呼んでいる声がする

音羽有紀

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呼んでいる声がする(その1)

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 呼んでいる声がする(その1) 


 歩道橋の上からあの女は、笑いながら手を振った。その瞬間、通称猫男の腕をつかんだが、彼は、それを振り払うと歩道橋の階段を走って行った。瑠子はなすすべも無く、ただ二人が対面するのを見ていた。こんな日が、来る事を瑠子はもうだいぶ前からわかっていたような気がした。


 その男を初めて見たのは、雑貨屋でのアルバイトの帰りだった。

 越して来たばかりのが瑠子るこの住む黄色いアパートの近くに小さい公園が有る。公園の中には紅葉したケヤキや、ムクノキの葉が風に揺らめいている。

  それらの向こうには夕焼けでまだらな雲が交互に赤やオレンジに染まっている。

  瑠子が公園のブランコに座りながら見とれていると、どこからか猫の鳴く声がした。彼女は、その声が公園の出入り口の方からすると感じ誘われる様にブランコから降りその方へ近づいて行った。

 公園の出入り口の側の電柱に猫数匹が一人の男の前に集まっていた。

 男はグレーのセーターを着てしゃがんで猫に餌を与えている様だった。

 見ている事を悟られぬ様に、彼の横顔を見た。年は、二十代から三十代の前半位だろうか。

 珍しいなと思った。餌を与えている人は見たこと有るけれどあの位の男子がそうしているなんて。

 その男は、何か猫に話し掛けていたが、何を話しているかは聞き取れなかったが。

 あまり見ていると気づかれてしまうので早々と通り過ぎた。夕焼けの色がピンクになり広がっていて坂の上に有るそれを照らしていた。

 何かほのぼのとした気持ちになった。何処の誰かは知らないけれどこの殺伐とした世の中で小さい命に優しくするという事に。

  黄色いアパートの自室に入ると瑠子はその気持ちのまま窓を開けて外を見た。ここのアパートの良い所の一つは窓からの眺めだ。ここが丘の上にあるので遠くまで見渡せる。

  幾つもの丘に並ぶ住宅街の群れ、その向こうにいよいよ濃くなってくる夕焼けが丘の家々を照らす。

  うっとりと大きなため息を瑠子はついた。

 それから何げなく今来た道路の方に目を移すと、若い男が歩いて来るのが見えた。その瞬間、瑠子は

「あっ」と思わず声をあげた。

  その人はさっき猫に餌をやっていた男だった。そのグレーのセーターと風貌から間違いなかった。窓の端に隠れてその様子をじっと見つめた。その男は、自分の住む黄色いアパートに通じる道に方角を変え敷地内に入って来た。そしてそれぞれの部屋のドアの有る通路の裏側に回った。

 瑠子は驚いた。もしかして、あの人このアパートの住人なのだろうか。すると、程なく階段のカンカンという階段を上って来る音がした。

 瑠子は、大急ぎで玄関に直行した。

  あの、男がこのアパートの住人かそれを確かめる為、ドアスコープから外を覗く事にしたのだ。

 瑠子は、ドアスコープに片一方の瞳をあてて張り付いた。

 目の前に男が通った。

 その男はまさしくグレーのさっき見たその人だった。

 男は隣の一番端の部屋の前で足を止めた。それから、ドアスコープからは死角に入ったので見えなくなり、鍵のガシャガシャと開ける音とドアを開く音、そして閉まる音が聞こえ後はしんと静まりかえった。

「ここに住んでいるのか。」 

  部屋の方を向き直ると瑠子はそう呟やいた。

  ここに、あんな男が住んでいるなんて以外だ。そもそもまだここに来て一週間しか経って無いから誰が住んでいでるかなんてわかんないのだから。

  それからも働いている雑貨屋マーマレードの帰り、夕暮れの公園に寄った帰り猫に餌を上げている姿をたまに見かけた。

 瑠子は、密かにその男を猫男と名づけた。




  やがて秋は深まり風が冷たくなって来た。そしてあっという間に季節は冬に変わっていった。

 瑠子の勤める雑貨屋マーマレードは、十二月になるとクリスマスのプレゼントを求める人で賑わう。その月は一年のうちで一番客が混み合う季節なのだ。プレゼントを買う客の幸せそうな顔を見ると店員の瑠子も幸せな気分になった。

