい家族ができて軽口をたたくことのできる友人ができて夢を共有できる仲間ができて。そりゃあ、たまには理不尽な目にも遭うけれど、大好きな歌をたくさん歌うことができる生活。
 あまりにも分不相応の幸福だからいつか夢が覚めるんじゃないかと思っていた。あるいは自分はまだ水穂国に至る道の途中にあって、干からびた虫のように息絶える直前の夢の中にいるのではないか。そんなふうにおびえながら眠った夜が幾度あったことだろう。
(人間て、こんなに欲張りになるんだ)
 じゅうぶんにしあわせだった。身の丈にあわない幸福をもらった。だからそこで満足するべきなのに、自分は「まだ」と思っている。「まだ」と願っている。

 ――それが何か悪いの?

 悠里だった。アバルはハッと顔を上げる。
 ――よくばりで何か悪いの? せっかく生まれてきたんだから欲が深くて大いに結構じゃないの。そもそもアバルは欲が足りないのよね。もっとみっともなくほしがって、手を伸ばして、がっついてみたら?
 華やかな紅の裾が女王のように舞い、楽一の仲間たちが悠里と連動するようにくるくると跳ねた。楽器の音が聞こえる。それからパフォーマーたちと合わせて手拍子する観客の声。そのなかにアバルは大切な北辰寺の家族と、一人の女を見つける。
(……あれ?)
 人々と楽しそうに歌い、踊る金の髪の女。
 目を引かれたのは彼女の美しい容姿のせいだけではあるまい。知っている、と思ったのだ。アバル自身の記憶ではなく、別の「誰か」。アスモデウスでもペアトでもない、四人目の「誰か」。阿国、阿国と深い憎しみのなかで求めていた「誰か」の。

(誰――?)

 アバルが我知らずそちらへ手を伸ばそうとしたときだった。
『おねぼうさんですねえ。そろそろ起きなさいな、アバルくん』
 ぐい、とアバルの意識はひっぱられた。

      *

「はい、おはようございます」
「……」
 盛大な自分のくしゃみで目覚めたアバルに傍らの人物が言う。既視感のある場面だな、とアバルは記憶をほりかえしそうになったが、とりあえず飛び起きた。

「キスケ!? なんでここに!? なんで俺生きてんだ!? 夢だったのか? 全部悪い夢だったのか!? どこからが夢だったんだ!?」
「静かになさい。起きてしまいますよ」

 淡い藤色の袍と品のよい香りに包まれた顕典がぱらりと扇をひろげた。視線で示した先にはアバルの小さな家族たちが身を寄せ合って寝息をたてている。
 再度くしゃみをし、アバルは自分が本堂にいることに気づいた。雪が降っていてもおかしくないくらいに冷え込んでいるのはところどころに空いた穴から外気が入ってくるためのようだ。むしろ降っているのではなかろうか。思い出したようにガチガチと歯を鳴らしながらアバルは顕典に視線を戻した。声量を意識的に落として問う。
「なんでこんなとこに寝かせてんだ! 菊花先生に怒られるのは俺だぞ!」
「離れたがらないんですから仕方がないでしょう。それに、そこは須王くんがちゃんと気をまわしましたから安心なさいな」
 察するにアニマで何かをしてあるらしい。そういえば身を寄せ合ってはいるが誰もくしゃみをしていないし震えてもいないな、とアバルは気づく。
(寒いの俺だけ?)
 顕典は平然と座している。アバルはヤドカリのように掛布団をはおった。アバルの胡乱げな視線が面白いのか顕典が笑む。

「どこまで覚えています?」
「須王が立派な青年になってヤマタノオロチを倒して、はー俺死んだって思ったら歌が聞こえて、振り返ったら生き返ってた」
「全部覚えてるじゃないですか、合格です」
「合格ですじゃねーよ、……」

 ガチガチがなかなか止まらないのでアバルは布団の中にひっこんだ。それからにょきりと再び頭だけを出す。
「俺を助けるかわりにキスケが消滅した、なんてことにならなくてよかったけどさ……。俺、キスケに返せるもんなんか持ってねーぞ。知ってると思うけど」
「キスケ、と呼んでくださるでしょう?」
 助けた見返りなどそれで十分だ、とヴァラクが呼ぶところの「大精霊」様が扇のうちで笑う。アバルは舌打ちした。

