続・公証長サーシャの通過点―巻き戻れなくとも自分に負けずに生きる

蜂須賀漆

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第4話(2)

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歌劇場は、その周辺から既に種々の格の馬車で大混雑し、扉を開けて速やかに降車しその場から離れなければ、直後の御者からどやされる始末だった。
貴族の馬車には多少の加減はされたがその例に漏れず、降車して石畳に爪先を付けるなり、馬車以上に犇(ひし)めいている多数の観客に揉まれてその場から動けなくなる。

「どけ!どくんだ!道を塞ぐな!」

馬車のランブルシートから降りた従僕達が、それらを怒声とともに押し退けて道を作り、主人達を何とか入場口まで辿り着かせる。
貴族の横暴に非難を吐き捨てようとした庶民が、ニコライの面差しを見て、話題の元第一王子だと思い出し、あまりの人混みのためエスコートされかねて後ろに付き従うアレクサンドラの美しさに呼吸を忘れる。
エントランスホールは外よりは幾分かはましであったが、大混雑の様相を呈していた。
ただ、貴族や富裕層向けの軽食や飲み物が用意されている仕切られた一角や、喫煙場所が設けられており、ある程度の交通整理はされているようだった。
一行は、一旦落ち着く必要があると、席のある3階へと移動した。
席は、舞台真正面にあるロイヤルボックスのすぐ隣であり、舞台が非常によく見える位置にあった。
通常、侯爵以下はロイヤルボックスからは離れたところに席を取るのが慣例だが、ニコライが公爵位かつ現国王の息子ゆえに、堂々とこの特等席を選択できるのだった。
今日は両陛下を始めとした王族の臨席はないため畏まる必要もない。
ここまで中央線に近いと、音響もさぞ良いだろうとアレクサンドラが感激していると、父伯爵が従僕達に、どの家がどの席を取っているかの確認をして来るよう命じていた。
開演まではまだ1時間半以上あるため、到着していない方々もおられるだろう、とアレクサンドラが考えていると、母夫人に「サーシャ、ちょっと良いかしら」と腕に手を置かれた。
母に誘われ、ボックスの片隅、緞帳の影に寄っていくと、ニコライがさりげなく距離を取ったようだった。
アレクサンドラは、何の内緒話だろうと首を傾げたものの、すぐに心当たりを得た。
母夫人が内緒話を試みるのはいつも、本当は窘めたいが言い出せず、一言尋ねるという形で気にかけていることをそれとなく伝えようとする時であったので、直前の話題だった友人の件かと、母夫人の外出の誘いを断り続けていたアレクサンドラは密かにかつ素直に反省した。
そんな娘に母は「勘違いだったらごめんなさいね」と前置きをして、

「貴方達、うまく行っているのよね?」

と小声の問いを発した。
何も答えないアレクサンドラに対し、母夫人が弁解するように言葉を続けた。

「さっき殿下、公爵、いえコーリャ……ああまだ慣れない、恐れ多いわ。ともかくサーシャとの時間があまり取れないと仰っていたじゃない。普段、一緒に過ごせているの?」
「……食事はご一緒できるように努めていますし、公爵家回りでは常に同じ時間を過ごしておりますわ」
「ああ、そうだったわね。何と言えばいいかしら、私達のように、他愛のない話で笑ったり喜んだりはできている?」
「他愛のない話……でございますか」

尋ねられれば素直に答えているし、公爵家回りで受けた各家の印象や感想などは、帰りの馬車内で交わすこともあるが、とアレクサンドラが戸惑っていると、母夫人は一層声を潜めて、

「つまりね、そんなことはないとは思っているのだけれど、殿下、公爵……もういいわ、貴方の大切な夫が疎かになっていない?公証の仕事が忙しいのだろうけれど、貴方は公証長であるとともに1人の妻なのですもの」

と言った。
「サーシャ、良いかい」と呼ぶ声で我に返り、父伯爵のそばへ寄って行きながら、アレクサンドラは混乱していた。
母から明確な言葉での諫めを受けるのは初めてあり、また予想外の指摘だった。
もちろんアレクサンドラは、ニコライを疎かにしているつもりなど全くなかった。
庁舎にはあまり遅くまで留まらないようにしていたし、帰宅後は公証の話はしないように努めていた。
問われたり、水を向けられたりした話題には、賢し気にならないように気遣って受け答えしており、疎かという批評は心外だと、アレクサンドラは母夫人に対し初めて小さな反抗を感じた。
それに今回の事件により、アレクサンドラがしばらく非常に多忙になることは、プロポーズの段階でニコライは知っていたはずであり、公証に感(かま)けて2人の時間、つまり団欒の時間ということだと思うが、それが取れないという訴えは蒸し返しだと思われた。

「イサーク達はまだ戻って来ないが、一旦ぐるっと回ってみよう。今来たばかりの方々とも、通路で偶然会えるかもしれない」

父伯爵の提案にアレクサンドラが機械的に頷くと、ニコライから「では今日は私もお供しましょう。その方がスムーズでしょうから」と提案があった。

「おお、それはありがたい。侯爵(そうろうしゃく)以下の方々を目指しておりますがよろしいですか」
「もちろん。尚のこと私が役に立ちそうです」

父伯爵とニコライは顔を見合わせて笑ったが、アレクサンドラは扇を口元に差して笑みを隠したふりをした。
イサーク、従僕達が戻って来た時のため母夫人を留守居役にして、3人は桟敷席の外に出た。
父伯爵が先導し、ニコライのエスコートを受けながら、アレクサンドラは久しぶりの観劇に浮き立っていた心を亡くしていた。
父母が会話を楽しむところは、娘時代に何度も見て来たし、アレクサンドラとて、父伯爵や母夫人とは心安く話ができる。
だがそれは、ともに長く暮らしていた時間があるからできることだ、いくら夫婦の契りを結んだとはいえ、まだ日の浅い今の段階で、他愛なく何を語れというのか。
自分の夫を、愛称であるコーリャと呼ぶのも気づまりなこの段階阿で。
自分なりにニコライには感謝し、尊敬すべき方だと思っているのに、これ以上どのようなやり方で大切にしろというのか、母夫人に問い質したい気がし、しかしそんなはしたないことは貴族の子女として許されざることだった。
通路で出会った侯爵夫妻に、父伯爵からの紹介を待って淑やかに辞儀をしながら、ニコライの不満はどのようなニュアンスなのだろうか、と恐縮する侯爵夫妻ににこやかに対峙する夫の横顔を見つめた。
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