  ただ、時折仲の良い母と二〇歳代位の娘が来て、母親に何か買ってもらう光景を見ると羨ましく感じる事があった。

  瑠子の母親はまだ、幼い頃に亡くなり父親は、それから三年後に再婚した。その人には、自分の本当の娘がいて、父とその人とその人の娘との四人家族になった。

 新しい父の再婚相手に優しく接してしてもらった記憶が無い。いつも思いだすのは、自分を見るその冷ややかな眼差しだ。

  瑠子はいわゆる母親の心のこもったお弁当というのを作ってもらった事が無い。

 強烈に覚えているのは、その人は忙しかったのかそれとも故意にかお弁当箱の箱を開けると、ご飯の上に, コロッケが一個のっていて他のおかず何も無かった事だ。誰にも見られたくなくてふたで隠して見えない様にお弁当を食べた惨めな気持ちは今でも忘れない。

  ましてその人と、二人で買い物に行った事など全く無い。その人は自分の本当の娘とはしょっちゅう出かけていた。それなのに瑠子はただの一度も連れて行ってもらった事は無かった。    

  自分の娘には、瑠子に対する冷たい態度とは、相反してずいぶんと甘やかして育てていた。おかげで妹は底知れぬ、我がまま娘に育った。そして今でもそのわがままをあの人は許している。

  そんな親子と早く離れたくて瑠子は坂の上の、この黄色いアパートに越して来た。それなので、今、目の前で母親にコーヒーカップを買ってもらっているこの客が羨ましく感じてしまうのだ。しかし当の本人は、買ってもらい慣れている風で別段嬉しそうでもない。きっとそれは、当たり前の日常の一部なのだろう。

 その日は遅番だったので公園に着く頃にはあたりは真っ暗になっていた。

 猫男が、餌をやっていた場所を見たが、今日もいなかった。猫が一匹こちらを見て鳴いたので頭をなでた。

  「今日は、猫男は、来なかったの?それとももう来たのかな?ごめんね。何もないの。」

 暫く頭をなでていたが、暗くて物騒なので足早に黄色いアパートに足を進めた。

 歩きながら考えた。

  もうすぐやって来る正月の事を。実家には帰りたくないけれど、父は、待っている事だろう。けれどどうしても継母と顔を合わせたくは無かった。

 マーマレードが年末で混み合って忙しくしているうちにクリスマスイブをやり過ごしたちまち大晦日がやって来た。

 こういう時に雑貨屋で働いていると元旦から仕事なので助かると瑠子は思った。なまじ暇だと何もする事が無くて悲しくなってしまう事だろう。

 その日は仕事をした帰りにレンタル店に寄って洋画借りて来てDVDを見ながら、近所のお寺の除夜の鐘を聞いた。

   そういえばここ数日、猫男の足音が聞こえない。他の住人の足音もたまにしか聞こえてこない。

 やはりこんな時にこんな場所でくすぶっているのは、自分だけだなと瑠子は思うのだった。

 私鉄に乗って駅の地下街に立ち寄るとぶらぶらと本屋に寄り立ち読みをしてそれからハンバーガー屋に行って食べた。

   そこには、正月から老いも若きも多種多様に居て一人じゃ無いのだなと瑠子は何かほっとした。 

  黄色いアパートの近くの公園に着く頃には、辺りは薄暗くなっていた。

  公園を出て瑠子は思わず目を見開いた。久しぶりに猫男が、餌をやっているのを見つけたからだ。

 ああ、一週間以上ぶりだ。この光景を見るのは、瑠子は思った。前はクリスマス前だったっけ。彼は、もっと頻繁にあげていたのかもしれないが、時間帯が見つける時はまちまちで遭遇するのは、いつかわからなかったからだ。

 気づかれない様に少しだけ立ち止まって彼を見てそれから通り過ぎ様とした時だった。彼は、突然こっちの方にくるりと振り向き挨拶して来た。

「こんばんは。」.

 瑠子は体が固まってしまった。なぜ気がついたのだろうか。いつも通る時、見ているのに気づいていたのだろうか、気がついて無いと思っていたけれど目の視界って一八〇度見れるっていうし。

 そんな事を思いながら

「こんにちは。」

 と、返した。優しげな瞳で瑠子を見ると猫男は、それっきりまた猫の方に向き直った。

 瑠子は、唖然としながら彼の方を見て、何か話かけようとしたが止めた。

 黄色いアパートに帰って、服を着替え冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと飲んだ。

 ベットに座り猫動画を見ているとまたカンカンという音がした。このアパートの階段の音だ。猫男かもしれないと思った。

 そして案の定、猫男の部屋あたりから鍵のあける音が聞こえて来た。

 こんばんはと言った猫男の笑顔を思いだした。

 人懐こい笑顔だった。

 元旦の夜、アパートに残っている人はいるのだ。

 そう思うと孤独感が薄れる感じがした。

  つづく












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