「キスケはキスケだろ……逆に今更ケムエル様なんて呼べねえよ。呼んでほしいなら頑張るけど」
「魅力的な提案ですが、アバルくんには十分に大切にしていただきましたので」
「は?」

 顕典の言わんとする意味がわからず、アバルはきょとんとする。やがて「あ」と思い至った。「一郎さん」だ。
「前にも言いましたが、お金と時間を持て余してしまうとね、アバルくん。人は娯楽に投資するしか使いようがないのですよ」
「娯楽?」
 娯楽って言ったか、この男。
 胡乱げにくりかえしたアバルに、顕典が実に隙のないタイミングで訂正を入れた。

「いろいろな話をしてくれたでしょう? うれしかったこと、楽しかったこと、悲しかったこと、困ったことや愚痴も含めて、きみの話し相手をするのは存外楽しかった。つまり」
「つまり?」

 伸ばされた手を、アバルは見下ろす。
「つまり、これからも変わらず友人でいてくださるとうれしいのですが」
「娯楽じゃなくて?」
「嫌ですねえ、言葉の綾じゃないですか」
「まあ、娯楽でもなんでもいいよ。助けてくれてありがとう、『一郎さん』」
 思えば最初に出会ったときから顕典はアバルの恩人だった。吸血鬼となった悠里に噛まれて死線をさまよったときも今回も、もしかしたらアバルが知らないだけでほかにもあったのかもしれないが、とにかく「一郎さん」はたしかにずっとアバルを見守ってくれていたのだ。

「……さ、アバルくん。まもなく朝ですよ」

 ぱちり、と顕典がにわかに扇を閉じた。見、アバルはその理由を理解する。
「え、キスケ、照れてんの?」
「うるさいですねえ。ひとをなんだと思ってるんですか、きみは」
 顕典がさっさと立ち上がったので自然アバルも布団から出ることになる。初めて見る顕典の赤面をからかいながら庭に出ると、顕典の言う通りいくらか明るくなってきているようだった。
 ハア、とアバルは手のひらに向けて息を吐く。白く濁った息は少しだけ薄闇をのぼったあと、またたくまに散ってしまった。

「なあ、一個だけ教えてよ」

 歌を歌ってくれないかと顕典が言うのでアバルは快諾を返す。終わるはずだった世界が再び迎えた奇跡のような朝だ。顕典が頼まなくてもアバルは歌っていただろう。
 黙とうするように目を閉じた顕典に、アバルは続ける。
「『今滅びるか未来に滅びるか』。ヤマトタケルたちが絶対勝てるはずのなかった戦いに勝って、アザゼルたちが地蔵に封じられたのはケムエルが賭けをふっかけたからだって聞いた。どうして歌なんか賭けたんだ?」
 『1000年後にも歌は残っているか』。
 それがケムエルの、ヤマトタケルと出雲阿国に向けた問い。もしも歌が残っていたならケムエルたちの負け、何もせずに手を退く、逆に歌が絶えていたならそのときは今度こそ滅ぼす。それが彼らのかわしたやりとりだった。

「さて、……どうしてでしょうねえ」

 顕典が物思うようにつぶやく。
「ただ、そのころはまだ歌というのは現代のように人々が気軽におこなうことのできる娯楽ではなく、神聖な祭りでした。つまり、祭祀の区分であり、一部の特別な者にしか許されなかったのです」
 それを一般にひろく広めようとしたのが出雲阿国だった。彼女の夢はいつでもどこでも人々が歌い、踊ることのできる世界だった。
「そっか。じゃあ、よかったな」
「“よかった”?」
 庭木の折れ、あるいは石畳のはがされた地面に薄く雪が積もっている。やがてそれらの影がゆっくりと退きはじめ、太陽がその姿を現した。少しだけ夜の気配を残した宙の舞台に黄金色の光が一気に裾をひろげる。

「ケムエルも歌を好きになってくれたってことだろ? よかったな、歌が滅びなくてさ」

 アバルは目をすがめた。まるでアスモデウスによってもたらされた絶望と滅びを祓っていくようだと思った。舞台でするように、そうしてアバルは流麗な所作であいさつをする。
「親愛なる顕典に、それから亡き友一郎太と愛する洛土のために。それでは、ご清聴ください」
 阿国もどこかで聞いているのだろうか。思いながら、朝の冷たくもすがすがしい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


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